第60話 世界最強でも休みたい
Sランク冒険者になった翌朝、レクスは昼まで眠った。
正確には、一度だけ朝方に目を覚ました。廊下を走る足音が聞こえたからだ。以前なら、誰かが自分を呼びに来たのではないかと身構え、そのまま起きていたかもしれない。
だが今は五日間の休暇中である。
しかもミリアから、「人命に関わる緊急事態以外は宿へ人を寄越しません」と念まで押されていた。
だからレクスは薄く目を開け、扉が叩かれないことを確認すると、迷わず毛布を引き上げた。
次に目を覚ました時には、窓から差し込む光がずいぶん高い位置まで移動していた。
「……Sランクって、よく寝られるな」
我ながら意味の分からない感想だったが、気分は悪くない。
灰の谷へ向かってからというもの、寝ても頭のどこかでは封印や増殖や撤退条件を考えていた。久しぶりに、目が覚めた後で「今日は何をしなければならないか」を考えなくていい。
腹は減っていた。
まず飯。
その後は何もしない。
完璧な予定だった。
◇
その予定は、宿の食堂へ下りたところで少し崩れた。
「おはようございます。いえ、もうこんにちはですね」
入口近くの席にミリアがいた。
「仕事は?」
「昼休みです」
「何でここに」
「様子を見に来ただけです。ギルドへ顔を出せとは言いませんので、警戒しないでください」
「顔に出てた?」
「かなり」
ミリアの前には昼食の皿があり、本当に仕事を押しつけるつもりはないらしい。
レクスは向かいへ座り、宿の主人が運んできた肉と豆の煮込みを受け取った。
「依頼、来てる?」
「来ています」
「何件?」
「今朝までに二十三件」
匙を持った手が止まる。
「一日で?」
「Sランク昇格が正式公示されましたので」
「全部断っていい?」
「こちらで十九件は断りました」
「残り四件は?」
「一件は相談だけ。二件は時期指定なし。最後の一件は、あなたでなければ対応困難かもしれませんが緊急性なし。休暇明けに確認すれば十分です」
「じゃあ今日、何もしなくていい?」
「はい」
レクスは少しだけ感動した。
「Sランク、便利だな」
「そこで実感するんですね」
「前なら全部説明聞かないと断れなかった」
「正確には、説明を聞いた結果、『俺が行った方が早い』と言い出すので私が止めていました」
「そんなに言ってた?」
「かなり」
否定しきれない。
レクスは煮込みを一口食べた。温かい。灰の谷では保存食と野営料理が中心だったから、皿に盛られた普通の昼食だけでかなり嬉しい。
「それから」
ミリアが言った。
「今日の夕方、小さな食事会があります」
「昨日やった」
「昨日は昇格当日の簡単な祝いです。今日は灰の谷から戻った皆さんも揃います」
「聞いてない」
「昨日のあなた、途中から眠そうだったので」
「断れる?」
「もちろん」
「じゃあ」
断る、と言いかけたところでミリアが続けた。
「カイルとノアが準備を手伝っています」
レクスは口を閉じた。
「それ先に言うの、ずるくない?」
「断っても構いません」
「……行く」
「ありがとうございます」
「やっぱりずるい」
◇
夕方の食事会は、本当に小さかった。
少なくとも、中央ギルドが予定していたという百人規模の祝賀会と比べれば。
ベルン支部の奥にある小さな食堂へ集まったのは、ミリア、クラウディア、《銀翼》のドーガンとフィン、ギルバート、セシリア、バルガス、カイル、ノア、それに灰の谷から一緒に戻ったアデルとガレンだった。
「これでも十分多いんだけど」
レクスが言うと、フィンが笑った。
「Sランクの祝いとしては少ないですよ」
「別にSランクを祝わなくても」
「じゃあ灰の谷無事帰還祝いも兼ねればいい」
クラウディアが杯へ果実水を注ぐ。
「それなら?」
「少し納得」
「相変わらずね」
豪華すぎない料理が並んでいるのもよかった。焼いた鶏肉、野菜の煮込み、硬すぎないパン、川魚の香草焼き。
レクスは最後の皿を見た。
「魚ある」
「そこだけ反応が違いますね」
ミリアが呆れる。
「誰が選んだ?」
「ノアです」
本人は少し離れた席で、カイルと話していた。
呼ぶと、ノアは少し緊張した顔でやって来る。
「魚、好きだって聞いたので」
「ありがとう」
