第50話 次に起こされるもの
ノアの右手に浮かんだ《減らす者》という識別情報は、夜が明ける頃には消えていた。
消えたからといって安心できるものではない。むしろ、向こう側にいる何者かが、必要な情報だけをこちらへ見せ、その後で接続を自ら閉じた可能性が高い。
ベルン冒険者ギルドの会議室には、朝からレクス、クラウディア、ギルバート、ローディス、それに夜通し紋章を観察していた二人の術式師が集まっていた。窓の外では市場へ向かう荷馬車の音が聞こえているのに、卓上へ置かれた黒紋の写しだけが、日常から切り離されたように不気味だった。
「夜中に一度だけ現れ、その後は消失。接続も向こう側から閉じられた。こっちが遮断したわけではないんだな?」
ローディスが確認すると、若い術式師が疲れた目をこすりながら頷いた。
「はい。レクス殿が弱体化した遠隔接続はそのまま維持されていました。にもかかわらず、午前三時頃、接続先そのものが閉じました。例えるなら、こちらが扉を押さえていたところへ、向こうが廊下ごと切り離したような状態です」
「それ、追えない?」
ギルバートが聞いた。
「無理です。接続先の痕跡が残っていません」
「随分と用意がいいな」
「用意がいいというより、最初からそういう運用を前提にした紋章なんでしょう」
クラウディアが腕を組む。
「構成員を監視できる。記憶も塞げる。必要なら処分できる。さらに、接続を切れば追跡もさせない。組織としては便利でしょうね。最悪だけど」
「ノアは?」
レクスが聞いた。
「眠っています。昨夜よりは顔色も戻っています」
ミリアが会議室へ入ってきた。片手には朝食らしいパンとスープの盆を持っている。
「起きたら食べさせます。それから、本人の希望を確認した上で記憶遮断の解除を続ける予定です」
「本人の希望?」
ローディスがわずかに眉を上げた。
「情報提供者である前に、保護対象ですから」
ミリアの返答は淡々としていたが、譲る気がないことだけは分かる。
「もちろん異論はない。ただ、黒紋組織の次の動きを予測できる可能性がある以上、情報の重要度は高い」
「分かっています。だからこそ急がせません。昨日のように自壊術式が動けば、情報どころではなくなります」
レクスは黙ってミリアを見る。
「何ですか?」
「いや」
「何でしょう」
「俺が言おうと思ったこと、先に言ったから」
「受付ですので」
「受付ってそこまでやる?」
「最近はやります」
ギルバートが小さく笑った。
「ベルンの受付、強くないか?」
「今さらですね」
◇
ノアが目を覚ましたのは、それから一時間ほど後だった。
昨日とは違い、起き上がる前に自分の右手を確かめた。黒紋はまだある。ただ、表面の黒さは少し薄くなっており、遠隔接続や自壊術式を弱体化させた影響が残っているらしい。
「気分は?」
レクスが椅子を引き寄せながら聞く。
「頭が少し重いです。でも昨日より楽です」
「右手は?」
「熱くない」
「胸は?」
「大丈夫」
「じゃあ今日は、昨日より少しだけ記憶遮断を下げてみる」
ノアはすぐに頷こうとしたが、その途中で止まった。
「……嫌ならやらなくていいんですよね」
「ああ」
「途中でも?」
「やめられる」
「じゃあ」
ノアは一度、自分で深く息を吸った。
「お願いします」
その言い方が昨日とは少し違った。
役に立たなければならないからではなく、自分で決めている。
レクスはそこを急かさなかった。
「最初に確認。昨日の《減らす者》って言葉、覚えてる?」
「少しだけ」
「心当たりは?」
「ありません。でも……」
ノアが目を細める。
「聞いたことがある気がします」
室内の空気がわずかに変わる。
クラウディアはすぐ質問しなかった。ギルバートも昨日の失敗を覚えているのか、黙って待っている。
「どこで?」
「そこが出てこない」
「なら先に記憶遮断を弱める」
レクスは《深淵呪詛》を慎重に重ねる。昨日は五十パーセント前後で負担が出た。今日は遠隔接続と自壊術式を先に十分落としてあるため、四十まで進めてもノアの右手は熱を持たなかった。
「どう?」
「……廊下」
「昨日も見えた?」
「はい。でも今日は、その先がある」
「無理に喋らなくていい。見えた順に」
ノアは目を閉じた。
「石の廊下を歩いてます。俺だけじゃない。子供も……大人もいる。全員、右手に紋章がある人ばかりじゃない」
