第49話 黒い紋章の少年
その日の夕方、レクスは本当に寝るつもりだった。
Bランク依頼を終え、ギルバートとも別れ、宿へ戻って靴を脱いだところで、窓の外から馬車の止まる音がした。
急いでいる。
車輪の音だけで、何となく分かった。
続いて階下が騒がしくなる。
誰かが宿の主人へ何かを尋ね、駆け足で階段を上がってきた。
レクスは寝台を見た。
扉を見た。
もう一度、寝台を見る。
「……嫌な予感するな」
扉が叩かれた。
「レクスさん!」
聞き慣れたギルド職員の声だった。
「やっぱり」
「すみません、緊急です!」
その一言で、レクスは立ち上がった。
休みたい。
眠い。
馬車にも揺られた。
でも、「緊急」と言われたら話は別だった。
扉を開ける。
「誰か死にそう?」
「今すぐではありません。ただ……」
職員が、言いにくそうに声を落とす。
「右手に、黒い紋章があります」
眠気が消えた。
◇
ベルン冒険者ギルドの治療室には、十六歳ほどの少年が寝かされていた。
痩せている。
というより、長くまともな食事を取っていなかったような身体だった。
頬はこけ、唇は乾いている。灰がかった茶髪は伸び放題で、旅装束も何日も洗っていないらしく泥と汗の匂いが染みついていた。
拾った荷馬車の御者によれば、ベルンへ向かう北東街道の脇で倒れていたという。
盗賊に襲われた形跡はない。
深い外傷もない。
ただ、疲労と栄養不足がひどい。
そして。
「これです」
ミリアが毛布の端を少しだけ上げる。
少年の右手。
手首から甲へ。
黒い紋章。
旧バルハで見たものと、完全に同じではない。
線の数。
中央部の形。
少し違う。
でも。
系統は。
同じに見えた。
「似てる」
レクスが言う。
「黒髪の女の?」
背後からギルバート。
レクスが振り返った。
「帰ったんじゃなかった?」
「帰ったよ」
「じゃあ何でいる」
「ギルドから呼ばれた」
「早いな」
「俺も同じこと思ってる」
クラウディアも来ていた。
その少し後ろにはローディス。
さすがに今回は、黒紋組織が絡む可能性があるため、ギルドだけで抱え込まず騎士団へも連絡したらしい。
「アデルは?」
レクスが聞く。
「王都です」
ローディスが答える。
「通信術式で概要は送った。必要なら来るそうだが、今夜中は難しい」
「ガレンは?」
「同じだ」
「じゃあ俺が見る?」
「待って」
クラウディアが止めた。
「本人が起きてから」
「何で?」
「人間でしょう」
その言葉で。
レクスは。
右手を伸ばしかけていたことに気づく。
「ああ」
「魔物や祭壇なら勝手に見てもいいけど」
「人間は駄目」
「そう」
以前。
自分で決めた。
力があるから使う。
それだけでは駄目。
「起きるまで待つ」
「それがいいわ」
◇
少年が目を覚ましたのは、夜になってからだった。
最初に動いたのは指だった。
次に、呼吸が浅くなる。
瞼が開いた瞬間。
少年は自分のいる場所を理解しようと、天井、壁、窓、扉、周囲の人間へ素早く視線を走らせた。
弱っているのに。
警戒は。
消えていない。
「大丈夫」
ミリアが最初に声を掛ける。
「ここはベルン冒険者ギルドです」
少年が。
毛布を掴む。
「……ベルン?」
「はい」
「王国の?」
「そうです」
その返事を聞いた瞬間。
少年の顔から。
少しだけ。
力が抜けた。
「着いた……」
声。
小さい。
「ベルンへ来たかった?」
クラウディアが聞く。
少年はすぐには答えない。
何人いるか。
武器を持っている者。
出口。
全部。
見てから。
「……たぶん」
「たぶん?」
ギルバートが聞く。
少年が。
苦しそうに眉を寄せる。
「分からないんです」
「名前は?」
レクスが聞く。
「ノア」
そこは。
すぐ答えた。
「姓は?」
「ありません」
「年齢」
「十六」
「どこから来た?」
ノアの口が。
止まる。
「北」
「どの国?」
「……分からない」
「町は?」
「分かりません」
「何でベルンへ?」
少年は。
また。
頭を押さえた。
「それも……」
呼吸が。
少し。
