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第40話 世界最強を雑魚に変える男

 深層王の核、その奥へ食い込んだ赤い術式は、生き物の血管によく似ていた。


 細い線が何本も枝分かれし、青黒い核を包みながら、そのさらに内側へ潜り込んでいる。


 ただし、深層王自身のものではない。


 自然に形成された魔力経路とも違う。


 誰かが後から刻んだ。


 目覚めさせるために。


 弱体化されてもなお動かすために。


「アデル、見える?」


「見えてます! ただ、本体の内側へ直接食い込ませてるせいで、普通に解除したら核まで傷つけます!」


「傷つけたら?」


「深層王そのものへ攻撃したのと同じになる可能性があります!」


「吸収は九十九落としてる」


「でもゼロじゃありません!」


「だよな」


 レクスは深層王から目を逸らさなかった。


 主要能力は、ほぼすべて九十九パーセント低下。


 それでも災害指定級を超える。


 今、さらに核を傷つけて覚醒術式を暴走させれば、何が起こるか分からない。


「ガレン!」


「聞こえとる!」


「術式だけ剥がせる?」


「簡単に言うな、小僧!」


「できるかできないか!」


「構造が読めれば可能性はある!」


「じゃあ読む!」


「おぬしが?」


「俺は弱くする方!」


「なら最初からそう言え!」


 ガレンが地面へ呪札を叩きつける。


 札から伸びた淡い線が、深層王の核を直接触れずに周囲の術式へ絡んだ。


「アデル、術式の起点を探せ!」


「やってます!」


「セシリア、赤い線へ魔力を流すな! 逆じゃ、周囲の古代式へ回せ!」


「今そっちへ変えてる!」


「エルド!」


「地脈は儂が維持する!」


 一気に声が飛ぶ。


 誰か一人の仕事ではない。


 レクスは、その全部を見ようとしなかった。


 さっきまでなら。


 癖で見ていた。


 誰かが失敗した時。


 誰かが遅れた時。


 すぐ自分で補えるように。


 でも今は。


「レクス!」


 ギルバートが叫ぶ。


「こっちは任せろ!」


 深層王の肢が持ち上がる。


 九十九パーセント落ちた筋力。


 それでも。


 石床を砕ける。


「クラウディア!」


「右側!」


「分かった!」


 ギルバートが左。


 クラウディアが右。


 真正面には立たない。


 深層王の目を分ける。


 ドーガンとバルガスも。


 もう敵を止めようとはしなかった。


「バルガス、そっち!」


「見えてる!」


 深層王の肢が横薙ぎに来る。


 二枚の盾。


 斜め。


 当てる。


 流す。


「ぐっ……!」


 バルガスの足が石床を削った。


「右腕!」


 レクスが思わず声を掛ける。


「痺れた!」


「動く?」


「握れる!」


「次は?」


「一回下がる!」


「ドーガン!」


「入る!」


 自然に交代する。


 昔なら、バルガスは意地でも残ったかもしれない。


 今は。


 一歩下がることを。


 恥だと思っていない。


「フィン!」


 クラウディアの声。


「右上の目!」


「見えてます!」


 矢。


 今度は普通の矢。


 ただし。


 深くは撃たない。


 浅く。


 視界だけを潰す。


「命中!」


 深層王の目が閉じる。


「レクス!」


 アデルが叫んだ。


「覚醒術式の外縁、読みました!」


「どこを落とす?」


「最初に術式維持! 次に核との固定力!」


「分かった!」


 レクスは赤い術式へ対象を変える。


 本体ではない。


 人間が作った。


 後付け。


 なら。


「《深淵呪詛》」


 抵抗は。


 深層王ほどではない。


「術式維持――七十六!」


 赤い線。


 揺れる。


「八十四!」


 核へ送り込まれていた赤い光が。


 細くなる。


「九十!」


 アデルが声を上げる。


「落ちてます! 覚醒出力、低下!」


「固定力!」


 次。


「七十一!」


 抵抗。


「八十二!」


 深層王が咆哮する。


『それを』


