第2話 ゴブリンって、こんなに強かったか?
「ぐっ……!」
ギルバートは反射的に聖剣を横へ滑らせ、顔面へ迫った棍棒を辛うじて受け止めた。
鈍い衝撃が腕から肩まで突き抜ける。相手は人間の胸ほどの背丈しかないゴブリンだというのに、踏ん張った両足が湿った土の上を半歩ほど滑った。
「ちょっと待て……なんだ、こいつ」
ギルバートが呻くより早く、ゴブリンは短い腕を引き戻し、今度は膝を狙って棍棒を薙いだ。
「《火炎弾》!」
セシリアの杖から火球が飛び、横合いからゴブリンを直撃する。
小さな身体が吹き飛び、木の幹へ叩きつけられた。
「ほら、やっぱりゴブリンじゃない。ギルバートが油断しただけでしょう?」
「油断したんじゃねえ。こいつが妙に速かったんだよ」
「負け惜しみはあとにしろ。残りも出てきたぞ!」
バルガスがようやく背中の大盾を下ろした。
茂みの奥から、二体、三体と緑色の小鬼が現れる。先ほどセシリアの魔法を受けた一体も、黒く焦げた肩を押さえながら立ち上がった。
セシリアの口元から笑みが消えた。
「……今の、まともに当たったわよね?」
「見りゃ分かるだろ」
「私の《火炎弾》よ? 前なら一発当てれば炭になってたじゃない」
それは事実だった。
少なくとも三人の記憶では、ゴブリンとはそういう魔物だった。
ギルバートが剣で斬れば紙のように裂け、セシリアの初級魔法でも即死し、バルガスが盾で殴れば数メートルは転がる。冒険者になりたての頃ならともかく、魔王軍幹部を倒した今の自分たちが警戒するような相手ではない。
だから三人とも、本気の装備すら整えてこなかった。
「数が増える前に潰すぞ。バルガス、前に出ろ!」
「言われなくても分かってる!」
バルガスが大盾を構え、一気に距離を詰める。
ゴブリンの一体が錆びた鉈を振り下ろした。
いつもなら、受け止めるまでもない攻撃だった。魔王軍の兵士ですらバルガスの盾をまともに揺らせなかったのだから、ゴブリン程度なら好きに殴らせておけばいい。
そう判断したことを、バルガスは直後に後悔した。
「なっ……!」
鉈が盾へ叩きつけられた瞬間、肘が大きく沈んだ。
重い。
信じられないほど重かった。
「こんな馬鹿な……ゴブリンの一撃だぞ!?」
続けて別の一体が横から飛びかかり、棍棒を脇腹へ叩き込んだ。金属鎧越しとはいえ衝撃までは殺しきれず、バルガスが苦鳴を漏らして膝をつく。
「バルガス!」
セシリアが杖を向ける。
「《火炎槍》!」
今度は初級ではなく、中級魔法を使った。
細く圧縮された炎が一直線に飛び、一体の胸を貫く。さすがにそれには耐えられず、ゴブリンが倒れた。
だが、セシリアは喜ばなかった。
「おかしい……」
「何がだ!」
「何がって、見れば分かるでしょう!? ゴブリン一匹を倒すのに《火炎槍》が必要だったのよ。こんなの、今まで一度もなかった!」
「たまたま丈夫な個体なんだろ!」
ギルバートは吐き捨て、正面のゴブリンへ聖剣を振り抜いた。
先ほどより力を込めた一撃だった。
今度こそ防げるはずがない。
ところがゴブリンは身体を沈め、刃の下を潜り抜けた。
「まただと!?」
懐へ入ったゴブリンが短剣を突き出す。
ギルバートは上体を捻ってかわしたものの、革鎧の脇腹が浅く裂けた。
温かいものが肌を伝った。
ギルバートは一瞬、何が起きたのか分からなかった。
血だった。
自分の血。
最後に戦闘でまともな傷を負ったのがいつだったのか、思い出せない。
「俺が……ゴブリンに?」
「ギルバート、ぼうっとするな!」
バルガスの怒声で我に返る。
森の奥から、さらに鳴き声が聞こえてきた。
一匹や二匹ではない。
甲高い声が重なり合い、木々の向こうで枝が次々と揺れている。
セシリアが顔をこわばらせた。
「仲間を呼ばれたわ。これ以上増えたら、さすがに面倒よ」
「面倒じゃねえだろ! 相手はゴブリンだぞ!」
ギルバートが苛立ちをぶつけるように叫ぶと、セシリアも珍しく声を荒らげた。
「だったら今のうちに一人で全部倒しなさいよ! 私はさっきから魔力を使ってるし、バルガスだってまともに攻撃を受けてるじゃない!」
「俺のせいみたいに言うな!」
「二人とも喧嘩してる場合じゃねえ!」
バルガスが盾でゴブリンを押し返しながら怒鳴った。
その額には汗が浮いている。
「撤退するぞ。このまま囲まれたらまずい!」
ギルバートは耳を疑った。
「撤退? ゴブリン相手に?」
「生きて帰ってから格好つけろ! 俺はこんなところで死ぬ気はねえ!」
バルガスは強引に二人の前へ出ると、大盾を振り回して道を作った。
ギルバートには納得できなかった。
自分たちは魔王軍の上級将軍を倒した勇者パーティだ。
王都の酒場では誰もが羨望の目を向け、子どもたちは自分の名を呼び、貴族ですら頭を下げる。それがゴブリン数匹を相手に逃げ帰るなど、あっていいはずがない。
それでも、森の奥から姿を現した十数体の影を見た瞬間、身体は理屈より先に動いた。
「……くそっ! 一度立て直すぞ!」
三人は走った。
背後からゴブリンたちの足音が追ってくる。
これまでは聞いたこともなかったほど速い。
セシリアが振り返りざまに炎を撒き、追手を牽制する。バルガスは脇腹を押さえながら最後尾を走り、ギルバートも聖剣を握ったまま必死で森を抜けた。
街道へ飛び出してからも、三人はしばらく足を止められなかった。
やがてゴブリンたちが追ってこないことを確認し、バルガスが道端へ座り込んだ。
「冗談だろ……あいつら、本当にゴブリンだったのか?」
誰も答えなかった。
セシリアは残った魔力量を確かめ、顔をしかめている。初級依頼のはずなのに、かなり消耗していた。
ギルバートは自分の脇腹についた血を指で拭った。
胸の奥に、嫌なものが引っかかっている。
昨夜、レクスは何と言っていた?