速くなる。
「無理に思い出さなくていい」
クラウディアがすぐ言った。
ノアが。
少し驚いて彼女を見る。
「でも」
「今ここで全部話せなくても、追い出したりはしないわ」
「本当に?」
「少なくとも、話せないだけで街道へ戻したりはしない」
ノアは。
毛布を。
強く握る。
疑っている。
でも。
信じたい。
そんな顔だった。
◇
「右手」
レクスが言うと。
ノアの顔色が変わった。
反射的に。
毛布の中へ隠す。
「見せなくていい」
レクスはすぐ言った。
「今は」
少年の肩。
少し下がる。
「知ってる?」
「……何を」
「その紋章」
返事。
遅い。
「知ってます」
「誰につけられた?」
ノアの瞳が。
揺れた。
「……あの人たち」
室内の空気が。
変わる。
「黒い紋章を持つ人たち?」
ローディス。
「はい」
「組織名は?」
「知りません」
「知らされてない?」
「違う」
ノアが。
首を振る。
「知ってた気がする」
「気がする?」
「頭の中に」
右のこめかみ。
触れる。
「穴があるみたいで」
レクスは。
黙って聞く。
「思い出そうとすると」
ノアが。
言葉。
探す。
「途中まで出るんです。でも」
「消える?」
「はい」
「人の顔も?」
「あります」
「場所も?」
「あります」
「自分のことは?」
ノア。
少し。
黙る。
「名前と年齢。あと」
「あと?」
「逃げたこと」
そこだけ。
はっきり。
「どこから?」
「分からない」
「誰から?」
ノアは。
右手を見る。
「あの人たちから」
◇
「逃げた理由は?」
ギルバートが聞く。
ノアは。
困ったように。
笑った。
「それも全部は」
「覚えてない?」
「はい。でも」
少年の口元が。
震える。
「怖かった」
そこだけは。
記憶ではなく。
身体に残っている。
「何が?」
「呼ばれること」
「誰に?」
「上の人に」
「何される?」
「……」
ノアの呼吸。
速くなる。
「やめよう」
レクスが言った。
ギルバートが。
すぐ頷く。
「悪い」
「いえ」
「今日はそこまででいい」
「でも、俺」
ノア。
周囲。
見る。
「話さないと」
「何で?」
「役に立たないと」
その言葉。
妙に。
早かった。
「誰に言われた?」
レクスが聞く。
ノアが。
止まる。
「分かりません」
「でもそう思う?」
「はい」
「何で?」
「役に立たないと」
また。
同じ。
「捨てられるから」
室内が。
少しだけ。
静かになった。
レクスは。
黒い紋章より。
その言葉の方が。
嫌だった。
◇
「俺が見ることはできる」
しばらくして。
レクスが言った。
ノアが。
警戒する。
「何を」
「紋章」
「……どうやって」
「弱体化魔法」
「壊す?」
「まだ壊さない」
「まだ?」
「危ない機能があるか分からないから」
ノアの顔。
さらに。
青くなる。
「危ない?」
「例えば、外から監視してるとか」
少年の右手。
僅かに震えた。
反応。
ある。
「心当たり?」
「……見られてる」
「分かる?」
「時々」
「どんな感じ?」
「目じゃない」
ノアが。
右手の甲。
指。
「ここが熱くなる」
「いつ?」
「逃げてから」
「どのくらい?」
「何回か」
「今は?」
ノア。
少し。
待つ。
「熱くない」
「じゃあ」
レクスは。
距離を保ったまま。
「見るだけなら、触らない」
「できるんですか」
「ある程度」
「痛い?」
「たぶん痛くない」
「たぶん?」
「本人にやる前に断言はしない」
ノアは。
少し。
迷った。
でも。
「……お願いします」
「本当に?」
「はい」
「嫌になったら言って」
「途中でも?」
「途中でも」
少年。
少し。
驚いた顔。
「止めていいんですか」
「当然だろ」
「……そうなんですね」
また。
嫌な言い方だった。
◇
《深淵呪詛》。
まず。
触れない。
見る。
黒い紋章。
その中。
複数。
機能。
「……多いな」
「何が?」
クラウディアが聞く。
「一つの術式じゃない」
「いくつ?」
「まだ分からない」
表面。
識別。
認証。
次。
