第3話 小石でAランク魔獣を倒した男
翌朝、レクスは鳥の声で目を覚ました。
目を開けて最初に感じたのは、妙な違和感だった。身体が軽い。頭も冴えている。敵襲を知らせる結界に叩き起こされることも、誰かに「朝飯はまだか」と急かされることもなく、日が昇るまで眠ったのは三年ぶりだった。
「……これが普通の朝なのか」
勇者パーティにいた頃は、まだ薄暗いうちに起きて周囲を確認し、三人を起こす前に野営地の安全を確かめるのが日課だった。
自由になって二日目にして、レクスはようやく追放された実感を得ていた。
残っていたブラッドホーンベアの肉を簡単に焼いて腹へ入れ、焚き火を完全に消す。それから討伐証明になる二本の角と、魔石、傷の少ない毛皮の一部を荷物へまとめた。
ブラッドホーンベアの全身を運べなかったのは惜しいが、巨大な熊ほどもある魔獣を一人で担いで歩く気にはならない。
「次は荷車でも買うか」
追放されて最初に考えることが荷車とは、我ながら色気がない。
そんなことを思いながら街道を進み、昼前には城壁に囲まれた地方都市ベルンへ着いた。
王都ほど大きくはないものの、北と西を結ぶ交易路の中継地らしく、門前には荷馬車が列を作っている。パンを焼く匂いと家畜の匂いが混ざり、行商人の呼び声が絶えない。
レクスは門番に身分を告げ、まず冒険者ギルドへ向かった。
建物は二階建てで、王都支部より一回り小さい。昼前という時間のせいか、依頼から戻った者より、これから出発する冒険者たちの方が多かった。
受付へ近づくと、栗色の髪を後ろでまとめた女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。依頼の受注ですか、それとも素材の買い取りでしょうか?」
「買い取りを頼みたい。それと、登録証も作り直したい」
「紛失でしょうか?」
「いや。昨日まで勇者パーティの共同登録だったんだが、脱退した。王都支部に以前の証を返してきたから、今度は単独で登録しておきたい」
受付嬢の手が、書類の上で止まった。
「勇者パーティ……というと、勇者ギルバート様の?」
「そうだ」
驚かれるのは予想していたが、露骨に聞き返されるとは思わなかった。
彼女は仕事中であることを思い出したように表情を整えた。
「失礼いたしました。所属情報については王都支部へ照会できますので、再発行自体は問題ありません。ただ、確認には少々お時間をいただきます。その間に素材を拝見してもよろしいですか?」
「ああ」
レクスは背負い袋を下ろした。
最初に二本の角を取り出す。
受付嬢の顔が変わった。
「……こちらは」
「ブラッドホーンベアの角だ」
「少々お待ちください」
彼女は断定しなかった。
代わりに奥の職員へ合図し、鑑定担当を呼ぶ。
現れたのは、白髪交じりの髪を短く刈った小柄な男だった。片目に鑑定用の単眼鏡をはめ、角を受け取ると表面を指でなぞる。
「ブラッドホーンベアで間違いない。それも成獣だな。角の太さから見て、若い個体じゃねえ」
男は続いて魔石を調べ、眉間へ皺を寄せた。
「こいつは妙だな」
「何か問題があるのか?」
「逆だ。状態が良すぎる」
鑑定士は魔石を明かりへ透かしながら、レクスへ向き直った。
「ブラッドホーンベアは追い詰められると、死ぬ寸前まで魔力を暴れさせる。普通の討伐品なら魔石にも細かな濁りが出るもんだ。だが、こいつはほとんど消耗してねえ。まるで寝ているところを一息で殺されたみたいだ」
「そんな感じだった」
「そんな感じって、お前さん……」
男の顔から鑑定士らしい冷静さが少しずつ消えていった。
受付嬢も口を挟む。
「討伐したパーティ名を教えていただけますか? 共同討伐でしたら、買い取り金の分配方法も確認する必要がありますので」
「パーティは組んでいない」
「では、現地で別の冒険者と?」
「いや。一人だ」
受付周辺の空気がわずかに変わった。
声を潜めていたつもりでも、すぐ隣では何人もの冒険者が依頼票を見ている。一人がこちらを振り向けば、その隣もつられて顔を上げた。
受付嬢は念のためという口調を崩さなかった。
「ブラッドホーンベアはAランク指定魔獣です。単独討伐の場合、ギルド規則上、可能であれば討伐状況の確認を取らせていただくことがあります。もちろん疑っているという意味ではありません。盗品や横取りされた素材の持ち込みを防ぐための手続きです」
「構わない。死骸なら昨日の街道から少し外れた場所に残してある。場所を教えるよ」
