第33話 四百年前の失敗
「――傷つけるほど、強くなる」
アデルが読み上げた言葉を、誰もすぐには理解できなかった。
意味自体は簡単だ。
傷つければ強くなる。
たったそれだけ。
だが、討伐を目的にするなら、それほど質の悪い性質もない。
「待って」
最初に口を開いたのはクラウディアだった。
「傷を治す、じゃないの?」
「記録には、そう書かれていません」
アデルは卓上へ広げた石板の写しを指で押さえた。
四百年前の文字を現代語へ直しながら書き込んだ紙には、何度も修正した跡が残っている。
「原文に近い形で読むなら、『刃を受けしごとに力を得、火を浴びしごとに炎を喰らい、術を受けしごとに地より満ちる』です」
「……もっと嫌な内容になったんだけど」
フィンが顔をしかめる。
エルドは顎髭へ手を当てた。
「単純な再生ではないのう」
「はい」
アデルの表情は真剣だった。
普段なら未知の術式に触れれば目を輝かせる男が、今日は研究者としての興奮より警戒を前面に出している。
「四百年前の討伐記録を見る限り、対象は損傷を受けるたび、周辺から何かを吸収していました。最初は地脈魔力。次に、生きているものの生命力。そして戦闘が長引くと、攻撃に使われた魔力そのものまで取り込んだ可能性があります」
ディアスが低く唸る。
「攻撃すればするほど、こちらが餌を与える?」
「大ざっぱに言えば」
「最悪だな」
「その評価には同意します」
レクスは石板の写しを見る。
そこには何度も同じ意味の記述があった。
斬っても。
焼いても。
貫いても。
倒れない。
それどころか、戦闘が長引くほど被害が拡大していく。
「でも」
レクスが言う。
「最初から無限に吸えるなら、封印もできなかったんじゃないか?」
アデルが顔を上げた。
「そこです」
「何か分かった?」
「完全ではありません。ただ、記録の途中から戦い方が変わっています」
別の紙を出す。
「最初の連合軍は、普通に討伐しようとしている。兵士、魔術師、教会騎士、呪術師。それぞれが攻撃しています」
「それで強くした」
「はい」
「馬鹿だった?」
「四百年前の人たちに厳しすぎません?」
「性質を知らなかったなら仕方ないか」
「そういうことです」
ガレンが杖の先で床を軽く叩いた。
「最初に遭遇した者は、分からぬまま死ぬ。それが厄介な呪いや魔物の怖さじゃ。後から記録を読む我らは賢く見えるが、最初の者は命で情報を買うことになる」
軽い言葉ではなかった。
国境砦の六十三人も。
トルメ村の百九十三人も。
何が起きているか分からないまま生命力を奪われた。
レクスも、旧監視塔の祭壇に触れるまでは仕組みのすべてを知らなかった。
「それで」
クラウディアがアデルを見る。
「昔の人たちは、途中でどう戦い方を変えたの?」
「攻撃をやめたようです」
「全部?」
「直接攻撃を」
アデルは記録の一節を示す。
「『刃を納め、火を絶ち、鎖をもって地へ伏す』」
「鎖?」
「物理的な鎖だけではありません。術式です」
エルドの目が細くなる。
「封印へ移行したのじゃな」
「はい」
アデルは頷く。
「討伐を諦めたのではなく、討伐そのものが逆効果だと理解した。だから対象の能力を奪うのではなく、周囲との接続を切って、力を得られない状態へ封じた」
レクスが反応する。
「接続を切る?」
「あなたが寄生呪詛へやったことに近いです」
一同の視線がレクスへ集まる。
「人間から直接弱らせたんじゃなくて、外から食い込んでいた呪いの方を狙ったでしょう?」
「ああ」
「四百年前の封印も発想は似ています。対象そのものを殺そうとするのではなく、吸収経路を閉じた」
「それで眠らせた」
「おそらく」
レクスは少し考えた。
「なら、今やってる奴らはその逆か」
「そうです」
アデルの指が地図の祭壇群をなぞった。