拘束。
その奥。
「記憶」
レクスが言う。
ノアが。
身体を強張らせる。
「何?」
ギルバート。
「記憶に繋がってる」
「消してる?」
「たぶん」
もっと。
見る。
「いや」
「違う?」
クラウディア。
「全部消してるわけじゃない」
レクス。
少し。
眉を寄せる。
「触れようとすると遮る」
「特定の記憶だけ?」
「そう」
組織名。
拠点。
上位者。
術式。
そういう。
何か。
鍵。
ある。
「思い出そうとすると?」
「閉じる」
「だから穴みたいになる?」
「たぶん」
ノア。
唇。
噛む。
「治せますか」
「まだ分からない」
「弱くすれば?」
「可能性はある」
その瞬間。
ノアの目。
少し。
明るくなる。
「じゃあ」
「待って」
「何で」
「他にもある」
レクス。
さらに。
奥。
「監視」
ローディスが。
すぐ反応。
「確実か?」
「外部接続線がある」
「どこへ?」
「分からない」
「今も?」
「今は細い」
「切れる?」
「たぶん」
そして。
さらに。
奥。
レクスの感触が。
止まる。
「……これは」
「何?」
クラウディア。
レクス。
答えない。
もう少し。
見る。
そこ。
黒い。
小さい。
核。
条件。
何か。
一定。
満たす。
すると。
「ノア」
「はい」
「今から少し怖いこと言う」
少年の顔。
固まる。
「何ですか」
「この紋章」
レクス。
言葉。
選ぶ。
「壊そうとした時に、自分で反応する機能がある」
「反応?」
「たぶん」
誤魔化さない。
「お前を傷つける」
ノアの瞳。
止まる。
「どのくらい」
「まだ分からない」
「死ぬ?」
室内。
静か。
「可能性はある」
ノアの呼吸が。
浅くなる。
ギルバートが。
何か言おうとする。
レクスは。
先に。
「だから今は壊さない」
「でも」
「順番がある」
「何を」
「まずそれを弱くする」
ノアが。
レクスを見る。
「できる?」
「やってみないと分からない」
「九十九パーセント?」
「必要なら」
でも。
人間。
慎重に。
◇
「まず記憶遮断だけ」
レクスは。
宣言する。
「何で?」
ローディス。
「自壊機能に触る前に、紋章がどう反応するか見たい」
「妥当だ」
「ノア」
「はい」
「途中で何か変なら言って」
「分かりました」
「痛い、熱い、息苦しい、頭痛、何でも」
「はい」
《深淵呪詛》。
対象。
記憶遮断。
「十パーセント」
ノア。
目。
閉じる。
「どう?」
「……少し」
「何?」
「頭の中」
呼吸。
「さっきより近い」
「何が?」
「思い出せそう」
「まだ触らない」
「はい」
二十。
三十。
「右手?」
「少し熱い」
「止める」
即。
レクス。
止める。
「戻す?」
「……いえ」
「本当に?」
「まだ大丈夫」
熱。
何を。
意味する。
監視。
自壊。
どちらか。
「監視線が反応してる」
レクス。
見る。
「記憶遮断を弱めたのを、外へ知らせてる?」
クラウディア。
「可能性高い」
「なら先に監視」
「そうする」
対象変更。
「遠隔接続効率低下」
十。
二十。
三十。
こちら。
通りやすい。
「五十」
紋章。
熱。
下がる。
「六十」
ノア。
息を吐く。
「冷たくなった」
「いつもと比べて?」
「はい」
「七十」
外部接続。
細く。
なる。
「これなら」
「切れる?」
ギルバート。
「切る前に」
レクス。
さらに。
「自壊側を見る」
◇
自壊。
というより。
処分。
条件式。
レクスが見た。
いくつか。
「一つじゃない」
「何が?」
ローディス。
「発動条件」
「列挙できるか」
「たぶん」
紋章破壊。
強制解除。
特定情報の想起。
外部接続切断。
そして。
もう一つ。
「……命令」
「誰の?」
「分からない」
「遠隔?」
「たぶん」
ノア。
青ざめる。
「俺」
「何?」
「逃げても」
声。
震える。
「ずっと」
右手。
見る。
「逃げられてなかった?」
レクスは。
すぐには。
慰めなかった。
「今までは」
正直に。
「でも」
紋章。
見る。
「ここからは違う」
