第30話 眠っているもの
第30話 眠っているもの
十六人目の寄生呪詛を切り離した夜、トルメ村では久しぶりに、人が眠った。
ただ眠る。
それだけのことが、この村ではいつの間にか贅沢になっていたらしい。
集会所の寝台へ横たわった十九歳の兵士は、胸の圧迫感が消えた直後こそ興奮して何度も身体を起こそうとしていたが、マリアナに「治ったからこそ寝なさい」と叱られると、しばらくもしないうちに深い寝息を立て始めた。
他の重症者も同じだった。
夜中に飛び起きる者はいない。
胸を掻きむしる者もいない。
寝言で「渡さない」と繰り返す声も消えた。
レクスは集会所の壁際に腰を下ろし、最後に治療した老人の魔力状態をもう一度確かめていた。
「今度こそ、完全に切れてる?」
隣からクラウディアが尋ねる。
「ああ。少なくともこの十六人は」
「軽症者は?」
「明日見る。命に関わる状態じゃないなら、俺も少し休んだ方がいい」
「それは私から言おうと思ってた」
「ちゃんと休むつもりだぞ」
「最近のあなた、『休む』って言いながら祭壇を見に行ったりするでしょう」
「今日は行かない」
「本当に?」
「夜の森で知らない国の呪術祭壇を探すほど無茶じゃない」
クラウディアはじっとレクスを見た。
「……少し成長した?」
「前からそれくらい分かる」
「前は『敵意があるか確認しただけだ』って祭壇に近づいて攻撃された人がいたけど」
「昔の話だ」
「まだそんなに昔じゃないわよ」
そこへマリアナが、水の入った木杯を二つ持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
レクスは受け取る。
冷たい水が喉を通ると、そこで初めて自分が思った以上に疲れていたことに気づいた。
十六人分の寄生呪詛を、一人ずつ宿主から切り離した。
単純な弱体化とは違う。
人間側の生命力を傷つけず、寄生体だけを狙い、その外部接続まで落とす必要がある。国境砦で一度経験しているとはいえ、今回は呪いそのものが深く成長していた。
「レクス殿」
マリアナが言う。
「何だ?」
「本当に……ありがとうございました」
「まだ終わってない」
「分かっています。それでも、あの十六人が今夜を越えられる。それだけでも、私には十分礼を言う理由があります」
彼女は寝台へ視線を向けた。
昼間まで自分の名前さえ思い出せなくなっていた老人が、今は静かに眠っている。
「先ほど、十九歳の兵士が眠る直前に言ったんです。『久しぶりに、眠るのが怖くない』と」
レクスは木杯を持ったまま黙った。
寄生呪詛を受けた人間にとって、眠ることは休息ではなくなっていたのだろう。
目を閉じれば胸を押さえつけられ、声が聞こえ、命を奪われる。
それが毎晩続く。
「嫌な呪いだな」
「はい」
「作った奴の趣味が悪い」
「そこは同感です」
マリアナがわずかに笑った。
その直後。
村の外で、低い音が響いた。
どくん。
三人とも表情を変える。
昼間にも聞いた。
地面の下を何かが叩いたような、腹の底へ伝わってくる脈動。
「また」
クラウディアが立ち上がった。
眠っている患者たちまで起こすほど大きくはない。
それでも。
今度は一度では終わらなかった。
少し間を空けて。
どくん。
「近くなってる?」
「いや」
レクスは床へ手を置いた。
石を通して伝わる感覚。
「音が近いんじゃない。強くなってる」
マリアナの顔から血の気が引く。
「十六人の接続を切ったせいでしょうか」
「断定はできない」
「でも可能性は?」
「ある」
クラウディアが窓の外を見た。
「祭壇の方?」
レクスも立ち上がる。
「たぶん」
「今から行く?」
「……行かない」
クラウディアが振り返った。
「驚かないでくれ」
「驚いてない。ただ、確認しただけ」
「明るくなってからだ」
「賛成」
マリアナも頷いた。
「今夜は村の警戒を強めます」
「祭壇には近づけない方がいい」
「分かりました」
レクスは眠る患者たちをもう一度見た。
十六本の糸を切った。
その向こうにいた何かが、それを知った。
