第4話 Sランク冒険者でも倒せなかった魔獣
翌日の昼前、レクスはベルンの冒険者ギルドで、妙に居心地の悪い思いをしていた。
理由は単純で、昨日までなら誰も自分を気に留めなかったはずなのに、今日は扉を開けた瞬間から何人もの冒険者がこちらを見てくるからだ。
「……本当にあいつか?」
「黒い外套の若い奴って話だっただろ」
「いや、もっとこう……化け物みたいな顔を想像してた」
聞こえている。
レクスは聞こえないふりをして受付へ向かった。
「おはようございます、レクスさん」
昨日対応した受付嬢のミリアは、少し疲れた顔で笑った。
「昨日のブラッドホーンベアですが、残っていた素材の回収と査定が終わりました。毛皮の状態もかなり良かったので、追加分をお渡しできます」
「助かる」
差し出された袋は、昨日よりさらに重かった。
金貨の音を聞きながら、レクスはますます分からなくなった。
「Aランク魔獣って、こんなに金になるんだな」
「ですから普通は一人で倒さないんです」
「そうだったな」
「昨日も同じ会話をしましたよね?」
ミリアが額を押さえたところで、ギルドの入口が大きく開いた。
今度は、レクスへ集まっていた視線が一斉にそちらへ移る。
入ってきたのは四人組だった。
先頭を歩くのは、銀灰色の長い髪を後ろで束ねた女剣士。無駄のない革鎧の上から白銀の胸当てを身につけ、腰には細身の長剣を二本吊っている。
その後ろには、巨漢の盾士、弓を背負った青年、灰色のローブを着た老魔術師が続いていた。
「《銀翼》だ」
誰かが小さく呟いた。
ベルンを拠点の一つにするSランク冒険者パーティ。
王都にいた頃、名前だけは何度か耳にしたことがある。
先頭の女剣士は受付へ近づくなり、挨拶もそこそこに言った。
「ミリア、支部長はいる?」
「はい、クラウディアさん。お戻りになるのは今日と伺っていました。ただ……予定より少し早かったですね」
「山の様子が変わったの。黒鎧のガルムが、昨日から縄張りを南へ広げてる。あのままだと三日もしないうちに交易路へ出るわ」
ギルド内のざわめきが消えた。
レクスはその名前に覚えがなかったが、周囲の反応を見る限り、相当厄介な魔獣らしい。
ミリアの顔も引き締まる。
「討伐は可能でしょうか?」
「正直に言うなら、今のままでは厳しいわね」
クラウディアと呼ばれた女剣士は、あっさり答えた。
強がらないところは、勇者ギルバートとは随分違う。
「前回、四人で挑んだ時も外皮をほとんど抜けなかった。こちらの攻撃が通らないうえに、向こうは速い。私たちだけなら撤退できるけれど、交易路まで降りてきたら護衛対象を守りながら戦うのは無理よ」
盾士が苦い顔で付け足した。
「しかも、あの野郎は頭がいい。魔術師から狙ってくるし、罠も避ける。正面から殴り合うだけの獣じゃねえ」
「支部長へ増援要請を出します」
ミリアがそう答えた直後だった。
老魔術師が、受付に置かれていた書類へ目を留めた。
「待ちなさい。それは昨日のブラッドホーンベアの報告書かね?」
「はい」
「例の、小石の?」
ミリアの顔が少し引きつった。
「もうそこまで話が広がっているんですか……」
「ギルドという場所で秘密が半日も保つと思う方が間違っとる」
老魔術師は愉快そうに笑ったあと、すぐ近くに立っているレクスを見た。
「それで、もしや君が本人かね?」
「たぶんそうだ」
「たぶん?」
「小石でブラッドホーンベアを倒した人間が他にもいるなら、そっちかもしれない」
クラウディアが吹き出した。
堪えるつもりだったらしいが、失敗したようだ。
「ごめんなさい。もっと気難しい人かと思ってたから」
「よく言われる」
「それは本当?」
「いや、今初めて言われた」
クラウディアはますます笑った。