「本当に?」
「少なくとも、俺たちが何も知らない状態じゃない」
クラウディアも。
続ける。
「騎士団もいる。ギルドもいる。あなた一人じゃない」
ノア。
口。
少し。
歪む。
「そういうの」
「何?」
「言われたことない」
クラウディアが。
何も言わず。
少し。
目。
細める。
◇
「自壊機能」
レクス。
狙う。
「効率低下から」
「どのくらい?」
ギルバート。
「最初は十」
「慎重だな」
「人間だから」
「ああ」
十。
十五。
二十。
反応なし。
「ノア?」
「何も」
三十。
紋章。
黒い線。
僅か。
揺れる。
「止める?」
「……続けてください」
「本当に?」
「はい」
四十。
五十。
そこで。
黒い紋章が。
急に。
発光した。
「レクス!」
クラウディア。
「分かってる!」
自壊機能。
反応。
でも。
爆発。
ではない。
警告。
外部接続。
再活性。
「向こうから来た!」
レクス。
叫ぶ。
「何が!」
ローディス。
「接続!」
監視線。
急に。
太くなる。
誰かが。
向こう側から。
紋章へ。
触れた。
「切る!」
レクス。
遠隔接続。
一気に。
「八十!」
黒い光。
強く。
なる。
「自壊も!」
五十。
もっと。
「七十!」
ノア。
身体。
硬直。
「熱い!」
「どこ!」
「腕! 胸も!」
「胸?」
レクス。
見る。
紋章。
右手だけではない。
内部。
魔力線。
心臓側へ。
「最初から繋がってた?」
嫌な。
構造。
「ノア、息!」
「苦しい!」
「ギルバート!」
「何!」
「身体押さえないで! 暴れたら周りだけ守って!」
「分かった!」
「クラウディア、治癒術師!」
「呼ぶ!」
レクス。
さらに。
自壊。
「八十!」
発動。
遅くなる。
でも。
止まらない。
「九十!」
心臓へ。
黒い線。
進む。
「レクス!」
ローディス。
「まだ!」
レクス。
対象。
自壊効率。
ではない。
命令。
そのもの。
「遠隔命令伝達――九十九!」
黒い光。
途切れる。
心臓側。
進行。
止まる。
ノア。
大きく。
息。
吸う。
「っ……は……!」
「自壊!」
レクス。
さらに。
「九十五!」
黒線。
弱い。
「九十八!」
あと。
一。
「九十九!」
止まった。
◇
室内。
静か。
ノアの呼吸。
だけ。
荒い。
レクス。
すぐ。
戻さない。
「治癒術師!」
入る。
脈。
呼吸。
胸。
確認。
「命に別状なし!」
「本当に?」
「はい。ただし魔力経路に軽い損傷があります」
「治る?」
「時間はかかりますが」
レクス。
ようやく。
息。
吐く。
ギルバートが。
横。
「怖かった?」
「ああ」
「言うんだな」
「今は」
「そっか」
軽い。
会話。
でも。
ギルバートも。
顔。
硬い。
怖かった。
たぶん。
同じ。
◇
「レクスさん」
ノアが。
弱い声で呼ぶ。
「何?」
「今」
右手。
見る。
「向こうに」
「誰かいた?」
「分かりません」
「感じた?」
「はい」
「誰」
「分からない。でも」
少年。
目を閉じる。
「声」
「聞こえた?」
「少し」
「何て?」
ノア。
苦しそうに。
思い出す。
「……戻れ」
室内。
空気。
変わる。
「それだけ?」
「あと」
少年の指。
震える。
「思い出すな」
ローディス。
顔。
険しくなる。
「明確な遠隔干渉だな」
「うん」
レクス。
右手。
見る。
「でも今はかなり弱くした」
「監視は?」
「九十近く落としてる」
「切断は?」
「しない」
「なぜ?」
「切断が自壊条件の一つだから」
「なるほど」
「まず自壊を安全に止めてから」
「それなら」
ノア。
「記憶は?」
レクス。
少年。
見る。
「戻したい?」
「はい」
即答。
でも。
手。
震える。
「怖い?」
「はい」
「じゃあ今日はやめる?」
ノア。
迷う。
「……少しだけ」
「どのくらい?」
「思い出せるところまで」
「危なくなったら止める」
「はい」
◇
記憶遮断。
もう一度。
監視。
自壊。
弱体化したまま。
「三十」
ノア。
目を閉じる。
