第37話 九十九パーセントが通らない
青白い炎は、地下通路の奥へ進む順番まで決められているようだった。
一つ灯る。
十数歩進めば、次が灯る。
後ろの炎は消えない。
帰り道を隠すつもりはないらしい。
それがかえって不気味だった。
「完全に招かれてるな」
ギルバートが小声で言った。
「帰る?」
レクスが聞く。
「今それ聞く?」
「嫌なら」
「嫌だよ。怖いし」
「じゃあ」
「でも進む」
ギルバートは少し苦笑した。
「さっきも言っただろ。怖いのと行くのは別だ」
「そうだった」
「忘れるの早くない?」
「考えることが多い」
前を歩くクラウディアが振り返らずに言う。
「雑談できてるうちはまだ余裕があるってことよ。足元だけは見てね」
地下通路は、神殿の地下施設というより古い城塞の内部に近かった。
壁は巨大な石を隙間なく積み上げてあり、その表面に細い術式が何層も刻まれている。上側には現在使われている魔術文字、下層にはアデルたちが解析していた四百年前の封印文字が残っていた。
新しい術式が。
古い術式の上へ。
寄生するように重ねられている。
「これ、ひどいですね」
アデルが壁を見ながら言った。
「何が?」
セシリアが尋ねる。
「古い封印式を壊しているわけじゃないんです。残してる」
「利用するため?」
「はい。封印そのものを導管として使っています」
ガレンが鼻を鳴らす。
「壊すより質が悪いのう。元の術者が見たら泣くぞ」
「四百年前の術式をここまで理解して書き換えるって、かなり技術が要りますよね」
「相当じゃ」
「じゃあ、あの黒い連中の中に?」
「専門家がおる。しかも一人ではない可能性が高い」
レクスは足を止めた。
「どうした?」
クラウディアがすぐ反応する。
「また吸われてる」
神殿入口の手前でも感じた。
生命力と魔力が、細い糸で地下へ引かれるような感覚。
ここでは。
もっとはっきりしている。
「どのくらい?」
セシリアが杖を握り直す。
「まだ危険な量じゃない。でもさっきより強い」
「私も分かる」
額に手を当てる。
「魔力が自然回復しない感じ」
「正確には、回復する分の一部を持っていかれてるんじゃろう」
エルドが言った。
アデルが測定器を覗く。
「その通りです。減少というより、漏出に近い。少量ですが持続しています」
「止められる?」
クラウディアが聞く。
「この辺の経路なら」
レクスは壁へ手を向けた。
「《深淵呪詛》」
術式伝導。
吸収効率。
接続強度。
外側から三つ落とす。
数字はすぐ下がった。
「八十七。九十一……九十四」
胸の重さが少し抜ける。
「効いた」
セシリアが息を吐いた。
アデルも測定器を見て頷く。
「局所吸収、七割以上低下しました」
「全部じゃない?」
「本体側からも引かれています。壁の経路だけ落としても、完全には切れません」
「じゃあ本体に近づくほど増える?」
「おそらく」
フィンが嫌そうな顔をする。
「まだ会ってもいないのに、すでに体力税を取られてるんですか」
「言い方は妙だけど近いな」
「高すぎません?」
「払わないようにしに来た」
「ぜひお願いします」
先へ進む。
通路は緩やかに下っていた。
階段ではない。
長い坂。
古代の巨大な何かを運び込むための道だったのかもしれない。
やがて。
前方から。
女の声がした。
「本当に来たのね」
全員が止まる。
今度ははっきり聞こえた。
若い。
落ち着いている。
急いでいる様子がまるでない。
「姿を見せろ」
ギルバートが言う。
声の響きからして。
近い。
次の青白い炎が灯った。
その光の向こう。
一人の女が立っていた。
細身。
