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第64話 強すぎる封印

 翌朝、レクスたちが封印施設へ入ったのは、山の東側へ朝日が差し始めてからだった。


 夜のうちに現地術師が用意した測定器は二十を超えている。地下地脈の流量、封印出力、内部魔力量、温度、振動、周辺の井戸水位まで、何か一つでも異常が出ればすぐ分かるようにしてあった。


 レクスは入口でその一覧を見せられ、少しだけ安心した。


「これなら、俺が中だけ見てる間も外が分かる」


「そのために七年かけて測定網を作りました」


 現地術師の主任を務める女性、リシェルが答えた。四十歳前後で、濃紺の外套の袖口が何度も補修されている。研究者というより、長く現場へ居続けた人間の服だった。


「もっと早く解決できればよかったんですけどね」


「七年やって駄目だった?」


 レクスが聞くと、リシェルは苦笑した。


「正確には、何度か良くなりかけたんです。封印を少し緩めれば、地脈は戻る。でも内部反応が上がる。怖くなって元へ戻すと、今度は畑が枯れる。その繰り返しでした」


「どこを緩めた?」


「封印全体です」


「全体?」


「部分的に弱める技術がありませんでしたから」


 そこで、今回レクスが呼ばれた理由が改めて見えた。


 封印を弱くするだけなら、現地でもできる。


 問題は、何を弱くするかだった。


     ◇


 施設内部は、灰の谷ほど不気味ではなかった。


 壁は乾いているし、空気も澱んでいない。古い石造りではあるものの、三百年間ずっと人が出入りして補修してきたため、通路には新しい灯具や測定線まで設置されている。


 ただし、地下へ下りるほど妙な圧迫感が増した。


 魔力が濃いわけではない。


 むしろ逆だ。


「吸われてる」


 レクスが足を止めた。


 クラウディアも周囲へ意識を向ける。


「私の身体から?」


「そこまでじゃない。通路を流れてる魔力」


 壁。


 床。


 空気。


 人の身体から自然に漏れる、ごく僅かな魔力まで。


 すべてが地下中心部へ引かれているわけではない。


 封印へ吸い付けられている。


「封印が魔力を食ってるの?」


「違うと思う」


「何が違う?」


「食べてるんじゃなくて」


 レクスは壁面の古代術式を見ながら、言葉を探した。


「通さないために掴んで、そのまま離してない感じ」


 リシェルが少し驚いた。


「我々も似た仮説を立てています。地脈を遮断する術式が、時間とともに対象範囲を広げたのではないかと」


「封印が成長した?」


「あるいは、補修を重ねすぎた」


 後ろを歩いていたディートが口を開いた。


「三百年の間に、大きな補修だけで十七回あります。小規模な補強なら、その倍以上です」


「補強するたび強くした?」


「基本的には」


「弱くする補修は?」


「ありません」


 レクスは少しだけ嫌な顔をした。


「それ、積み重なってない?」


 誰もすぐには答えなかった。


     ◇


 中央封印室へ着く前に、観測区画へ入った。


 分厚い石壁の向こうに対象があり、ここからなら直接触れずに内部反応を測れる。


 リシェルが巨大な円盤状の測定器を起動する。


「現在の封印出力を一〇〇とします」


「中の反応は?」


「平常値を一とすると、〇・四前後」


「かなり低い?」


「はい。ただし、以前封印出力を九五まで下げた際、一・二まで上昇しました」


「五パー下げたら三倍」


「そのため、すぐ戻しました」


 クラウディアが腕を組んだ。


「数字だけ見ると、戻したくなるわね」


「当時は村の被害も今ほどではありませんでしたから」


 リシェルの言い方には、わずかな苦さが混じっていた。


「今なら同じ判断は?」


「……分かりません」


 正直だった。


「私たちは封印を守るためにここへいます。でも、この七年で周辺の土地が目に見えて弱りました。封印を守って人が暮らせなくなれば、何を守っているのか分からなくなる」


 その言葉を聞いて、レクスは少しだけ目を伏せた。


 守る。


 強くする。


 閉じ込める。


 それ自体は間違いではない。


 でも、正しいことを強くやりすぎれば、別の場所が壊れることもある。