 頭の中。


『外すな』


「お前も嫌なのか?」


『我は』


「何?」


『満ちねばならぬ』


「それ、お前の意思?」


 深層王が。


 わずかに。


 沈黙した。


 レクスの手が止まりかける。


「レクス!」


 クラウディア。


「今は考えない!」


「分かった!」


 そうだった。


 深層王が自分の意思で覚醒を望んでいるのか。


 誰かに植え付けられた衝動なのか。


 それを確かめる余裕はない。


「固定力――九十!」


 赤い術式が。


 核から。


 僅かに浮いた。


「ガレン!」


「今じゃ!」


 呪札。


 四方。


 固定。


 アデルが術式線へ魔力を流す。


「外します!」


「慎重に!」


「分かってます!」


「本当に?」


「黙って集中させてください!」


「はい」


「素直!」


「今それ言う?」


 セシリアが思わず笑う。


 その瞬間。


 深層王が。


 身体を起こそうとした。


「来るぞ!」


 ギルバート。


 聖剣。


 抜く。


 今度は。


 使っていい。


 ただし。


 核は狙わない。


「《聖断》!」


 光。


 深層王の肢。


 古傷。


 そこへ。


 切る。


 完全には断てない。


 でも。


 軌道が落ちる。


「クラウディア!」


「見えてる!」


 二本の剣。


 同じ傷。


 斬る。


 深層王が。


 姿勢を崩す。


「吸収!」


 アデルが叫ぶ。


「戻ってません!」


「再生!」


「九十九維持!」


「なら続けろ!」


 ギルバートが叫ぶ。


 レクスは。


 少し驚いた。


 自分が言う前に。


 ギルバートが確認した。


 吸収。


 再生。


 昔なら。


 そんなこと。


 気にもしなかった。


「レクス!」


「何!」


「次の聖断、撃つぞ!」


「どこ!」


「左胸部の古傷!」


「核から外れてる?」


「外れてる!」


「撃て!」


「《聖断》!」


 光刃。


 深く。


 皮膜を割る。


 クラウディア。


 すぐ追撃。


 フィン。


 目。


 セシリア。


「小型だけ!」


「残り魔力!」


「二割弱!」


「一発なら!」


「やって!」


「《炎槍》!」


 火線。


 古傷。


 深層王が。


 大きく。


 揺れる。


 なのに。


 回復しない。


 吸わない。


「効いてる!」


 フィンの声。


「普通に効いてます!」


「普通って何だ!」


 バルガスが叫ぶ。


「今までより!」


「それなら分かる!」


     ◇


「外縁固定解除!」


 アデル。


「第二線!」


 ガレン。


「待て!」


「何じゃ!」


「核側が引っ張ってる!」


「レクス!」


「落とす!」


 覚醒術式の核固定。


 九十。


 さらに。


「九十四!」


 赤い線。


 薄くなる。


「九十六!」


 深層王。


 咆哮。


『やめよ』


「まだ言うか」


『我は』


 声。


『我でなくなる』


 レクスの手が。


 ほんの僅かに止まった。


「どういう意味?」


 返事は。


 すぐには来ない。


 代わりに。


 深層王の核から。


 別の感覚。


 流れ込む。


 飢え。


 怒り。


 そして。


 恐怖。


「……怖いのか?」


『……』


「この術式を外されるのが?」


『我は』


 深層王の声。


『満ちるもの』


「それを誰かに決められた?」


『……』


「レクス!」


 ギルバートの声。


「会話は後!」


「ああ!」


 今は。


 終わらせる。


 考えるのは。


 生きてから。


「九十八!」


 覚醒術式の固定。


 あと。


 一つ。


「九十九!」


 赤い線が。


 核から。


 外れた。


「今!」


 ガレンが呪札を引く。


「アデル!」


「反転!」


 赤い術式。


 深層王へ力を送る。


 その流れを。


 外へ。


