第43話 消えた黒髪の女
北東の小国から届いた資料には、黒髪の女の名前がなかった。
正確には、名前を名乗った記録が一つもない。
代わりに残っていたのは、目撃証言と、妙に似通った行動記録だった。
「三年前、ルーディア山岳国の封印洞窟」
翌朝。
王都外交局の会議室で、担当官が資料を読み上げる。
「二年前、ヴァルナ公国西部の地下礼拝堂。一年半前、旧セレス修道院跡。その後、北方の石棺遺跡と、今回の旧バルハ廃都」
卓上の地図へ。
赤い印が。
一つずつ。
増えていく。
レクスは。
その位置を見た。
「全部、古い遺跡?」
「はい」
「ただの遺跡ではありません」
アデルが横から口を挟む。
「少なくとも、確認できている四地点には封印術式、隔離術式、あるいは封鎖された地下区画があります」
「全部、深層王みたいな何かがいる?」
「そこまでは分かりません」
担当官が首を振る。
「現在も封印対象が存在する場所もあれば、数百年前に機能を失った遺跡もあります」
ギルバートが腕を組んだ。
「じゃあ、あの女は災厄を片っ端から起こしてるわけじゃない?」
「少なくとも、その証拠はありません」
「旧バルハではやった」
「ええ」
「他では?」
「起きていない?」
クラウディアが聞く。
担当官は資料をめくった。
「確認されていません。むしろ不自然なくらい何も起きていない場所があります」
「入っただけ?」
「それも分かりません」
レクスは。
少しだけ。
眉を寄せた。
「何をしてたか見た人は?」
「ほとんどいません。ただ、一件だけ」
担当官が。
別の記録を出す。
「旧セレス修道院跡で、現地の遺跡管理人が黒髪の女と会話しています」
「内容は?」
「短いものです」
紙。
読む。
「『ここにはもういない』」
それだけ。
「誰が?」
フィンが聞く。
「分かりません」
「それで終わり?」
「その後、女は何も盗まず、封印も壊さず、立ち去ったそうです」
「……何しに行ったんだ」
バルガスが言う。
誰も。
すぐ答えられなかった。
◇
「見つけたものを起こす」
セシリアが言う。
「それなら分かりやすいけど」
「違いそうね」
クラウディアが地図を見る。
「起こす価値があるか調べてる?」
「価値?」
ギルバートが聞く。
「危険度。能力。利用できるかどうか」
「利用?」
レクスは。
旧バルハ地下を思い出す。
深層王。
自然に。
生命を吸う。
傷つけば。
さらに吸う。
再生する。
強くなる。
そして。
その核。
最後に見つかった。
赤い人工術式。
「深層王は」
レクスが言った。
「起こされただけじゃなかった」
アデルが。
すぐ反応する。
「そうです」
「どういうこと?」
外交局の担当官が尋ねる。
アデルは。
昨日の報告書とは別に。
持参した術式図を広げた。
「これが深層王本体」
中央。
巨大な円。
「こちらが四百年前の封印」
その周囲。
「そして」
赤い線。
内側へ。
「これが後付けされた覚醒術式です」
「単に起こす術式ではない?」
「私は、そう考えています」
アデルは。
紙の一部を指差した。
「ここ」
「何?」
「刺激量の調整ではありません」
「じゃあ?」
「性質の固定」
部屋が。
静かになる。
「固定?」
セシリアが聞く。
「深層王が持っていた『飢餓』、吸収、再生、外部魔力依存。それらのうち、特に飢餓と吸収を強調する方向へ術式が働いていました」
「つまり?」
ギルバートが言う。
「元から人を食う化け物だったんじゃないのか?」
「そうです」
「じゃあ何を固定した?」
「その部分だけを」
アデルが答える。
「深層王は、確かに元々周囲の生命力や魔力を吸収する性質を持っていました。しかし、それしかない存在だったかは分からない」
「……あ」
レクスが声を出す。
最後。
核を砕く前。
深層王は。
話した。
『我でなくなる』
覚醒術式を外そうとした時。
そう言った。
「思い出した?」
クラウディアが聞く。
「ああ」
「何を?」
「赤い術式を外した時」
レクスは。
できるだけ正確に話す。
「深層王が『我でなくなる』って言った」
「それ」
アデルの顔が変わる。