隣の弓使いが呆れたように首を振る。
「リーダー、初対面の相手で遊んでる場合じゃないって」
「分かってるわよ」
クラウディアは表情を戻し、改めてレクスへ向き直った。
「私はクラウディア。《銀翼》のリーダーをやってる。昨日、Aランク魔獣を一人で倒したって聞いたけれど、本当?」
「倒したこと自体は本当だ」
「弱体魔法を使ったとも?」
「ああ」
そこで老魔術師が一歩出た。
「九十九パーセントという話まで聞いとる。さすがに尾ひれがついた噂かと思っておったが」
「対象による。相性や耐性が悪ければ九十九まで届かない場合もある」
老魔術師の眉が上がった。
「届かん場合もある、という言い方をする時点で普通ではないんじゃがな」
「昨日も似たようなことを言われた」
レクスとしては、またその話かという程度だった。
ところがクラウディアは笑わなかった。
しばらく考えたあと、慎重に尋ねる。
「レクス。頼みがあるんだけど、今日少し時間をもらえない?」
「内容による」
「黒鎧のガルムを見てほしいの」
ミリアが驚いて声を上げた。
「クラウディアさん、それは!」
「討伐を頼むんじゃない。私たちが護衛するし、危険なら即撤退する。彼の弱体魔法が本当に高位の魔獣へ通るのか、それだけ確認したい」
クラウディアはレクスから目を逸らさなかった。
「今の私たちでは勝てない。だから使える手段は全部試したいの。もちろん報酬は出すし、無理にとは言わない」
言い方が気に入った。
できることを頼み、できないことは認める。
少なくとも、自分が最強だと言い張りながら他人へ仕事を押しつける人間ではないらしい。
「見るだけなら構わない。ただし、俺は前衛じゃないぞ」
「それで十分よ」
「あと、今日は夕方までに戻りたい」
「何か予定でも?」
「釣り竿を買う」
クラウディアは数秒黙ってから頷いた。
「……分かった。命懸けの討伐より釣り竿を優先する人は初めてだけど、夕方までには戻すわ」
◇
ベルン北方の山麓へ着いたのは、それから二時間ほど後だった。
《銀翼》の四人は移動中も無駄口が少なく、役割分担もはっきりしていた。
前方をクラウディアと盾士のドーガンが警戒し、弓使いのフィンが高所や獣道を確認する。老魔術師のエルドは魔力の流れを読みながら、必要な時だけ短く指示を出していた。
レクスから見ても、かなり優秀なパーティだった。
「ここから先よ」
クラウディアが足を止める。
木々の幹には、深い傷がいくつも刻まれていた。
爪痕というには大きすぎる。岩まで砕かれ、森の一部だけが不自然なほど静まり返っている。
鳥も鳴いていない。
「近いな」
レクスが呟くと、フィンが振り向いた。
「分かるのか?」
「大体。敵意が強い」
「敵意で?」
「俺の術は、敵意を向けられた相手ほど捉えやすい」
その説明が終わる前に、森の奥で何かが動いた。
木が一本、根元から折れる。
続いて現れたのは、巨大な四足獣だった。
狼に似ているが、体長は馬車より長い。全身を覆う毛は黒ではなく、金属の板を何枚も重ねたような硬質な外皮になっていた。
頭部には一本角。
口の隙間からは白い蒸気が漏れ、黄色い瞳がこちらを捉える。
「黒鎧のガルム……!」
ドーガンが盾を構えた。
空気が変わる。
ブラッドホーンベアとは明らかに違った。
魔獣が一歩踏み出しただけで、足元の石が砕ける。
「レクス、下がって!」
クラウディアの声と同時に、ガルムが消えた。
本当にそう見えた。
巨体が一瞬で距離を詰め、ドーガンの盾へ角を叩きつける。
「ぐおっ!」
金属同士を打ち合わせたような轟音が響き、巨漢の身体が地面を滑った。
盾士が受け止めてなお、数メートル後ろへ押されている。
「やっぱり速い!」
クラウディアが横から斬りつける。