長い黒髪。
年齢は二十代後半ほどに見える。
装飾の少ない黒い服。
右手には。
廃都で遭遇した黒外套の者たちと同系統の紋章。
「お前が責任者?」
レクスが聞く。
「責任者、という言葉は好きではないわ」
「じゃあ何?」
「少なくとも、ここでは私が決めることが多い」
「同じじゃない?」
「少し違うの」
「分からない」
「でしょうね」
女は笑った。
クラウディアが低く尋ねる。
「あなたが深層王を起こしているの?」
「起こしている、という表現も少し違うわ」
「また?」
フィンがぼそりと言う。
「こういう人、絶対話長いタイプですよ」
「聞こえてるわよ」
「すみません」
「謝るのね」
「殺されそうなので」
「正直で嫌いじゃないわ」
フィンがクラウディアへ小声で言う。
「ちょっと好感度上げちゃいました?」
「上げなくていい」
黒髪の女はレクスを見る。
他の誰より。
明らかに長く。
「ずっと会ってみたかった」
「俺は別に」
「知っているわ」
「祭壇を作ったのは?」
「一部は私たち」
「人から生命力を取った?」
「ええ」
マリアナが一歩前へ出る。
顔が硬い。
「トルメ村の百九十三人も?」
「直接選んだわけではないけれど、結果としてはそうなるわね」
「結果?」
マリアナの声が低くなる。
「部下が死にかけた。村人たちも。あなたにとっては『結果』で済むの?」
黒髪の女は笑わなかった。
「済むとは言っていない」
「なら謝る?」
「謝ったところで、あなたは許さないでしょう?」
「当然です」
「なら、無意味な謝罪はしない」
マリアナの拳が握られる。
レクスは彼女の前へ出ない。
止める必要もない。
怒る理由がある。
「理由は?」
レクスが聞いた。
「人から吸ってまで、あれを起こす理由」
「知りたい?」
「ああ」
「でも今、全部説明しても信じないでしょう」
「内容による」
「四百年前の封印は、善意だけで作られたものではない」
「それは上でも言ってたな」
「深層王という呼び方も、あなたたちが勝手につけたのでしょう?」
「名前がなかったから」
「正確には、消された」
「知ってる」
「では、なぜ消されたかは?」
「崇拝されないためじゃない?」
女が少し笑う。
「半分だけ正しい」
アデルが身を乗り出す。
「残り半分は?」
「自分で調べなさい」
「ここまで来てそれですか!」
「研究者なら、その方が楽しいでしょう?」
「今は楽しさの問題じゃありません!」
「あなたは楽しい顔をしているけれど」
「してません!」
実際、少しだけしていた。
レクスにも分かった。
「それで」
ギルバートが話を戻す。
「俺たちを何のためにここまで通した?」
「見たかったから」
「何を?」
「彼を」
女の視線がまたレクスへ戻る。
「本当に九十九パーセント削れるのか」
「見世物じゃない」
「でも、私たちには重要なの」
「深層王を弱くできるか?」
「ええ」
レクスは眉を寄せた。
「起こしたいのに?」
「だから言ったでしょう。目的は一つではない」
「分からないな」
「今はそれでいい」
「よくない」
「でも」
女は背後を見る。
その先には。
さらに深い下り坂。
「もう時間がないわ」
次の瞬間。
どくん。
これまでとは違う。
音ではない。
衝撃だった。
床が跳ねた。
「伏せろ!」
ドーガンが叫ぶ。
天井から石片が降る。
バルガスと二人で盾を掲げる。
全員が身を低くする。
「何した!」
ギルバートが女を睨む。
「私ではないわ」
「信じろと?」
「今のは、あれ自身」
女の顔から。
初めて余裕が少し消えた。
「予定より早い」