「何か?」
「廊下」
「どこ?」
「石」
「他は?」
「灯り。青い」
旧バルハを思わせる。
でも。
断定しない。
「四十」
ノアの眉間。
皺。
「人」
「誰?」
「何人も」
「知ってる?」
「顔が」
苦しい。
「消える」
「戻す?」
「まだ」
「五十」
記憶。
少し。
開く。
「俺」
「うん」
「訓練」
「何の?」
「紋章」
「つける前?」
「後」
「何をさせられた?」
「覚える」
「何を?」
「……遺跡」
ローディス。
目。
変わる。
「どの遺跡?」
「分からない」
「他は?」
「地図」
「どこ?」
「……北」
「黒髪の女は?」
ギルバートが聞く。
ノアの呼吸。
急に。
乱れる。
レクス。
すぐ。
「止める」
記憶遮断。
弱体化。
少し戻す。
ノア。
息。
整う。
「聞かない方がよかった?」
ギルバート。
少し。
後悔。
「今は」
レクス。
「また後で」
「悪い」
ノア。
首。
小さく。
振る。
「違う」
「何が?」
「女の人」
ノア。
苦しそうに。
「いた」
全員。
見る。
「黒髪?」
クラウディア。
「たぶん」
「右手に紋章?」
「はい」
「何してた?」
ノア。
目。
閉じる。
「……選んでた」
「何を?」
「人」
室内。
静か。
「どういう意味?」
「分からない」
「でもそう感じた?」
「はい」
ノア。
震える。
「使える人と」
息。
「使えない人」
◇
「俺は」
ノアが。
続ける。
「使える側だった」
「何に?」
レクス。
「分からない」
「何で分かる?」
「言われたから」
「誰に?」
「……顔が出ない」
「言葉だけ?」
「はい」
「何て」
ノア。
唇。
乾く。
「『まだ捨てるな』」
クラウディアの顔。
冷える。
「まだ?」
「はい」
「それ」
ギルバート。
拳。
握る。
「人に言う言葉じゃないだろ」
レクスも。
同じ。
思う。
でも。
怒り。
先に。
出さない。
ノア。
今。
一番。
不安。
「逃げた理由」
レクス。
聞く。
「少し思い出せそう?」
「……」
「無理ならいい」
「違う」
ノア。
目。
開く。
「今、少し」
「何?」
「俺」
右手。
見る。
「次に呼ばれたら」
声。
震える。
「戻ってこないって、思った」
「どこへ?」
「分からない」
「でも?」
「前に呼ばれた人が」
喉。
詰まる。
「戻らなかった」
◇
それ以上。
今日は。
やめた。
レクスが。
止めた。
ノアは。
まだ話すと言った。
役に立ちたい。
情報を出したい。
でも。
「駄目」
レクスが言った。
「何で」
「疲れてる」
「まだ大丈夫」
「顔色悪い」
「でも」
「明日でもいい」
「逃げられたら?」
「誰に」
「あの人たち」
「今夜中に?」
「分かりません」
「分からないなら」
レクス。
言う。
「今のお前の身体を先にする」
「でも情報が」
「消えないように、記憶遮断だけ少し落としたままにしてる」
「危なくない?」
「監視と自壊も落としてる」
「それ、ずっと?」
「俺が寝るまで」
「寝たら?」
「解除する」
ノアの顔。
強張る。
「戻る?」
「完全には」
レクス。
少し考える。
「今夜だけは術式師に監視してもらう」
ローディスが。
頷く。
「騎士団側から二名出す」
「ギルドも」
ミリア。
「夜番を置きます」
ノア。
全員。
見る。
「そこまで」
「する」
クラウディア。
「何で」
「あなたが今、保護対象だから」
「でも俺」
「何?」
「何も返せない」
また。
それ。
レクスは。
少し。
苛立った。
ノアにではない。
そう思わせた。
何かに。
「返さなくていい」
「でも」
「寝ろ」
「命令?」
「お願い」
ノア。
少し。
戸惑う。
「お願いなんですか」
「そう」
「俺、断っても?」
「いい」
少年。
しばらく。
黙る。
やがて。
小さく。
「じゃあ」
毛布。
掴む。
「今日は寝ます」
「うん」
◇
治療室を出た後。
ローディスが。
低い声で言った。
「組織は、構成員自身へ自壊術式を入れている」
「ああ」
「記憶遮断も」