長剣が黒い外皮へ火花を散らした。
傷は浅い。
続けてエルドの雷撃が命中するが、魔獣は身震いしただけだった。
レクスは少し感心した。
「なるほど。これは強いな」
「感想を言ってる場合か!」
ドーガンが叫ぶ。
「悪い。今やる」
レクスは右手を上げた。
普段なら、敵の状態を見ながら一つずつ呪詛を重ねていく。
だが今回は試験だ。
どこまで効くのか確かめる必要がある。
「《深淵呪詛》」
魔力を流す。
ガルムの身体が一瞬だけ強張った。
さすがにブラッドホーンベアほど素直には通らない。高位魔獣特有の抵抗が術式を押し返そうとしてくる。
「……硬いな」
レクスは少しだけ出力を上げた。
抵抗を削り、その上からさらに呪詛を重ねる。
筋力低下。
敏捷低下。
防御力低下。
魔力低下。
知覚低下。
再生阻害。
相手が術式へ適応しかければ、その適応力そのものを落とす。
「これで八割くらいか」
「何が八割だ!」
フィンが木の上から叫んだ。
「いや、だから――」
レクスが説明しようとした、その時だった。
黒鎧のガルムがクラウディアへ飛びかかった。
いや。
飛びかかろうとした。
後ろ脚へ力を込めた瞬間、巨体が前につんのめった。
「……え?」
クラウディアが思わず声を漏らす。
先ほどまでは目で追うことすら難しかった魔獣が、今は老人のような速度で身体を起こそうとしている。
ガルム自身も混乱しているらしく、何度も地面を蹴るが思うように前へ出られない。
「クラウディア」
レクスが声をかけた。
「たぶん今なら斬れる」
「たぶんって……」
「防御力も八割以上は落ちた。さっきより柔らかいはずだ」
クラウディアは数秒だけレクスを見た。
それから長剣を握り直す。
「分かった。信じる」
踏み込んだ。
先ほどと同じ場所へ、今度は全身を使って剣を振るう。
刃が黒い外皮へ触れた。
そして。
ざくり。
あまりにも簡単な音がした。
「……は?」
長剣は硬質な外殻を深々と切り裂いていた。
クラウディア本人が、いちばん驚いていた。
「通った……?」
「通るって言っただろ」
「いや、そうだけど!」
黒鎧のガルムが苦痛の咆哮を上げる。
だが、その声にも先ほどまでの迫力はない。
「フィン、右目!」
「お、おう!」
矢が飛ぶ。
以前なら弾かれていたはずの矢尻が、易々と目を貫いた。
「エルド!」
「言われんでも分かっとる!」
老魔術師が杖を振り上げる。
雷撃が傷口へ叩き込まれ、黒鎧のガルムの身体が大きく跳ねた。
ドーガンも盾を構え直し、今度はこちらから突進する。
「さっきのお返しだ!」
盾の縁が魔獣の顎を打ち抜いた。
あれほど圧倒的だった怪物が、地面を転がる。
《銀翼》の四人は、一瞬だけ呆然とした。
それでもSランクだ。
機会を逃す者はいなかった。
「畳みかける!」
クラウディアの号令で四人が動く。
フィンが脚を射抜き、エルドが魔法で逃げ道を潰し、ドーガンが正面から注意を引く。
最後にクラウディアが首筋へ飛び込み、長剣を振り抜いた。
刃は黒い装甲ごと骨まで断ち切った。
巨体が崩れ落ちる。
森が静かになった。
しばらく誰も動かなかった。
「……死んだ、よな?」
フィンが木から降りながら呟く。
エルドが慎重に魔力反応を確かめた。
「死んどる」
「本当に?」
「何度聞いても死んどるわい」
ドーガンが尻餅をつく。
「三回挑んでも傷らしい傷をつけられなかった奴だぞ……」
クラウディアは剣についた血を拭いながら、ガルムの死骸を見下ろしていた。
嬉しそうではある。
だが、それ以上に困惑している。
やがて彼女はレクスへ顔を向けた。
「ねえ」
「なんだ?」
「あなた、さっき八割って言ったわよね」
「ああ。抵抗が強かったから、九十九までは落とせなかった」
「八割で、これ?」