「ギルドの人から、釣った魚ならもっと喜ぶって言われたんですけど、さすがに今から釣りへ行く時間はなくて」
「買ったので十分」
「よかった」
ノアの右手には、まだ薄い布が巻かれている。
黒紋そのものは消していない。遠隔監視、自壊、記憶遮断という危険な機能を抑えながら、本人の希望に合わせて少しずつ解除していく方針だ。
「今日は記憶の方どうだった?」
レクスが聞く。
「やめました」
「何かあった?」
「違います。朝から少し頭が重かったので」
「自分で言えた?」
「はい」
ノアは少し照れたように笑う。
「前なら、黙って続けてたと思います。でも、今日は嫌だって言いました」
「それでいい」
「術式師さんにも同じこと言われました」
「じゃあ皆正しい」
「レクスさん、自分も入れるんですね」
「たまには」
◇
少し後で、カイルもやって来た。
「レクスさん、この前の訓練、また一段階下げました」
「俺の弱体化を?」
「はい。今は《剛体励起》を抑えてもらう日を減らして、自分で四倍くらいに止める練習をしています」
「七倍出る時は?」
「まだ怖いです。でも、怖いって言うようにしてます。前は、怖いって言ったらパーティから外されると思ってたから」
「仲間は?」
「むしろ先に言えって怒られました」
「それ普通だな」
「俺には普通じゃなかったんですよ」
カイルは苦笑した。
「最近やっと分かりました。助けてもらうのと、ずっと助けてもらわないと何もできないのは違うんだって」
「俺も最近分かった」
「レクスさんも?」
「俺が全部やるの、よくなかった」
「世界最強でも?」
「世界最強だから余計に」
隣で聞いていたギルバートが、何とも言えない顔をする。
「その話、俺にも刺さるんだけど」
「聞いてた?」
「同じ席だから聞こえるだろ」
カイルが慌てて姿勢を正した。
「勇者様、すみません!」
「何で謝るんだよ。俺も昔、レクスが何やってるか知らないまま頼ってた側だから」
ギルバートは以前なら隠したかったであろうことを、今では若手の前でも普通に口にする。
「だから、カイル。自分でできるようになるのは大事だけど、できない時はちゃんと言え。俺、それを言えなくて結構痛い目に遭ったから」
「はい」
「あと『勇者様』じゃなくてもいいぞ」
「じゃあギルバートさん?」
「……それはそれで急に距離近いな」
「どっちなんだよ」
レクスが言うと、皆が笑った。
◇
食事が半分ほど進んだ頃、アデルが珍しく静かにしていることへレクスは気づいた。
普段なら、灰殖獣の最新測定値を持ち出して食卓の上へ資料を広げてもおかしくない。
「アデル、具合悪い?」
「失礼ですね」
「静かだから」
「今日は仕事の話をするなとガレンさんに言われました」
「儂が言わねば、お主は祝いの席で灰殖獣の排出圧について三時間話すじゃろう」
「二時間です」
「否定する場所が違う」
レクスは少し笑い、それでも気になったことを一つだけ聞いた。
「灰の谷、問題ない?」
「それくらいなら答えます。今朝の定期報告では安定しています。固定楔、隔離層、警報術式、いずれも正常です」
「黒紋組織は?」
「現地から姿を消したままです」
「追ってない?」
「広域捜索はしています。ただし、前に決めた通り無理な追跡はしません」
ガレンが杯を置く。
「黒髪の女が残した痕跡も調べたが、通路は途中で潰されておった。追わせる気はなかったようじゃな」
「何か残してた?」
「一つだけ」
アデルとガレンが目を合わせた。
「仕事の話するなって言ったのに」
「これは小僧に伝えるべきじゃ」
「何?」
ガレンは懐から小さな紙片を出した。
灰の谷地下で見つかった黒い術式片に残っていた文字の写しだという。
そこには短く、一文だけ記されていた。
『次は、もっと難しい選択になる』
ギルバートの表情が変わる。
「またあいつか」
「本人が書いた証拠は?」
レクスが聞く。
「ない」
「じゃあ黒紋組織側の誰か」
「その程度じゃな」
レクスは紙を少し眺め、ガレンへ返した。
「今日は考えない」
ギルバートが驚く。
「いいのか?」
「休暇だから」
「でも次って」
「明日考えても同じ」
「いや、明日も休暇だろ」
「じゃあ休暇明け」
クラウディアが笑った。
「強くなったわね」
「Sランクになったから?」
「違う。休むのが」