「封印本来の機能は、地下の対象から力を外へ逃がすものだった。それを反転させ、人間や魔物から集めた力を地下へ送っている」
「傷つけられた時に吸っていた力を、今は寝たまま食わせてる?」
「その可能性が高いです」
フィンが椅子の背へもたれた。
「何でそんなことするんだよ……」
「起こしたいからでしょうね」
マリアナの声は冷たかった。
自国民を百人以上巻き込まれた彼女にとって、それだけで十分に敵意を抱く理由になる。
「そこまでは分かるんですが」
アデルが少し言いづらそうに続ける。
「もっと問題があります」
「まだあるのか?」
ディアスが本気で嫌そうな顔をする。
「最近その言葉を聞くたび、帰りたくなるぞ」
「私もできれば言いたくありません」
「なら言わないで」
「聞かない方が危ないです」
「知ってる。だから嫌なんだ」
アデルは紙束から、最も古い記録の写しを取り出した。
「この存在には、名前が残っていません」
「前にも言ってたな」
レクスが答える。
「意図的に消されてるって」
「はい。ただ、名称を消した理由が少し見えてきました」
「呼ぶと起きる?」
フィンが小声で聞く。
「そういう呪術的な性質は確認できません」
「よかった……」
「単に、後世で崇拝対象になるのを防ぐためだった可能性が高いです」
「崇拝?」
クラウディアが眉を寄せる。
「こんなものを?」
「人間は強大なものを恐れるだけじゃありません」
ガレンが言った。
「神と呼ぶ者も出る」
「倒せないから?」
「それもある。自分ではどうにもならぬ存在を、『敵』ではなく『神』と思えば、恐怖へ意味をつけられるからの」
マリアナの表情がわずかに曇った。
「では、四百年前にも?」
「記録には、封印後に対象を崇める一派が生まれたとあります」
アデルが答える。
「封印を解こうとした者もいた?」
「はい」
今度は誰も驚かなかった。
今まさに、似たことをしている者たちがいるからだ。
「だから名前そのものを消した」
レクスが言う。
「痕跡を残さないために」
「おそらく」
「今いる黒い服の連中は、その残った一派?」
「そこまでは断定できません」
アデルは首を振った。
「四百年前の集団がそのまま続いているのか。途中で消えた思想を誰かが再発見したのか。古代術式を別の目的で利用しているだけなのか。そこは情報が足りません」
レクスは、廃都地下にいた黒衣の女の存在をまだ知らない。
ただ。
自分たちの行動を見ている誰かがいる。
祭壇が破壊されたことも。
岩脈竜を倒したことも。
寄生呪詛を切り離したことも。
相手側は把握している可能性が高い。
「名前がないと話しにくいな」
ドーガンが言った。
「毎回『地下に眠っている四百年前の何か』では長い」
「確かに」
クラウディアも頷く。
アデルが少し考える。
「古文書の中では、『深き地に伏す王』『地底に眠る王』といった呼び方があります」
「王?」
「正式名称ではありません。状態を表しているだけでしょう」
フィンが嫌そうな顔をする。
「王ってつくと急に強そうなんですよね」
「今さら呼び方で怖がるのか」
レクスが言う。
「呼び方、大事ですよ。『地下の大きい奴』より『深き地に伏す王』の方が絶対強いでしょう」
「同じ相手だぞ」
「気分の問題です」
「なら」
ローディスが実務的に言う。
「作戦上の仮称を決めよう。記録にも書きやすい」
アデルが紙へ一語記す。
「【深層王】では?」
「そのままじゃな」
エルドが言う。
「分かりやすい」
クラウディアも頷く。
「正式名が分かるまでは、それでいいんじゃない?」
こうして。
四百年間、名前を消されていた存在へ。
現代の人間たちは仮の名を与えた。
深層王。
それはまだ眠っている。
少なくとも。
完全には起きていない。
◇
「次」
アデルは記録の解析を続けた。
「深層王がどうやって力を得るのか」
「傷つけられた時に吸うんだろ」