「報告にはありましたけど、やっぱり重要です」
「どういう意味?」
バルガスが聞く。
「もし赤い術式が、ただ目覚めさせるだけなら」
アデルは。
深層王の核。
そこへ引かれた。
赤い線を見る。
「外されて『自分でなくなる』とは言わないでしょう」
「じゃあ」
セシリアが考える。
「術式込みで、自分だと思わされてた?」
「可能性があります」
「誰かに?」
「はい」
「黒髪の女たちに?」
「それも」
レクスは。
首を振る。
「まだ分からない」
その場の全員が。
レクスを見る。
「何?」
「今、お前が一番慎重だなと思った」
ギルバートが言う。
「分からないことを決めつけても仕方ないだろ」
「そうなんだけど」
「何?」
「昔なら『たぶんそうだ』で動いてた気がする」
「最近の俺、そこまで信用なかった?」
「自分で聞く?」
クラウディアが笑う。
レクスは。
少しだけ。
不満だった。
◇
「整理しましょう」
王国側の担当官が言った。
「黒髪の女たちの組織は、少なくとも複数の古代遺跡を調査している」
「はい」
「すべてを破壊しているわけではない」
「確認されている限りでは」
「すべての封印を解いているわけでもない」
「はい」
「旧バルハだけは、深層王の覚醒を進めた」
「そうです」
担当官は。
一度。
黙る。
「なら」
ディアスが言った。
「深層王だからやった理由がある」
「能力?」
マリアナが聞く。
「あるいは性質」
アデルが答える。
「吸収能力が欲しかった?」
フィンが。
少し嫌そうに言う。
「何に使うんです?」
「分からない」
「またですか」
「分からないものは分からないです」
「最近それ聞き慣れました」
「いいことですよ」
「そうです?」
「適当に答えられるよりは」
レクスが。
赤い術式図を見る。
「深層王を操ろうとしてた?」
「完全制御ではないと思います」
アデル。
「なぜ?」
「暴走したからです」
そうだった。
黒髪の女自身。
予定より早い。
そう言っていた。
完全覚醒を。
望んでいたわけでもない。
少なくとも。
あの時点では。
「じゃあ試してた?」
クラウディアが言う。
「何を?」
ギルバート。
「深層王に、自分たちの術式をどこまで入れられるか」
「……実験」
セシリアが嫌な顔をする。
「人が百九十三人巻き込まれた実験?」
「それなら」
マリアナの声が冷える。
「なおさら許せません」
その感情は。
当然だった。
トルメ村で。
実際に。
人が衰弱した。
眠れない。
胸が苦しい。
命を吸われた。
「利用されてたからって」
レクスが言う。
「深層王が何したかは消えない」
マリアナが。
こちらを見る。
「でも、深層王だけが悪かったわけでもない」
「……ええ」
「黒い奴らが何をしたかも別」
「そうですね」
レクスは。
そこを。
混ぜたくなかった。
利用された。
だから。
すべて無罪。
そんな話ではない。
深層王は。
人を喰った。
四百年前にも。
現代にも。
でも。
誰かが。
その性質を利用し。
さらに。
固定し。
増幅していた。
なら。
そちらにも。
責任がある。
◇
北東小国からの資料には。
もう一つ。
奇妙な共通点があった。
「全部」
アデルが地図を見て言った。
「同じ順番で回ってるわけじゃない」
「何が?」
「遺跡」
赤い印。
点々。
「距離順でもない。国境順でもない。時系列に並べても、移動効率が悪すぎる」
「何でそんなことする?」
「探しているものが場所じゃないからでは?」
エルドが言う。
「どういう意味?」
「遺跡そのものではなく、中身じゃ」
「中身」
「封じられているもの。残された術式。古代の遺物。何でもよい」
エルドは。
地図を。
指でなぞる。
「目的の条件に合うものだけを探しておる」
「じゃあ」
ギルバートが言う。
「『ここにはもういない』っていうのも」
「探していた対象がすでに消えていた」
「可能性はある」
担当官が頷いた。
「なら、黒髪の女が出入りした場所を調べれば」
「次が分かる?」
クラウディア。
「全部分かるとは限りません」
担当官。
