第61話 《ア》から始まる名前
休暇が明けた日の朝、レクスがベルン冒険者ギルドへ入ると、受付の奥に見慣れない量の本が積まれていた。
古文書、写本、各国の封印監視記録、黒紋術式の解析報告。その大半には付箋代わりの細い紙片が何本も挟まっており、机の向こうではミリアが朝から疲れた顔をしている。
「俺、帰った方がいい?」
「休暇は終わりました」
「まだ一日くらい」
「終わりました」
「じゃあ、あれ全部俺?」
「半分くらいは」
「多いな」
「《ア》という一音だけで探すと、こうなります」
レクスは少し後悔した。
ノアが思い出したのは、組織名なのか、人名なのか、役職なのかも分からない一音だけだ。それでも、何もなかった昨日までと比べれば確かな手掛かりには違いない。
「ノアは?」
「今日は治療室です。ただし、記憶解析は本人が『やってもいい』と言った時間だけ。朝はまだ始めていません」
「なら先にこっち見る」
「珍しく積極的ですね」
「本人に無理させるより、本で分かるならその方がいい」
ミリアが少しだけ表情を和らげた。
「私もそう思います」
◇
二階の会議室には、すでにアデルとガレンがいた。
アデルは昨夜から到着していたらしく、机の上へ三種類の古代文字表を広げている。対してガレンは椅子へ深く座り、湯気の立つ茶を飲みながら露骨に眠そうな顔をしていた。
「おはよう」
「遅いです、レクスさん!」
「約束の時間より十分早いけど」
「私は二時間前から始めています!」
「それを基準にするな」
ガレンが横から言う。
「研究馬鹿と同じ速度で生きておったら、普通の人間は三十で死ぬぞ」
「ガレンさん、昨日も深夜まで資料を読んでいましたよね?」
「儂は年寄りじゃから朝が早いだけじゃ」
「深夜まで起きて朝も早いなら、ただ寝てないだけだろ」
「余計なところだけ鋭いのう」
レクスが席へ着くと、アデルは待ちきれないように一枚の表を差し出した。
「まず結論から言います。《ア》だけでは絞れません」
「だろうな」
「反応薄くないですか?」
「一文字だし」
「それでも候補は七十二件まで減らしました」
「減ってない気がする」
「元は四百件以上です!」
「頑張ったんだな」
「もっと感動してください!」
ガレンが茶を啜る。
「その七十二のうち、半分は古代語の接頭辞じゃ。現在の音で《ア》に聞こえても、意味は全く違う」
「例えば?」
「『先』『上』『第一』『始まり』あたりじゃな。組織名の頭に付いていても不思議ではないが、役職名にも計画名にも使える」
「じゃあ、名前とは限らない」
「そういうことじゃ」
◇
さらに厄介なのは、黒紋そのものだった。
ノアの右手に残る紋章は、単純な記憶封印ではない。
最初にレクスが危険機能を弱体化した時点で、自壊、遠隔監視、記憶遮断が別々の層として重なっていることは分かっていた。だが、アデルたちが詳しく調べた結果、記憶遮断の中にもさらに細かい区分があることが判明した。
「人名、場所、命令系統、施設、儀式、組織の内部用語。それぞれで鍵が違います」
アデルが紋章図を指で示す。
「全部を同じように弱めれば、一気に記憶が戻る?」
レクスが聞く。
「理論上は一部戻るでしょう。ただし」
「危ない?」
「かなり」
「どのくらい」
「頭の中へ大量の記憶が一度に戻る可能性があります。しかも、どれが本人の自然な記憶で、どれが術式によって歪められたものか区別できない」
「じゃあやらない」
レクスは即答した。
アデルが一瞬目を丸くする。
「早いですね」
「ノアが壊れる可能性あるなら、今やる理由ない」
「情報は欲しくないんですか?」
「欲しい。でも本人より優先しない」
ガレンが満足そうに鼻を鳴らした。
「ようやく人間の頭を古代遺跡みたいに扱わなくなったの」
「最初から扱ってない」
「昔のお主なら、『危険機能だけ九十九まで下げればいけるか』くらいは考えたじゃろ」
「……少しは」
「ほれ」
「考えただけ」
「考えた時点で儂の勝ちじゃ」
「何の勝負だよ」
◇
午前の終わり頃、ノア本人が会議室へ来た。
右手の布は以前より薄くなっている。自壊と遠隔監視は抑えたままだが、記憶遮断については本人の体調を見ながら、ごく狭い範囲だけ少しずつ弱めている。
「入ってもいいですか」
「もちろん」
レクスは椅子を引いた。
「今日はどう?」
「朝は少し重かったです。でも今は平気です」
「解析する?」
「その前に」
ノアは机の上の本を見た。
「俺の《ア》、何か分かりました?」
「七十二候補まで減った」
