第62話 百年前にも黒い紋章はあった
百年以上前の記録に、黒い円と三本線の印が残っていた。
その事実だけなら、まだ偶然で片づける余地はある。
右手の黒い紋章についても、今の組織と同じ術式だとは限らない。誰かが古い意匠を真似しただけかもしれないし、逆に現代の黒紋組織が昔の集団から印だけを受け継いだ可能性もある。
だから翌朝、レクスがギルドへ行った時には、アデルとガレンだけでなく、王国側の古文書担当者まで増えていた。
「人、多くない?」
会議室の入口でレクスが言うと、ミリアは当然のように答えた。
「百年以上前の組織活動が関係している可能性がありますので」
「まだ可能性だろ」
「可能性だから調べるんです」
「それは分かるけど」
「それに、Sランクになった方の案件ですから」
「それ関係ある?」
「王都へ報告を上げる理由には便利です」
「称号、そうやって使うんだ」
「レクスさんも断るために使っているでしょう」
「なら同じか」
自分で納得すると、ミリアが少し笑った。
◇
百三十二年前の監視記録だけでは足りない。
そこで王国側は、同じ時代の周辺地方から残る旅人記録、封印補修記録、関所通行簿まで集めていた。
当然ながら、保存状態はひどい。
虫食い。
水濡れ。
火災跡。
書いた人間の字がそもそも読めない。
レクスは一冊目の写本を開き、三行目で閉じた。
「読めない」
「古語ですから」
アデルが言う。
「古語じゃなくて字が汚い」
「それは私も思いました」
「書いた奴、急いでた?」
ガレンが横から覗き込む。
「昔の役人は紙を節約するために小さく詰めて書く者も多かった。しかも蝋燭の灯りじゃ。今の帳簿より読みにくくて当然じゃな」
「百年後に読む人のこと考えてない」
「お主も自分の術式記録を残さんから同類じゃ」
「俺、字は読める」
「記録そのものを書かんと言うておる」
「それは……」
反論できない。
アデルがすぐ横から入ってきた。
「だから私が書いています」
「勝手に?」
「必要なので」
「後世の人、困らない?」
「私の字は綺麗です!」
「そこじゃない」
◇
午前中に見つかった記録は、三つだった。
一つ目。
王国北西部の旧監視所。昨日読んだものと同じで、黒円三条の印を持つ旅人たちが封印を補修していたらしい。
二つ目。
そこから東へ三日ほどの山村。約百二十五年前。
『黒き印の旅人、山の墓を開く』
「墓?」
ギルバートが聞く。
今日は別任務へ出る前に少しだけ顔を出していた。
「古代封印施設を、当時の村人が墓と呼んでいたらしい」
アデルが答える。
「で、開いた?」
「記録では」
頁をめくる。
「開けた」
「じゃあ壊してるじゃん」
「待て」
ガレンが止める。
「その先を読め」
レクスが続きへ目を落とす。
『三日後、再び閉ざす。旅人ら曰く、中は空であった』
ギルバートが眉を寄せた。
「空?」
「何もいなかった?」
「少なくとも記録上は」
「じゃあ、何のために開けたんだ」
「確認」
レクスが言う。
「灰の谷でもやってた」
「中身が使えるかどうか?」
「まだそこまで決めない」
「分かってる」
ギルバートがすぐ引いた。
最近は、レクスが止める前に自分で「断定じゃない」と付け足すようになっている。
◇
三つ目の記録は、さらに妙だった。
約百十年前。
別の国境地域。
『黒印の四名、封印塔の中枢石を破壊』
「今度こそ壊してる」
ギルバートが言った。
「でも続きを」
クラウディアが資料の別頁を示した。
『破壊後、塔の地下より黒煙噴出。翌日、旅人らが別の石を設置し鎮静』
「何それ」
「一回壊して、直した?」
レクス。
「もしくは」
アデル。
「壊したのが封印そのものではなく、故障した部品だった可能性があります」
「記録した側が仕組み分かってなかった?」
「十分あり得ます」
ガレンが頷く。
「古代封印を知らぬ者から見れば、石を割ることも、術式を修繕することも、見た目は大差ない」
「じゃあ」
ギルバートが頭を掻く。
「守った記録も、壊した記録も、どっちも同じ集団かもしれない?」
「可能性はある」
クラウディアが答える。
「でも逆もある。似た印を使う別集団が、別の目的で動いていたかもしれない」
「どっちなんだよ」
「だから調べてるの」
「研究って面倒だな」
「戦闘より?」
「最近、本気でそう思う」
◇
午後。
ノアが自分から会議室へ来た。
今日は朝から記憶解析をしていない。