     ◇


「今日は一パーセントだけ」


 レクスが言った。


 ディートが確認する。


「封印全体を?」


「いや」


「では?」


「地脈を掴んでるところだけ探す」


 レクスは観測窓の前へ立ち、《深淵呪詛》の対象を探った。


 敵ではない。


 生き物でもない。


 封印術式。


 これまでにも、深層王の人工覚醒術式や黒紋の自壊機構へ干渉したことはある。


 だが今回は少し違う。


 壊したい機能ではない。


 必要な機能のうち、働きすぎている部分だけを弱める。


「……ある」


 レクスが呟いた。


「何が?」


 リシェル。


「三つくらい絡んでる」


「三つ?」


「内部を閉じる。外からの魔力流入を止める。地脈の流れを横へ逃がさない」


「最後が?」


「たぶん悪さしてる」


 内部を閉じ込める機能と、外の地脈を締め上げている機能が、完全に同じではない。


 そこが重要だった。


「試す」


「一パーセント?」


「一パーセント」


「戻す準備を」


 リシェルが周囲へ指示する。


 クラウディアは壁際に立ち、内部反応が急上昇した場合の護衛に備えた。


 ディートは外部班と通信を繋ぐ。


「村側の地脈観測も始めろ。井戸水位、畑の魔力濃度、すべて記録」


 レクスは息を整えた。


 そして。


「地脈遮断効率――一パーセント低下」


 《深淵呪詛》が入る。


     ◇


 最初の一分。


 何も起きなかった。


 二分。


 三分。


 リシェルが測定器を見る。


「封印内部、〇・四一」


「ほぼ変わらない?」


「誤差範囲です」


「地脈は?」


「こちらも……待ってください」


 別の術師が隣の盤面へ顔を寄せる。


「北東流路、〇・七パーセント上昇」


「戻った?」


「ごく僅かに」


 ディートが通信石を取る。


「外部班、応答」


『こちら南観測所。地表流量、微増を確認。ただし生活圏への変化はまだなし』


「井戸は?」


『変化なし』


 レクスは少し考えた。


「もう一パー」


 リシェルがすぐ言う。


「待ちましょう」


「どのくらい?」


「最低十五分」


「分かった」


 レクスは素直に引いた。


 彼女は少しだけ驚いた顔をした。


「何?」


「いえ。もっと早く進めたがるかと」


「何で」


「Sランク冒険者なので」


「Sランクって待てない人多い?」


 クラウディアが横から笑った。


「そういう意味じゃないと思うわよ」


     ◇


 十五分後。


 内部反応は〇・四二。


 地脈流量は一・一パーセント回復。


 異常なし。


「二パーまで」


 レクスが言う。


「賛成です」


 今度はリシェルも止めなかった。


「地脈遮断効率――二パーセント低下」


 今度は変化が早かった。


 測定器の針が僅かに動く。


「内部反応〇・四五」


「地脈は?」


「二・八パーセント上昇」


「比率おかしくない?」


 レクスが聞く。


「封印低下率より回復が大きい?」


「そうです」


 リシェルの声が少し高くなる。


「閾値があるのかもしれません」


「何それ」


「封印が一定以上強いと、地脈を完全に締めつけている。少し緩めるだけでも、その圧迫が一気に減る可能性があります」


「じゃあ」


 クラウディア。


「一〇パー弱めなくても、土地の流れだけかなり戻せるかもしれない?」


「可能性はあります」


「なら、なおさら急がなくていい」


 レクスは頷いた。


     ◇


 三パーセント。


 四。


 五。


 そこで一度止めた。


 過去、現地術師が封印全体を五パーセント落とした時は、内部反応が〇・四から一・二へ跳ね上がった。


 今は。


「〇・五八」


 リシェルが言った。


「全体を弱くした時の半分以下です」


「地脈は?」


「七・四パーセント回復」


「結構戻ってる」


 ディートが外部からの報告を聞く。


「北の第三観測井戸、水位上昇一センチ」


「もう?」


 クラウディア。


「地下水は地脈魔力そのものではないはずでしょう?」


 リシェルが頷く。


「ただ、この地域では地脈流が地下水路の安定にも影響しています。魔力圧が戻れば、水路の詰まりや沈降が改善する可能性はあります」