灰色の外套の男が、いつの間にか女の後方へ現れていた。
「中心圧、急上昇!」
「封印層は?」
「第三層が破断!」
「第二は?」
「残っています!」
女が舌打ちした。
レクスはその反応を見る。
「本当に予定外?」
「ええ」
「起こそうとしてたのに?」
「目を覚まさせるのと、暴れさせるのは違うのよ」
「同じに聞こえる」
「だからあなたは説明を聞く前に結論を出しすぎる」
「人から命を取った事実は変わらない」
女は返さなかった。
代わりに。
「来なさい」
「何で?」
「今行かなければ」
もう一度。
どくん。
壁へ大きな亀裂が走った。
「あなたたちが試す前に、封印が全部壊れる」
◇
誰も女を信用していなかった。
それでも。
状況は待ってくれない。
「ローディス」
レクスが振り返る。
「外へ伝えられる?」
「ここでは通信が弱い。中継術師を途中へ置く」
「撤退も考えて」
「分かっている」
「吸収圏が広がったら?」
「外周隊は即時後退」
「それで」
レクスはクラウディアを見る。
「進む?」
「あなたは?」
「行く」
「なら行く」
ギルバートも言う。
「俺も」
「怖い?」
「かなり」
「俺も」
「何回確認するんだよ」
「言うって約束したから」
「そこは守るのか」
「約束だろ」
セシリアが苦笑する。
「変なところで律儀なのね」
「うるさい」
一行は黒髪の女を先頭にはしなかった。
彼女と灰色外套の男を。
クラウディアとギルバートが挟む。
レクスたちはその後ろ。
あくまで案内役。
信用はしない。
それでも進む。
下る。
下る。
温度がさらに下がっていく。
吐いた息が白くなった。
フィンが腕を擦る。
「地下なのに冬みたいだ」
「魔力が熱を奪ってる」
エルドが言う。
「深層王?」
「封印式かもしれん」
アデルは測定器を何度も確認していた。
「異常です」
「何が?」
「地脈魔力の流れが、全部一方向へ向いてる」
「中心?」
「はい」
「祭壇は止めたのに」
「だから、地下に貯めた分だけじゃない」
レクスが言う。
「深層王自身が引いてる」
吸収が。
始まっている。
眠ったまま。
あるいは。
もう眠ってはいない。
胸の重さが。
今までとは比較にならないほど増した。
セシリアが壁へ手をつく。
「ちょっと……待って」
「魔力?」
「急に落ちた」
「どのくらい?」
「一割以上」
「俺もだ」
エルドも顔をしかめる。
「老体には堪えるのう」
「戻る?」
レクスが聞く。
エルドが鼻を鳴らす。
「儂が本当に駄目なら言うわい」
「分かった」
「レクス!」
アデルが声を上げる。
「吸収値、さっきの三倍!」
「経路は?」
「多すぎます!」
壁。
床。
天井。
全部。
古代術式そのものが吸収路に変わっている。
「一個ずつ落としてたら間に合わないな」
「どうします?」
「本体に触れる距離まで行く」
黒髪の女が振り返る。
「やっとね」
「嬉しそうにするな」
「だって、それを見たかったんだもの」
「失敗したら?」
女は少しだけ黙った。
「この地下にいる全員が死ぬかもしれない」
「外は?」
「深層王が地上へ出れば、もっと」
「なら見物じゃないだろ」
「分かっているわ」
その声だけ。
少し人間らしかった。
◇
最深部へ続く最後の扉は。
壊れていた。
封印扉。
厚さだけで数メートル。
その中央が。
内側から押し割られている。
「……さっき?」
クラウディアが尋ねる。
黒髪の女が頷いた。
「第三封印層と一緒に」
「第二封印層は?」
「この先」
「まだ残ってる?」
「残っているはずだった」
「だった?」
「見れば分かるわ」
誰も嬉しくない答えだった。
扉の向こう。
