第65話 災厄と呼ばれたもの
地下の巨大な器官が地脈へ魔力を返した翌朝、監視所の会議室には、三百年前の記録が机いっぱいに並べられていた。
昨日までなら、レクスは古文書の山を見ただけで少し帰りたくなっていたかもしれない。
だが、今は事情が違う。
封印の奥にある《地底の心臓》は、少なくとも昨日、外へ逃げようとはしなかった。封印を一〇パーセント弱めた隙間から地脈へ魔力を流し、その後はまた静かになっている。
それが何を意味するのか。
敵意がないのか。
元々そういう性質なのか。
あるいは、人間には分からない理由で一度だけ動いただけなのか。
そこを確かめないまま「危険ではない」と決める気はなかった。
「三百年前の災害記録、全部集まりました」
リシェルが一冊目を開く。
「これが封印前の記録。こちらが封印直後。最後が、十年後に行われた再調査です」
「町が壊れたやつは?」
「一冊目の後半です」
クラウディアが向かい側へ座り、ディートも腕を組んで資料へ目を落とした。
「まず確認しておきたい」
ディートが言う。
「昨日、地脈へ魔力を流したからといって、三百年前の被害が消えるわけではない」
「それは分かってる」
レクスは即答した。
「町を壊したのは事実?」
「記録上は」
「なら、そこは変えない」
ディートは僅かに頷いた。
「それならいい」
少しだけ安心したような声だった。
◇
三百年前。
ラグナス地方の地脈は、今よりずっと活発だったらしい。
土地は豊かで、魔力を含む鉱石が採れ、薬草の生育も良い。その代わり、地脈が乱れる年には小規模な地震や魔力噴出も起きていた。
そして、ある年。
北部の地下で大規模な魔力波が発生した。
「これが災害?」
レクスが記録の一文を指す。
「はい」
リシェルが答える。
「地下から地表へ魔力が噴き上がり、近隣の町で家屋倒壊、術式器具の暴走、火災が発生しました」
「死者は?」
「百二十八名」
数字を聞いて、部屋の空気が少し重くなる。
「軽くないな」
クラウディアが呟いた。
「だから災厄指定された?」
「それが直接の理由です」
レクスは続きを読む。
当時の術師たちは、地下へ降りて巨大な器官を確認した。
そして。
『脈動強く、周囲地脈これに応じて乱る。故に源と断定す』
「源と断定」
レクスはそこを繰り返した。
「何?」
ディートが聞く。
「この時点で、こいつが原因って決めた?」
「そう読めます」
「調べた期間は?」
リシェルが頁をめくる。
「……三日です」
「短くない?」
「当時は被害直後ですから」
「それでも」
レクスは少し黙る。
三日。
百二十八人が死んだ直後。
地下に巨大な脈動体がある。
それなら、人間がそこを原因だと考えるのも分からなくはない。
むしろ、普通だ。
ただし。
普通の判断と、正しい判断は同じではない。
◇
「封印した後は?」
クラウディアが尋ねる。
「大規模魔力波は止まりました」
リシェル。
「じゃあ原因だったようにも見える」
「はい。ただ」
「ただ?」
「十年後の記録が少し変です」
後の調査隊は、封印後の地脈変化を確認していた。
大規模暴走は止まった。
しかし同時に。
地脈の循環そのものも鈍っている。
『北西第三脈、流量半減。南水脈、年々弱る』
「もうこの頃から?」
レクス。
「はい。ですが当時は、封印による安全確保を優先し、許容範囲と判断されました」
「人が死ななくなったなら、それも分かる」
「私もそう思います」
リシェルは苦い顔をした。
「問題は、そこから補修のたびに封印強度を上げ続けたことです」
「昨日言ってたやつ」
「ええ。最初は内部を抑えるためだった。でも、補強するたび地脈との接続も締めつけた可能性が高い」
クラウディアが頁を指で押さえる。
「それなら、三百年前の人たちは間違っていたというより、目の前の危険を止めるために一番確実な方法を選んだだけかもしれない」
「そう」
レクスも頷く。
「でも、そのやり方が三百年ずっと正しいとは限らない」
◇
午後。
さらに古い地脈図と、封印以前の農業記録を比べたことで、状況はもう少しはっきりした。
《地底の心臓》から伸びる筋。
地脈。