「人が何年もかけて困ってたのに」


 レクスは測定器を見る。


「五パーでこれだけ変わるんだ」


「だからこそ怖いんです」


 リシェルが言う。


「良くなるのが早いと、人はもっとやりたくなる」


 その言葉に、レクスは少し黙った。


「それ、分かる」


「でしょう?」


「効くなら九十九までやりたくなる」


「やめてください」


「やらない」


「即答でお願いします」


「今の即答だったけど」


     ◇


 午前中は五パーセントで止めた。


 昼まで測定を続けても、内部反応は〇・六前後で安定している。


 一方、地表側では変化が目に見え始めた。


 監視所へ戻る途中、小さな排水路を見たレクスが足を止める。


「水、増えた?」


 案内役の術師が驚いたように覗き込んだ。


「朝より流れています」


「昨日は?」


「底が見える程度でした」


 今は石の隙間を薄く水が覆っている。


 劇的な変化ではない。


 魚が戻るほどでもない。


 でも。


 確かに戻っている。


「たった五パーセント」


 ディートが呟いた。


「封印全体じゃなくて、邪魔してるところだけだから」


 レクスは言った。


「……我々は七年、何をしていたんでしょうな」


 ディートの声に自己嫌悪が混じった。


 レクスは少し考えてから答える。


「分からなかっただけだろ」


「しかし」


「俺も灰殖獣の時、最初は一体ずつ弱くしようとしてた」


 ディートが顔を上げる。


「間違った?」


「うん。でも途中で変えた」


「それで済む話でしょうか」


「死者出てないなら、今直せばいい」


 レクスはそれ以上、慰める言葉を探さなかった。


 七年の間に畑を失った人間はいる。


 生活を捨てて移住した家族もいる。


 だから「気にするな」と言うのは違う。


 でも、過去の判断を悔やみ続けることと、今より良い選択をすることも別だった。


     ◇


 午後は八パーセントまで下げた。


 内部反応は〇・七六。


 地脈流量は一三パーセント近く回復。


 周辺二つの井戸でも水位上昇が確認された。


 だが、九パーセントへ進もうとしたところで、クラウディアが止めた。


「今日はここまでにしない?」


「まだ余裕ある」


 レクスが言う。


「数字だけならね」


「何か気になる?」


「人間の方」


「人間?」


「あなたも術師たちも、良くなってるから進みたくなってる」


 言われて。


 レクスは周囲を見た。


 確かに。


 リシェルは測定器へ身を乗り出している。


 ディートも外部報告が届くたび、次を期待している。


 レクス自身も同じだった。


「……止めるか」


「ええ」


 リシェルは少し残念そうな顔をしたが、すぐ頷いた。


「賛成します」


「本当は一〇まで行きたい?」


「かなり」


「俺も」


「だから止めるんですね」


「たぶん」


     ◇


 その夜、村側から最初の報告が届いた。


 井戸の水位。


 平均二から四センチ上昇。


 地表魔力。


 場所によって五から九パーセント回復。


 当然、作物そのものが一日で元気になるわけではない。


 それでも、乾いていた薬草園の一角で、萎れていた葉が少し起きたという報告まであった。


「早すぎない?」


 レクスが疑う。


 リシェルは報告紙を何度も確認した。


「魔力不足だけが原因だった植物なら、反応はあり得ます。ただし長期的な回復は別です」


「じゃあ喜ぶのはまだ早い?」


「少し喜ぶくらいなら」


 ディートが珍しく笑った。


「現地の者たちは、少しでは済まないでしょうが」


     ◇


 二日目。


 九パーセント。


 内部反応〇・八二。


 地脈流量一五パーセント回復。


 一〇パーセント。


 内部反応〇・九一。


 まだ、過去に封印全体を五パーセント落とした時の一・二に届かない。


「ここまで」


 レクスが言った。


「今日は?」


 リシェル。


「じゃなくて、一旦ここで何日か見る」


「一〇パーセントで固定?」


「ああ」


「理由は」


「外が戻り始めてるなら、今すぐもっと下げる必要ない」