それは少しだけ褒め言葉として嬉しかった。
◇
翌日。
レクスは本当に何もしなかった。
昼近くまで寝て、食事をし、宿の主人とどうでもいい話をして、部屋へ戻ってまた少し寝た。
三日目。
ようやく釣り竿を持った。
ベルン郊外の川は、灰の谷とは正反対だった。川面には秋の光が細かく散り、岸辺の草には朝露が残っている。水の流れる音に混じって、遠くから鳥の声も聞こえる。
ここへ来るまで、誰にも呼び止められなかった。
依頼書も渡されなかった。
黒紋も、古代災厄も、Sランク審査もない。
レクスは川辺へ腰を下ろし、針を落とした。
「……やっとだ」
「何が?」
後ろから声がした。
レクスは振り返らずに答えた。
「帰れ」
「まだ誰か分かってないだろ!」
「ギルバート」
「何で分かるんだよ」
「声」
仕方なく振り返ると、ギルバートが釣り竿を肩へ担いで立っている。
「三日に一回だろ?」
「今日三日目?」
「昨日から数えれば」
「数え方ずるくない?」
「細かいこと言うなよ」
「帰れ」
「もう餌買った!」
「知らない」
その後ろから、もう一人歩いてくる。
銀灰色の髪。
「クラウディアまで?」
「私は釣りじゃないわよ」
「じゃあ何」
「散歩」
「竿持ってるけど」
「たまたま」
「絶対嘘」
クラウディアは悪びれず、レクスから少し離れたところへ腰を下ろした。
「Sランクになった初めての完全休暇でしょう? 静かにしてるから」
「ギルバートも静かにできる?」
「できる」
「本当に?」
「釣りは待つ練習だって前に言っただろ」
「自分で言ってたな」
「俺、最近それ結構好きなんだ」
それなら。
まあ。
追い返すほどでもない。
「三人だけなら」
「よし」
「大声出すな」
「はい」
◇
三十分後。
レクスは少し後悔していた。
「動いた!」
「まだ」
「今絶対食った!」
「引くなって」
「でも!」
「待て」
「いつまで?」
「魚が掛かるまで」
「それが分かんないんだよ!」
「だから釣り」
「難しいな!」
ギルバートは戦闘ではかなり待てるようになったのに、浮きを前にすると別らしい。
クラウディアはその横で、意外なほど静かに竿を持っていた。
「上手い?」
レクスが聞く。
「昔、父に連れて行かれたことがあるの」
「釣れた?」
「一匹も」
「じゃあ上手くない」
「そこは言い方があるでしょう」
少しして、クラウディアの浮きが沈んだ。
「来た」
竿を上げる。
銀色の小魚が一匹、水を散らしながら岸へ上がった。
ギルバートが立ち上がる。
「何で!?」
「うるさい」
「俺より後に始めたのに!」
「魚に聞いて」
「レクス、何が違う?」
「静かさ」
「俺だって静かだった!」
「さっきから喋ってる」
「これくらいで魚逃げるのか?」
「たぶんお前を嫌ってる」
「魚にまで!?」
クラウディアが笑いながら針を外し、小魚を水へ戻した。
「食べないの?」
ギルバートが聞く。
「小さいから」
「前のお前みたいだな」
「何が?」
「小さい魚は逃がす」
「俺じゃなくて、俺もそうしてた」
「そうだった」
いつの間にか、そんな昔話まで気軽にできるようになった。
◇
昼を過ぎても、急な呼び出しは来なかった。
レクスは二匹。
クラウディアは一匹。
ギルバートはまだゼロ。
「Sランクになって何か変わった?」
クラウディアが訊いた。
「依頼書が直接来るようになった」
「そうじゃなくて」
「報酬?」
「気持ち」
レクスは浮きを眺める。
「そんなに」
「嬉しくない?」
「嬉しくないわけじゃない。でも、Sだから急に強くなったわけじゃないし」
「それはそうね」
「昨日までできなかったことが、認定証もらったからできるわけでもない」
「じゃあ何が変わった?」
「断る時、説明が短くなった」
クラウディアが吹き出した。
「本当にそこなのね」
「大事だぞ」
「分かってるわよ」
少し離れたところでギルバートが浮きを睨みながら言う。
「俺も勇者になった時、それくらい冷静だったらよかったな」
「今なら?」
「称号は道具」
「俺と同じ?」
「認めるの悔しいけど」
「何で悔しい」
「昔のお前に言われたら腹立ってたと思う」
「昔の俺、あんまり喋らなかったけど」
「それも腹立ってた」
「理不尽」
「本当にそうだな」
ギルバートは笑った。