 向け直す。


「セシリア!」


「入れる!」


「エルド!」


「地脈へ逃がすぞ!」


 四人の魔力。


 重なる。


 赤い術式。


 暴れる。


 でも。


 深層王へ。


 戻らない。


「切れる!」


 アデルの声。


「あと少し!」


「レクス、維持!」


「やってる!」


 覚醒術式。


 九十九パーセント弱体化。


 それでも。


 残り一パーセントが。


 深層王の核へ。


 食い込もうとする。


「しつこいな!」


「元々、深層王級を起こす術式ですよ!」


「それでも一パーセント!」


「だからその一パーセントが大きいんです!」


「知ってる!」


 この戦いで。


 何度。


 思い知らされたか。


 割合だけでは。


 安全は決まらない。


「ガレン!」


「切るぞ!」


「やって!」


 老人の杖。


 赤い線。


 一本。


 断つ。


 アデル。


 もう一本。


 セシリア。


 補助。


 エルド。


 地脈へ。


 流す。


 最後。


 核へ続いていた細い赤光が。


 ぷつりと。


 切れた。


     ◇


 深層王が。


 止まった。


 完全に。


 動きが。


 止まる。


 誰も。


 すぐには動かなかった。


 アデルが。


 測定器を。


 食い入るように見る。


「……覚醒出力」


「どう?」


 クラウディアが聞く。


「低下」


「どのくらい?」


「急速に落ちています」


「深層王本体は?」


「弱体化維持!」


 レクスが確認する。


「吸収九十九、再生九十九、地脈九十九、筋力九十九、速度九十九、防御九十九、魔力九十九!」


 ギルバートが。


 聖剣を構え直す。


「核吸収は?」


「九十九!」


「今度こそ?」


 レクスは。


 もう一度。


 全部を見る。


 隠れた経路。


 赤い術式。


 残っていない。


「今度こそ」


 深く息を吸う。


「攻撃していい」


 その言葉が。


 合図になった。


     ◇


「クラウディア!」


「右側から!」


「俺は左!」


「フィン、上!」


「はい!」


「バルガス!」


「ドーガンと正面を逸らす!」


「セシリア!」


「あと小型二発!」


「エルド!」


「一発だけじゃ!」


「全部使わなくていい!」


「分かっとる!」


 全員が。


 自分で答える。


 自分で考える。


 レクスは。


 もう細かく言わない。


 ただ。


 戻ろうとする弱体化だけを見る。


「筋力九十八!」


「九十九へ戻す!」


 深層王の肢。


 動く。


 遅い。


 それでも。


 脅威。


「左!」


 クラウディアが跳ぶ。


 ギルバート。


 反対。


 深層王の視線が。


 二人へ分かれる。


「今!」


 フィンの矢。


 瞳。


 命中。


 一つ。


 二つ。


 閉じる。


「ドーガン!」


「流す!」


 盾。


 肢。


 斜め。


 バルガス。


 逆側。


「押し返すな! 右へ!」


「分かってる!」


 巨大な肢が。


 石床へ外れる。


「セシリア!」


「《氷槍》!」


 鋭い氷。


 古傷。


 刺さる。


 深層王。


 身体を捻る。


 そこ。


「ギルバート!」


「見えてる!」


 聖剣。


 通常斬撃。


 連続。


 聖断ではない。


 傷を。


 少しずつ。


 広げる。


「一発で決めないのね!」


 クラウディアが言う。


「今さらそれやったらレクスに怒られる!」


「俺だけ?」


「全員にだ!」


「ならいい!」


 クラウディア。


 二本の剣。


 交差。


 皮膜。


 剥ぐ。


 その奥。


 核。


 青黒い。


 露出。


「核!」


 アデルが叫ぶ。


「でもまだ!」


「何が!」


「周囲に魔力膜!」


「防御?」


「本体とは別の最後の防護!」


 レクスが。


 すぐ見る。


 深層王。