「そうなるな」
クラウディアは黙った。
フィンが恐る恐る尋ねる。
「じゃあ、もし九十九まで落とせてたら?」
「たぶん、昨日の熊と似た感じになると思う」
「小石で死ぬ?」
「即死呪詛まで入れれば、可能性は高い」
今度は四人全員が黙った。
レクスは少し不安になった。
「何かまずかったか?」
「まずいっていうか……」
クラウディアは長剣を鞘へ戻しながら、乾いた笑いを漏らした。
「私たち、この魔獣を倒すために半年準備したのよ」
「長いな」
「前回は二人骨折して、フィンは肋骨を三本折ったわ」
「五本だよ」
「増やさないで。今はそこじゃない」
フィンの訂正を切り捨ててから、クラウディアはもう一度ガルムの死体を見る。
「それが、あなたが後ろで手を上げただけで……私の剣が普通に通った」
「正確には弱体術をかけた」
「分かってる。でも、これを見て『自分たちが強かったから勝てた』なんて思えるほど、私は図太くないわ」
その言葉に、レクスは少しだけ目を細めた。
どうしてか、ギルバートの顔が浮かんだ。
『あのガルガディアを倒したのは俺だ』
同じような状況でも、受け止め方は人によって随分違うらしい。
「最後に倒したのはクラウディアたちだろ」
「そういう問題じゃないのよ」
彼女は額へ手を当てた。
「これ、私たちが弱いって話じゃなくて、あなたがおかしいって話だからね?」
「昨日から何度も言われる」
「じゃあ、そろそろ受け入れて」
少し疲れたような声だった。
レクスは肩をすくめた。
「考えておく」
「絶対考えない人の返事ね、それ」
その時、ドーガンが大声を上げた。
「おい! 討伐できたならさっさと素材を回収しようぜ! 日が暮れたら面倒だ!」
「あ」
レクスが空を見上げる。
太陽はすでに西へ傾き始めていた。
「まずいな」
「何が?」
「釣り竿の店が閉まる」
《銀翼》の四人は、また黙った。
クラウディアはとうとう堪えきれず、腹を抱えて笑い始めた。
「分かった、急いで帰りましょう。災害級魔獣を倒した日に釣り竿を買い損ねたら、たぶん一生後悔するものね」
「そこまでではない」
「あなた、さっきから魔獣より釣り竿の方を気にしてるじゃない」
「今日買うと決めていたからな」
レクスにとっては、それで十分な理由だった。
三年間、自分の予定などまともに持てなかった。
だからこそ、今日は自分で決めたことを自分のためにやりたかった。
その気持ちをクラウディアは笑わなかった。
「じゃあ急ぎましょう。荷運びは私たちがやるから、あなたは先に戻ってもいいわよ」
「それは悪い。手伝う」
「そこは律儀なのね」
「仕事を途中で投げるのは好きじゃない」
クラウディアは少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「なるほどね。勇者パーティが何を考えてあなたを追い出したのか知らないけど……少なくとも私なら、絶対に手放さないわ」
レクスは返事をしなかった。
何と答えればいいのか、少し分からなかったからだ。
褒められることには、まだ慣れていない。
その日の夕方。
ベルン冒険者ギルドの前には、黒鎧のガルムの巨大な死骸を見るために人だかりができた。
そしてレクスは、その騒ぎを少し離れたところから眺めながら、念願だった釣り竿を一本買った。
「……こっちの方が、今日一番うれしいかもしれないな」
そう呟いた声を、隣にいたクラウディアだけが聞いていた。
彼女は笑いながらも、心のどこかで確信していた。
この男は、とんでもない。
強いという言葉だけでは足りない。
敵がどれほど強大でも、その強さそのものを奪ってしまう。
そして恐らく――本人だけが、その異常さをまだ完全には理解していない。




