第56話 黒髪の女は敵か
共有網の主要経路を弱体化し、灰殖獣が攻撃を学び続ける状態を止めてから一夜が明けた。
地上の臨時陣地では、夜通し測定を続けていたアデルたちが、灰殖獣の状態をまとめていた。形質記録の共有は低下したまま、増殖命令も大幅に鈍っている。一方で、本体そのものの生命反応はほとんど落ちておらず、封印の奥には依然として巨大な力が残っている。
レクスにとって、それは悪い結果ではなかった。
少なくとも今は、無理に倒す必要がない。
「今日、本体核まで見る?」
朝食を終えたギルバートが尋ねた。
「見る。ただし壊さない」
「分かってる」
「本当に?」
「昨日からずっと言われてるだろ」
ギルバートは少し不満そうだったが、聖剣には今日も厚い布を巻いていた。
クラウディアがその姿を見て笑う。
「勇者が聖剣を封印して歩いているの、だいぶ珍しいわね」
「敵が学習するんだから仕方ないだろ」
「嫌じゃない?」
「嫌だよ。でも、嫌だから抜くって方が馬鹿だろ」
「そこまで言えるなら大丈夫そうね」
「皆、最近俺の成長確認しすぎじゃない?」
レクスが横から言う。
「分かりやすいから」
「お前にだけは言われたくない」
「俺も最近よく言われる」
「じゃあ似た者同士じゃん」
「そこは違う」
二人が同時に返し、クラウディアがさらに笑った。
◇
地下へ入る前、ローディスが全員へ改めて行動規則を確認した。
「第一、灰殖獣本体への攻撃は禁止。第二、黒紋組織が現れた場合も、先に敵対行動の有無を確認する。第三、封印術式へ不用意に触れない。第四、撤退命令が出た場合は理由を問わず退く」
「黒紋組織が出ても先に攻撃しないの?」
フィンが聞いた。
「相手が何をするか分からないうちに戦闘を始めれば、灰殖獣まで刺激する可能性がある」
「なるほど」
「ただし」
ローディスの声が少し低くなる。
「ノアに使われていた自壊術式と同系統の攻撃を確認した場合は、即座に敵対勢力として対処する」
ギルバートの表情が変わった。
「そこは俺も異論ない」
「感情で先に動くなよ」
レクスが言う。
「分かってる」
「ノアのことになると顔変わるから」
「お前は変わらないのか?」
「変わる」
「じゃあ一緒だろ」
「でも先に殴らない」
「俺も殴らない」
クラウディアが間へ入る。
「二人とも、殴らないって確認し合う時点で少し不安なのよ」
◇
地下前室は昨日より静かだった。
共有網の節点には、ガレンとエルドが設置した固定楔が残っている。アデルの測定では、再接続率はごく僅か。封印内部の増殖反応も低いままだ。
石扉を昨日と同じ幅だけ開く。
中へ入る。
灰殖獣の本体は、巨大な肉塊のような姿を保ったまま、ほとんど動いていなかった。分体を作りかけていた部位も、多くが途中で萎み、再び本体へ溶け戻っている。
「共有を切られたから、自分がどう増えればいいか分からない?」
セシリアが小声で言う。
「完全に分からないわけじゃない」
レクスは灰殖獣を見る。
「でも、指示が遅い」
「人間で言うと?」
ギルバートが聞いた。
「頭と手足の連絡が悪い」
「分かりやすい」
「もっと早くそう言ってくれ」
「昨日は俺も分かってなかった」
レクスはさらに奥へ意識を伸ばした。
昨日見つけた共有網とは別に、中心部へ沈んでいる強い反応がある。
核。
たぶん。
ただし、深層王のように生命力や再生を一か所へ集めた単純な核ではない。
「いくつか役割が重なってる」
「何が?」
アデルがすぐ食いつく。
「増殖の基準。形質の保存。分体の数。それから……」
レクスは少し眉を寄せた。
「自分が何だったか」
「記憶?」
「近い」
アデルの顔つきが変わる。
「種としての基本情報?」
「たぶん」
そこで。
乾いた足音が。
奥から。
響いた。
全員。
止まる。
ギルバートの手が聖剣へ行く。
でも抜かない。
クラウディアも剣へ触れたまま待つ。
灰殖獣の向こう。
石柱。
その陰。
人影。
「やっと」
女の声だった。
「ここまで来ましたね」
◇
長い黒髪。
細身。
黒い服。
右手。
黒い紋章。
旧バルハで見た女だった。
少し後ろには、灰色の外套を着た仮面の男もいる。
