第6話 黒魔導士の本当の仕事
王都中央冒険者ギルドの資料室には、華やかな英雄譚など一冊も置かれていない。
あるのは、討伐した魔物の種類、遭遇地点、負傷者、使用した術式、消費した物資、依頼達成までの日数といった、物語にすれば誰も読みたがらない記録ばかりだった。
セシリアは、その退屈な帳簿を三時間近く読み続けていた。
「……やっぱり、おかしいわ」
机に積み上げた報告書の一冊へ指を置く。
今から二年半前。
勇者パーティが初めて討伐したワイバーンの記録だった。
当時の自分たちは今よりずっと未熟で、討伐前にはかなり緊張していたことを覚えている。ところが実際の戦闘は、拍子抜けするほど簡単に終わった。
ワイバーンは飛び立とうとして何度も失敗し、吐き出した炎も弱々しく、ギルバートが翼を斬った後はほとんど抵抗できなかった。
当時は皆、こう考えた。
――噂ほどの魔物ではなかった。
だが、討伐報告書には違うことが書かれている。
『接敵直後、黒魔導士レクスが弱体術式を開始』
その数行後。
『対象の飛行能力が著しく低下』
さらに。
『火炎放射の威力減衰を確認。勇者ギルバートが正面より突入』
セシリアは黙ったまま、次の記録を開いた。
岩甲巨人。
巨大な岩石の身体を持ち、通常の剣では刃が通らないとされるBランク上位魔物だ。
これも苦戦した記憶がない。
『レクス、術式開始』
その直後。
『対象の外殻が脆化。聖剣による切断が可能となる』
次は双頭蛇。
災害指定を受けた大型魔獣で、毒液だけでも一つの村を全滅させられると聞いていた。
『レクス、毒腺および魔力循環へ干渉』
『対象の毒性が急速に低下』
『前衛二名、毒液を浴びるも症状なし』
セシリアの手が止まった。
あの日、バルガスは双頭蛇の毒を真正面から浴びた。
本人は「俺の身体が頑丈だから効かなかった」と笑っていたし、自分もそう思っていた。
だが、その直前。
レクスは確かに言っていた。
『毒はかなり落とした。多少浴びても死にはしない』
誰も真面目に聞いていなかった。
ギルバートは「ならさっさと突っ込むぞ」と叫び、バルガスは笑いながら盾を構え、自分も攻撃魔法の詠唱へ意識を向けた。
「……嘘でしょう」
呟いた声が、静かな資料室へ吸い込まれた。
セシリアは椅子から立ち、さらに古い記録を探した。
偶然かもしれない。
報告書の書き方に癖があるだけかもしれない。
そう思いたかった。
けれど調べれば調べるほど、同じ順序が繰り返されている。
敵と遭遇する。
レクスが術式を始める。
直後から敵の動きが鈍る。
攻撃の威力が下がる。
防御が崩れる。
再生能力が止まる。
毒や炎が弱まる。
そして最後に、ギルバートたちがとどめを刺す。
ほとんど例外がなかった。
「セシリア?」
背後から声をかけられ、彼女は肩を揺らした。
振り返ると、入口にバルガスが立っている。普段着の上から薄い革鎧だけを身につけ、まだ脇腹を庇うような歩き方をしていた。
「何してるんだ、こんなところで。昼飯にも来ねえから探したぞ」
「……調べ物よ」
「見りゃ分かる。何のだ?」
答えるか迷った。
昨日までなら、口にする前に自分で否定していただろう。
けれど今は、机の上に記録がある。
「私たちの過去の討伐報告」
「なんで今さらそんなもんを?」
「ゴブリンの件が気になったからよ」
バルガスの表情が少し険しくなる。
セシリアは一冊の報告書を差し出した。
「これ、読んで」
「俺は細かい字が嫌いなんだよ」
「いいから。ここだけでいい」
不満を言いながらも、バルガスは指で示された箇所へ目を落とした。
岩甲巨人討伐戦。
数行読み進めたところで、眉間に皺が寄る。
「……外殻脆化?」
「その前を見て」
「レクスが弱体術を開始……」
「次も」
別の報告書を渡す。
「双頭蛇?」
「毒のところ」
バルガスは読み進めるうちに、だんだん口数を失った。
五冊目を読み終えた頃には、椅子を引いて座っていた。
「これ……全部か?」
「今のところ調べた分は全部」
「何が?」
「戦況が変わるタイミングよ。必ずレクスが術式を使った後なの」
バルガスはしばらく答えなかった。
