第57話 俺なら何を選ぶ
黒髪の女が灰の谷から姿を消した翌朝、臨時陣地の中央天幕には、昨夜までより一枚多く地図が広げられていた。
増えたのは地図だけではない。王国側の調査記録、エルディナ公国から届いた意見書、中央冒険者ギルドの危険度評価、アデルとガレンが夜通しまとめた灰殖獣の術式解析。それらが同じ机へ積まれ、紙の山だけを見れば、今から倒す相手は魔獣ではなく書類の方なのではないかと思えてくる。
レクスは自分の前に置かれた三枚の紙を見比べた。
一枚目。
完全討伐。
二枚目。
再封印。
三枚目。
管理下での研究利用。
「本当に三つにしたんだ」
レクスが言うと、アデルが眠気の残る目で頷いた。
「黒髪の女性が提示した形に合わせたわけではありません。現実的な案を整理した結果、この三系統になりました」
「四つ目は?」
「放置」
「それは?」
「封印が永続しない以上、長期的には選択肢になりません」
「なるほど」
ギルバートが横から三枚目を覗き込み、露骨に嫌そうな顔をした。
「俺はこれ嫌だな」
「研究利用?」
「ああ。昨日あいつが言ってたから、ってのもあるけど、それ抜きでも嫌だ」
「理由は?」
「増える、学ぶ、しかも一パーセント残っても何するか分からない。それを『便利そうだから残そう』って、怖くないか?」
意外にまともだったので、レクスは少しだけギルバートを見る。
「何だよ」
「いや」
「また成長したと思った?」
「少し」
「もう言わなくていいからな」
「自分で聞いたのに」
「そうだけど!」
クラウディアが書類をめくりながら笑った。
「でも、ギルバートの感覚は分かるわ。問題は、『怖いから全部殺す』も同じくらい雑だということね」
「それはそうだな」
ギルバートの返事は早かった。
「だから困ってる」
レクスは三枚の紙をもう一度見た。
どれか一つに丸を付ければ終わるような話ではない。
だからこそ、黒髪の女は「選べ」と言ったのだろう。
そこが、余計に腹立たしかった。
◇
「王国騎士団としては、完全討伐を第一案とする」
ローディスが口を開いた。
声に迷いはないが、押しつける言い方でもない。
「理由は三つ。第一に、管理失敗時の被害範囲が予測できない。第二に、既に黒紋組織が灰殖獣へ複数の性質を学習させている。第三に、今後も組織が再接触する可能性がある」
「封印を続けるより、今倒した方が安全?」
レクスが尋ねる。
「討伐可能であるなら、という条件付きだ」
「そこ大事だな」
「当然だ。討伐を試みた結果、増殖を再開させて谷の外へ溢れさせるなら本末転倒だ」
以前なら「危険だから倒す」で話が終わったかもしれない。
今のローディスは、倒すために危険を増やす可能性まで含めて話している。
「公国側は?」
クラウディアが聞く。
エルディナ公国から派遣されている術式研究官が、少し居心地悪そうに咳払いした。
「公国側は意見が割れています。一部の研究者は、管理利用案を支持しています」
ギルバートが眉を寄せる。
「何に使うんだ?」
「例えば、防具素材です。灰殖獣が特定属性へ適応する性質を制御できるなら、耐火、耐冷、耐聖といった性質を持つ生体素材を作れる可能性があります」
「作れる可能性」
レクスが繰り返す。
「可能性です」
「安全に?」
「そこは未確立です」
「増殖を完全に止められる?」
「今のところは」
「止められない?」
「はい」
研究官は正直に答えた。
レクスは三枚目の紙を指で軽く押した。
「じゃあ今はなし」
「即答ですか」
「だって使う前提が一個も揃ってない」
「しかし、完全に増殖を抑制できれば」
「その時また考える」
「研究自体も?」
「外からできる範囲なら。危険な状態のまま『使えるかもしれないから残す』は嫌」
研究官は反論しようとして、やめた。
「……分かりました」
その引き方は、研究者としてはかなり理性的だった。
アデルならもう五つくらい質問していただろう。
◇
「儂は再封印じゃ」
ガレンが杖へ両手を重ねた。
「珍しい」
レクスが言う。
「何がじゃ」
「研究者なのに使わない方」
「儂をアデルと一緒にするでない」
「また私ですか!?」
アデルが抗議する。
「お主は昨日、灰殖獣の皮膚を一片だけ持って帰れんかと聞いたじゃろう」
「安全化後なら、です!」
「聞いたのは事実じゃ」
「それは研究者なら聞きます!」