『俺が現在お前たちと装備に維持している支援術式、それから敵対対象へ自動で作用する弱体術式は、契約終了と同時に全部解除する』
一瞬だけ、その言葉が頭へ浮かんだ。
だがギルバートはすぐに打ち消した。
「……関係ねえ」
「何が?」
セシリアが尋ねる。
「何でもない。今日の群れがおかしかっただけだ。ゴブリンにも変異種くらいいるだろ」
そう言わなければならなかった。
もし違うのなら。
もし昨日まで当たり前だと思っていた勝利の何割かでも、レクスの力によるものだったとしたら。
自分が酒場で口にした言葉が、あまりにも惨めなものになってしまう。
「ギルバート」
バルガスが低い声を出した。
「次は、もう少し準備して来ようぜ。俺は笑い話で済ませたい。ゴブリンに殺されかけた勇者パーティなんて噂になったら、洒落にならん」
「分かってる」
ギルバートは苛立たしげに聖剣を鞘へ押し込んだ。
「今日のことはギルドでは黙ってろ。俺たちは群れの規模を確認して撤退した。それで通す」
セシリアは何も言わなかった。
ただ、昨夜レクスが指を鳴らした瞬間のことだけが、妙に頭から離れなかった。
◇
その頃、レクスは王都からかなり離れた小川のほとりで、人生で初めてと言っていいほど穏やかな夕方を迎えていた。
焚き火の上では、小さな鉄鍋がことこと音を立てている。
昼間倒したブラッドホーンベアは、討伐証明となる角と価値の高い部分だけを切り取った。巨体すべてを一人で運ぶのは無理なので、肉も必要な量だけ確保してある。
「塩だけでも、結構うまいな」
焼いた肉を噛むと、思っていたより脂が少なく、濃い旨味があった。
勇者パーティにいた頃の野営とはまるで違う。
ギルバートは肉の焼き加減に文句を言い、セシリアは虫が嫌だと結界を要求し、バルガスは食べ終えるとすぐに眠る。結果として片付けも夜番も、だいたい俺の役目だった。
今夜は、自分が食べたい時に食べ、眠くなったら眠ればいい。
火の粉が夜の空気へ舞い上がる。
小川の水音を聞きながら、俺は食後の湯を沸かした。
「……静かだな」
誰かのために索敵範囲を広げる必要もない。
念のため自分の周囲だけ簡単な警戒呪詛を置いたが、それも数分で終わった。
暇だった。
あまりにも暇なので、かえって落ち着かない。
「三年も働きすぎると、休み方まで忘れるものなのか」
自分でも少し可笑しくなった。
明日は近くの町まで行って、ブラッドホーンベアの素材を売るつもりだ。金が入ったら安宿でも借り、しばらく何もしない生活をしてみたい。
本を買うのもいい。
釣り竿も欲しい。
これまでなら「魔王討伐までそんな暇はない」と切り捨てていたことが、急に現実的な予定として頭へ浮かんでくる。
鍋から湯気が上がったところで、警戒呪詛が小さく反応した。
レクスは木の器を置き、茂みの方を見る。
一匹の灰色狼が、暗がりからこちらを窺っていた。
森では珍しくもない魔獣だ。
「肉の匂いにつられたか。悪いけど、これは俺の夕飯なんだ」
指先を向け、《深淵呪詛》をほんの少しだけ流す。
敏捷と攻撃性を半分ほど削られた狼は、その場で身体を強張らせたあと、急にこちらへの興味を失ったように尻尾を巻いて森へ戻っていった。
「殺す必要もないか」
戦わなくて済む相手まで倒す理由はない。
俺は火へ小枝を一本足し、再び腰を下ろした。
こんな使い方をしたことも、今まではほとんどなかった。
勇者パーティでは敵を見つければ倒す。それ以外の選択肢を考える暇もなかったのだ。
「やっぱり、一人の方が気楽でいいな」
誰に聞かせるでもなく呟き、温かい湯を飲む。
王都では今頃、ギルバートたちも新しい仲間を探している頃だろう。
彼らなら彼らで、好きにやればいい。
俺はもう、誰かの勝利を用意するために眠れない夜を過ごす必要はないのだから。
そう思いながら横になったレクスは、その夜、三年ぶりに一度も起こされることなく朝まで眠った。