巨大な空間。
地下に。
こんな場所があること自体がおかしい。
天井は見えない。
壁も遠い。
天然の大空洞を、後から術式施設へ変えたらしい。
青白い炎が。
数百。
円を描く。
その中心。
黒い鎖。
一本一本が城門ほど太い。
鎖が。
暗闇の中へ伸びている。
「何を縛ってる?」
ギルバートの声が小さくなる。
誰も答えなかった。
答えは。
見れば分かった。
空洞の中央。
巨大な影がある。
最初。
岩山だと思った。
違う。
表面が。
動いた。
呼吸。
黒に近い灰色の外皮。
岩でも鱗でもない。
何層もの硬質な皮膜が重なり、その隙間から青黒い光が漏れている。
頭部がどこか。
すぐには分からない。
身体が大きすぎる。
四本。
六本。
いや。
脚なのか腕なのか判断できないものが、地面と壁へ折り重なっている。
中央には。
閉じた瞼。
巨大な。
一つではない。
いくつも。
「……あれ」
フィンの声が震えた。
「全部、目?」
一つ。
開いた。
青白い。
瞳。
こちらを見る。
いや。
一人ずつ見ている感覚がした。
誰も。
動けなかった。
恐怖というより。
身体の方が先に。
「見られてはいけない」と理解した。
どくん。
深層王が。
呼吸した。
魔力が。
一気に消える。
「うっ……!」
セシリアが膝をつく。
アデルも測定器を落としかける。
ガレンが杖で身体を支える。
「吸われてる!」
「全員下がれ!」
ギルバートが叫ぶ。
「レクス!」
「ああ!」
初めて。
本体へ。
届く。
レクスは深層王を対象として捉えた。
いつもの感覚。
敵の力へ触れ。
下げる。
「《深淵呪詛》」
まず。
吸収。
最優先。
「生命吸収効率低下」
術が。
入る。
だが。
感触がおかしい。
「……え?」
レクス自身が声を漏らした。
クラウディアが振り返る。
「どうした?」
「入らない」
「何パーセント?」
レクスはもう一度。
強く押し込む。
「三」
誰かが聞き間違えたように黙った。
「何?」
ギルバートが聞く。
「三パーセント」
今度は。
はっきり言った。
「吸収、三パーセントしか落ちてない」
「三?」
アデルが叫ぶ。
「そんな!」
「もう一回!」
《深淵呪詛》。
同じ。
抵抗。
これまでの魔物とは。
比べ物にならない。
ただ強いのではない。
こちらの術を。
存在そのものが拒絶している。
「五……」
「上がった?」
クラウディアが聞く。
「少しだけ」
深層王の目が。
こちらへ向いた。
レクスだけを。
見た。
ぞくり、と。
背中が冷えた。
「気づかれた」
「何に?」
「俺の術」
次の瞬間。
空洞中の術式が。
一斉に光った。
「伏せろ!」
ドーガンとバルガスが前へ出る。
深層王はまだ鎖に繋がれている。
完全には動けない。
それでも。
一本の腕らしきものが。
わずかに持ち上がった。
たったそれだけで。
空気が圧縮された。
「盾を正面に置くな!」
レクスが叫ぶ。
二人とも即座に角度を変える。
衝撃。
見えない壁が。
空洞を横切った。
ドーガンの巨大盾が。
横へ流される。
「ぐっ!」
身体ごと飛ばされかける。
バルガスも。
石床を靴底で削りながら後退する。
「こんな……!」
「まだほとんど動いてないぞ!」
ギルバートが叫ぶ。
フィンの顔から血の気が引いている。
「これで寝起き?」
「余計なこと言うな!」
クラウディアがレクスへ叫ぶ。
「筋力を落として!」
「待て!」
「何?」
「先に吸収!」
「でも次を受けたら――」
「分かってる!」
レクスにも見えている。
目の前の危険。
攻撃力を。
今すぐ落としたい。
でも。
先に吸収を止めなければ。