厚い指で報告書の端を撫でながら、何かを思い返している。
「待てよ。じゃあ、俺がガルガディアの大剣を受けた時も……」
「記録を探したわ」
セシリアは一番新しい報告書を開いた。
『黒魔導士レクス、対象の筋力低下を確認。盾士バルガスへ前進を指示』
たった二行だった。
しかし今読むと、意味はまるで違う。
「俺は……」
バルガスは乾いた声を出した。
「あの時、まともに受け止めたと思ってた」
「私もそう思ってたわ」
「いや、実際受け止めただろ」
「受け止めた。でも、相手がどれだけ弱くなっていたのかを私たちは知らなかった」
バルガスは反論しかけ、やめた。
代わりに拳を握り、膝の上へ置く。
「九十九パーセントって言ってたよな、あいつ」
「追放した夜にね」
「俺、笑ったぞ」
「私もよ」
それを認めると、胸の奥が妙に重くなった。
レクスが怒鳴り返してくれていれば、まだ楽だったかもしれない。
けれど彼は怒らなかった。
『全部解除するが問題ないな?』
ただ、それだけを確認した。
こちらが「いらない」と言えば、本当に全部外して去った。
そして翌日、自分たちは普通のゴブリン相手に逃げ帰った。
「でもよ」
バルガスが低い声で言う。
「これだけじゃ、レクスのおかげで全部勝ってたって証明にはならねえだろ。俺たちだって何年も鍛えてきた。ギルバートの剣も、セシリアの魔法も偽物じゃねえ」
「そんなことは言ってないわ」
「いや、分かってる。分かってるんだが……」
言葉が続かなかった。
自分の努力を否定されたくない。
同時に、レクスの働きを否定し続けるのも違う気がする。
その二つは本来両立するはずなのに、今までの三人は「自分たちが強いなら、レクスは不要だ」と勝手に結びつけていた。
セシリアも同じだった。
「私ね、ずっと勘違いしてたのかもしれない」
「何を?」
「弱体魔法って、攻撃魔法が使えない人間の代用品だと思ってた」
自分で言って、嫌になる。
魔術学院でもそう教わることが多い。
敵の速度を少し落とす。
防御をわずかに削る。
味方の一撃を通りやすくする。
あくまで補助であり、戦闘の主役ではない。
「だからレクスが『弱らせた』って言っても、せいぜい一割とか二割だと思ってたのよ。私が炎を撃てばもっと大きな成果を出せる。そう考えてた」
「でも、あいつは九十九って言ってた」
「普通ならあり得ない数字なのよ!」
思わず声が大きくなった。
資料室の奥にいた職員がこちらを見たため、セシリアは慌てて声を落とす。
「一種類でも二割落とせれば、弱体術師としては一流よ。複数を同時に九十九なんて、学院で言ったら笑われる。だから……私は最初から、本気で聞いてなかった」
「俺なんか数字すら知らなかったぞ」
「あなたは魔法の話をすると寝るでしょう」
「難しいんだよ」
「そういうところよ」
いつもなら少し笑えるやり取りなのに、今日は二人とも笑えなかった。
バルガスが不意に顔を上げる。
「なあ。装備にも何かしてたよな」
「え?」
「あいつ、最後の日に言ってただろ。装備に維持してる術式も解除するって」
セシリアの背筋に冷たいものが走った。
思い出した。
遠征へ出る前、レクスはいつも装備を預かっていた。
『少し調整する』
それしか言わなかった。
自分は杖を渡し、翌朝返してもらう。
魔力が妙に滑らかに流れることは感じていたが、それを杖そのものの性能だと思い込んでいた。
「私の杖……」
「どうした?」
「最近、魔力の消費が増えてる」
「いつからだ?」
答えは分かっていた。
「レクスが抜けた次の日から」
バルガスが口を閉じた。
「お前、それもっと早く言えよ」
「私だって疲れてるだけだと思ってたのよ! ゴブリン相手に焦って何発も撃ったせいだって」
「俺の盾もだ」
「何が?」
「重い」
バルガスは、自分でも今初めて気づいたという顔だった。
「いや、盾そのものの重さは変わってねえ。ただ……前はもっと楽に衝撃を流せた。腕が痺れることなんて滅多になかった」
セシリアは再び報告書を探した。
装備整備記録。
勇者パーティほどの高位パーティになれば、修理や魔術加工の履歴も残る。