「助かります。それと……差し支えなければ、どうやって倒したのか伺っても?」
レクスは少し考えた。
特に隠す理由はない。
「最初に《深淵呪詛》で弱らせた」
「弱体魔法ですか」
「ああ。筋力、敏捷、防御力、生命力、知覚、呪詛耐性を九十九パーセント程度落としてから、《死告》を付与した」
受付嬢の筆が止まった。
鑑定士も動かなくなる。
「……今、九十九パーセントと聞こえたんだが」
「それくらいだ。相手によって多少前後する」
「多少ってのは九十八とか九十七って意味か?」
「そうだな」
鑑定士は単眼鏡を外した。
「坊主、弱体魔法ってのは普通、十パーセント落とせりゃ実戦級だぞ。二十パーセントなら一流。しかも筋力だの防御だのを同時に何種類も重ねれば、互いに干渉して効果が落ちる」
「そうなのか?」
「そうなのかじゃねえよ」
呆れたように言われても、レクスには困る。
勇者パーティでは、九十九パーセントまで落とさなければギルバートから「まだ硬い」「動きが速い」と文句を言われていた。
どうやら、あれを基準にしてはいけなかったらしい。
受付嬢が慎重に尋ねる。
「《死告》というのは、即死系統の呪詛でしょうか?」
「そうだ。ただ、Aランク以上になると普通に使っただけでは抵抗される。だから先に呪詛耐性と生命力を落として、発動条件を外傷にした」
「外傷……最後は武器で?」
「ああ」
ここでレクスは昨日の光景を思い返した。
正確に答えるべきだろう。
「小石を投げた」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……はい?」
「道に落ちていた小石だ。額に当てて傷を作った。それで《死告》が発動した」
「小石」
「そうだ」
「Aランクのブラッドホーンベアを?」
「ああ」
受付嬢は助けを求めるように鑑定士を見る。
鑑定士も黙って首を横に振った。
そのやり取りを見ていた冒険者の一人が、堪えきれずに笑った。
「おいおい、さすがに話を盛りすぎだろ。小石でAランクを倒したって?」
「俺だって昨日酔っ払ってたら信じたかもしれねえけどよ」
「勇者パーティにいたって話も怪しくなってきたな」
レクスは特に反論しなかった。
信じるかどうかは彼らの自由だし、素材を適正価格で買い取ってもらえればそれでいい。
ところが鑑定士は笑わなかった。
「待て」
低い声に、周囲の冒険者たちが黙る。
男はもう一度魔石を確かめ、それから毛皮を手に取った。
「確かに、妙なんだ。この毛皮には刃物で戦った跡がない。焼けてもいねえし、魔法で吹き飛ばした損傷もない。それに魔石の消耗がほぼゼロ。長く戦った獲物じゃねえ」
受付嬢がレクスへ尋ねた。
「その魔獣が残っている場所を、詳しく教えていただけますか?」
レクスは地図を借り、昨日野営した場所から少し離れた地点へ印を付けた。
ギルドはすぐに回収班を出すことになった。Aランク魔獣の死骸なら、放置するより素材を回収した方がいい。
「確認が取れるまで、一部の買い取り金は保留になりますが、角と魔石だけでも仮査定できます」
「それで十分だ」
しばらくして提示された金額を見たレクスは、今度はこちらが固まった。
「……これ、本当に俺が受け取っていいのか?」
「もちろんです。魔石の状態が非常に良いので、通常より高くなっています」
「そうか」
勇者パーティでは討伐報酬を四人で分けることになっていた。
正確には、そこから遠征費、装備費、ギルバートが「勇者として体裁を保つために必要だ」と主張する交際費まで差し引かれるので、レクスの手元に残る額はさらに少ない。
目の前に並べられた金貨は、一人で慎ましく暮らすなら何か月も困らない額だった。
「Aランク一匹で、こんなにもらえるのか……」
「普通は一匹倒すために五人以上で命を張るんですよ」
受付嬢が苦笑する。
「なるほど。そこを忘れていた」
「忘れないでください」
初めて彼女の声音に仕事以外の感情が混じった。
その直後、奥から別の職員が駆けてきた。
「ミリアさん、王都支部から返答です!」
受付嬢――ミリアが受け取った書面へ目を通す。
そして二度、三度と文字を確認した。
「レクスさん」
「何か問題があったか?」
「いえ……所属記録は確認できました。確かに昨日付けで勇者ギルバート様のパーティとの共同契約が解除されています」
「ならよかった」
「それだけではなくて」
ミリアは書面を裏返してまで確認してから、困惑した顔を上げた。