「ただし、共通条件は絞れるかもしれません」
「調べるのは?」
レクスが聞く。
担当官が。
一瞬。
嫌な予感のする顔をした。
「合同調査班を編成する予定です」
「俺は?」
「現時点では参加要請していません」
「本当に?」
「はい」
レクスは。
少し。
安心した。
「よかった」
ギルバートが笑う。
「顔に出るなあ」
「休みたいから」
「分かる」
「ただし」
担当官が続ける。
レクスの顔が。
すぐ戻る。
「ただし?」
「調査の結果、レクス殿の能力が必要と判断された場合には、相談を」
「依頼?」
「はい」
「断れる?」
「特別協力冒険者としては」
「なら大丈夫」
「お前、そこ本当に大事にするようになったな」
ギルバートが言う。
「大事だろ」
「大事だけど」
「休みなくなるから」
「世界を救った後に一週間休むっていう目標、そこまで難しいか?」
「今のところ難しい」
「気の毒になってきた」
「他人事みたいに言うな」
◇
会議が。
一度。
休憩へ入る。
王城内。
窓のある小部屋。
レクスは。
水を飲んでいた。
クラウディアが。
隣の椅子へ座る。
「どう思う?」
「何が?」
「あの女」
「黒髪の?」
「そう」
レクスは。
少し考える。
「嫌い」
「即答」
「人から命取った」
「そこは分かる」
「でも」
「でも?」
「全部分からない」
「何が?」
「目的」
旧バルハ地下。
黒髪の女。
レクスたちを。
止めなかった。
むしろ。
来ることを。
待っていた。
深層王を。
弱くできるか。
見たかった。
「俺を殺したいなら」
「機会はあった?」
「あったと思う」
「それでも殺さなかった」
「むしろ地下まで通した」
「試された?」
「たぶん」
クラウディアは。
少し。
窓の外を見る。
「気に入られてるわね」
「嫌だな」
「そう?」
「何で嬉しそうなんだ」
「面倒そうだから」
「人の面倒を楽しむな」
「少しだけよ」
「少しならいいと思ってる?」
「かなり」
「正直だな」
◇
廊下側から。
ギルバートが入ってきた。
「いた」
「何?」
「探してた」
「また?」
「今回は釣りじゃない」
「何で分かる」
「王城だぞ」
「そうだった」
ギルバートは。
レクスの向かいへ座る。
「一個聞きたい」
「何?」
「深層王」
「うん」
「最後、会話してたよな」
「ああ」
「お前は」
少し。
言い方を探す。
「可哀想だと思った?」
クラウディアが。
ギルバートを見る。
少し。
意外そうだった。
レクスも。
すぐには答えなかった。
「少し」
正直に言う。
「でも」
「うん」
「倒さない方がよかったとは思わない」
「そうか」
「放っておけば人を喰った」
「ああ」
「それに」
レクスは。
手の中の水を見る。
「利用されてたからって、やったこと全部なくならない」
「うん」
「でも、利用した奴が悪くないことにもならない」
「……そうだな」
ギルバートが。
少し。
息を吐く。
「何で聞いた?」
「俺」
「うん」
「昔なら、たぶん考えなかった」
「何を?」
「魔物が悪い。倒した。終わり」
レクスは。
黙って聞く。
「でも深層王と話してるお前見て」
ギルバートは。
少し苦笑する。
「変な感じした」
「何が?」
「敵なのに、完全に『敵』だけじゃないっていうか」
「難しく考えすぎじゃない?」
「お前が言う?」
「俺、そんな考えてない」
「嘘つけ」
「本当」
「じゃあ何で最後に話聞いてた」
「向こうが喋ったから」
「それだけ?」
「それだけ」
クラウディアが。
吹き出した。
「何?」
「二人とも、面倒くさいところが違うのね」
「褒めてないだろ」
ギルバートが言う。
「全然」
◇
午後。
北東小国からの使者本人が到着した。
年齢は四十前後。
痩せた男。
地味な茶色の外套。
外交官らしい華美さが少ない。
「ヘルムート・レヴァンと申します」
男は。
王国側。
公国側。
両方へ。
同じ深さで頭を下げた。
「今回、情報提供に応じた理由は?」
王国担当官が尋ねる。
「こちらも困っているからです」
返答は。
早い。
「黒髪の女?」
「女だけではありません」
「集団?」
「ええ」