「ほらの」
ガレンは満足そうに鼻を鳴らし、それから真面目な顔へ戻った。
「討伐は、成功するなら最も分かりやすい。じゃが、この手の古代災厄は『殺せば終わる』と決めつけるのが一番危ない。深層王と違い、灰殖獣は肉片でも生き、分体でも増える」
「死体からも増える可能性」
セシリアが言う。
「否定できん」
「じゃあ討伐したつもりで、細かく散らしたら最悪?」
「そういうことじゃ」
レクスは少し考えた。
「再封印なら?」
「共有網を弱め、増殖機能を止め、核を封印術式の中心へ戻す。それができれば、現状よりは安全に眠らせられる」
「四百年後は?」
ギルバートが聞く。
「知らん」
「知らないのかよ」
「儂は四百年生きん」
「そういう意味じゃなくて!」
「だから後世へ記録を残すんじゃ。何でも今日中に永遠の答えを出そうとするな」
ギルバートが口を閉じた。
「それは」
レクスが言う。
「結構大事かも」
「珍しく儂を褒めるの」
「褒めてない」
「可愛げのない小僧じゃ」
◇
議論は午前いっぱい続いた。
完全討伐を支持する者もいれば、再封印が現実的だと考える者もいる。研究利用についても、「今すぐ」は反対でも、将来的な可能性まで閉じるべきではないという意見があった。
面倒だ。
でも、それでいい。
全員が同じ答えを最初から持っていたら、たぶん誰かが考えることをやめている。
レクスは途中から、三案そのものより「誰が何を怖がっているか」を聞くようになっていた。
「クラウディアは?」
「今なら再封印」
「理由」
「討伐はやり直せないから」
「どういう意味?」
「封印なら、あとで討伐へ切り替えられる。でも完全討伐を選んで失敗したら、増殖した肉片を全部回収できる保証がないでしょう?」
「使うのは?」
「今は論外」
「同じだな」
「あなたと?」
「うん」
「少し嬉しい」
「何で」
「最近のあなた、前よりちゃんと考えるから」
「昔も考えてた」
「自分が何を弱くするかはね」
「そこ限定?」
「かなり」
クラウディアは笑いながら言った。
少し離れたところで、ギルバートが「俺は?」という顔をしている。
「ギルバートは?」
「討伐」
「まだ?」
「最初は」
「今は?」
ギルバートは腕を組み直した。
「……再封印寄り」
「何で変わった」
「ガレンの話」
「死体から増えるかも、ってところ?」
「それも。あと」
言いにくそうに一度口を止める。
「倒せるなら倒した方がいいって思ってたけど、俺が倒したいから倒す、になりかけてた」
レクスは少し黙った。
「自分で分かった?」
「ああ」
「すごいな」
「やめろ、本気で言われると恥ずかしい」
「じゃあ言わない」
「もう遅い」
◇
昼過ぎ。
中央冒険者ギルドのヴァレルから通信が入った。
『結論は出たか』
「まだ」
レクスが答える。
『いつまでに出す』
「今決める必要ある?」
『ない』
「じゃあ出さない」
通信石の向こうで、ヴァレルが少し笑った気配がした。
『理由は』
「灰殖獣がまだ危険だから」
『もっと具体的に』
「討伐するには、死体や肉片からの再増殖を止められるか分からない。再封印は一番安全そうだけど、共有核をどう固定するか未確定。利用は、増殖を完全停止できないから今はなし」
『つまり』
「今決めるより、先に選べる状態にする」
クラウディアが僅かに目を上げる。
黒髪の女が使った言葉と似ている。
レクスも気づいた。
「……言い方は嫌だけど」
『何だ』
「何でもない」
ヴァレルは少し間を置いてから続けた。
『最終審査中だということは覚えているか』
「忘れたい」
『忘れていい』
「いいの?」
『むしろ忘れろ。今の判断を、合格したいから変えたら審査にならん』
「じゃあ俺、好きに決める」
『責任を持てる範囲でな』
「そこは分かってる」
『なら続けろ』
通信は短く切れた。
レクスは石を見て、少しだけ顔をしかめた。
「何?」
ギルバートが聞く。
「やっぱり見られてる」
「試験だからな」
「黒髪の女にも見られて、中央にも見られてる」
「人気者だな」
「いらない」
◇
午後は、灰殖獣そのものをもう一度調べた。
共有網は依然として弱体化した状態を保っている。
増殖命令。
形質転送。
状態回収。
基礎形質の配布。
主要な経路は抑えた。
それでも、完全ではない。
「自然増殖率、まだ推定八から十一パーセント」