傷つけるほど強くなる。
四百年前と同じ失敗になる。
「ギルバート!」
「何だ!」
「攻撃するな!」
「してない!」
「クラウディアも!」
「分かってる!」
「フィン!」
「矢、まだ一本も撃ってません!」
全員。
待っている。
レクスを。
それが。
余計に重い。
「吸収、七」
また抵抗。
「八……九」
「十にも行かない?」
アデルが測定器を見る。
「本体だけじゃない!」
「何?」
「周囲の封印術式が抵抗を補助してます!」
「封印が?」
「違う!」
ガレンが叫ぶ。
「元の封印だけではない! 後から重ねた術式じゃ!」
黒髪の女の顔が変わった。
「まさか」
「何?」
「深層王の抵抗力を、封印網へ逃がしてる……?」
アデルが理解する。
「本体の呪詛抵抗を、周囲の術式全体で分散して受けてる!」
「そんなことできる?」
セシリアが聞く。
「できてるから今これなんです!」
「解除できる?」
「時間が要ります!」
深層王が。
もう一つ。
目を開いた。
「まずい!」
ギルバートがレクスの前へ出る。
「次来る!」
「俺の前に立つな!」
「じゃあどこ立てばいいんだ!」
「横!」
「今それ言う!?」
衝撃。
今度は。
明確に狙ってきた。
レクスへ。
「ギルバート!」
クラウディアが右から入り。
二人で。
攻撃の線をずらす。
ギルバートは聖剣を。
斬るためではなく。
衝撃の流れへ差し込む。
クラウディアは壁側の古い鎖へ剣を当て。
姿勢を固定する。
「バルガス!」
「こっちだ!」
バルガスとドーガンが左右から盾を出す。
四人。
一発を。
受けるのではなく。
逸らす。
轟音。
背後の石柱が砕けた。
「……っ」
ギルバートが膝をつく。
「腕!」
レクスが叫ぶ。
「動く!」
「聖断は?」
「使ってない!」
「よし!」
「褒めるところか!?」
「大事だろ!」
クラウディアも肩で息をしている。
「レクス、今どこまで?」
「九!」
「……一桁?」
「ああ!」
「何とかしなさい!」
「今してる!」
再び。
《深淵呪詛》。
吸収では。
まだ駄目。
なら。
いつもの手順。
抵抗。
「呪詛抵抗低下!」
今度こそ。
深く入れる。
――入らない。
「二パーセント」
レクスの声が。
初めて。
はっきり焦った。
「抵抗自体が二?」
「そう!」
アデルが叫ぶ。
「補助網を切らないと無理です!」
「どこ?」
「多すぎます!」
空洞の壁。
床。
天井。
黒い鎖。
青白い炎。
その全てが。
深層王へ繋がっている。
「セシリア!」
アデルが呼ぶ。
「何!」
「攻撃魔法は禁止! でも封印術式へ魔力を入れて!」
「どこ!」
「第三環!」
「番号振ってないでしょう!」
「右側の青い線!」
「最初からそう言って!」
セシリアが杖を向ける。
攻撃ではない。
古い封印式。
本来。
深層王から力を逃がすための経路。
「《魔力接続》!」
青い線が強く光る。
「エルドさん!」
「分かっとる!」
別方向。
地脈固定。
「ガレン翁!」
「年寄りを急かすな!」
「急いでください!」
「どっちじゃ!」
「急いで!」
「なら最初からそう言え!」
混乱しながらも。
術式班が動く。
レクスはその間も。
吸収を落とす。
「十……十一」
「上がってる!」
クラウディアが言う。
「少しだけ!」
「少しでもいい!」
深層王が。
三つ目の目を開いた。
今度は。
口のような裂け目が。
皮膜の奥で動いた。
音ではない。
声でもない。
ただ。
全員の頭の中へ。
直接。
響いた。
『――足りぬ』
膝が。
折れそうになった。
フィンが頭を抱える。
「何だ今の!」
「精神干渉!」