ヘルムートは。
新しい紙を出した。
「我が国では、彼女たちを便宜上『黒紋の旅人』と呼んでいます」
「正式名称?」
「違います。右手に同じ系統の紋章を持つ者が複数確認されたため、役所内でそう呼んでいるだけです」
「組織名は?」
「不明」
「誰も名乗らない?」
「正確には」
ヘルムートが言う。
「聞いても答えない」
「捕まえたことは?」
「ありません」
「逃げる?」
「それもあります」
男は。
少し。
顔をしかめた。
「ですが、こちらから敵対行為をしない限り、向こうも攻撃してこない例が多い」
「旧バルハと違うな」
ギルバート。
「ええ」
「なら余計に」
クラウディアが言う。
「何を基準に動いてるのか分からない」
「我々もそう考えています」
ヘルムートは。
一枚。
古い報告書を出す。
「二年前。我が国の封鎖遺跡に黒髪の女が侵入した際、警備兵二名が遭遇しました」
「戦闘?」
「いいえ」
「何をした?」
「女は遺跡中央の石棺を見て」
ヘルムートが。
文章を読む。
「『これは違う』」
短い。
また。
それだけ。
「違う?」
アデルが食いつく。
「何と比べて?」
「不明です」
「石棺の中身は?」
「空です」
「元から?」
「少なくとも百年以上前には」
「……また『いない』」
レクスが言う。
「探してるんだ」
「何を?」
ギルバート。
「分からない」
「そこまで来てまだ分からないのか」
「分からないだろ」
「まあ、そうだけど」
◇
「もう一つあります」
ヘルムートが言った。
「こちらは」
少し。
躊躇。
「公式記録ではありません」
「どういう意味?」
「警備兵個人の証言です」
「信用性は?」
「完全には保証できません。ただ、二名が別々に同じことを言っています」
紙。
読む。
「黒髪の女は、石棺を確認した後」
一拍。
「『これでは彼の役に立たない』と言った」
部屋。
静かになる。
「彼?」
セシリア。
「誰」
「不明です」
「深層王より前の話?」
レクスが聞く。
「二年前です」
「俺と会う前」
「少なくとも、あなたが旧バルハの一件へ関わるより前です」
クラウディアが。
レクスを見る。
「あなたじゃない?」
「たぶん」
「でも」
アデルが言う。
「組織がもっと前から『誰か』を探していた可能性はある」
「誰かに使うため?」
「何かを」
ヘルムートが補足する。
「それも断定できません」
レクスは。
黒髪の女の。
あの言葉を思い出す。
『本当に彼ができるなら、それはそれで価値がある』
深層王を。
弱くできる。
そう分かった時。
彼女は。
それを。
喜んでいた。
討伐される危険すら。
許容して。
「……俺じゃないかもしれないけど」
レクスが言う。
「今は俺も、その『彼』に入ってるかもしれない」
「嫌な入り方ね」
クラウディア。
「抜けたい」
「向こうが勝手に入れてるなら難しいでしょう」
「迷惑だな」
◇
夕方。
合同会議は。
ひとまず。
結論を出した。
黒髪の女たち。
正式名称不明。
目的不明。
敵対組織と断定はしない。
ただし。
旧バルハにおける多数の生命力搾取。
封印改変。
深層王覚醒。
それらの事実から。
重大危険対象。
遭遇時。
独断追跡禁止。
接触した場合。
情報確保を優先。
可能なら捕縛。
ただし。
無理に戦闘へ持ち込まない。
「妥当ね」
クラウディアが言う。
「殺害命令じゃないんだな」
ギルバート。
「情報が足りない」
ローディスが答える。
「それに」
レクス。
「逃げる術式持ってる」
「そうだな」
「追ったら罠かもしれない」
「それもある」
ギルバートが。
少し。
笑った。
「俺より慎重だな」
「今はな」
「そこ認めるんだ」
「事実だから」
◇
会議が終わった後。
レクスは。
王城の廊下を歩いていた。
長い一日。
また。
疲れた。
「明日帰れる?」
クラウディアへ聞く。
「中央ギルドの確認が終われば」
「終わる?」
「たぶん」
「たぶんか」
「そこは我慢して」
ギルバートも。
後ろから来る。
「帰ったら釣りだろ?」
「ああ」
「俺も行く」
「何で」
「昨日釣れたから」