地下水。
薬草帯。
それらが、ほとんど同じ場所で重なっている。
「これ」
レクスが地図を指す。
「こいつが地脈を作ってた?」
「断定はできません」
リシェルは慎重に答える。
「ただ、地脈循環の中心部に存在していたのは確かです」
「中心にいたから暴走の原因に見えた?」
「あるいは、中心だからこそ異常を一番強く受けた可能性もあります」
「外から何か来た?」
「そこが分かりません」
古代記録には、その年の少し前から地下地震が増え、地脈流量が不安定になっていたとも書かれている。
「順番、逆かもしれない」
レクスが言う。
「どういうこと?」
クラウディア。
「こいつが暴れたから地脈が乱れたんじゃなくて、地脈が乱れたからこいつも暴れた」
ディートが眉を寄せる。
「それなら、あの魔力波は?」
「逃がした?」
「何を」
「溜まりすぎた魔力」
部屋が静かになった。
リシェルが急いで過去の流量記録を追う。
「……待ってください」
「何かある?」
「災害前月の記録です。北部地脈の推定蓄積量が、平年の二・七倍」
「多い?」
「異常です」
「じゃあ」
クラウディアが言葉を選ぶ。
「町を壊した魔力波は、攻撃じゃなく放出だった可能性がある?」
「可能性はあります」
リシェルはすぐに付け加えた。
「ただし、だから無害という意味ではありません」
「分かってる」
レクスは頷いた。
人間を殺すほどの魔力を放出した。
理由がどうであれ。
危険だった事実は変わらない。
◇
その日の夕方、もう一度最深部観測室へ降りた。
封印出力は一〇パーセント低下のまま。
内部反応は〇・九四から〇・九六の範囲で安定している。
巨大な器官は、昨日と同じようにゆっくり脈打っていた。
「今日は触らない?」
クラウディアが聞く。
「触らない」
「調べるだけ?」
「うん」
レクスは《深淵呪詛》を使わず、まず流れだけを見る。
地下深くから上がる魔力。
器官へ入る。
別の方向へ出る。
一部は封印に塞がれ。
一部だけが細い地脈へ流れる。
「やっぱり」
「何が?」
「取ってるだけじゃない」
「返してる?」
「かなり」
リシェルが測定器を確認する。
「昨日より地表流量が一・四パーセント上がっています」
「封印は同じなのに?」
「はい」
ディートが観測窓の向こうを見る。
「自分で流れを調整している?」
「知性があるとは限らない」
レクスが答える。
「心臓だって考えなくても血流すだろ」
「なるほど」
「でも機能としては、地脈循環に関わってる」
クラウディアが腕を組む。
「それなら、完全に封じるほど土地が弱るのも当然か」
「たぶん」
◇
「一つ試したい」
レクスが言う。
リシェルが身構える。
「封印をさらに弱めますか?」
「違う」
「では?」
「地脈へ流す機能を少しだけ弱くしてみる」
「対象そのものを?」
「そう」
クラウディアが眉を寄せた。
「何のため?」
「今の推測が合ってるなら、流す力を弱めたら地表側が落ちる」
「危険じゃない?」
「一パーだけ。すぐ戻す」
ディートが少し考えた後、頷いた。
「測定班を全起動」
レクスは巨大な器官そのものへ意識を伸ばした。
攻撃力ではない。
地脈への魔力排出。
循環。
流動。
そこだけ。
「地脈循環効率――一パーセント低下」
《深淵呪詛》。
◇
変化は小さかった。
だが。
確実にあった。
「北部地脈、〇・八パーセント低下」
リシェルの声が少し震える。
「南側も〇・六」
「封印内部は?」
「変化なし」
「器官自体は?」
「脈動、わずかに上昇」
クラウディアがレクスを見る。
「戻す?」
「戻す」
弱体化解除。
数分後。
地脈流量が元へ近づく。
「確定?」
ディート。
「少なくとも、こいつが地脈を回してるのはかなり確か」
レクスは観測窓の向こうを見る。
「災厄っていうより」
言いかけて止まる。
「何?」
クラウディア。
「危険な設備みたい」
「設備?」
「壊れたり詰まったりすると大事故になる。でも普段は必要」
「生き物かもしれないけど?」
「そこは分からない」
リシェルが静かに言った。
「三百年前の人々が聞いたら、怒るでしょうね」
「何で?」