ガレンが呪札を投げる。
「見るな! 聞こうとするな!」
「頭の中に入ってくるのにどうやって!」
「無視せい!」
「無茶言うな!」
レクスも。
声を聞いた。
旧監視塔の寄生呪詛。
トルメ村。
皆が聞いていた。
『渡せ』
あれと。
同じ。
違うのは。
今度は。
命令ではない。
要求でもない。
空腹そのものだった。
「これが」
レクスは唇を噛む。
「飢え?」
四百年前の記録。
『王の傷は王を満たす。されど、王の飢えを殺せば、王はただ肉となる』
吸収。
再生。
強化。
全部の根。
「こいつの飢えを落とす」
「さっきからやってるでしょう!」
アデルが叫ぶ。
「違う!」
「何が!」
「生命吸収って機能じゃない!」
レクスは。
もっと深いところを見る。
筋力。
魔力。
抵抗。
吸収。
そのさらに奥。
性質。
欲求。
存在が。
外から力を奪おうとする根本。
「対象指定――」
今まで一度も。
直接狙ったことがない。
「飢餓衝動」
《深淵呪詛》。
術が。
触れた。
深層王の。
内側へ。
その瞬間。
レクスの視界が。
黒く染まった。
◇
何も見えない。
でも。
感じる。
深い。
深すぎる。
底のない穴へ。
意識だけ落ちていく。
人間の飢えではない。
腹が減る。
喉が渇く。
そんなものではない。
存在するために。
他を取り込む。
周囲の命を。
魔力を。
地脈を。
世界そのものを。
自分へ変える。
それが。
深層王にとっては。
呼吸と同じ。
「……重い」
レクスが声を漏らした。
「レクス!」
遠くで誰かが呼んでいる。
クラウディア。
ギルバート。
分かる。
でも。
返事ができない。
術を入れる。
深く。
少しずつ。
「一……」
飢餓衝動。
一パーセント低下。
少なすぎる。
「二」
抵抗。
「三……」
深層王が。
こちらを。
見返してきた。
理解された。
自分が。
何をしようとしているか。
『小さきもの』
声。
頭の中。
『我を減らすか』
レクスは。
初めて。
術の対象から。
明確に言葉を返された。
「……そうだ」
『なぜ』
「人を食うから」
『生きるためだ』
「こっちも同じだ」
『ならば奪え』
「そういうやり方は嫌いだ」
『弱きもの』
「それは否定しない」
深層王の飢え。
三。
四。
「でも」
レクスはさらに押し込む。
「弱いから、弱くする方法を覚えた」
五。
六。
そこで。
世界が戻った。
◇
「レクス!」
クラウディアが肩を掴んでいた。
「聞こえる?」
「ああ」
「今、立ったまま反応なくなってた!」
「どのくらい?」
「十秒くらい!」
「短いな」
「そういう問題じゃない!」
ギルバートもこちらを見る。
「何があった?」
「話しかけられた」
「誰に?」
全員の視線が。
深層王へ向く。
「……あれ」
フィンが青い顔になる。
「会話できるんですか?」
「たぶん」
「嫌だなあ!」
「俺も嫌」
「それで?」
アデルが聞く。
「飢餓衝動、六パーセント落ちた」
「六……」
「さっきよりは入った」
「でも一桁」
「ああ」
アデルは測定器を見た。
「吸収量、わずかに下がってます!」
「連動してる?」
「はい! 飢餓衝動を落とすと、吸収も落ちる!」
ガレンが笑う。
「当たりじゃ、小僧!」
「だから小僧じゃない!」
「今そこですか!」
セシリアが怒鳴る。
「喜んでる場合じゃないでしょう!」
「分かっとる!」
深層王が。
今度は。
身体を起こそうとした。
黒い鎖が。
一斉に張る。
轟音。
一本。
ひびが入った。
「封印が!」
アデルが叫ぶ。
「第二層、負荷上昇!」
「壊れる?」
「このままだと!」