 自分自身を。


 最後に。


 核だけ。


 守っている。


「核防御――」


 対象。


「《深淵呪詛》!」


 抵抗。


 もう。


 ほとんどない。


「九十!」


 一気。


「九十五!」


 深層王の声。


『小さきもの』


「何?」


『我を終わらせるか』


 レクスは。


 一瞬。


 答えに迷った。


 こいつは。


 人を喰った。


 四百年前。


 多くを殺した。


 今も。


 放っておけば。


 また喰う。


 それでも。


 深層王自身が。


 誰かに利用されていた部分もある。


 それは。


 たぶん。


 本当だ。


「終わらせる」


 レクスは言った。


「でも」


『何だ』


「お前を起こした奴の責任まで、お前だけに全部押しつける気はない」


 深層王。


 沈黙。


「九十八」


 核防御。


 あと。


「九十九」


 青黒い膜。


 消える。


「ギルバート!」


「ああ!」


「クラウディア!」


「分かってる!」


 二人。


 同時。


 走る。


「待って!」


 レクスが止める。


「何!」


「最後、一人でやる必要ない」


 ギルバートが。


 一瞬。


 こちらを見る。


 意味を。


 分かった。


「そうだな」


 クラウディアも。


 笑う。


「じゃあ合わせましょう」


 バルガス。


 ドーガン。


 肢を。


 左右へ逸らす。


 フィン。


 最後の視界を潰す。


 セシリア。


 小型魔法。


 核の周囲の皮膜だけを剥がす。


 エルド。


 石床。


 深層王の身体がずれないよう固定。


 アデル。


 術式観測。


 ガレン。


 吸収反応なしを確認。


 そして。


 ギルバート。


 クラウディア。


 二人が。


 核へ。


「《聖断》!」


 光。


「――っ!」


 クラウディアの双剣。


 同時。


 同じ一点。


 聖剣の光が。


 核を。


 割る。


 双剣が。


 その亀裂を。


 さらに広げる。


 深層王の身体が。


 大きく。


 震えた。


『――』


 声。


 来ない。


 核。


 砕ける。


 青黒い光。


 消える。


 深層王の全身。


 止まる。


 今度こそ。


 完全に。


     ◇


 しばらく。


 誰も。


 声を出せなかった。


 静かだった。


 あれほど。


 空洞を満たしていた。


 脈動。


 消えた。


 胸を押していた。


 吸収。


 消えた。


 深層王の無数の瞳が。


 一つずつ。


 閉じていく。


 最後。


 一つ。


 レクスを見る。


『小さきもの』


「何?」


『我は』


 声。


 弱い。


『弱かったか』


 レクスは。


 少し考えた。


「いや」


『ならば』


「強かった」


 はっきり言う。


「だから皆で弱くした」


 深層王の瞳が。


 僅かに。


 細くなった。


 笑ったようにも。


 見えた。


『……そうか』


 その言葉を最後に。


 深層王から。


 何も。


 返ってこなくなった。


     ◇


「……終わった?」


 フィンの声が。


 空洞へ響く。


 アデルが。


 測定器を何度も見る。


「生命反応……急速低下」


「急速って?」


「待ってください」


「怖い言い方しないで」


「黙ってください!」


 数秒。


 十秒。


 アデルが。


 大きく。


 息を吐いた。


「停止」


「何が?」


「深層王の生命反応」


 全員。


 動かない。


「完全に?」


 クラウディアが聞く。


「少なくとも測定できる範囲では」


「再生は?」


「なし」


「吸収?」


「なし」


「地脈?」


「切断」


「術式?」


「覚醒式、停止」


 アデルが。


 ようやく。


 笑った。


「討伐成功です」


 誰も。


 すぐ歓声を上げなかった。


 実感が。