レクスは、女がどうして封印の内側へいるのか、その方が先に気になった。
「どこから入った?」
「そこからですか」
「大事だろ」
「秘密の通路があります」
「どこ?」
「教えると思います?」
「一応聞いただけ」
女は少しだけ笑った。
ギルバートは笑わない。
「ノアに自壊術式を入れたのは、お前たちか」
声が硬い。
黒髪の女はギルバートを見る。
「一部は私たちの管理下にありました」
「答えになってない」
「では、もう少し正確に。彼に施された紋章は、私たちの系統のものです」
「誰がやった」
「私は担当ではありません」
「止めなかった?」
「止めてもいません」
ギルバートの指が強くなる。
「ギルバート」
レクスが名前だけ呼ぶ。
「分かってる」
勇者は剣を抜かない。
女はそのやり取りを興味深そうに見ていた。
「以前より、ずいぶん変わりましたね」
「誰の話?」
「あなたも、勇者も」
「観察してた?」
「ある程度は」
「気持ち悪いな」
「よく言われます」
◇
クラウディアが一歩前へ出た。
「ここで何をしていたの?」
「見ていました」
「灰殖獣を?」
「ええ」
「火、冷気、斬撃、聖属性を試したのも?」
「一部は」
「どこまでがあなたたち?」
女は少し考えるように首を傾げた。
「火と斬撃は私たち。冷気は別班。聖属性は」
視線。
ギルバートへ。
「あなた方の到着前に、別の聖術具を使いました」
「俺じゃない?」
「違います」
ギルバートが息を吐く。
「少し安心した」
「でも結果は同じでしょう」
「だから腹立つんだよ」
「なぜ?」
「勝手に学習させたからだ」
「灰殖獣の性質を知るために必要でした」
その言い方。
悪びれない。
「人が巻き込まれるかもしれないのに?」
クラウディアの声が冷える。
「そのために監視塔の人間は退かせました」
「記憶を弄って?」
「殺すよりはましでしょう」
「比較の基準が最悪ね」
女は否定しなかった。
「そうですね」
その一言が、余計に腹立たしい。
◇
「聞きたいことある」
レクスが言う。
「どうぞ」
「深層王」
「ええ」
「灰殖獣」
「ええ」
「他にもある?」
「あります」
あっさり。
全員の空気。
重くなる。
「何体?」
「数え方によります」
「危険なもの」
「それも、何を危険と呼ぶかによります」
「人間が普通に戦ったら災害になるもの」
「十を超えます」
フィンが思わず小さく声を漏らした。
「そんなに……」
女は続ける。
「ただし、全部を起こすつもりはありません」
「じゃあ何のために探してる」
ギルバート。
「選別です」
ノアの記憶。
使える。
使えない。
その言葉と重なる。
「何を基準に?」
ローディス。
「現代で利用可能か」
「利用?」
「ええ」
女は灰殖獣を見る。
「古代の人々は、理解できない力を封じました。仕方のないことです。扱えなかったから」
「だから今なら扱う?」
レクス。
「扱えるなら」
「誰が?」
「それを決めるために見ています」
「あなたたちが?」
「私たちだけではありません」
「誰?」
「今は言えません」
「便利だな」
「あなたも、分からないことは分からないと言うでしょう」
「それと一緒にするな」
女はまた少し笑った。
◇
「現代の国家には」
黒髪の女が続ける。
「管理できない力が多すぎます」
「封印されたままなら問題ない」
クラウディア。
「本当に?」
「何が言いたいの」
「深層王の封印は四百年で壊れかけていた。灰殖獣も同じ。誰も触らなくても、永久には保ちません」
「だから先に起こす?」
「起こすとは限りません」
「でも深層王は起きた」
「予定より早く」
「トルメの百九十三人が巻き込まれた」
「知っています」
「それでまだ続ける?」
「続けています」
マリアナがここにいれば、もっと露骨に怒っただろう。
レクスも。
腹が立つ。
「目的が正しければ、人を使っていいと思ってる?」
「思っていません」
「でも使った」
「結果として」
「同じだろ」
女は少し黙る。
「そうですね」
「じゃあ信用しない」
レクスははっきり言った。
「あなたたちが何を目指してるとしても、ノアみたいな紋章を人に入れて、深層王を試して、村の人間を巻き込んでる時点で無理」