「紋章がない人も?」
「います。でも」
「何?」
「手首に布を巻かれてる。たぶん、その下に……」
声が少し震える。
レクスはすぐ弱体化を止めたが、戻しはしなかった。
「続けられる?」
「はい」
「本当に?」
「はい。これは思い出したいです」
レクスは頷く。
「じゃあ続ける」
五十。
記憶の蓋がさらに薄くなる。
ノアの呼吸が少し早くなったものの、昨日のような苦痛はない。
「部屋があります。壁に地図がいっぱい貼ってある。普通の地図じゃない……地下の図みたいなものもある」
ローディスが記録官へ目配せする。
「何が書いてある?」
「丸。いくつも。色が違う」
「色?」
「黒、赤、白……青もあった気がします」
「意味は?」
「分かりません」
ノアは眉間に力を入れた。
「でも、字がある」
「読める?」
「全部は……」
「一つでいい」
「眠るもの」
誰も口を挟まなかった。
「他は?」
「枯れたもの。空のもの。壊れたもの。それから……」
ノアの指先が毛布を握る。
「使えるもの」
レクスはクラウディアを見る。
黒髪の女が古代遺跡で言ったという言葉。
『これは違う』
『ここにはもういない』
今度は分類まで出てきた。
「人じゃなく、遺跡の中身を分類してた?」
クラウディアが静かに聞く。
ノアは目を閉じたまま頷く。
「たぶん」
「深層王は?」
ギルバートが聞こうとして、少し間を置いた。
「答えられそうならでいい。旧バルハみたいな名前はあった?」
ノアの呼吸は乱れない。
「ありました」
「どんな?」
「地下へ伸びる大きな図。横に……」
記憶を探す。
「『飢え』って」
レクスの背中に嫌な冷たさが走った。
「他には?」
「吸収。再生。地脈……」
アデルがいれば飛びついただろう。
深層王の性質、そのままだ。
「分類の横に数字は?」
「ありました。でも読めません」
「評価?」
「たぶん」
「深層王は当たりだった」
ギルバートが低く言う。
「何かに使えると判断されたってことか」
「まだ断定しない」
レクスが止める。
「でも可能性は高くなった」
「そこは認めるんだな」
「証拠増えたから」
◇
記憶遮断を六十まで落としたところで、ノアが急に顔を上げた。
「待って」
レクスは即座に術を止める。
「痛い?」
「違う」
「何?」
「《減らす者》」
その言葉。
「思い出した?」
「少しだけ」
ノアは額へ手を当てる。
「会議みたいな場所。俺は中に入ってない。廊下で待たされてた。でも、扉の向こうから声が聞こえた」
「誰の?」
「分からない。男の人が何人か。女の人もいた」
「黒髪の女?」
「声だけじゃ分からない」
無理に結びつけない。
「何て言ってた?」
ノアはゆっくり言葉を拾う。
「『旧バルハで確認する』」
全員の顔が変わる。
「他は?」
「『もし本当に減らせるなら』」
ノアの喉が動く。
「『封印を解く必要がなくなる』」
レクスは一瞬、意味を掴めなかった。
「封印を解かなくていい?」
クラウディアが先に聞き返す。
「そう聞こえたと思います」
「どういうことだ?」
ギルバートの顔も険しい。
「古代の何かを使いたいなら、普通は封印を外す必要がある。でもレクスが弱くできるなら……」
クラウディアが途中で言葉を止める。
レクスが続けた。
「安全に近づける」
部屋が静かになった。
「あるいは」
ローディスが低く言う。
「本来なら封印解除と同時に暴走する存在を、レクス殿が弱体化している間だけ制御できる」
「俺を鍵にする?」
「鍵というより」
クラウディアの表情が冷える。
「安全装置ね」
「嫌だな」
レクスは本気でそう思った。
黒髪の女が旧バルハでレクスの能力を見たがった理由。
深層王を九十九パーセントまで下げられるか。
もし下げられるなら、それ自体に価値がある。
つまり彼女たちは、深層王を倒すことより、その事実を確認する方を重視していたのかもしれない。
「《減らす者》って」
ギルバートがレクスを見る。
「最初からお前用にあった呼び方?」
「分からない」
ノアが首を横へ振った。
「違うと思います」
「なぜ?」
「昨日、紋章に出た文字と……記憶の中の言い方が少し違う」
「どう違う?」
「昔は」
ノアが苦しそうに思い出す。
「《減らせる者が現れた場合》って言ってました」
レクスは黙る。
「じゃあ最初からレクス本人を知ってたわけじゃない」
クラウディア。