「それだけではありません」
レクスは嫌な予感がした。
「周囲の生命力?」
「はい。ただし無差別ではないようです」
「どういうこと?」
「戦闘状態になると、対象を中心に『吸収圏』とでも呼ぶべき領域が広がる」
アデルは古い地図の写しへ円を描く。
「最初は数百メートル程度だった。ところが攻撃されるたび範囲が広がり、最終的には――」
指が止まる。
「約八キロ」
「八?」
フィンが聞き返す。
「八キロ圏内から生命力を吸った?」
「記録を信じるなら」
ディアスの表情が変わった。
「軍を近づけるほど餌になるじゃないか」
「その可能性があります」
「待って」
クラウディアが言う。
「じゃあ戦力を増やせば増やすほど危険?」
「条件次第では」
室内が静まる。
前日まで。
戦力は多い方がいい。
誰もがそう考えていた。
レクス自身も。
「兵士を百人集めて」
マリアナがゆっくり言う。
「全員から生命力を吸われたら……」
「深層王側の補給源になる」
ローディスが続ける。
「しかも味方は弱る」
「最悪の交換ね」
クラウディアが吐き捨てるように言った。
レクスは地図を見る。
「じゃあ、大部隊を近くへ連れていくのは駄目かもしれない」
「そうなります」
アデルが頷く。
「少人数精鋭?」
ドーガンが聞く。
「単純に人数を減らせばいいとも限りません」
「なぜ?」
「深層王本体の攻撃規模が分からないからです」
「少なすぎれば耐えられない」
「はい」
「多すぎれば吸われる」
「はい」
フィンが両手で顔を覆った。
「面倒すぎる……」
「そこで」
アデルの目がレクスへ向く。
「あなたです」
「俺?」
「はい」
「何をする?」
「吸収を弱らせる」
一同が黙る。
アデルは続けた。
「あなたは岩脈竜の時、筋力や防御だけではなく、外部からの魔力供給そのものを弱体化しましたね」
「ああ」
「寄生呪詛では、生命吸収効率も落とした」
「ああ」
「なら、深層王が持つ生命吸収機構そのものを弱体化できる可能性があります」
レクスも考える。
相手そのものを殺す前に。
回復。
吸収。
供給。
そこを落とす。
「四百年前の人間にはできなかった?」
「少なくとも、記録上は」
「封印で似たことはしたんだろ」
「外側から、です」
アデルは指を立てた。
「ここが重要です。四百年前は深層王本体の吸収能力を無力化できなかった。だから周囲との接続を、巨大な術式で閉じた」
「俺なら本体の能力を落とせるかもしれない」
「はい」
クラウディアがレクスを見る。
「それって、初めて討伐できる可能性が出たってこと?」
「可能性だけなら」
アデルは慎重だった。
「ただし、レクスさんの弱体術が深層王へ通ることが前提です」
「通らなかったら?」
フィンが聞く。
「四百年前と同じように封印を維持するしかないでしょう」
「通っても?」
クラウディアが続ける。
「九十九パーセントまで入る保証はない」
レクスが答えた。
「バルディオスで最初は三割くらいしか入らなかった」
「抵抗を落として九十二」
「ああ」
「深層王は?」
「もっと高いかもしれない」
ガレンが低く笑う。
「やっと話が見えてきたのう」
「何が?」
「今回、おぬしの仕事は『敵を弱くする』だけでは足りぬ」
「どういう意味だ?」
「何から弱くするかを間違えるな、ということじゃ」
レクスは老人を見る。
「筋力から落とすなってこと?」
「そうとは限らん。だが、もし先に殴り合いを始めれば、昔と同じ失敗をする」
攻撃を受ける。
傷つく。
吸収する。
強くなる。
なら。
最初に止めるべきは。
「吸収」
レクスが言う。
「それから再生」
「さらに」
アデルが続ける。
「周囲の地脈との接続」
「その後で抵抗」
「はい」
「それが落ちてから、本体能力」
「おそらく」
クラウディアが苦笑する。
「相手の強さを落とす前に、強くなる方法を全部潰すわけね」