 追いつかない。


 最初に座り込んだのは。


 フィンだった。


「もう無理」


「怪我?」


 レクスが尋ねる。


「違います」


「じゃあ」


「安心したら足から力抜けました」


「それは分かる」


「レクスも座れば?」


 クラウディアが言う。


「まだ弱体化維持――」


「もう対象死んでる」


「そうだった」


「癖になってるわよ」


「三年間やってたからな」


「それより長くやりそうね」


 クラウディアも。


 その場へ腰を下ろした。


 ギルバートは。


 聖剣を見ていた。


「どうした?」


 レクスが聞く。


「いや」


 剣を。


 鞘へ戻す。


「昔なら」


「何?」


「俺が倒したって思っただろうな」


 レクスは。


 何も言わなかった。


 ギルバートが。


 自分で続ける。


「最後に聖断を入れたのは俺だし」


「クラウディアもいた」


「だから昔の俺なら、都合よく忘れたかもな」


「自分で言う?」


「言う」


 ギルバートは。


 深層王を見る。


「でも今は」


 吸収を落とした。


 再生を止めた。


 抵抗を落とした。


 術式を切った。


 前衛が時間を作った。


 魔術師が補助した。


 盾役が逸らした。


 弓が視界を奪った。


「俺が最後に斬れたのは」


 ギルバートは笑う。


「全員がそこまで持っていったからだ」


「やっと分かった?」


 セシリアが言う。


「うるさいな」


「三年かかったわね」


「お前も同じだろ」


「そうだけど」


 バルガスも座り込む。


「俺なんて、昔は盾で受けたら俺の功績だと思ってたぞ」


「今回は?」


「受けなかった」


「それが一番役に立ったな」


 ドーガンが言う。


「褒めてんのか?」


「褒めてる」


 笑い。


 小さく。


 地下へ。


 響く。


 四百年前。


 千人を超えるかもしれない人々が。


 倒せなかった存在。


 それを。


 現代の人間たちは。


 倒した。


 誰か一人の力ではなく。


 全員で。


     ◇


「それで」


 ガレンが杖を支えに立つ。


「喜ぶのはよいが」


「何?」


 レクスが尋ねる。


「あの女はどこじゃ」


 空気が変わる。


 黒髪の女。


 灰色外套の男。


 前回。


 別通路へ消えた。


 今日は。


 一度も姿を見せていない。


「レクス?」


 クラウディアが見る。


「気配は?」


「……ない」


「近くには?」


「ないと思う」


「逃げた?」


「たぶん」


 アデルが。


 覚醒術式の残骸を調べる。


「この赤い術式、停止直前に一度だけ外部通信を出しています」


「どこへ?」


「北東」


 レクスが顔を上げる。


「また?」


「はい」


「公国のさらに向こう?」


「可能性があります」


 ガレンが嫌そうな顔をした。


「終わっておらんな」


「深層王は終わった」


 レクスが言う。


「でも、起こした奴らは残ってる」


「追う?」


 ギルバートが尋ねた。


「今は追わない」


「即答だな」


「皆疲れてる」


「お前も?」


「かなり」


「なら安心した」


「何で?」


「お前だけ元気だと、また一人で行きそうだから」


「行かないって」


「最近は信用してる」


「最近は?」


「昔より」


 クラウディアが笑った。


「私も」


「皆、昔の俺を何だと思ってるんだ」


「何でも一人でやろうとする人」


 セシリア。


「休みの日に依頼を拾う人」


 バルガス。


「危険物を見つけると弱体化できるか試したがる人」


 クラウディア。


「魚まで弱くしようとした人」


 フィン。


「それは一回だけだ!」


「やったんですね」


 ギルバートが初めて聞いた顔をする。


「今度詳しく教えろ」


「教えない」


     ◇


 地上へ戻る頃には。


 日が落ちていた。


 旧バルハ廃都の上空を覆っていた。


 青黒い光。


 消えている。


 外周部で待機していた兵士たちは。