「多くないですか?」
「俺も言った」
アデルが少し不満そうに口を挟む。
「四百以上から減らしたんですよ!」
「すみません」
「謝らなくていい」
レクスが止める。
ノアはしばらく資料を眺めてから、少し躊躇うように右手を膝へ置いた。
「俺、全部思い出した方がいいですか」
その聞き方が、以前とは少し違っていた。
役に立つために何をすればいいか、と聞いているのではない。
本当に自分がどうしたいか、まだ決めきれない声だった。
「どうしてそう思った?」
「組織のこと、知りたいです」
「怖くない?」
「怖いです」
「じゃあ」
「でも、知りたくないわけでもない」
ノアはそこで一度言葉を止めた。
「俺がどうして逃げたのか、誰が俺にあの紋章を入れたのか。戻らなかった人たちがどうなったのか。知らないままなのも嫌です」
レクスはすぐ答えなかった。
全部思い出すな、と言うのも違う。
思い出せ、と言うのはもっと違う。
「目標にしなくていいと思う」
「目標?」
「全部思い出すことを」
「でも」
「思い出したいことがあれば、そこだけ探す。今日は嫌ならやめる。それでいい」
「途中でやめても?」
「昨日もやめただろ」
「はい」
「何か困った?」
「……誰も怒らなかったです」
「じゃあ同じ」
ノアは少しだけ笑った。
「慣れないです」
「そのうち慣れる」
◇
その日の記憶解析は、わずか二十分で終わった。
ノア自身が、「今日はここまで」と言ったからだ。
結果として、《ア》の先は戻らなかった。
代わりに、別のものが少しだけ見えた。
「部屋の壁に」
ノアが額へ手を当てながら言う。
「黒い円がありました。その中に、縦に三本の線」
「紋章?」
アデルが聞く。
「たぶん。でも俺の手の黒紋とは違う」
「文字は?」
「ありません」
「色は?」
「黒だけ」
「場所は?」
「分かりません」
アデルはすぐ記録した。
「十分です」
「これだけで?」
「これだけでも、古文書の紋章と照合できます」
ノアがほっとしたように息を吐く。
以前なら、その顔のまま「もっとやります」と言ったかもしれない。
今日は言わなかった。
それだけでも前進だ。
◇
午後になると、王都と周辺国から新しい報告が届いた。
黒紋組織を追っていたからではない。
灰の谷の件を受け、各国が自国の古代封印施設を再点検した結果だった。
「異常報告、九件」
ミリアが読み上げる。
「多いな」
「ただし、全部を黒紋組織の仕業とは扱いません」
「内訳は?」
「三件は老朽化の可能性が高い。二件は地脈変動。残り四件が原因不明です」
「黒紋あり?」
「一件だけ、それらしいものが見つかっています。ただし図柄が完全一致しません」
ギルバートも途中から会議に加わっていた。
「じゃあ、四件全部へ行くのはなし?」
「なし」
レクスが答える。
「何で?」
「原因違うかもしれない」
「前なら一応見に行くとか言ってなかった?」
「だから今は言わない」
「成長したな」
「最近それ言うのそっちになったな」
「言われ続けたから返してる」
クラウディアも同席しており、資料を見ながら口を挟んだ。
「原因不明四件のうち、緊急性があるのは?」
「今のところなしです」
ミリアが答える。
「封印が破れそうな兆候も?」
「なし」
「じゃあ、まず記録照合ね」
「同意」
レクスは頷いた。
深層王や灰殖獣を経験したからといって、古代封印の異常をすべて黒紋組織へ結びつけるのは簡単だ。
簡単だからこそ危ない。
何でも同じ敵の仕業に見え始めたら、その時点で判断が雑になる。
◇
「一つ、変な記録がある」
夕方。
ガレンが別室から分厚い写本を抱えて戻ってきた。
埃っぽい匂いがした。
「どこ?」
「王国北西部の旧監視所。百三十二年前」
「そんな古い?」
「だから面白い」
アデルがすぐ寄ってくる。
「何が書いてあるんです?」
「封印そのものは今も残っておる。ただ、この時期に一度だけ、監視員が妙な旅人を見たと記録しておる」
「黒髪の女?」
「違う。男三人、女一人。年齢も特徴も合わん」
「黒紋は?」
「右手に黒い印」
部屋の空気が変わった。
「同じ組織?」
ギルバート。
「まだ分からん」
ガレンはすぐ否定した。
「似た印を使う別集団かもしれん。あるいは、今の黒紋組織の前身かもしれん」
「百年以上前から?」
クラウディア。
「その可能性が出てきた、というだけじゃ」
レクスは写本を覗いた。
旅人たちは封印前へ三日滞在した。
何かを壊した記録はない。
むしろ、監視員の一人は「封印の崩れを直していたように見えた」と書き残している。