「撤退する?」
クラウディアがレクスへ聞く。
判断。
今。
必要。
深層王は。
まだ全力ではない。
それでも。
数パーセントしか弱体化が通らない。
このまま戦えば。
勝てない。
少なくとも。
今の形では。
「下がる」
レクスが言った。
ギルバートが即座に反応する。
「全員?」
「ああ!」
「了解!」
昔のギルバートなら。
驚いたかもしれない。
今は聞かない。
「前衛、術式班を先に!」
クラウディアも叫ぶ。
「フィン、後ろ見ながら下がって!」
「はい!」
「セシリア!」
「残り魔力六割! 防御ならまだ使える!」
「エルド!」
「儂も動ける!」
「ガレン!」
「儂に走らせる気か!」
「歩いてでも来て!」
「分かっとるわ!」
退く。
ただ。
深層王は。
逃がすつもりがないらしい。
もう一つ。
目が開く。
空洞全体の吸収量が。
跳ね上がった。
「来る!」
バルガスが叫ぶ。
レクスは振り返る。
「局所吸収低下!」
通路入口。
退路。
そこだけでも。
吸収を落とす。
「六十……七十……!」
「通るの?」
クラウディアが聞く。
「周りの術式なら!」
本体ではない。
だから入る。
「八十八!」
「行け!」
全員が退路へ向かう。
黒髪の女も。
灰色外套の男も。
一緒に下がっている。
「お前らも逃げるのか!」
ギルバートが叫ぶ。
「今の深層王は予定外よ!」
女が返す。
「自分で起こしたんだろ!」
「だから予定外だと言ってるでしょう!」
「無責任すぎる!」
「後でいくらでも責めなさい!」
「生きてたらな!」
「その通りよ!」
奇妙な形だった。
敵。
味方。
区別なく。
同じものから逃げている。
背後。
深層王の腕が。
再び持ち上がる。
「レクス!」
ギルバートが叫ぶ。
「分かってる!」
筋力。
本体へ。
今は。
少しでもいい。
「《深淵呪詛》!」
抵抗。
やはり重い。
「二……三!」
「たった三!?」
「でも下がった!」
腕が振られる。
衝撃。
さっきより。
ほんのわずか。
弱い。
「全員伏せろ!」
石壁が吹き飛ぶ。
クラウディアが地面へ転がる。
ギルバートも。
バルガスとドーガンの盾が。
今度は割れなかった。
「効いてる!」
バルガスが叫ぶ。
「三パーセントでも!」
「元が大きすぎる!」
レクスが返す。
岩脈竜の時と同じ。
いや。
もっと極端。
深層王は。
三パーセント落ちただけでも。
確かに力が減る。
しかし。
九十七パーセント残っている。
「九十九まで持っていかないと!」
フィンが叫ぶ。
「今は無理!」
レクスも叫び返した。
その言葉に。
自分自身が。
一番驚いた。
今まで。
何度も。
通してきた。
抵抗を落とし。
重ね。
最後には。
大きく削った。
でも。
今は。
できない。
「聞いたぞ!」
ギルバートの声。
「何を!」
「無理って言った!」
「言った!」
「じゃあ次考える!」
「今!?」
「今しかないだろ!」
ギルバートは聖剣を使わず。
崩れた石柱を蹴り。
退路側へ倒す。
「バルガス!」
「おう!」
盾で押す。
ドーガンも加わる。
柱が落ちる。
深層王の攻撃線を。
一瞬だけ塞ぐ。
「時間稼ぎ!」
「十分!」
クラウディアが術式班を先へ送る。
「レクス、走って!」
「ああ!」
全員が。
扉の外へ向かう。
◇
最後の封印扉を抜ける。
まだ止まらない。
地上へ戻るまで。
誰も。
完全には安心できない。
黒髪の女は。
途中で別の通路へ向かおうとした。
「待て!」
ギルバートが剣を向ける。
「どこへ行く!」
「私には私のやることがある」
「また逃げる?」
「今、あなたたちと戦うほど馬鹿じゃないわ」