アデルが測定結果を読み上げた。
「幅あるな」
「本体が周期的に変動しています」
「九十九まで落としたら?」
ギルバート。
「計算上、一パーセント前後まで落とせる可能性があります」
「じゃあそれで」
「待って」
レクスが止める。
「何で?」
「一パーセント残る」
「でも今の十分の一だぞ」
「深層王」
その一言で、ギルバートは黙った。
一パーセント。
数字だけなら、小さい。
でも、元が災害級なら。
小さくない。
「一パーセントの灰殖獣って」
クラウディアが言う。
「何体まで増えるの?」
「分からない」
アデル。
「一日一体なら?」
セシリア。
「放置できません」
「一週間で七体」
「一か月で三十」
「さらにその三十が増えたら?」
フィンが嫌そうな顔をする。
「考えたくないです」
「だから」
レクスが言う。
「九十九で安心しない」
深層王の時に、身体で覚えた。
世界最強を九十九パーセント弱くできても。
残る一パーセントが世界を壊すことはある。
◇
「利用案は、今の時点では却下」
夕方の会議で、レクスは改めて言った。
公国の研究官も、今度は反論しなかった。
「理由は一パーセント?」
「それだけじゃない」
「他は?」
「管理者」
「管理者?」
「仮に俺が九十九まで落として、安全に使えるとする」
「はい」
「俺がいなくなったら?」
研究官が黙る。
「俺が怪我したら。死んだら。別の国にいたら。寝てたら」
「固定術式で」
「それが完全にできるなら、俺いらない」
「……確かに」
「俺が毎日弱くし続けないと使えないなら、それは利用じゃなくて俺込みの危険物」
クラウディアが小さく頷いた。
「管理の前提に一人の人間を置くのは危険ね」
「深層王の時も言った」
レクスは続ける。
「俺が倒れたら全部止まる作戦は、作戦じゃない」
ガレンが満足そうに鼻を鳴らした。
「ようやく自分で言ったことをちゃんと使うようになったの」
「前から使ってる」
「最近じゃ」
◇
「じゃあ、今は何を選ぶ?」
ローディスが改めて尋ねた。
討伐。
再封印。
利用。
レクスはしばらく答えなかった。
その間に考えていたのは、どれが一番格好いいかでも、どれが黒髪の女の期待に合うかでもない。
失敗した時。
誰が死ぬ。
どこまで広がる。
戻せる。
戻せない。
「今は」
レクスが口を開く。
「どれも選ばない」
ギルバートが少し驚く。
「三つから選ぶんじゃないのか」
「向こうが三つ出しただけだろ」
「あ」
「俺たちが三つに縛られる理由ない」
クラウディアの口元が少し上がる。
「続けて」
「先に、増殖を止める」
「完全に?」
「完全に近づける」
「それができた後は?」
「もう一回考える」
「討伐も?」
「ああ」
「封印も?」
「ああ」
「利用も?」
そこだけレクスは少し考えた。
「今より安全になったら、話を聞くくらいはする。でも使う前提にはしない」
研究官が頷いた。
「それなら十分です」
「本当に?」
「私は研究者ですが、自殺志願者ではありません」
「アデルより慎重」
「また私!?」
◇
方針が決まると、やることは一気に具体的になった。
アデルとガレンは、残る一割の増殖機構を細分化する。
フィンは共有核から枝分かれする未確認経路を標識する。
セシリアとエルドは、増殖が再開した場合の魔力変動を監視。
バルガスとドーガンは、分体が出た場合に傷つけず隔離するための物理柵を設置する。
クラウディアとギルバートは、どうしても攻撃が必要になった時の最終掃討役。
「俺、最後?」
ギルバートが聞く。
「最後」
「聖剣も?」
「最後」
「昔なら不満だった」
「今は?」
「ちょっと不満」
「正直」
「でも納得してる」
「ならいい」
クラウディアが横で笑う。
「私は?」
「同じ」
「私も最後?」
「斬ると増えるから」
「合理的」
「不満ない?」
「あるわよ。せっかく来たのに」
「あるんだ」
「でも必要なら待つ。そこはギルバートと同じ」
「何で俺が基準なんだよ」
◇
夜。
再び地下へ入る前の最終確認。
レクスは一人ずつを見る。
「増殖が今より上がったら?」
「撤退」
クラウディア。
「形質共有が戻ったら?」
「攻撃停止」
ギルバート。
「固定楔が二本以上外れたら?」
「作業中断じゃ」
ガレン。
「俺が倒れたら?」
「全員撤退」