「百二十八人を殺した存在を『必要』と言われれば」
「それはそう」
レクスはすぐ認めた。
「だから、昔の人が封じたこと自体を間違いとは言わない」
◇
監視所へ戻った後。
結論を出す会議が始まった。
「私は」
ディートが最初に口を開く。
「完全解除には反対だ」
「俺も」
レクス。
「即答だな」
「危険なの分かったから」
「では、現状維持?」
「それも嫌」
リシェルが少し笑った。
「両方嫌ですか」
「両方極端」
「では中間?」
「たぶん」
クラウディアが椅子へ深く座る。
「具体的には?」
「今の一〇パーセント低下を維持して、地脈回復と内部反応をしばらく見る」
「期間は?」
「一週間」
「その後?」
「十五くらいまで試す」
ディートが眉を寄せる。
「二〇ではなく?」
「急ぐ理由ない」
「土地の回復は早めたい」
「分かる。でも、こいつが必要だからって安全になったわけじゃない」
レクスの声は静かだった。
「危険だから全部封じるのも違う。でも、役に立つから開けるのも同じくらい雑」
灰殖獣の時。
黒髪の女。
利用。
選別。
あの言葉が頭をよぎる。
◇
「黒髪の女なら」
クラウディアが言った。
「これを見て何て言うかしら」
「使えるって言いそう」
レクス。
「そうね」
「でも」
「でも?」
「言ってること、全部は間違ってない」
部屋が少し静かになる。
ディートは黒紋組織の詳細までは知らないため、クラウディアが簡単に説明した。
古代災厄を選別し、現代で使える形へする。
それが彼らの目的の一部。
レクスは続ける。
「前は、かなり嫌だった」
「今は?」
「今も嫌なところは多い」
「人を実験に使ったこと?」
「それと、失敗した時の責任を他人に払わせるところ」
レクスは机の上の地図へ指を置く。
「でも、古代の力を全部『危ないから殺す』か『危ないから封じる』だけじゃないって部分は、分かる」
「認めるの?」
ディート。
「一部だけ」
「ずいぶん慎重だな」
「信用してないから」
◇
「もし」
リシェルが少し迷いながら口を開いた。
「この存在が本当に地脈循環に必要なら、将来的には封印を大きく緩めることも考えるべきでしょうか」
レクスはすぐには答えなかった。
「管理できるなら」
「何を管理する?」
「また暴走した時止められるか。地脈が異常になった時、こいつがどれくらい反応するか。誰が監視するか。俺がいなくても大丈夫か」
リシェルは一つずつ頷く。
「灰殖獣と同じですね」
「似てる」
「違うのは?」
「こいつは土地に必要かもしれない」
「だから殺せない?」
「今の情報だけなら、殺す理由がない」
「でも三百年前の被害は?」
「忘れない」
その二つは両立する。
危険だった。
必要でもある。
人を殺した。
だからといって、永遠に悪だとは限らない。
役に立つ。
だからといって、善でもない。
◇
翌日から、一〇パーセント低下を維持したまま長期観測へ入った。
三日目。
井戸水位、平均六センチ上昇。
地表魔力、二〇パーセント近く回復。
五日目。
薬草園の生育が明確に改善。
農地の一部で根腐れが減少。
七日目。
地脈流量は安定。
地下器官の内部反応も、一前後から大きく動かない。
「暴走しない」
クラウディアが観測記録を見ながら言う。
「今のところ」
レクスは付け足した。
「そこ大事」
「もう分かってるわよ」
◇
八日目。
封印の地脈遮断部分を、一二パーセントまで下げる。
異常なし。
一三。
内部反応一・〇二。
一四。
地表流量さらに上昇。
一五。
そこで止める。
リシェルは少し期待した顔をしていた。
「もう少し行けそうです」
「そう見える」
「でも止める?」
「うん」
「理由は」
「ここから先、必要ない」
「必要ない?」
「今の地脈回復率で、土地が戻り始めてる」
完全回復まで時間はかかる。
それでも生活圏の水量と魔力は、危険域を抜けつつある。
「もっと弱くすれば、もっと早く戻る」
ディートが言う。
「その代わり中も上がる」
「確かに」
「急いで得するのは、回復まで数週間とか数か月短くなること。でも失敗したら」
「町がまた吹き飛ぶ」
「それなら今でいい」