 クラウディアが満足そうに頷いた。


「いい判断ね」


「何でクラウディアが評価するの」


「同じSランクだから」


「先輩?」


「少しだけ」


「じゃあ何か奢って」


「なぜそうなるのよ」


     ◇


 三日目からは、封印を触らなかった。


 代わりに周辺を回った。


 最初に訪れた村では、井戸へ人が集まっていた。


 以前より水が増えた。


 それだけ。


 なのに。


 老人が桶を覗き込みながら何度も笑っている。


 子供が手を入れて怒られている。


 農夫たちは畑の土を掘り返し、まだ何も変わっていない場所まで確かめていた。


「思ったより喜んでる」


 レクスが小さく言う。


「七年ですから」


 ディートが答える。


「すぐ元へ戻るかもしれないと分かっていても、期待はします」


「戻らないようにしないとな」


「だからこそ、急がない?」


「うん」


 強く弱めれば、もっと早く土地が戻るかもしれない。


 でも、内部を起こせば全部終わる。


 少しずつ。


 測って。


 戻して。


 止める。


 派手ではない。


 たぶんSランクの仕事として期待される絵でもない。


 でも、今はそれでいい。


     ◇


 五日目。


 封印出力低下一〇パーセントのまま。


 地脈流量は一八パーセント回復。


 内部反応〇・九三。


 安定。


 そこで初めて、レクスたちは封印のさらに奥へ入る許可を出した。


 目的は、中の対象を直接見るためではない。


 内部反応が何なのかを確かめるためだった。


 最深部直前には、三百年前の観測室が残されている。


 分厚い透明鉱石の向こう。


 巨大な地下空洞。


 そこに。


 何か。


 あった。


「……心臓」


 クラウディアが呟いた。


 比喩ではなかった。


 少なくとも。


 そう見える。


 岩盤の中へ半ば埋まった、巨大な楕円形の器官。


 表面には樹木の根にも血管にも似た筋が走り、その一本一本が地下の地脈へ伸びている。


 魔獣の身体には見えない。


 植物でもない。


 鉱物でもない。


 ただ。


 ゆっくり。


 膨らみ。


 縮む。


 三百年。


 封じられたまま。


 脈打っている。


「生き物?」


 クラウディア。


「分からない」


 レクスは正直に答えた。


「攻撃力は?」


「見えにくい」


「敵意は?」


「もっと分からない」


 リシェルが記録を確認する。


「古代文書でも、これが攻撃した記録は一件だけです」


「一件?」


「封印前、地表へ巨大な魔力波を放出し、周囲の町を半壊させたと」


「それで災厄指定?」


「はい」


「何で魔力波出した?」


「不明です」


 レクスは透明鉱石の向こうを見た。


 巨大な心臓。


 怖い。


 見た目だけなら十分に。


 ただ。


 何か。


 引っかかる。


     ◇


「封印を一〇下げてから」


 レクスが言う。


「こいつ、強くなった?」


「内部魔力は上がっています」


「それは分かる。でも」


「でも?」


「暴れようとしてる感じしない」


 《深淵呪詛》を使う時、敵の力の向きはある程度分かる。


 攻撃。


 防御。


 逃走。


 再生。


 吸収。


 意図まで読めるわけではないが、力が何へ使われているかは見える。


 この巨大な器官は。


 地脈へ。


 流している。


「外に出ようとしてない」


「何をしてる?」


 クラウディア。


「回してる」


「何を?」


「魔力」


 レクスは透明鉱石へ近づいた。


「地脈から取って、別の地脈へ返してる」


 リシェルの表情が変わる。


「循環?」


「たぶん」


「でも封印が」


「途中で止めてる」


 つまり。


 封印は対象を閉じ込めるために。


 対象と地脈の繋がりを。


 強く。


 切った。


 その結果。


 本来回っていたものまで。


 止めている。


     ◇


「待ってください」


 リシェルは古い図面を床へ広げた。


「この筋……」


「何?」


「三百年前の地脈図と重なります」


 一本。


 二本。


 三本。