「そういう能力を持つ誰かが現れる可能性を考えていた?」
「でも俺、そんな前から有名じゃない」
「あなたが生まれる前から探していた可能性だってあるわ」
「嫌な話だな」
自分が特別だから探されていた、というより。
必要な機能に合う人間が、たまたま自分だった。
そちらの方が、黒紋組織らしく思えた。
◇
「まだあります」
ノアが言った。
顔色は悪くない。
「続ける?」
レクスが聞く。
「今なら」
「無理そうになったら言う」
「はい」
記憶遮断。
六十五。
それ以上はまだ上げない。
ノアは目を閉じたまま、地図の部屋を見ている。
「黒い丸がいっぱいあります」
「どのくらい?」
「……十より多い」
「全部古代遺跡?」
「たぶん。名前が書いてあるものと、番号だけのものがあります」
「旧バルハ以外に覚えているものは?」
ノアはしばらく黙っていた。
「北の氷の下」
「地名?」
「違う。説明みたいな言葉」
「他は?」
「海の塔。灰の谷。沈んだ聖堂……」
「多いな」
ギルバートの声が低くなる。
「それ、全部深層王みたいなのがいるのか?」
「分からない」
「分類が違うなら、全部同じではないでしょうね」
クラウディアが答える。
「大きさも危険性も、能力も違う」
「一番近いのは?」
ローディスが問う。
ノアは首を横へ振る。
「地図が頭の中で崩れます」
「無理に探さなくていい」
「でも」
「場所は後でも確認できる」
「……はい」
そこでノアが、突然小さく声を漏らした。
「あ」
「何?」
「赤い印」
「どれ?」
「旧バルハの近くに赤い印があった」
「意味は?」
「終わった場所」
「終わった?」
ノアの眉が寄る。
「違う……たぶん」
しばらく。
「検証済み」
その言葉が出た。
ローディスの顔色が変わる。
「深層王は、検証対象だった?」
「そうかもしれません」
「じゃあ次の印は?」
ギルバートが聞く。
ノアの呼吸が速くなる。
レクスはすぐ遮断弱体化を五十へ戻した。
「今日はここまで」
「まだ見える!」
「だからやめる」
「でも次が」
「明日でも地図は逃げない」
「向こうが動くかもしれない!」
「それでも」
ノアが悔しそうに口を閉じる。
「お前が倒れたら、もっと遅れる」
「……」
「昨日も言ったけど」
レクスはノアを見る。
「情報より先に、お前を壊さない」
ノアはすぐ頷かなかった。
それでも最後には、少し悔しそうに。
「分かりました」
自分で言った。
◇
午後。
王都との緊急通信が繋がった。
アデル。
ガレン。
中央ギルド。
王国外交局。
エルディナ公国側にも共有される。
アデルは、ノアの証言を聞いた瞬間から質問を十個ほど投げてきたが、レクスが「本人疲れてるから今日は聞かない」と言うと、珍しく一度で引き下がった。
『分かりました。ただ、地図の分類についてはこちらで既存遺跡記録と照合します』
「お願い」
『それと《減らす者》』
「うん」
『黒紋組織が、レクスさんのような能力者を想定していたことになります』
「俺と同じ能力、過去にもいた?」
『可能性はあります。ただし、同一とは限りません』
「何でも弱くできる人?」
『あるいは封印対象を安全圏まで落とせる何らかの技能、術式、聖具。広く探していたのかもしれません』
「なるほど」
『一つ問題があります』
「何?」
アデルの声が真面目になる。
『彼らが欲しいのがレクスさん本人ではなく、《弱体化という機能》なら、説得して仲間にしようとするだけとは限らない』
クラウディアが通信石の近くで目を細める。
「捕まえて使う可能性?」
『あります』
「嫌だな」
『もっと嫌な可能性もあります』
「何?」
『紋章です』
レクスはノアの右手を思い出した。
『能力者本人を自由意思のまま使う必要がないと、彼らが判断した場合』
深層王。
自己認識固定。
ノア。
記憶遮断。
自壊。
「……俺にも紋章つける?」
『可能性は否定できません』
ギルバートの顔つきが変わった。
「させるかよ」
『勇者殿、気持ちは分かりますが、まず敵の能力を』
「分かってる。突っ込まない」
『……成長しましたね』
「お前まで言うのか!」
緊張した空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
夕方、ノアは食事を終えると、自分からレクスを呼んだ。
「一つ聞いていいですか」
「何?」