「ああ」
「いつもより面倒」
「でもやることは分かりやすい」
「あなたにとってはでしょうね」
◇
解析は夜まで続いた。
四百年前の戦闘記録には、読めば読むほど生々しい失敗が残っていた。
第一日。
連合軍が深層王へ攻撃。
火炎魔法と投石器による遠距離攻撃。
深層王は損傷。
同時に地脈魔力の吸収量が増加。
第二日。
教会騎士団が突撃。
傷を増やす。
対象は周辺の森から生命力を吸収。
木々が枯死。
兵士にも急激な疲労が発生。
第三日。
大規模殲滅魔法を使用。
効果はあった。
深層王の身体の一部を吹き飛ばした。
だが。
その日の夜。
「再生した……」
クラウディアが古文書の写しを読む。
「それだけじゃないです」
アデルが言う。
「再生後、使用した魔法と似た属性への耐性が上昇したと書かれています」
「学習する?」
「少なくとも適応する」
「同じ攻撃が効きにくくなる?」
「可能性が高いです」
フィンが絶望した顔をする。
「攻撃すると強くなって、回復して、しかも同じ攻撃に慣れる?」
「四百年前の記録上は」
「よく封印できましたね」
「その点は本当にそう思います」
アデルの声にも敬意が混じっていた。
何度も失敗した。
死者も出した。
それでも最後には、直接討伐を捨てて術式封印へ切り替えた。
「何人死んだ?」
レクスが聞く。
アデルは少し黙った。
「正確な数は残っていません」
「おおよそは?」
「……千を超えた可能性があります」
誰も口を開かなかった。
千。
数字にすると簡単だ。
でも。
一人ずつ名前があり。
家族がいて。
帰る場所があったはずだ。
「だから名前を消したのかもしれんな」
ガレンが言う。
「深層王を恐れて、ではなく」
「二度と同じことをするなって?」
レクスが聞く。
「かもしれん」
四百年前の人間たちは。
勝てなかった。
それでも、後世へ警告だけは残した。
名を呼ぶな。
崇めるな。
供え物をするな。
眠りを深くせよ。
だが。
四百年後。
誰かが、その警告を逆向きに使っている。
◇
「それで」
翌朝。
ローディスが新たな作戦会議を開いた。
「結局、我々は何をする」
「まず祭壇」
レクスが答えた。
「生命力を送り込む経路を止める」
「全部壊す?」
「壊さない」
「反転部分だけ切る?」
「そう」
アデルが頷く。
「レクスさんが一基目を弱体化し、我々が構造を完全に解析します。二基目以降は同じ反転式であれば、呪術師と魔術師の混成班だけで解除できる可能性が高い」
「何基ある?」
「現在確認済み十四」
「昨日十三じゃなかった?」
「一基増えました」
フィンが天井を見る。
「減る方向で更新してほしいなあ……」
「俺もそう思う」
レクスが言う。
「同時にやる?」
クラウディアが聞いた。
「できれば」
「一つずつ止めたら相手に気づかれる?」
「もう気づいてると思う」
レクスはトルメ村で寄生呪詛を切断した後の脈動を思い出す。
「むしろ、一つ止めるたび別の祭壇から補おうとするかもしれない」
「だから一気に」
「ああ」
ローディスが地図を見る。
「十四地点へ人員を分けるとなると、かなりの人数が要る」
「戦力を増やすのはいい。でも深層王の近くへは大部隊を集めない」
「吸収圏の問題か」
「そう」
マリアナが言う。
「祭壇停止班と、廃都突入班を完全に分けるべきですね」
「それがいいと思う」
ディアスも頷いた。
「中央軍には祭壇停止の護衛を任せられる。王国騎士団も同じだろう」
ローディスが答える。
「できる」
「廃都へ行くのは?」
全員が少し黙った。
少人数。
しかし精鋭。
深層王が覚醒した場合に対応できる者。
古代術式を扱える者。
レクスの弱体化を活かせる者。
「《銀翼》」
クラウディアが言った。
「当然」
「レクス」
「行く」
「アデルとガレン」
アデルが即座に頷く。