 最初。


 何が起きたか分からなかった。


 ローディスが。


 地上通信班へ。


 短く伝える。


「深層王、討伐」


 誰も。


 すぐ反応しなかった。


「……もう一度」


 通信兵が聞き返した。


「深層王を討伐した」


「本当に?」


「本当にだ」


 次の瞬間。


 声。


 広がる。


 最初は。


 一人。


 それから。


 二人。


 十人。


 王国。


 公国。


 どちらの兵かも関係なく。


 歓声。


 レクスは。


 少し離れたところで。


 それを聞いていた。


「前に出ないの?」


 クラウディアが尋ねる。


「何で?」


「一番大きく削ったの、あなたでしょう」


「でも倒したのは皆」


「またそれ?」


「本当だろ」


 クラウディアは。


 しばらくレクスを見て。


 肩を竦めた。


「まあいいわ」


「何が?」


「あなたがそういう人なの、もう知ってるから」


     ◇


 三日後。


 王国とエルディナ公国の双方から。


 正式な確認隊が入った。


 深層王の生命反応なし。


 古代封印術式は停止。


 生命力吸収なし。


 地脈異常も。


 徐々に回復。


 トルメ村の患者にも。


 再発なし。


 国境一帯の魔物の異常移動も。


 数日かけて。


 落ち着き始めた。


 バルディオスのような大物が戻るかどうかは。


 まだ分からない。


 それでも。


 何かから逃げ続けるような。


 あの異常な南下は。


 止まった。


 そして。


 深層王を目覚めさせた者たち。


 黒髪の女を含む組織については。


 姿を消したままだった。


 残された術式。


 黒い札。


 右手の紋章。


 北東へ向けて送られた最後の通信。


 手掛かりはある。


 だが。


 すぐ追跡できるほど。


 単純ではない。


「王都が、今後は正式な合同調査を組むそうだ」


 ローディスが報告書を読みながら言った。


「エルディナ公国も?」


「共同だ」


 ディアスが隣で頷く。


「ここまで一緒にやった以上、今さら別々に探して情報を隠し合う方が面倒だからな」


「最初は揉めてたのに」


「国は面倒なんだ」


「でも今回はまとまった」


「災厄一体が地下で起きかければ、嫌でもな」


 レクスは少し考えた。


「じゃあ俺の仕事は?」


 ローディスが。


 書類から顔を上げる。


「しばらく休め」


「依頼じゃなく?」


「休め」


「何日?」


「知らん」


「曖昧だな」


「お前が普通の生活へ戻るまでだ」


「普通って?」


「少なくとも、朝起きて『今日は災害指定を弱くする』という予定がない生活だ」


「最近そういう日少なかったな」


「だから休め」


 クラウディアも。


 横から言う。


「賛成」


「《銀翼》は?」


「私たちも休む」


「じゃあ」


「釣り?」


「何で分かった?」


「分かるわよ」


     ◇


 ベルンへ戻ったのは。


 それから数日後だった。


 城門をくぐる。


 いつもの街。


 商人。


 馬車。


 市場。


 子供。


 パンを焼く匂い。


 誰も。


 地下で四百年前の災厄を倒したことなど。


 知らないような。


 普通の日。


 レクスは。


 その普通さに。


 少し安心した。


 冒険者ギルドへ入る。


 ミリア。


 受付。


 いつもの顔。


「お帰りなさい」


「ただいま」


「生きてますね」


「見れば分かるだろ」


「念のためです」


「最近それ流行ってる?」


「あなた相手には必要です」


 ミリアは。


 机の下から。


 分厚い紙束を出した。


「何それ」


「あなた宛の依頼」


「何件?」


「百十二」


「増えてない?」


「増えました」


「休みたい」


「知っています」


「断っていい?」


「すでに緊急性のないものは全部断りました」


「ありがとう」


「残りは?」


「残り?」


「七件だけ、確認が必要です」


「多い」