ローディス。
「誰かが『あと少しだから』って言っても?」
「撤退」
セシリア。
「黒髪の女がまた出たら?」
フィンが少し身構える。
「話は聞く。でも作業優先」
レクス。
「向こうから攻撃したら?」
「状況次第で応戦」
クラウディア。
「灰殖獣のそばでは広範囲攻撃禁止」
全員。
確認。
終わる。
ギルバートが小さく息を吐いた。
「昔の俺なら、こんな確認長すぎるって言ってたな」
「今は?」
「長いとは思う」
「同じじゃん」
「でも必要なのも分かる」
「じゃあ成長」
「もうその言葉禁止にしない?」
◇
封印前室。
灰殖獣は静かだった。
昨日よりも分体の動きが少ない。
共有網を切られた影響で、巨大な肉塊全体が眠気に負けているようにも見える。
アデルが測定盤を置く。
「残存増殖機構、主経路を三つ確認しました」
「まだ三つ?」
レクス。
「主要七経路とは別です。恐らく非常時用」
「予備?」
「はい。普段の共有網が切られた時だけ使う」
「頭いいな」
「四百年前の生物ですが」
「年齢関係ないだろ」
一つ目。
損傷時の緊急分裂。
二つ目。
核損傷時の自己複製。
三つ目。
個体数が一定以下になった場合の自動増殖。
「最後が嫌」
ギルバートが言う。
「減らしたら増やすってこと?」
「はい」
「倒すほど戻る?」
「完全停止しなければ」
「本当に面倒だな」
「だから先に止める」
レクスは、ようやく狙うべき場所を理解した。
攻撃力ではない。
防御力でもない。
魔力でもない。
灰殖獣が「減ったら戻そう」とする、その仕組み。
「個体数補正機構」
《深淵呪詛》。
最初は十。
次に二十。
三十。
抵抗は強くない。
ただし。
奥。
核。
繋がる。
「四十」
灰殖獣の表面が僅かに震える。
「五十」
アデルが測定盤を見る。
「自動増殖反応、半減!」
「六十」
「さらに低下!」
「七十」
肉塊の一部が持ち上がる。
クラウディアが剣へ触れる。
「まだ抜かない」
「分かってる」
「八十」
動き。
止まる。
「九十」
灰殖獣全体から、何かが抜けたように沈む。
「九十五」
アデルの声が上ずる。
「増殖反応、三パーセント以下!」
「九十八」
ほぼ。
止まる。
「九十九」
沈黙。
◇
誰も喜ばなかった。
深層王戦を経験した者ほど、九十九という数字を信用しすぎなくなっている。
「残り?」
レクスが聞く。
アデルが何度も測定盤を確認する。
「一・二……いえ、一・〇七パーセント」
「まだある」
「はい」
「一パーで、増える?」
「理論上は」
「どのくらい?」
「分かりません」
レクスは灰殖獣を見た。
一パーセント。
見た目には何も起きていない。
静か。
弱い。
安全そう。
だから。
危ない。
「次」
レクスが言う。
「何を?」
ギルバート。
「一パーを俺の力だけでゼロにしようとしない」
「じゃあ?」
「封印で塞ぐ」
ガレンがにやりと笑った。
「ようやく儂の出番じゃな」
「待ってた?」
「かなり」
「研究者だな」
「お主に言われたくないわい」
◇
その夜。
臨時陣地へ戻った時点で、方針はほぼ固まった。
九十九パーセントまで落とす。
残る一パーセントを、封印術式と物理隔離で閉じ込める。
一人の力でゼロにしようとしない。
複数の仕組みを重ね、どれか一つが壊れてもすぐ全体が崩れない形にする。
「それなら」
クラウディアが言う。
「完全討伐でも、単純な再封印でもないわね」
「うん」
「黒髪の女の三択から外れた」
「最初から従う気ない」
「向こうが見たら何て言うかしら」
「知らない」
「気にならない?」
「少しは」
「少しなんだ」
レクスは白灰の谷を見た。
討つか。
眠らせるか。
使うか。
今の答えは。
どれでもない。
まず危険を、選択できるところまで減らす。
その後で。
皆で決める。
「俺なら何を選ぶか」
レクスは小さく言った。
「今なら」
ギルバートが隣で聞く。
「何を?」
「急がない」
「それが答え?」
「今は」
「地味だな」
「でも死ににくい」
「じゃあいいか」
強い敵を前にした時。
すぐ倒す。
すぐ使う。
すぐ決める。
それだけが強さではない。
選べないほど危険なら、先に危険を減らす。
決められないほど情報が足りないなら、決めるのを待つ。
レクスはようやく、それも自分の力の使い方なのだと理解し始めていた。