「止まれ」
レクスが言う。
女が見る。
「何?」
「一つだけ」
「また質問?」
「深層王の抵抗を補助してる術式」
女の顔が。
僅かに変わる。
「お前たちが作った?」
「……一部は」
「外せる?」
沈黙。
その答えだけで。
十分だった。
「外せるんだな」
「全部ではない」
「でも、一部は?」
「ええ」
「次」
女が目を細める。
「何?」
「俺たちが来る前に外しておけ」
クラウディアが一瞬レクスを見る。
ギルバートも。
女は。
しばらく黙った後。
笑った。
「命令するのね」
「嫌ならいい」
「どうして?」
「俺たちでやる」
女の笑みが薄くなる。
「本当に」
少し。
嬉しそうだった。
「面白い人」
「それはどうでもいい」
「次に会った時」
女は別通路へ下がる。
「あなたがどこまで落とせるか、楽しみにしているわ」
「見物する気ならやめろ」
「努力する」
「そこは約束しろ」
「私もまだ慣れていないの」
どこかで聞いたような返しだった。
黒髪の女と灰色外套の男は。
暗い通路へ消えた。
「追う?」
クラウディアが尋ねる。
「今はやめる」
レクスは即答した。
「深層王が先」
「分かった」
◇
地上へ戻った時。
日が傾き始めていた。
廃都の外周隊が駆け寄ってくる。
「何があった!」
ローディスが叫ぶ。
「全員いるか!」
人数確認。
いる。
負傷者。
軽傷多数。
大怪我はない。
魔力消耗。
セシリア。
アデル。
エルド。
ガレン。
術式班の負担が大きい。
前衛も。
腕。
肩。
脚。
衝撃でかなり消耗した。
それでも。
誰も死んでいない。
「深層王は?」
ディアスが尋ねる。
レクスは振り返る。
廃都中央。
神殿地下。
まだ。
青黒い光が脈打っている。
「起きかけてる」
「弱体化は?」
ローディスの問いに。
レクスは少しだけ黙った。
「通らなかった」
周囲が静かになる。
「まったく?」
クラウディアが代わりに答える。
「一桁」
「一桁?」
ディアスの声が裏返った。
「筋力は三。吸収系も最初は三から九くらい。飢餓衝動を直接狙って、やっと六」
アデルが補足する。
「深層王本体の呪詛抵抗が異常に高い。それだけではなく、周囲の術式網が抵抗を肩代わりしています」
「つまり?」
「レクスさん一人で、本体へ九十九パーセントを通すのは現状不可能です」
誰も。
すぐには何も言えなかった。
世界最強の支援職。
神話指定すら九割以上弱くした男。
その力が。
初めて。
通らない。
フィンが乾いた声を出す。
「……これ、相当まずいですよね」
「ああ」
レクスは否定しなかった。
「かなり」
ギルバートが隣へ来る。
「で」
「何?」
「次どうする?」
レクスは彼を見る。
「怖くない?」
「怖い」
「俺も」
「でも戻るんだろ」
「ああ」
「なら次考えるぞ」
昔なら。
その言葉は。
勇者が黒魔導士へ向けるものではなかった。
レクスが考える。
レクスが整える。
レクスが弱くする。
勇者たちは。
倒す。
今は違う。
「アデル」
「はい」
「抵抗補助の術式、どこまで切れる?」
「今の情報があれば解析できます」
「ガレン」
「やるしかなかろう」
「セシリア」
「魔力を戻してからなら手伝える」
「エルド」
「儂もじゃ」
「クラウディア」
「次は私たちが、もっと長く時間を作る」
「ギルバート」
「言っただろ」
聖剣の柄を軽く叩く。
「お前が無理なら、俺たちで考える」
レクスは。
少しだけ息を吐いた。
「じゃあ」
地図を広げる。
「一人じゃ削れないなら」
全員が。
その地図を覗き込む。
「皆で、削れる状態にする」