「一回釣れただけで?」
「次も行ける気がする」
「そういう時ほど」
「釣れないんだろ?」
「覚えたな」
「成長した」
「自分で言う?」
そんな。
くだらない話をしながら。
廊下の角を曲がった時。
向こうから。
アデルが走ってきた。
「レクスさん!」
「何?」
「ちょっと来てください!」
「緊急?」
「緊急ではないです!」
「じゃあ明日」
「駄目です!」
「最近これ多いな」
「いいから!」
アデルが。
抱えている紙。
赤い術式。
深層王の核。
あの解析記録。
「何か分かった?」
レクスが聞く。
「分かったというより」
アデルは。
息を整える。
「変なんです」
「何が?」
「覚醒術式の構造」
「今さら?」
「今さらだから変なんです!」
「意味分からない」
「深層王を起こすだけなら」
アデルが。
紙を広げる。
「こんな術式いらないんです」
レクス。
クラウディア。
ギルバート。
三人。
足を止める。
「どういうこと?」
「もっと簡単にできます」
「人から吸って」
「はい」
「供給して」
「はい」
「封印壊して」
「それだけでも?」
「目覚めます」
「じゃあ赤い術式は?」
アデルの指。
核。
その中心。
「深層王に」
一度。
言葉を選ぶ。
「何かを覚えさせるための構造に見える」
「覚えさせる?」
「正確には」
アデルの顔から。
研究者の楽しそうな色が。
消える。
「特定の状態を『自分自身だ』と認識させる」
レクスは。
声を出さなかった。
深層王の言葉。
『我でなくなる』
もう一度。
頭の中で。
響いた。
◇
その夜。
追加解析。
アデル。
ガレン。
エルド。
宮廷魔術師数名。
レクスたちは。
付き合うことになった。
「帰りたい」
「もう諦めろ」
ギルバートが言う。
「お前もいるじゃん」
「俺も帰りたい」
「じゃあ帰ろう」
「今は気になる」
「それも分かる」
術式図。
何枚。
重なる。
「ここ」
アデルが言う。
「覚醒出力」
「うん」
「ここが飢餓増幅」
「うん」
「ここが吸収固定」
「うん」
「そして」
中央。
複雑。
環状。
「これ」
「何?」
「自己認識固定」
「そんな術式ある?」
セシリア。
「普通はありません」
「普通は?」
「精神操作術の応用ではあります。ただ、相手は深層王ですよ」
「何が問題?」
「精神構造が人間と違う」
「じゃあ」
「この術式を作った人間は」
アデルが。
紙を見る。
「深層王の精神構造を、ある程度理解していた」
ガレンが。
嫌そうな顔をする。
「あるいは」
「何?」
「長い時間をかけて調べた」
レクスは。
少し。
寒くなった。
深層王。
四百年前。
封印。
その後。
誰かが。
何年。
何十年。
あるいは。
もっと長く。
地下のあれを。
見ていた?
「黒髪の女が?」
「年齢が合いません」
アデル。
「見た目通りなら」
「組織として」
クラウディア。
「それなら可能性はある」
「でも」
ギルバートが言う。
「何のために?」
また。
そこへ戻る。
目的。
分からない。
「深層王を」
レクスが言った。
「もっと深層王らしくした?」
全員。
こちらを見る。
「変な言い方だけど」
「いや」
アデルが。
ゆっくり頷く。
「かなり近いです」
「元からあった飢えを」
「固定する」
「吸収も」
「増幅する」
「それを」
レクス。
続ける。
「自分の性質だと思わせる」
「はい」
「じゃあ」
セシリアが。
嫌そうに言う。
「もし術式がなかったら」
「深層王は?」
「もっと違う存在だった可能性がある」
部屋。
静か。
「穏やかだった?」
フィンが聞く。
「そこまでは」
アデル。
「分かりません」
「人を食わなかった?」
「それも分かりません」
「じゃあ」
「元から危険だった可能性は高いです」
「でも」
「人為的に」
アデルは。
赤い線を指す。
「より『そういう存在』へ寄せられていた」
それが。
今。
分かる範囲の。
答えだった。
◇
「気分悪いな」
ギルバートが言った。
「何が?」
レクス。
「敵を強くするとかじゃない」
「うん」
「敵自身に『お前はこういう奴だ』って押しつける」