数枚めくったところで、見つけた。
『黒魔導士レクスによる補助術式更新』
ギルバートの聖剣には防御浸透補助。
バルガスの盾には衝撃分散と疲労軽減。
セシリアの杖には魔力循環効率化。
しかも一度ではない。
定期的に更新されている。
「こんなの……知らない」
「俺も聞いてねえ」
「聞いてないんじゃない」
セシリアの声が震えた。
「たぶん、言われてたのよ」
思い出せる。
『杖の循環補助、そろそろ切れるから今夜預かる』
自分は本を読みながら「分かった、朝までにお願い」と答えた。
『盾の衝撃分散を張り直しておいた。前より少し負担が減るはずだ』
バルガスは朝食を食べながら「おう」としか言わなかった。
彼は説明していた。
ただ、誰も重要だと思っていなかった。
「……俺たち、何を見てたんだろうな」
バルガスの声には、怒りより疲れがあった。
セシリアは答えられなかった。
◇
「だから何だっていうんだ」
その日の夕方。
宿の一室で報告書を突きつけられたギルバートは、最初の数枚を読んだところで机へ投げ返した。
「敵が弱くなったのは分かった。それがレクスの仕事だったんだから当然だろ」
「当然って……!」
セシリアは思わず立ち上がる。
「問題は程度よ! 私たちが考えてたより、あいつの術式はずっと強かったかもしれない。装備への補助だって、全部記録に残ってる!」
「だから、それが何だ!」
ギルバートも声を荒らげた。
「補助されたからって、剣を振ったのは俺だ! ガルガディアの攻撃を受けたのはバルガスで、魔法を撃ったのはお前だろうが! レクス一人で全部倒したわけじゃない!」
「誰もそんな話してねえよ」
壁際にいたバルガスが静かに言った。
ギルバートが睨む。
「じゃあ何なんだよ」
「認めようって言ってんだ。あいつは俺たちが思ってたより、ずっと仕事してた。それだけだ」
「ふざけるな」
「何がふざけてんだ?」
「お前までレクスの肩を持つのか!」
その言葉に、バルガスの顔つきが変わった。
「肩を持つとか持たねえとかの話じゃねえだろ。俺は自分の盾に何の術式が掛かってたかも知らなかった。お前は知ってたのか?」
「知る必要があるか? 補助役が補助するのは当たり前だ」
「じゃあ俺たちが敵を倒すのも当たり前だろ。その当たり前をやっただけで、なんで俺たちは英雄で、あいつは寄生虫になるんだ?」
部屋が静まった。
セシリアでさえ、バルガスがそこまで言うとは思っていなかった。
ギルバートの顔が赤くなる。
だが、すぐに言い返せなかった。
しばらくして、ようやく絞り出す。
「一度失敗しただけだ」
「……何?」
「ゴブリンの件だけで騒ぎすぎなんだよ」
ギルバートは机に置かれた報告書を押し返した。
「明日、もっとまともな依頼を受ける。そこで勝てば全部はっきりする。レクスがいなくても俺たちは変わらない」
セシリアは、その横顔を見つめた。
以前なら頼もしいと思ったかもしれない。
けれど今は、ギルバートが証明したがっているものが「自分たちの強さ」ではなく、「レクスが重要ではなかったこと」に変わっているように見えた。
「もし、次も駄目だったら?」
セシリアが尋ねた。
「あり得ない」
「だから、もしよ」
「あり得ないって言ってるだろ!」
ギルバートは椅子を蹴るように立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
扉が強く閉まる。
残された二人は、しばらく何も言わなかった。
やがてバルガスが、机の上の記録へ目を落とした。
「……あいつ、今どこにいるんだろうな」
セシリアは答えられなかった。
王都を出たことしか知らない。
ただ、昨日までは思いもしなかった疑問が、胸の中に残った。
もしレクスが今もどこかで魔物と戦っているなら。
自分たちが三年間「役立たず」と呼んでいた力を、初めて正当に見た誰かがいるのではないか。
そしてその誰かは、きっともう気づいている。
黒魔導士レクスが後ろで何もしていなかったのではない。
自分たちが勝てる戦場を、最初から作っていたのだと。