それでも、昨日見つけた古い黒円三条の印だけは見たいと本人が言ったらしい。
「これですか」
写しを見せると、ノアの表情が変わった。
「見たことある?」
レクスが聞く。
「……あります」
アデルがすぐ身を乗り出しかけて、ガレンに肩を掴まれた。
「近い」
「質問したいだけです!」
「近い」
「はい……」
ノアが少し笑ったので、緊張は多少和らいだ。
「どこで?」
レクスが聞く。
「建物の中です。前に思い出した部屋とは別かもしれない。でも、この印は見ました」
「手の黒紋と同じ意味?」
「分かりません」
「組織の印?」
「それも」
ノアはそこで黙った。
無理に続ける気配はない。
「今日はここで止めてもいい」
「まだ大丈夫です」
「自分で決めて」
「はい」
少し考えた後、ノアは続けた。
「印の下に、人が立ってました」
「誰?」
「何人か」
「同じ服?」
「違いました」
アデルが慎重に質問する。
「役職が違うように見えました?」
「たぶん。でも」
ノアは目を細めた。
「命令も違った気がする」
◇
「どう違う?」
クラウディアが聞いた。
「一人は、封印を開けるなって言ってました」
「もう一人は?」
「開けろって」
部屋が静かになる。
「同じ場所で?」
レクス。
「はい。たぶん同じ施設です」
「どっちが上司?」
「分かりません」
「喧嘩してた?」
「怒鳴り合いじゃないです。でも……嫌ってた」
「お互い?」
「そんな感じでした」
ノアの記憶は断片的だ。
だから、感情まで確定事項にはできない。
ただ。
少なくとも、同じ印の下にいた人間たちが、同じ方針ではなかった可能性が出てきた。
「派閥」
ガレンが低く言う。
「ありそうだな」
ギルバートが答える。
「組織の中で意見が違う?」
「百年以上続いておる集団なら、むしろ一枚岩の方が珍しい」
ガレンは写本へ視線を戻した。
「封印を守りたい者。調べたい者。使いたい者。壊したい者。長く続けば、思想は枝分かれする」
「今の黒髪の女は?」
フィンが尋ねる。
「どの派?」
「分からん」
「灰殖獣は使える形にしたいって言ってましたよね」
「言ってた」
レクス。
「でも、それが組織全体の考えとは限らない」
「本人も全部は言ってなかったしね」
クラウディアが頷く。
「『私たちだけではない』とも言っていた」
「じゃあ」
ギルバートが腕を組む。
「今まで、黒髪の女の言葉をそのまま組織の目的だと思いすぎてた?」
「少し」
レクスは認めた。
旧バルハ。
灰の谷。
黒髪の女。
いつも同じ相手が前へ出てくるから、どうしてもその人物の思想を組織全体のものとして見たくなる。
でも。
ノアの自壊紋を、女自身が施したわけではなかった。
しかも。
止めなかったことは認めても、積極的に支持したとも言っていない。
「同じ敵でも、中身が同じとは限らない」
レクスが言う。
「それ、戦う時面倒じゃない?」
ギルバート。
「かなり」
「誰倒していいか分かんない」
「先に殴る前提やめろ」
「もうやめてる!」
◇
ノアは、その後さらに一つだけ記憶を取り戻した。
自分がまだ組織から逃げる前。
廊下の角で、二人の上役らしき人物が話していた。
一人は言った。
『封印は残すべきだ』
もう一人は。
『残すだけなら、先人と何も変わらない』
「声、覚えてる?」
レクス。
「片方は男です」
「もう片方は?」
「分かりません」
「黒髪の女?」
「違うと思います」
「確信ある?」
「……あまり」
「じゃあ違うかもしれない、くらいで」
「はい」
ノアは少し疲れた顔をした。
「今日はここまでにする?」
レクスが聞く。
「そうします」
「すぐ言えるようになったな」
「まだ少し迷います」
「それでいい」
ノアは自分から席を立った。
出口で一度だけ振り返る。
「もし、組織の中で意見が違ったなら」
「うん」
「俺に紋章を入れた人と、黒髪の人も違うんでしょうか」
レクスはすぐには答えなかった。
「可能性はある」
「じゃあ、あの人は敵じゃない?」
「それもまだ違う」
「どうして?」
「ノアの紋章を止めなかった。深層王の実験もした。灰殖獣でも人の記憶を弄って監視塔から退かした」
「はい」
「だから今は敵として見る。でも、敵だから全部同じとは思わない」
ノアは少し考えた後、頷いた。
「分かりました」
◇
夕方、王国側からさらに古い記録が一件届いた。
約百年前。
辺境の封印聖堂。