ガレンは嫌そうな顔をした。
「儂は年寄りじゃぞ」
「昨日、都合のいい時だけ老人になるなって言われたばかりでしょう」
フィンが返す。
「儂は聞こえないふりをしておった」
「元気じゃないですか」
「勇者パーティは?」
マリアナが尋ねる。
ローディスはまだ答えなかった。
「正式決定は王都からの返答待ちだ」
「来るなら?」
クラウディアがレクスを見る。
「一緒に行く」
レクスはためらわなかった。
「戦える奴は必要だ」
「それだけ?」
「また聞くのか」
「今回は確認」
「再認定されたんだろ。なら、前より信用できる」
クラウディアが少し笑った。
「本人に言ってあげれば?」
「会ったらな」
◇
昼過ぎ。
さらに一つ、重要な記録が見つかった。
発見したのはガレンだった。
「小僧」
「誰が小僧だ」
「来い」
普段なら一言返して終わるところだったが、老人の声が真剣だった。
レクスはすぐ近づく。
「何だ?」
「ここじゃ」
古文書の端。
ほとんど墨が消えかけた箇所。
「読める?」
「少しな」
ガレンが指でなぞる。
「『王の傷は王を満たす。されど、王の飢えを殺せば、王はただ肉となる』」
レクスは黙った。
「飢えを殺す?」
アデルも駆け寄ってくる。
「見せてください」
何度か読み直す。
「これ……」
「どういう意味?」
クラウディアが尋ねた。
アデルの顔が変わる。
「吸収能力です」
「やっぱり?」
「四百年前の人たちは、最後にそこへ気づいていた」
「でも弱くできなかった」
「はい」
アデルが記録を読む。
「だから『飢えを鎖で縛る』と続いている。吸収機構そのものを壊せなかったから、封印術式で外部接続を閉じた」
レクスは理解した。
「俺なら」
「可能性があります」
「深層王の『飢え』を弱くできる」
「できれば」
「傷つけても強くならない?」
「少なくとも、吸収による強化は大幅に抑えられる」
クラウディアがゆっくり息を吐く。
「四百年前にはなかった方法」
「ああ」
レクス自身も。
初めて少しだけ。
討伐という言葉を現実的に考えた。
四百年前。
三王国でも倒せなかった。
千を超える人間が犠牲になったかもしれない。
それでも。
今は。
あの時代には存在しなかった手段がある。
《深淵呪詛》。
敵を弱くするだけの魔法。
役立たずと言われた。
無能と呼ばれた。
勇者パーティを追い出された。
その力が。
四百年前の失敗に、別の答えを出せるかもしれない。
「レクス」
クラウディアが呼ぶ。
「何だ?」
「今、ちょっと一人でやれそうって思った?」
レクスは答えるまで少し間があった。
「……少し」
「駄目」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てた」
「そんなに?」
「出てた」
ドーガンも頷く。
フィンまで頷いた。
エルドも。
最後にガレンまで頷く。
「全員かよ」
「今回だけは覚えておいて」
クラウディアが言う。
「あなたが『飢え』を弱くしても、倒すところまで一人でやる必要はない」
「分かってる」
「本当に?」
「第何回目だ、この確認」
「あなたが一人で抱え込まなくなるまで」
「もうやってないだろ」
「改善中ね」
クラウディアは少し笑った。
「でも」
「何だ?」
「四百年前に無理だったからって、今も無理とは限らないのね」
レクスは古文書へ視線を戻した。
「ああ」
昔の人間が失敗した。
だから今の人間も同じように失敗するとは限らない。
昔にはなかった知識がある。
記録がある。
仲間がいる。
そして。
敵を九十九パーセント弱くするかもしれない黒魔導士がいる。
「ただ」
レクスが言う。
「まだ勝てるとは言わない」
「それでいい」
「相手を見てから決める」
「うん」
「無理なら逃げる」
「そこも大事」
フィンが小さく手を上げる。
「逃げる時は、俺より先に走らないでくださいね」