「守ってる?」
ギルバートが眉を寄せる。
「黒紋なのに?」
「今の連中と同じなら、守る時もあるってことか」
レクスが言う。
「選別、かもしれないわね」
クラウディアが続けた。
「使えないものは封じたままにする。使えるものだけ調べる」
「まだそこまで決めない方がいい」
「そうね」
彼女は素直に引いた。
◇
さらに記録を読み進めると、旅人たちの持ち物について短い記述があった。
『黒円、内に三条』
アデルが息を止める。
「ノアさんの記憶と同じ」
「黒い円に三本線」
レクス。
「偶然?」
「可能性はあります。でも、一致点が増えました」
ガレンは慎重にページをめくった。
「まだある」
次の頁。
監視員が旅人の一人から聞き取ったという言葉。
古い綴り。
現在語へ直せば。
「《ア》から始まる」
レクスが言う。
「読める?」
「完全には」
アデルが文字を指で追う。
「最初が《アー》、あるいは《アル》に近い音。次が欠損しています」
「組織名?」
「分かりません」
「人名?」
「それもあり得ます」
「役職?」
「はい」
ギルバートが頭を抱えた。
「また候補増えてないか?」
「増えました」
「減らしてたんじゃなかったのかよ」
「研究はそういうものです!」
「便利な言葉だな」
◇
ノアを呼び戻すことはしなかった。
今日はもう終わりと本人が決めたからだ。
代わりに、写本の該当箇所を別紙へ写し、明日以降、本人が見たいと言った時だけ確認することにした。
「これでいい?」
レクスが聞くと、ミリアが頷いた。
「いいと思います」
「情報遅れるけど」
「一日遅れたから人が死ぬ状況ではありません」
「ならいい」
アデルも今回は反論しなかった。
「私も賛成です。焦って記憶を戻して、ノアさんの証言自体が不安定になったら意味がありませんから」
ガレンがにやりと笑う。
「お主も少し人間になったの」
「最初から人間です!」
◇
夜になり、ギルドの人が減ってからも、レクスたちは古い写本を読み続けた。
百三十二年前。
黒円と三条の印。
右手の黒い紋章。
《ア》から始まる不完全な語。
そして、封印を壊すどころか補修していたらしい旅人たち。
「今の黒髪の女たちと同じ集団だとしたら」
ギルバートが言う。
「百年前からずっと古代封印見て回ってる?」
「それなら、今の目的も昔から同じとは限らない」
クラウディア。
「組織って、百年あればかなり変わるもの」
「人だって三年で変わるしな」
ギルバートが自分で言った。
レクスは少し笑う。
「自分で言うんだ」
「もう言われる前に言うことにした」
「便利」
「だろ?」
そのやり取りの後で、レクスはもう一度古い文字を見る。
《ア》。
たった一音。
でも、その一音が百年以上前の記録へ繋がった。
今まで黒紋組織は、最近突然現れた得体の知れない集団に見えていた。
もし違うなら。
もっと長く。
古代災厄と。
封印と。
人間の都合の間に。
関わってきた。
「名前が分かれば、昔の記録もっと探せる?」
レクスが聞く。
「はい」
アデル。
「でも、焦って確定しないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「最近みんな俺の慎重さ疑わなくなってきたと思ったのに」
「慎重になったからこそ、確認しています」
「それならいい」
◇
会議を終える直前。
ガレンが最後の頁をめくった。
「待て」
「何?」
古い監視記録の余白。
本来なら本文ではない。
別の誰かが。
後世に。
書き足したような文字。
「これ」
アデルが顔を寄せる。
「百年前と同じ筆じゃないですね」
「もっと後?」
「おそらく六、七十年前」
「何て書いてある?」
文字は一部が擦れていた。
それでも。
最後の一行。
読める。
『黒円三条の者、再来。自らを――』
その先。
欠けている。
ただし。
次の頁の裏側に。
薄く。
写った文字。
アデルが灯りを斜めから当てる。
「見えます」
「何」
「《アー……》」
ギルバートが身を乗り出す。
「その先は?」
「まだ読めません」
「またかよ」
「でも」
アデルの声が少し変わった。
「これは、ノアさんの《ア》より一音多い」
レクスは擦れた文字を見た。
まだ名前ではない。
まだ確定できない。
それでも。
黒紋を持つ者たちは。
少なくとも百年以上前から。
同じ印を使い。
同じように。
古代封印の前へ現れていた。
そして、その古い記録の中にも。
《アー》から始まる何かが残されていた。