そこにも、黒円三条の印を持つ旅人が現れている。
ただし。
今回の記録には、初めて旅人たち同士の対立らしき記述が残っていた。
『黒印の二名、夜半に争論。ひとり曰く、これは残すべし。ひとり曰く、残せばまた百年を失う』
「さっきのノアの記憶と似てる」
アデルが言う。
「偶然?」
「可能性はありますが、百年前から内部で同じ種類の対立が続いていた可能性も」
「残す派と、使う派?」
ギルバート。
「それだけとも限らない」
クラウディアが止める。
「壊す派、調査派、管理派。もっと細かいかもしれない」
「名前、付ける?」
フィン。
「勝手につけるな」
レクスが即座に言う。
「後で違ったら面倒」
「ですよね」
◇
問題の《アー》から始まる語についても、少しだけ進展があった。
百年前の封印聖堂の記録。
余白。
そこに。
古い発音記号。
残っていた。
アデルが一文字ずつ拾う。
「《アー……ク》」
ギルバートが顔を上げる。
「アーク?」
「そう読める可能性があります」
「組織名?」
「まだ分かりません」
「また?」
「またです!」
「でも音は近づいた?」
「《アーク》に近い音である可能性は上がりました。ただし」
アデルは次の行を指す。
「後ろに語が続いています」
「何?」
「欠けています」
「そこだけ都合よく欠けるなよ……」
ギルバートが本気で嫌そうに言った。
「百年前の紙に文句言わないでください」
「言いたくもなるだろ」
ガレンが頁を光へ透かす。
「それに、《アーク》が組織名とは限らん。役職。儀式。創設者。古代封印の分類名。何でもあり得る」
「じゃあまだ名前は決めない」
レクス。
「当たり前じゃ」
「でも候補にはする?」
「それはよい」
◇
その日の最後。
レクスは黒板へ三つだけ書いた。
一。
黒円三条の印は、少なくとも約百年前から存在していた可能性が高い。
二。
同じ印を持つ者たちが、封印を守った記録と、開いた記録の両方を残している。
三。
組織内部には、少なくとも方針の違う複数の人間がいる可能性がある。
「これだけ?」
ギルバートが聞く。
「確定に近いの、今はこれくらい」
「《アーク》は?」
「下に小さく」
レクスは端へ書いた。
『候補:《アーク……?》』
「小さいな」
「まだ候補だから」
「でも、少し見えてきたな」
「何が?」
「相手」
ギルバートは黒板を見る。
「今まで、黒髪の女一人が何考えてるか分からない感じだった。でも、向こうにも意見違う奴がいるなら」
「人間っぽい?」
「そう」
レクスは少し考えた。
「その方が面倒だろ」
「え?」
「全員同じ目的なら、一個止めればいい。でも中で別々に動いてるなら、誰が何するか分からない」
「……確かに」
「しかも百年前から」
「長いな」
「かなり」
◇
会議を終えようとした時。
ガレンが別の写本をめくっていた手を止めた。
「待て」
「また?」
アデルがすぐ近づく。
「何です?」
「同じ時代の別記録じゃ。封印監視ではない。旅券管理簿」
「そこにも黒紋?」
「印そのものはない」
「じゃあ何?」
ガレンは古い一行を指した。
『北より来る四人組。所属を問うも答えず。ただ一人、自らを《アーク……》の――』
その先。
頁が破れている。
ギルバートが天井を見上げた。
「また切れてる!」
「百年前の資料じゃと言うとるじゃろ!」
しかし。
今回は。
その一行の横に。
別の役人。
小さな追記。
残る。
『同名を名乗る者、前年にもあり。ただし意見合わず、互いを同胞と呼ばず』
部屋が静かになった。
「同じ名前を名乗ってるのに」
クラウディア。
「仲間じゃない?」
アデルが慎重に言う。
「同じ大きな系統の中で分裂していた可能性があります」
「百年前から?」
レクス。
「はい」
「じゃあ、今の黒髪の女たちも」
「その分裂が続いている可能性はあります」
ガレンが写本を閉じた。
「少なくとも」
老呪術師の声が低くなる。
「黒い紋章は、昨日今日できた秘密結社の印ではなさそうじゃ」
レクスは机の端に書いた《アーク……?》という不完全な語を見る。
名前はまだ分からない。
目的も、一つではないかもしれない。
ただ。
百年以上前から。
古代封印の前へ現れ。
守る者。
開ける者。
使おうとする者。
それらが同じ黒い印を持っていた。
敵の正体が少し見えたと思ったのに。
むしろ。
中身は、前より複雑になった。