「何で?」
「置いていかれそうだから」
「俺、そんなに速くないぞ」
「今までそういう問題じゃない話をしてたんですよ」
◇
その夜。
旧バルハ廃都地下。
巨大な穴の周囲に刻まれた古代術式は、以前より強く光っていた。
黒衣の女は、その変化を黙って見つめている。
「トルメ系統の宿主接続、すべて切断されました」
灰色の外套の男が報告した。
「祭壇も?」
「まだ稼働しています。ただし防御術式が解析された痕跡があります」
「早いわね」
「王国から宮廷魔術師と呪術師が合流したようです」
「でしょうね」
女は驚かなかった。
「彼一人に全部やらせるほど、王国も愚かではなかったということかしら」
「問題は」
男が一度言葉を切る。
「旧封印術式の記録へ到達した可能性があります」
女の表情が少しだけ変わる。
「どこまで?」
「不明です」
「四百年前の吸収記録まで読まれたら?」
「レクス・アルヴァーンなら、深層王の吸収機構そのものを弱体化しようとするでしょう」
「そうでしょうね」
女は大穴の底を見る。
闇の遥か下。
何かが眠っている。
時折。
巨大な呼吸のような振動が、石床へ伝わる。
「四百年前の人たちは、飢えを止められなかった」
女が静かに言う。
「だから封じた」
「はい」
「でも彼なら?」
「未知数です」
女は笑った。
「楽しみね」
「……よろしいのですか」
「何が?」
「深層王が討伐される可能性があります」
初めて。
男はそれを言葉にした。
女はしばらく黙っていた。
「それも見てみたいの」
「何を?」
「四百年前に誰もできなかったことを」
彼女は右手の紋章を見つめる。
「本当に彼ができるなら、それはそれで価値がある」
「我々の目的は覚醒では?」
「目的は一つじゃないわ」
それ以上。
女は説明しなかった。
代わりに。
地下の巨大術式へ手を向ける。
「ただし」
青白い炎が、周囲で一斉に揺れた。
「彼らが準備を整えるまで待ってあげる必要はないでしょう?」
灰色の男が顔を上げる。
「残存祭壇の出力を上げますか」
「いいえ」
女は首を振った。
「それをやれば、構造が全部見える」
「では?」
「中央へ送る」
「何を」
「今まで貯めた分を」
男の身体がわずかに固まった。
「まだ早いのでは」
「完全覚醒には早い」
女は微笑む。
「でも」
大穴の底から。
どくん、と。
昨日までより明らかに大きな脈動が返ってくる。
「寝返りくらいは打ってもらいましょう」
◇
同じ夜。
トルメ村。
レクスは眠りにつく直前だった。
地面が。
僅かに揺れた。
最初は風かと思った。
だが。
水差しの表面へ小さな波紋が広がる。
「……またか」
身体を起こす。
次の瞬間。
これまでとは比較にならない低音が、遠くから響いた。
どくん。
窓枠が震えた。
廊下から足音。
扉が開く。
「レクス!」
クラウディアだった。
「起きてる?」
「今起きた」
「聞いた?」
「ああ」
もう一度。
どくん。
今度は。
村の犬たちが一斉に吠え始めた。
馬が暴れる。
遠くの森から鳥が飛び立つ音。
エルドやアデルも外へ出てくる。
「魔力濃度が上がっています!」
アデルが叫ぶ。
「どこから?」
「北東!」
分かっていた。
旧バルハ廃都。
「深層王?」
クラウディアが尋ねる。
レクスは夜の向こうを見る。
まだ姿は見えない。
それでも。
地面を通して。
何か巨大なものが。
今までより浅い眠りへ移ったことだけは分かった。
「急いだ方がいい」
「祭壇停止を?」
「ああ」
レクスは静かに答えた。
四百年前の人間は。
深層王の性質を知らず。
攻撃し。
強くし。
千人以上を失ったかもしれない。
同じ失敗はしない。
少なくとも。
知らなかったことを言い訳にはできない。
「今度は」
レクスは闇の向こうを見たまま言った。
「最初から、強くなる方法を潰す」