「百十二から七ですよ」


「十分多い」


「贅沢ですね」


 レクスは。


 本気で嫌そうな顔をした。


 ミリアが笑う。


「今日は帰っていいです」


「本当に?」


「本当に」


「釣りしても?」


「どうぞ」


「ありがとう」


「ただし」


「何?」


「魚に《深淵呪詛》を使ったら出入り禁止です」


「使わない」


「信用しています」


「前より?」


「魚に関してだけは、まだ半分です」


「低いな」


     ◇


 翌朝。


 レクスは。


 川辺にいた。


 久しぶりだった。


 釣り竿。


 糸。


 水。


 風。


 鳥。


 何も。


 起きない。


 それが。


 いい。


 針を投げる。


 水面。


 小さな波。


「……平和だ」


 心から。


 そう思った。


「本当にここにいた」


 後ろから。


 声。


 レクスが振り返る。


 ギルバート。


「何でいる」


「探した」


「休みじゃないの?」


「休みだよ」


「じゃあ休め」


「休みに来た」


「ここへ?」


「ああ」


 ギルバートの手には。


 釣り竿。


 新品。


「……買ったの?」


「買った」


「何で?」


「そんなに面白いって言うから」


「俺、教えるって言った?」


「言ってない」


「じゃあ」


「教えろ」


「嫌だ」


「何で!?」


「静かに釣りたい」


「俺も静かにする」


「できる?」


「勇者だぞ」


「関係ない」


「じゃあ一時間だけ」


「長い」


「三十分」


「まだ長い」


「十五分!」


「交渉下手だな」


「お前にだけは言われたくない!」


 レクスは。


 少し笑った。


「仕方ないな」


「本当か?」


「隣座れ」


「よし!」


「声大きい」


「悪い」


 ギルバートが。


 隣へ座る。


 針を。


 投げようとして。


 変な方向へ飛ばす。


「……何でそっち?」


「知らん」


「貸して」


「いや、自分でやる」


「そう?」


「お前が全部やったら意味ないだろ」


 レクスは。


 少しだけ。


 ギルバートを見る。


「そうだな」


 川。


 静か。


 風。


 糸。


 しばらく。


 何も。


 釣れない。


「なあ」


 ギルバートが小声で言う。


「何?」


「これ、暇じゃない?」


「そこがいい」


「……もう少し何か起きない?」


「起きなくていい」


「俺、向いてないかも」


「まだ五分だぞ」


「長いな」


「静かに」


「はい」


 さらに。


 数分。


 ギルバートの浮きが。


 僅かに。


 沈む。


「レクス」


「何?」


「これ」


「引いてる」


「どうすれば?」


「少し待て」


「今?」


「まだ」


「今?」


「まだ」


「今!?」


「うるさい」


「だって逃げるだろ!」


「焦るな」


 ギルバート。


 待てない。


 竿。


 上げる。


 魚。


 逃げる。


「……」


「早い」


「今の取れただろ!」


「待てば」


「くそ!」


「次」


「今度は絶対釣る」


「魚相手に意地になるな」


「勇者だからな」


「関係ないって」


「じゃあ弱くしてくれ」


 レクスは。


 無言で。


 ギルバートを見る。


「冗談だ」


「魚に《深淵呪詛》は使うなよ」


「お前、前にやろうとしたんだろ?」


「一回だけだ」


「やっぱりやってるじゃねえか!」


 川辺に。


 二人の笑い声が。


 小さく。


 広がった。


 四百年前に討伐できなかった災厄も。


 九十九パーセント落としてなお災害級だった怪物も。


 今は。


 ここにはいない。


 いるのは。


 釣りの下手な勇者と。


 世界最強を雑魚に変えると呼ばれた黒魔導士。


 そして。


 何も知らずに泳ぐ魚だけだった。

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