「うん」
「それを本人が自分だと思う」
「うん」
「嫌だな」
レクスも。
同じだった。
理由は。
少し。
違うかもしれない。
レクスは。
ずっと。
無能と呼ばれていた。
攻撃魔法が使えない。
敵を弱くするだけ。
見えない。
役に立たない。
そう。
決められていた。
自分でも。
ある程度。
そう思っていた。
違った。
でも。
違うと分かるまで。
時間がかかった。
もし。
誰かが。
魔法で。
それを。
自分自身だと思わせていたら。
「嫌だな」
レクスも言った。
ギルバートが見る。
「珍しく気が合う」
「珍しくは余計」
◇
「これ」
アデルが。
もう一枚。
紙を出す。
「まだ仮説です」
「何?」
「黒髪の女たちが探しているもの」
全員。
見る。
「封印された存在そのものではなく」
「何?」
「特定の性質」
「性質?」
「吸収。再生。精神干渉。地脈制御。そういう」
「能力を集めてる?」
セシリア。
「集めているかは分かりません」
「でも」
「調べている可能性はある」
レクスは。
北東の地図。
複数の遺跡。
それを見る。
「使えるものだけ?」
「そうかもしれません」
「使えないなら」
「『違う』」
クラウディアが。
旧セレスの記録を思い出すように言う。
「空なら」
「『ここにはもういない』」
ギルバート。
「条件に合わなければ」
レクス。
「次へ」
アデルが。
小さく。
頷く。
「そんな感じに見えます」
「じゃあ」
フィンが。
嫌そうな顔をする。
「深層王は『当たり』だった?」
「少なくとも」
アデル。
「何かを試す価値があると判断された」
「その結果があれ?」
「はい」
「最悪ですね」
「同感です」
◇
翌朝。
レクスたちは。
ようやく。
王都を出る準備をしていた。
中央ギルドから。
まだ確認事項はある。
でも。
書面で済むものは。
全部。
書面へ回した。
「本当に帰れる?」
レクスが聞く。
「今度こそ」
クラウディア。
「途中で伝令来ない?」
「知らない」
「嫌なこと言うな」
「でも来ても」
ギルバートが言う。
「緊急じゃなければ断ればいいだろ」
「ああ」
「お前、最近そこ覚えたじゃん」
「便利だな」
「便利じゃなくて普通なんだよ」
「そうなの?」
「たぶん」
「お前も自信ないじゃん」
馬車。
出発。
王都。
遠ざかる。
レクスは。
少しだけ。
安心した。
黒髪の女。
組織。
古代遺跡。
深層王へ刻まれた。
自己認識固定術式。
問題は。
何も。
解決していない。
それでも。
今すぐ。
全部追う必要はない。
国が。
ギルドが。
調査班が。
動く。
自分だけが。
行く必要はない。
「帰ったら何する?」
ギルバート。
「一週間休む」
「今度こそ?」
「ああ」
「釣り?」
「ああ」
「俺も」
「毎日来る気?」
「駄目?」
「三日に一回」
「少なくない?」
「休みたい」
「俺がいると休めない?」
「少し」
「ひどくない?」
「少しだけ」
クラウディアが。
前の席から笑った。
「そこは譲らないのね」
「休みだから」
レクスは。
窓の外を見る。
遠く。
王都の塔。
その先。
もっと。
北東。
黒髪の女が。
今どこにいるか。
分からない。
次に。
何を探しているかも。
分からない。
ただ。
一つだけ。
前より。
分かったことがある。
彼女たちは。
災厄を起こしたいだけではない。
災厄の中にある。
何かを。
見ている。
選んでいる。
そして。
深層王へ。
自分ではない何かを。
「自分だ」と思わせる術式まで。
作っていた。
「気味悪いな」
レクスが。
小さく言う。
ギルバートが。
聞いた。
「何が?」
「黒髪の女たち」
「今さら?」
「今の方が」
「何で?」
「何したいか分からない奴の方が」
レクスは。
少し考え。
「強い魔物より嫌だ」
「それは分かる」
ギルバートも。
窓の外を見る。
「魔物なら、だいたい倒せば終わるからな」
「人間は?」
「終わらないこと多い」
「面倒だな」
「お前最近、人間の方が苦手なんじゃない?」
「昔からかも」
馬車は。
ベルンへ向かって。
ゆっくり進んでいった。