黒髪の女は怒らなかった。
むしろ。
どこか納得したように。
「信用してほしいとは言っていません」
「じゃあ何」
「選んでほしい」
レクスの眉が寄る。
「またそれ?」
「ええ」
◇
女は灰殖獣へ視線を向けた。
「これをどうします?」
「今決めない」
「討伐しますか?」
「今はしない」
「再封印?」
「それもまだ」
「利用?」
「今のところ一番ない」
「なぜ?」
「危険すぎるから」
「九十九パーセント弱くできるのに?」
「一パー残る」
「深層王で学んだ?」
「かなり」
「でも、この個体は共有網を切れば学習を止められる」
「完全には止まってない」
「九十パーセント」
「十残ってる」
「残りも落とせるでしょう」
「できるかもしれない。でも、できることと使っていいことは別」
女。
少し。
目。
細める。
「そこが見たかった」
「何が」
「あなたが、力を持った後に何を選ぶか」
「勝手に試すな」
「それも承知しています」
◇
ギルバートが前へ出る。
「お前たちは、レクスを仲間にしたいのか」
「仲間という言葉は曖昧ですね」
「じゃあ利用したい?」
「それも一部」
「一部?」
「彼の能力が必要な場面があります」
「何に」
「強すぎるものを、選べる状態にするために」
ノアの記憶と同じ。
「だから深層王で試した?」
レクス。
「はい」
「灰殖獣も?」
「はい」
「もし俺が失敗したら?」
「失敗も情報です」
ギルバートの顔が変わる。
「ふざけるな」
「ギルバート」
「分かってる!」
怒鳴る。
でも。
抜かない。
女はそれを見ている。
「あなたは」
女。
ギルバートへ。
「昔なら斬っていましたね」
「知ったふうに言うな」
「記録で見ました」
「何の」
「勇者ギルバート。勝利優先。自己評価過大。撤退判断遅延」
「……」
クラウディアが横で小さく吹き出す。
「笑うなよ!」
「ごめん。でも正確」
「お前まで!」
黒髪の女は初めて少しだけ人間らしく笑った。
「今は違う」
ギルバートが言う。
「失敗して情報になるならいい、なんて思わない」
「なぜ?」
「死ぬ奴がいるからだ」
迷い。
ない。
「レクスが失敗するかどうかを見るために、村一つ賭けるような真似は二度とさせない」
レクスは。
少し。
ギルバートを見る。
昔。
この男は。
勝てる。
行ける。
それで。
全部。
押した。
今は。
失敗の値段。
先に見る。
そこ。
確かに。
変わった。
◇
「では」
黒髪の女がレクスへ戻る。
「あなたは何を選びます?」
「まだ選ばない」
「また?」
「情報足りない」
「これだけ見ても?」
「足りない」
「何が」
「灰殖獣を利用するなら誰が管理する。失敗したら誰が止める。俺がいない時どうする。紋章みたいに人を縛って使う前提じゃないのか。そこ全部」
女。
黙る。
「答えられない?」
「今は」
「じゃあ選べない」
「慎重ですね」
「普通」
「昔は?」
レクス。
少し。
考える。
「分からない」
「でも今は」
「今は待つ」
女は静かに頷いた。
「それも選択です」
「言い方腹立つな」
「すみません」
「謝ってないだろ」
「半分は」
「半分か」
◇
ローディスが一歩前へ出た。
「こちらからも確認する。あなた方は灰の谷から撤退する意思があるか」
「あります」
「今?」
「必要なら」
「必要だ」
女。
少し。
ローディス。
見る。
「王国騎士団として?」
「そうだ」
「拒否したら?」
「拘束を試みる」
「勝てると?」
「それを今ここで試す意味はない」
ローディスの声は静かだった。
「灰殖獣がいる。互いに戦えば、結果的に封印対象を刺激する。あなた方にも得はないはずだ」
「合理的ですね」
「褒められても嬉しくない」
「では」
女は灰色外套の男へ目配せした。
「今日は退きます」
ギルバートが眉を寄せる。
「簡単に?」
「目的の一つは果たしました」
「何」
「レクス・アルヴァーンが、すぐに利用を選ばないこと」
「何でそれが大事なんだ」
「次に関わります」
「次?」
「まだ言えません」
「またかよ」
◇
女は去る前。
レクスの前で。