そう考えると。
あの脈動は。
怒っているというより。
目を覚ましかけているように聞こえた。
◇
翌朝。
軽症者の診察は、予定より時間がかかった。
百八十七人すべてが同じ程度に寄生されていたわけではない。
ごく薄い接続だけの者。
すでに生命力を一割以上奪われている者。
まだ自覚症状はないが、胸部に寄生体の痕跡がある者。
村人だけではなく、公国兵にも複数の感染者がいた。
「全部で百九十三」
昼前。
マリアナが新しい集計表を見ながら言った。
「昨日より六人増えてる?」
レクスが尋ねる。
「増えたというより、無症状だった六人が見つかりました」
「じゃあ実際の感染者は最初からもっといた可能性がある」
「はい」
クラウディアが腕を組んだ。
「重症者だけ助けても、祭壇が生きてたらまた繋がる?」
「俺が完全に切った十六人には、今のところ再接続はない」
「どうして?」
「寄生体そのものの固定力も落としたからだと思う。でも、周囲に別の祭壇があったら新しく寄生される可能性までは否定できない」
「つまり、原因を潰さない限り終わらない」
「ああ」
ローディスも地図へ目を落とした。
「確認されている祭壇へ行こう」
ディアスが腕を組んだまま頷く。
「中央軍から正式な返答はまだ来ていない」
「いいのか?」
ローディスが尋ねる。
「今さらここで『王国側と行動するな』と言われても困る。昨夜から百九十三人分の名簿を見た後だぞ」
「処分されるかもしれないんだろ」
「その話を蒸し返すな。胃が痛くなる」
「怖いのか?」
レクスが聞く。
「当たり前だ」
ディアスは即答した。
「俺には妻も子供もいる。給金が止まったら本気で困る」
「軍人らしくない言い方ね」
クラウディアが笑う。
「軍人にも生活がある」
「それはそう」
「だからできれば、全部解決して『結果的に正しかった』で押し切りたい」
「思ったより現実的だな」
「お前に言われたくない」
◇
黒い祭壇が見つかった丘は、トルメ村から北へ二キロほど。
林を抜けた先にある、小さな岩山だった。
マリアナの部下がすでに周囲を封鎖している。
祭壇は、丘の裏側。
自然にできた窪地の中央に置かれていた。
「……同じだな」
レクスが言う。
旧監視塔で見たものと、ほとんど同じ。
円形の黒い石盤。
中央に埋め込まれた黒水晶。
周囲へ細い術式が伸びている。
ただし。
「規模が違う」
エルドが杖を持ち上げる。
「こちらの方が大きいのう」
「旧監視塔の倍近い?」
クラウディアが尋ねる。
「単純な大きさだけではない」
レクスは祭壇から伸びる魔力の流れを読む。
「接続数が多い」
「百九十三人?」
「それだけじゃない」
術式が何本も地中へ沈んでいる。
村。
別の集落。
北。
東。
そして。
北東。
「こいつ自体も中継してる」
「つまり、人から吸って、そのまま廃都へ?」
「ああ」
ローディスが低く言った。
「壊せるか?」
「壊すだけなら」
「またその言い方?」
クラウディアが警戒する。
「ここを壊して、他の祭壇へ負荷が移る可能性がある」
「前の採掘坑と同じか」
「似てる。ただ、この祭壇の方が役割は単純だ」
「なら?」
「まず情報を取れるだけ取る」
エルドが満足そうに頷いた。
「ようやく呪術師らしい慎重さを身につけたのう」
「最初から黒魔導士だ」
「そこは今どうでもよい」
「最近みんなそれを言うな」
レクスは祭壇から一定の距離を保ったまま、外側の防御術式だけを弱らせ始めた。
「《深淵呪詛》」
防御。
精神干渉。
逆探知。
呪詛反射。
一つずつ削る。
「抵抗は?」
クラウディアが尋ねる。
「旧監視塔より強い。でも岩脈竜ほどじゃない」
「何割?」
「今、八十六」
さらに重ねる。
「九十二。九十五……」
祭壇の黒い光が弱くなっていく。
ここで壊さない。
前回なら、そのまま破壊したかもしれない。
「エルド」
「分かっておる」
老魔術師が近づき、術式を慎重に読む。
「これは……」
声色が変わった。
「何だ?」
「古い」
「どのくらい?」