ディートはしばらく黙った後、ゆっくり頷いた。
◇
そして。
一五パーセント低下を固定するための術式を組んだ。
レクスがいなくても維持できるように。
ただし。
固定するのは弱体化そのものではない。
地脈遮断部の出力上限。
「これ以上勝手に強くならないように?」
クラウディア。
「そう」
「逆に弱くなりすぎたら?」
「戻す機構も入れる」
リシェルが答える。
「一定範囲から外れたら、自動で元へ寄せる」
「人間の判断は?」
「最後に残します」
レクス。
「全部自動にしない」
「どうして?」
「土地も中身も変わるかもしれないから」
今正しい設定が。
百年後も正しいとは限らない。
三百年前の封印が、まさにそれだった。
◇
作業が終わった夕方。
村へ戻ると。
以前より少し濃い緑が目についた。
本当に僅かだ。
劇的ではない。
でも。
土地が息を戻している。
井戸端では、子供たちが水を汲んで遊び、大人に叱られていた。
レクスはその光景を眺めながら、少し肩の力を抜いた。
「討伐してない」
クラウディアが横で言う。
「うん」
「封印も全部解いてない」
「うん」
「なのに依頼は成功?」
「たぶん」
「Sランク最初の仕事としては地味ね」
「いいだろ」
「悪いとは言ってない」
むしろ、とクラウディアは少し笑った。
「あなたらしい」
◇
帰還前夜。
監視所で最後の報告書をまとめていると、リシェルが一冊の古記録を持ってきた。
「これ、見てください」
「何?」
「封印以前の呼び名」
「地底の心臓じゃなく?」
「もっと古いものです」
そこには。
ほとんど消えかけた古代文字で。
『地脈を巡らせるもの』
とだけ書かれていた。
「災厄って呼ばれる前?」
「おそらく」
レクスはしばらくその文字を見た。
三百年前。
町を壊した。
だから。
災厄になった。
それ以前。
人々は。
別の名前で呼んでいた。
「名前って変わるんだな」
「見方が変われば」
リシェル。
「でも、昔の名前だけが正しいわけでもない」
「ええ」
「災厄だったのも本当」
「そうですね」
レクスは古記録を閉じた。
◇
深層王。
灰殖獣。
そして。
地脈を巡らせるもの。
全部違う。
同じ「古代災厄」でまとめる方が、むしろ雑だった。
眠らせるべきもの。
殺すべきもの。
残すべきもの。
使えるかもしれないもの。
人間側の都合だけで。
一つに。
決められない。
黒髪の女たちが。
なぜ。
選別。
という言葉を使っていたのか。
少しだけ。
分かった。
でも。
その考え方を理解することと。
人を実験台にすることを許すのは。
まったく別だ。
「便利だから使う、じゃ駄目なんだよな」
レクスが言う。
「誰に話してるの?」
クラウディアが振り返る。
「独り言」
「最近多いわね」
「考えること増えたから」
「Sランクって大変」
「やっぱAに戻れる?」
「今さら?」
「冗談」
クラウディアが笑う。
◇
翌朝。
出発準備をしていたレクスのところへ、ディートが一通の封書を持ってきた。
「あなた宛てです」
「誰から?」
「分かりません」
「怪しいな」
「かなり」
封筒には。
差出人名。
なし。
封蝋もない。
ただ。
裏。
黒い円。
その中に。
三本の線。
レクスの表情が変わる。
「いつ届いた?」
「今朝。監視所の外壁に挟まれていました」
「誰か見た?」
「いません」
クラウディアも近づいてくる。
「開ける?」
「ここで」
「罠は?」
「調べる」
術式。
自壊。
毒。
遠隔監視。
なし。
ただの紙。
中。
短い文。
『今回は、良い選択でした』
レクスは眉を寄せた。
「腹立つな」
「そこ?」
「見てたってことだろ」
その下。
もう一行。
『次は実験ではなく、話をしましょう』
そして。
場所。
日時。
人数。
指定。
正式な。
会談。
の提案。
クラウディアが紙を読み終え、顔を上げた。
「ずいぶん急ね」
「断る?」
「今決めない」
「そう言うと思った」
レクスは黒円三条の印を見た。
灰の谷では。
相手の方から。
選べ。
と言われた。
今度は。
話そう。
と来た。
それなら。
まず。
話す価値があるか。
そこから。
決めればいい。