その直後。
浮き。
沈む。
「来た!」
「今!」
レクスが言う。
ギルバートが竿を上げた。
水面から、掌ほどの魚が跳ねる。
「釣れた!」
「大声」
「だって初めて!」
「前にも一回釣ってただろ」
「あれより大きい!」
「それはよかったな」
「今日は持って帰っていい?」
「それくらいなら」
「やった!」
世界を救った勇者が、掌ほどの魚でここまで喜べるなら、昔よりかなり健全になったと思う。
◇
夕方。
三人でベルンへ戻ると、ギルドの入口にノアが立っていた。
見た瞬間、レクスは足を止める。
「緊急?」
ノアが慌てて首を振った。
「違います。ミリアさんにも、休暇中だから急ぎじゃないなら明日でいいって言われました」
「じゃあ明日で」
「レクス!」
ギルバートが止める。
「冗談」
ノアは少しだけ笑ったが、表情には緊張が残っていた。
「一つ、思い出しました」
「黒紋組織?」
「たぶん」
レクスは釣り道具を置き、近くの腰掛けへ座った。
「無理してない?」
「今日は自分から止めてもらいました。思い出したところまでで」
「なら聞く」
ノアも向かいへ座る。
右手の布を自分で少し直しながら、慎重に言葉を選んだ。
「名前です」
「組織の?」
「全部じゃありません」
「どこまで?」
「最初だけ」
クラウディアも黙って近くに立つ。
「思い出そうとすると、まだそこで止まります。でも、前よりはっきりしてる」
「何て?」
ノアは一度、自分の呼吸を整えた。
「誰かが、廊下で呼んでました。たぶん組織そのものか、その中の上の人たちを」
「うん」
「最初の音は――」
そこでノアの右手の紋章が、ほんのわずかに熱を持った。
レクスはすぐ気づく。
「止める?」
「大丈夫です。今は痛くない」
「無理なら」
「はい」
ノアは自分で続けた。
「《ア……》」
それだけだった。
「ア?」
「その先が出ません」
「地名かも?」
ギルバートが聞く。
「分かりません。ただ、名前みたいに呼ばれてました」
「無理に続けない」
レクスが言う。
「でも一文字だけですよ」
「一文字増えた」
「……それでいい?」
「昨日までゼロだった」
ノアはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「分かりました」
◇
ミリアへ報告すると、すぐ王都のアデルと中央ギルドへ共有されることになった。
ただし、ノアへの追加解析は翌日以降。
本人の同意がある時だけ。
そこはもう誰も議論しなかった。
「休暇、終わった?」
ギルバートが聞く。
「終わってない」
「でも新しい情報出たぞ」
「明日でいい」
「本当に?」
「緊急じゃない」
ミリアが横から頷いた。
「その通りです。今夜は何もしません」
「じゃあ」
レクスは釣った魚の入った籠を持ち上げた。
「飯」
「魚?」
「焼く」
「俺のも!」
「自分で焼け」
「一緒に食おうぜ」
「クラウディアも?」
「私は帰るつもりだったけど」
ギルバートが自分の魚を見せる。
「俺、初めてまともなの釣った!」
「それを言われると少し見たいわね」
「来る?」
「じゃあ少しだけ」
「結局また三人」
レクスは呆れた。
完全に一人の休暇にはならなかった。
でも、不思議と嫌ではない。
仕事として集められたわけでもない。
誰かの後ろへ隠れるためでも、誰かを支えるためだけでもない。
それぞれ別の道を歩きながら、たまに同じ川辺へ座る。
今くらいが、たぶんちょうどいい。
黒紋組織の正体。
封印された古代災厄。
黒髪の女が言った「もっと難しい選択」。
ノアが思い出した《ア》から始まる何か。
考えなければならないことは、まだ山ほどある。
それでもレクスは、その全部を今夜片づけようとは思わなかった。
世界最強と呼ばれても。
Sランクになっても。
休む時くらいは、休んでいい。
「明日も休みだからな」
レクスが念を押すと、ギルバートが笑う。
「分かってるって。明日は来ない」
「明後日は?」
「三日に一回だろ?」
「覚えてたのか」
「釣りの約束だけはな」
「他も覚えろよ」
夕暮れのベルンに、三人の笑い声が混じる。
そしてギルドの奥では、ノアが思い出したたった一音――《ア》が、新しい記録の最初の行へ静かに書き加えられていた。