「俺、これからどうなります?」
「分からない」
「やっぱり」
「でも選べるようにはする」
「何を?」
「紋章をどうするか。記憶をどこまで戻すか。ベルンに残るか、別の場所へ行くか」
「俺が?」
「誰が決めるんだよ」
「だって」
ノアは右手を見る。
「今まで、上の人が決めるものだったから」
「ここは違う」
「もし」
少年は言いにくそうにする。
「俺が、全部思い出したくないって言ったら?」
「いいんじゃない」
「情報が減ります」
「それは困る」
「じゃあ」
「困るけど、お前を壊してまで取らない」
ノアが黙る。
「すぐには信じなくていい」
レクスは続けた。
「俺もお前のこと全部知らないし」
「俺もレクスさんのこと、噂しか知りません」
「どんな?」
「世界最強を九十九パーセント弱くする人」
「それ、広まりすぎだな」
「あと、魚に呪いを使った人」
「誰から聞いた?」
「治療室の前でギルド職員が……」
「そっちは広めなくていい」
ノアが初めて、少しだけ自然に笑った。
◇
翌朝。
ノアの記憶解析を始める前に、王都から先に連絡が来た。
アデルだった。
『照合結果が出ました』
「早いな」
『寝てません』
「寝ろよ」
『後で寝ます。それより重要です』
「何?」
通信石の周囲には、レクス、クラウディア、ギルバート、ローディス、ノアがいる。
『ノアさんの証言にあった「北の氷の下」「海の塔」「灰の谷」「沈んだ聖堂」。完全一致ではありませんが、古代封印施設の記録と複数対応しました』
「本当にある?」
『あります』
「全部何か封じてる?」
『そこまでは不明。ただし、いずれも四百年以上前の封印記録があります』
レクスは息を吐く。
深層王だけではなかった。
『さらに、旧バルハ地下で回収した赤い覚醒術式の一部に、識別番号らしき記号が残っていました』
「番号?」
『はい。昨日まで意味不明だったのですが、ノアさんの証言を元に並べ直すと、遺跡管理用の分類番号と考えると辻褄が合う』
「つまり?」
『深層王は一件目ではありません』
部屋が静かになる。
「前にも実験した?」
『可能性が高いです』
「成功?」
『不明です。ただ、少なくとも別の封印対象にも近い形式の術式を試した痕跡がある』
「どこ?」
アデルが少し間を置いた。
『灰の谷です』
「今そこは?」
『封印は現存。ただし』
「ただし?」
『三日前、封印監視塔から定期通信が途絶えています』
ギルバートが椅子から立ち上がりかけた。
「行くぞ」
「待て」
レクスが言う。
「でも三日前だぞ!」
「だからこそ、状況確認が先」
「……分かってる」
ギルバートは座り直した。
「分かってるけど、言いたくなった」
「それならいい」
クラウディアが地図を引き寄せる。
「灰の谷まで?」
ローディスが答える。
「王都から北東へ馬車で八日以上。山岳路を含む」
「近くの騎士団は?」
『すでに確認班を出します』
アデル。
『レクスさんたちに今すぐ動けとは言いません』
「珍しい」
『学習しました』
「誰が?」
『周囲がです』
「俺じゃない?」
『両方です』
◇
「それと」
アデルの声。
さらに。
重くなる。
『もう一つ、もっと重要な照合結果があります』
「まだあるの?」
『黒紋組織の分類記号です』
ノアが顔を上げる。
『旧バルハ――深層王の記号には、「吸収」「再生」「地脈」と並んで、最後に一文字だけ別の印が付いていました』
「何の印?」
『適合』
「何に?」
『それが分かりませんでした。でも、ノアさんの記憶にある会話を合わせると』
通信石。
少し。
雑音。
『《減らす者》との適合、という意味かもしれません』
「俺と?」
『はい』
「深層王が?」
『正確には、深層王の能力が』
レクスは。
背筋に。
冷たいもの。
感じる。
「つまり」
クラウディアが先に言った。
「彼らは古代存在を起こして、レクスが弱くできるか確認しているだけじゃない」
『そうです』
「能力ごとに」
ギルバートが続ける。
「レクスと組み合わせて使えるか見てる?」
『その可能性があります』
最悪だった。
深層王の吸収。
再生。
地脈支配。
それを。
レクスが安全な状態まで落とし。
誰かが。
利用する。
「俺、何に使われる予定なんだ」
『分かりません』
「嬉しくないな」
『私もです』
◇
ノアが突然、椅子から立った。
「灰の谷」
「思い出した?」