「表面に重ねられた部分は新しい。数年、あるいは数十年。しかし、その下にある基礎術式はもっと古い」
「何百年?」
「可能性はある」
マリアナが顔を上げる。
「待ってください。旧バルハ廃都が滅びたのは六十年前です」
「なら、廃都より古い術式がその下にある?」
ローディスが聞く。
エルドは石盤へ刻まれた線を追う。
「この祭壇を最初に作った者と、今使っている者は別かもしれん」
その言葉に。
全員が黙った。
「昔のものを誰かが再利用してる?」
フィンが言う。
「そう考えるのが自然じゃな」
「何のために?」
「それを調べる」
レクスは祭壇の中心へ意識を集中した。
人間から奪った生命力。
魔力。
それがどこへ流れるか。
術式の流れを追う。
北東。
廃都。
そこまでは分かっていた。
さらに。
「その先がある」
「廃都より先?」
クラウディアが聞く。
「違う」
レクスは眉を寄せた。
「下だ」
「下?」
「廃都の地下へ落ちてる」
これまで、術式は廃都へ集まっていると思っていた。
違う。
廃都は終点ではない。
そこも入口にすぎない。
「深いな」
「どのくらい?」
「分からない」
感覚をさらに伸ばす。
十メートル。
百メートル。
もっと。
途中で。
触れた。
レクスの身体が固まった。
「レクス?」
クラウディアが呼ぶ。
返事が出ない。
大きすぎる。
魔力とも。
生命力とも違う。
存在そのものが地下へ埋まっているような感覚。
黒い祭壇から集められた力は。
それへ直接注がれている。
「……そういうことか」
「何が?」
レクスは祭壇から意識を切った。
「生命力を集めてる理由」
マリアナが一歩近づく。
「分かったのですか?」
「たぶん」
「何のために?」
レクスは北東を見る。
「起こすためだ」
◇
その日のうちに、トルメ村へ戻って緊急会議が開かれた。
旧バルハ廃都。
地下術式。
数百年前の基礎構造。
王国と公国の両側へ広がる複数の祭壇。
人間から集めた生命力。
魔物へ与える強化。
そして。
地下の何か。
「待ってくれ」
ディアスが額を押さえた。
「一度整理しよう。つまり、誰かが昔の術式を使って、人間から生命力を集めている」
「ああ」
「その力を魔物へ流したり、廃都地下へ送ったりしている」
「ああ」
「地下には何かが眠っている」
「たぶん」
「それを起こそうとしている」
「可能性は高い」
ディアスは深く息を吐いた。
「帰りたくなってきた」
「中央軍の中隊長が言う台詞じゃないでしょう」
マリアナが呆れる。
「怖いものは怖い」
「そこは正直なのね」
「お前だって怖いだろ」
「怖いです」
「ほら見ろ」
「威張るところじゃないと思うぞ」
ローディスが言う。
短いやり取りで張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
しかし、問題そのものは何も軽くなっていない。
「古い記録を調べる必要がある」
エルドが言う。
「数百年前からある術式なら、公国側に何か残っておらんか?」
マリアナが考える。
「旧バルハ廃都の記録なら、地方領主家に古文書があります。ただ六十年前の滅亡以前について詳しいものとなると……」
「教会は?」
「教会?」
「古い封印や災厄の記録は、国の公文書より宗教施設に残っていることがある」
クラウディアがマリアナを見る。
「この近くに古い教会は?」
「あります」
答えたのは、村長だった。
会議へ呼ばれていた老人が口を開く。
「村外れに、小さな祈祷堂があります。今はほとんど使われておりませんが、昔から『北東へ祈るな』という言い伝えがありまして」
全員が老人を見る。
「今まで言わなかったんですか?」
マリアナが驚く。
「まさか、こんな話に関わるとは思わんでしょう。子供を怖がらせる昔話みたいなもんです」
「どんな言い伝え?」
レクスが尋ねる。
村長は記憶を探る。
「北東の地には、眠る王がおる。名を呼ぶな、祈るな、供え物をするな。眠りを深くするために、鐘は年に一度だけ鳴らせ……だったか」