一度。
止まった。
「一つだけ」
「何」
「私たちは、古代災厄を全て起こしたいわけではありません」
「聞いた」
「全て倒したいわけでもない」
「それも」
「封じ続けたいわけでもない」
「じゃあ何がしたい」
女は灰殖獣を見る。
「使える力を、使える形にしたい」
「誰のために?」
そこ。
女。
答えない。
「言えない?」
「今は」
「じゃあ信用しない」
「構いません」
「そればっかり」
「信用ではなく」
黒い紋章。
右手。
僅か。
光る。
「選択が欲しいので」
その言葉。
残して。
女と灰色外套の男は奥の通路へ下がった。
「追う?」
ギルバートが聞く。
「追わない」
レクス。
「何で」
「道知らない。罠かもしれない。灰殖獣も残ってる」
「そうだな」
「悔しい?」
「かなり」
「俺も」
ギルバート。
少し。
笑う。
「じゃあ今日は我慢か」
「今日は?」
「次も必要なら我慢する」
「成長したな」
「三回目!」
◇
地上へ戻ってから。
会議。
始まる。
「黒紋組織は」
アデル。
「古代災厄の能力を選別し、現代で利用可能な状態へ落とすことを目的の一つとしている」
「一つ」
レクス。
「そこ忘れない」
「はい」
「全部じゃない」
「分かっています」
「それと」
クラウディア。
「レクスに選ばせること自体に意味を見てる」
「何で?」
フィン。
「分かりません」
エルド。
「強大な力を持つ者が、使うか否かをどう判断するか。それを観察しておるのかもしれん」
「試験?」
ギルバート。
「向こうからの?」
「嫌だな」
レクス。
「俺、今Sランクの試験中なのに」
一瞬。
沈黙。
クラウディア。
吹き出す。
「そっち?」
「二個同時は面倒」
「そこなの?」
「どっちも勝手に評価される」
「確かに」
ローディスまで少し笑った。
◇
「それで」
クラウディア。
真面目。
戻る。
「灰殖獣をどうする?」
レクス。
地下。
見る。
黒髪の女。
問い。
討つか。
眠らせるか。
使うか。
今。
答え。
一つ。
「利用はしない」
「今は?」
「今は」
「討伐?」
「まだ」
「再封印?」
「それもまだ」
「じゃあ」
「まず」
レクス。
言う。
「増殖を完全に止める」
「完全に?」
「できるだけ」
「その後?」
「その状態で考える」
ギルバート。
頷く。
「弱くしてから?」
「そう」
「いつものだな」
「でも今回は倒すためじゃない」
「選ぶため?」
レクス。
少し。
嫌な顔。
「黒髪の女みたいな言い方するな」
「違う違う!」
「でも」
クラウディア。
静か。
「間違ってはいないわ」
「何が」
「相手が強すぎるうちは、討伐か封印しか選べない。でも、本当に安全なところまで落とせるなら」
「選択肢が増える」
「そう」
レクス。
灰殖獣。
見る。
「だからこそ」
声。
少し。
低い。
「使えるから使う、にはしない」
◇
その夜。
レクスは眠る前に、地下測定結果をもう一度見直した。
共有網。
形質転送。
増殖命令。
基礎形質。
全部。
弱く。
できる。
でも。
灰殖獣は。
まだ。
危険。
そして。
黒紋組織。
女。
敵。
か。
そう聞かれたら。
答え。
簡単。
「敵だろ」
隣の簡易寝台で。
ギルバート。
返す。
「起きてた?」
「お前が声出すから」
「敵だと思う?」
「少なくとも今は」
「理由」
「ノア。トルメ。深層王。十分だろ」
「うん」
「でも」
ギルバート。
天幕の天井。
見る。
「敵だからって、言ってること全部嘘とは限らない」
「そう」
「そこが面倒だな」
「かなり」
「じゃあ」
「何」
「明日は?」
レクス。
目。
閉じる。
「灰殖獣をもっと弱くする」
「それから?」
「俺たちで決める」
「黒髪の女じゃなく?」
「ああ」
「いいな、それ」
「寝る」
「おやすみ」
黒髪の女が。
何を。
望んでいるか。
まだ。
全部。
分からない。
でも。
一つ。
はっきり。
した。
選べと。
言われたから。
選ぶ。
のではない。
自分たちが。
選べる状態を。
自分たちで。
作る。
レクスは。
そのために。
明日。
灰殖獣の。
残った。
一割。
見ることにした。