レクスが聞く。
「少し」
「座っていい」
「大丈夫です」
「無理は?」
「してません」
少し考え。
「たぶん」
「そこは正直だな」
ノアは地図を見る。
「俺、その名前を聞いたことがあります」
「何て?」
「次」
一言。
「次?」
「旧バルハの結果が出たら、次は灰の谷って」
「誰が言った?」
「分からない。でも」
ノアの顔。
青くなる。
「旧バルハで《減らす者》が確認できた場合って」
全員が。
息を止める。
「その後?」
「次は」
ノアが。
記憶。
探す。
「……本人に選ばせる」
「何を?」
「分からない」
「選ばせるって」
ギルバートが嫌そうに言う。
「仲間になるかどうか?」
「それならまだ分かりやすい」
クラウディア。
「でも彼らが、そんな単純な選択を用意すると思う?」
レクスも。
思わない。
◇
その日の午後。
新しい公式指示が届いた。
灰の谷については、まず現地騎士団と王都調査班が確認。
レクスたちは待機。
黒紋組織の目的が判明するまで、単独行動禁止。
ノアはベルンで保護を継続。
黒紋は、レクスが遠隔接続、自壊、記憶遮断の三系統を常時低出力で弱体化し、専門術式師が監視する。
「常時?」
レクスがミリアへ聞いた。
「交代制で維持できるよう、明日アデルさんたちが来ます」
「俺だけじゃなく?」
「あなた一人へ依存しないためです」
「それはいい」
「今、嬉しそうですね」
「少し」
「昔なら全部自分で?」
「やってたかも」
「進歩ですね」
「もう慣れた」
◇
夕方。
レクスは久しぶりに一人で川へ来た。
ギルバートには今日は来るなと言った。
クラウディアも空気を読んだのか来ない。
釣り糸を垂らし、流れる水を見る。
黒紋組織。
深層王。
灰の谷。
封印された複数の存在。
《減らす者》。
考えることは多い。
でも。
今日はまだ動かない。
現地確認。
情報。
それを待つ。
以前なら。
自分で見た方が早い。
そう思っていたかもしれない。
「……待つか」
浮き。
小さく揺れる。
何も。
起きない。
それでいい。
しばらくして。
後ろから。
足音。
レクスは。
振り返らない。
「今日は来るなって言った」
「俺じゃない」
ギルバートではない。
クラウディアでもない。
ミリアの声。
珍しい。
レクスが振り返る。
「何でここに?」
「伝言です」
「緊急?」
「今すぐ出発ではありません」
「じゃあ」
「でも、知っておいた方がいいです」
ミリア。
封筒。
出す。
王国騎士団の急報。
「灰の谷?」
「はい」
レクスは。
受け取る。
読む。
現地確認班。
到着。
監視塔。
無人。
戦闘痕なし。
死体なし。
そして。
封印そのものは。
壊れていない。
「じゃあ大丈夫?」
「最後まで」
読む。
封印地下。
入口。
黒い紋章。
新しい。
刻印。
さらに。
石扉へ。
文字。
「……」
「何と?」
ミリアが聞く。
レクスは。
声へ。
出す。
「《減らす者へ》」
その下。
もう一行。
『次は、お前が選べ』
レクスは。
長く。
紙を見た。
「やっぱり俺宛てか」
「そのようですね」
「嫌だな」
「行きますか?」
レクスは。
すぐには。
答えなかった。
行く。
行かない。
向こう。
それを。
見ている。
たぶん。
選択そのものが。
何かの試験。
「今は行かない」
ミリア。
少し。
目を上げる。
「理由は?」
「相手が『来い』って言ってる時に、すぐ行くの嫌だから」
「それだけ?」
「あと、情報不足」
「適切です」
「でも」
レクスは。
灰の谷の報告書。
折る。
「放ってはおかない」
「でしょうね」
「明日、皆で決める」
「一人で?」
「行かない」
「よかったです」
レクスは。
釣り竿。
持ち直す。
「今日は釣る」
「その状況で?」
「今行かないって決めたから」
「……強くなりましたね」
「またそれ?」
「今回は少し意味が違います」
ミリアは。
そう言って。
街へ。
戻っていく。
レクスは。
川。
見る。
黒髪の女たちは。
次に。
何かを。
起こそうとしている。
でも。
その前に。
選ばせる。
何を。
誰に。
なぜ。
まだ。
分からない。
ただ一つ。
確かなことがある。
深層王は。
終わりではなかった。
最初の一体でも。
なかった。
そして今度は。
レクス自身が。
彼らの計画の中へ。
明確に。
組み込まれようとしていた。