「ああ」
「監視も」
「ああ」
ギルバート。
壁へ。
背。
預ける。
「深層王だけじゃないんだな」
「何が?」
「自分の意思を弄る」
レクス。
黒髪の女たち。
思い出す。
深層王。
飢餓。
吸収。
自己認識。
今度は。
人間。
記憶。
監視。
処分。
「似てる」
クラウディアが言う。
「深層王と?」
「完全には違う。でも」
彼女。
声。
少し。
硬い。
「本人より、組織に都合のいい状態へする」
「ノアも?」
「少なくとも」
レクス。
答える。
「自由にはしてない」
◇
「一つ気になる」
ローディスが言った。
「何?」
「なぜベルンを目指した」
「本人も覚えてない」
「記憶遮断の対象に含まれている可能性は?」
「ある」
「つまり」
クラウディア。
「誰かが、彼にベルンへ来る理由を与えた?」
「あるいは」
ギルバート。
「逃げる途中で自分で決めた」
「どっちもある」
レクス。
「明日、本人が思い出せれば」
「それまでは?」
「待つ」
ギルバートが。
少し。
笑う。
「釣りで覚えた?」
「何が」
「待つ」
「前からできる」
「最近増えた」
「お前に言われたくない」
緊張。
少しだけ。
抜ける。
でも。
終わっていない。
◇
その夜。
レクスは宿へ戻った。
本当に。
疲れていた。
靴。
脱ぐ。
寝台。
座る。
でも。
すぐには。
眠れない。
ノアの。
言葉。
『役に立たないと捨てられる』
どうしても。
残る。
昔。
自分も。
役に立たない。
無能。
そう言われた。
でも。
ノアとは違う。
レクスには。
紋章はなかった。
記憶を閉じる術式も。
逆らえば。
自分を壊す仕掛けも。
なかった。
「……面倒な組織だな」
独り言。
その時。
窓。
小石。
当たる。
レクス。
立つ。
外。
見る。
下。
ギルバート。
「何してる」
「入れて」
「何で」
「ギルドから伝言」
「普通に来いよ」
「宿もう閉まってる」
「じゃあ明日で」
「今」
嫌な。
感じ。
レクス。
階下。
降りる。
◇
裏口。
開ける。
ギルバート。
息。
少し。
上がっている。
「何?」
「ノアの紋章」
レクス。
顔。
変わる。
「また反応?」
「違う」
「じゃあ」
「術式師が見てたら」
ギルバート。
言う。
「外部接続が一瞬だけ、完全に消えた」
「切れた?」
「向こうから」
「何で?」
「分からない」
「ノアは?」
「寝てる」
「自壊は?」
「動いてない」
レクス。
すぐ。
ギルドへ向かう。
◇
治療室。
ノア。
眠っている。
右手。
黒い紋章。
さっきより。
薄い。
「……何これ」
レクス。
見る。
遠隔接続。
ない。
いや。
閉じた。
向こう側。
自分から。
「監視やめた?」
ギルバート。
「分からない」
「何で今」
「分からない」
レクス。
紋章。
もっと。
見る。
すると。
新しい。
何か。
表面。
出ている。
文字。
ではない。
記号。
ほんの。
一瞬。
浮かぶ。
「待って」
「何?」
レクス。
近づかない。
読む。
意味。
直接。
頭へ。
入る。
「……識別」
「誰の?」
クラウディアも。
呼ばれて。
来ている。
「ノアじゃない」
「じゃあ?」
レクス。
嫌な。
感触。
「俺」
全員。
見る。
「何て?」
レクス。
紋章に。
浮かんだ。
短い。
識別情報。
それを。
声にする。
「《減らす者》」
室内。
静か。
「何それ」
ギルバート。
「分からない」
「でも」
クラウディア。
黒い紋章。
見る。
「向こうは、あなたを識別してる?」
「たぶん」
「ノアの紋章を通して?」
「たぶん」
「じゃあ」
ギルバート。
顔。
険しい。
「こいつを逃亡者として切ったんじゃない」
レクス。
ノア。
眠る顔。
見る。
「俺たちに渡した?」
答え。
ない。
でも。
一つだけ。
分かる。
黒髪の女たちの組織は。
ノアがベルンへ来たことを。
もう。
知っている。
そして。
レクスが。
その紋章へ触れたことも。
知っている。
右手の黒い線は。
静かに。
沈黙していた。