「過去三年間の討伐記録、そのほぼすべてに、支援担当としてあなたのお名前があります。ワイバーン群、岩甲巨人、災害指定の双頭蛇、それから先日の魔王軍上級将軍ガルガディアまで……」
「一緒に戦っていたからな」
「一緒に、という回数ではありません」
ミリアの声が少し大きくなる。
今度こそ、周囲が完全に静かになった。
「これだけの高難度討伐へ連続参加して、生還率百パーセント。それなのに個人討伐記録だけが、ほとんど存在しないんです」
「俺は敵を倒す役じゃなかったから当然だろう」
レクスが答えると、鑑定士が額を押さえた。
「いや、坊主。それが一番おかしいんだよ」
「そうなのか?」
「お前さん、三年間ずっと化け物どもを弱らせることだけやって、自分で倒したことがなかったから、自分がどれだけおかしいのか知らねえんじゃないか?」
言われてみれば、否定しづらい。
レクスはブラッドホーンベアの角を眺めた。
昨日までなら、同じ魔獣が現れたところで、いつも通り弱体化してギルバートへ「終わったぞ」と伝えていただろう。その後で派手に首を落とした勇者が歓声を浴び、レクスは次の敵へ備える。
それが普通だと思っていた。
「……一人になると、色々分かるものだな」
レクスが素直に感心すると、ミリアは何とも言えない表情になった。
「とりあえず、新しい冒険者証の発行手続きを進めます。それから、今後Aランク魔獣を単独で倒した場合は、できればその場で討伐証明用の記録魔石を起動してください。毎回『小石で倒しました』と言われると、こちらの心臓がもちません」
「分かった。次から気をつける」
「次も小石で倒す前提なんですね……」
「別の物が落ちていれば、それを使うかもしれない」
「そういう意味ではありません」
なぜか受付嬢に叱られた。
だが悪い気分ではなかった。
ほどなく再発行された冒険者証と金貨を受け取り、レクスはギルドを出た。
まず宿を取ろう。
それから着替えを買い、できれば釣り竿も見てみたい。荷車も必要だし、食事も少し贅沢していいだろう。
三年間、魔王を倒した後のことなど一度も考えなかった。
ところが今は、今日の夕食を何にするかで少し迷っている。
その程度の悩みが、不思議なくらい心地よかった。
◇
「間違いありません! 現場を確認しました!」
夕方。
レクスがすでに宿で昼寝を始めていた頃、ベルン冒険者ギルドへ回収班が駆け込んできた。
泥だらけになった男は、受付まで来るなり声を落とすことすら忘れていた。
「ブラッドホーンベアの成獣です。しかもかなり大きい! 死体には戦闘らしい戦闘の跡がほとんどありません!」
ミリアが立ち上がる。
「死因は分かりましたか?」
「それが……鑑定じゃ心臓が突然止まったとしか。あと、額にすごく小さな傷があります」
「額に?」
「はい。死体のすぐそばに、血の付いた小石が落ちていました」
ギルド内が静まり返った。
昼間レクスを笑った冒険者が、そっと酒杯を机へ戻した。
「……本当に小石だったのかよ」
「冗談じゃなかったのか」
「待て。Aランクだぞ?」
ざわめきが徐々に広がっていく。
その中で鑑定士だけは椅子へ深く座り、しばらく天井を見上げていた。
「こりゃあ、面倒な奴が来たもんだ」
言葉とは裏腹に、その口元はわずかに笑っている。
ミリアは今日発行したレクスの登録記録を見つめた。
勇者パーティを追放された、攻撃魔法を使えない黒魔導士。
それだけを聞けば、よくある落伍者にしか思えない。
だが実際にこの男がやったのは、Aランク魔獣を一人で完全に無力化し、小石一つで仕留めることだった。
しかも本人には、それを自慢している様子すらない。
「……明日、支部長へ報告します」
「した方がいいだろうな」
鑑定士は頷いたあと、少し考えて付け加えた。
「それとな、ちょうど明日、北方から戻ってくる連中がいただろ」
「まさか……《銀翼》ですか?」
「ああ。Sランクパーティの連中だ」
ミリアは嫌な予感がして眉を寄せた。
《銀翼》がベルンへ戻ってくる理由は一つしかない。
彼らが何度挑んでも討伐できず、この地方で立入禁止区域まで作られる原因になった災害級魔獣――《黒鎧のガルム》の攻略準備を整えるためだった。
昼間までなら、レクスとは何の関係もない話だったはずだ。
だが今では、どうしても考えてしまう。
Aランク魔獣を小石で殺す男が、Sランク冒険者すら苦戦する怪物へ弱体魔法をかけたなら。
いったい、何が起こるのだろうか。