 巨大な器官から伸びる筋と。


 周辺地域の地脈。


 ほぼ。


 一致。


「じゃあ」


 ディート。


「これは、地脈に繋がっていた?」


「今も繋がってます。ただ封印がその接続を締めています」


「なら我々は」


 言葉。


 止まる。


 レクスはすぐには続けなかった。


 まだ。


 確定ではない。


「もう少し見る」


     ◇


 その時だった。


 巨大な器官が。


 一度。


 強く。


 脈打った。


 クラウディアの手が剣へ行く。


「内部反応上昇!」


 リシェルが叫ぶ。


「〇・九三から一・〇一!」


「封印戻す?」


 ディート。


「待って」


 レクスが止めた。


「何で?」


「攻撃じゃない」


 脈動。


 二回目。


 今度は。


 弱い。


 その直後。


 観測室の測定器。


 外部地脈流。


 僅かに。


 上昇。


「地表側へ流れました!」


 リシェル。


「魔力放出?」


「でも攻撃方向じゃありません!」


「どこへ?」


「周辺地脈全体へ!」


 レクスは巨大な心臓を見る。


 封印を一〇パーセントだけ弱めた。


 その隙間。


 そこから。


 何かが。


 返ってきた。


 攻撃ではない。


 圧力でもない。


 地脈へ。


 流すための。


 魔力。


「こいつ」


 レクスが小さく言う。


「出ようとしたんじゃない」


「何?」


 クラウディア。


「流そうとした」


「魔力を?」


「外へじゃない」


 レクスは地下へ伸びる無数の筋を見る。


「大地に」


     ◇


 その日の作業は、そこで終わった。


 それ以上封印を弱めない。


 内部反応が一時的に一を越えた以上、まず記録を解析する。


 戻すか。


 維持するか。


 次へ進むか。


 決めるのはその後だ。


 監視所へ戻る道で、クラウディアが聞いた。


「どう思う?」


「まだ分からない」


「でも?」


「あれ、敵じゃないかもしれない」


「三百年前に町を壊してる」


「それは事実」


「なら危険?」


「危険ではある」


「善悪は別?」


「たぶん」


 クラウディアは少し笑った。


「灰の谷から、本当に面倒な相手ばかりね」


「強いだけの方が簡単だった」


「そう言えるの、あなただけじゃない?」


「深層王も簡単じゃなかったけど」


「それはそうね」


     ◇


 監視所へ戻ると、村側から新しい報告が届いていた。


 地表魔力が、昼の測定よりさらに上がっている。


 井戸。


 畑。


 薬草園。


 どれも僅かに改善。


 そして。


 封印内部の巨大な器官。


 反応。


 〇・九四。


 再び。


 落ち着いている。


 暴走。


 なし。


「一回だけ脈を強めて」


 リシェルが測定記録を見つめる。


「地脈へ流した後、また静かになった」


「要求?」


 ディート。


「何か訴えた?」


「そこまでは分かりません」


 レクスが止める。


「返事だった可能性もあるけど」


「何への?」


「封印を弱めたこと」


 部屋が静かになった。


「こちらが少しだけ流れを戻した」


 レクスは昼の記録へ目を落とす。


「向こうも、少しだけ流した」


 敵意。


 ない。


 と断定はできない。


 知性。


 ある。


 とも言えない。


 ただ。


 少なくとも今日。


 封印が少し弱くなった時。


 あの存在は、逃げようとはしなかった。


 攻撃もしなかった。


 代わりに。


 三百年間せき止められていた地脈へ。


 魔力を返した。


 レクスは窓の外を見た。


 遠くの村。


 畑。


 井戸。


 土地。


 それらと。


 地下の巨大な心臓。


 もしかすると。


 最初から。


 別々のものでは。


 なかったのかもしれない。


 強すぎる封印が守っていたのは人間だった。


 そして同時に。


 人間が生きるために必要なものまで。


 三百年かけて、少しずつ止めていた。

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