「王?」
フィンが嫌そうに言う。
「魔王とかじゃないですよね?」
「知らんよ。わしだって爺さんから聞いただけだ」
エルドが立ち上がった。
「祈祷堂を見せてもらえるか」
◇
村外れの祈祷堂は、苔に覆われていた。
石造りの小さな建物。
中には古びた祭具と、ひび割れた鐘。
壁面には、公国で現在使われている文字より古い字体で文章が刻まれている。
エルドだけでは読めない部分もあったが、マリアナの部下に古文書を扱える者がいた。
二人で文字を拾う。
時間がかかった。
そして。
「……これは」
「読めた?」
クラウディアが尋ねる。
エルドはすぐ答えなかった。
老魔術師が黙ると、それだけで嫌な予感がする。
「要約するぞ」
「ああ」
「今から、およそ四百年前」
全員が静かになる。
「この一帯で大規模な災厄があったらしい」
「何が起きた?」
「記録では、名が削られておる」
「削られてる?」
「あえて消したようじゃ。呼び名そのものを残すな、という意味かもしれん」
フィンが露骨に嫌な顔をする。
「名前呼んだだけで出てくる類?」
「そこまでは分からん」
「分からない方が怖いんですが」
「続けるぞ」
エルドは壁を指した。
「当時の複数国家と、魔術師、呪術師、教会勢力が共同で一つの存在を地下へ封じた」
「倒せなかった?」
レクスが尋ねる。
「そう書かれておる」
短い答えだった。
「討伐、不能」
室内の空気が冷えた気がした。
「封印しかできなかった?」
クラウディアの声も低い。
「そうじゃ」
エルドはさらに読む。
「封印には、土地の魔力を使った巨大術式が施された。封印を維持するため、その上に城塞と集落が作られた」
「それが旧バルハ?」
マリアナが言う。
「年代は合います。バルハは元々、城塞から発展した都市です」
「じゃあ、廃都になった後に封印の管理も止まった?」
ローディスが尋ねる。
「可能性はある」
「でも祭壇は生命力を送ってる」
レクスは壁を見る。
「封印を維持するなら、逆じゃないか?」
「そうね」
クラウディアも気づく。
「起こそうとしてる誰かが、封印術式を逆に利用してる?」
「たぶん」
エルドは次の文章へ目を移す。
「さらにある」
「まだ?」
フィンが本気で嫌そうだ。
「この存在が目覚める前兆として、周辺の魔物が住処を捨てる、とある」
レクスが顔を上げた。
「……バルディオス」
「黒鎧のガルムも」
クラウディアが続ける。
「公国側の森からも魔物が消えた」
マリアナも言う。
全部。
繋がる。
「魔物は人間より先に気づいてた?」
フィンの言葉に、誰も否定できなかった。
「本能で逃げていたのかもしれん」
エルドが言う。
「神話指定のバルディオスまで?」
「だから問題なんじゃ」
神話指定。
あれほど巨大で。
強く。
城壁すら踏み砕ける怪物。
それが。
戦うのではなく南へ移動した。
もし。
逃げていたのなら。
「ちょっと待って」
クラウディアがレクスを見る。
「バルディオスって、あなたが九十二パーセントくらい落として、私たち全員でようやく倒したのよね」
「ああ」
「岩脈竜は?」
「九十九近くまで落としてもAランクくらい残った」
「じゃあ」
彼女は少し言いづらそうに続けた。
「その二体が逃げる相手って、どれくらい強いの?」
レクスは答えなかった。
分からない。
だからこそ怖い。
「レクス?」
「計算できない」
「珍しいわね」
「元の強さが分からないからな」
自分の術は割合で落とす。
九割。
九十九パーセント。
それだけ聞けば圧倒的だ。
だが。
岩脈竜で知った。
元が大きすぎれば、一パーセントでも危険になる。
そして。
四百年前。
複数国家が共同しても倒せず。
地下へ封じるしかなかった存在。
それが。
バルディオスすら避けるほどの何か。
「もし、あれが本当に目覚めたら」
レクスが言う。
「九十九パーセント落とせても危ないかもしれない」
誰も笑わなかった。
これまで。
レクスが九十九パーセントと言えば、ほとんど勝利と同じ意味だった。
今日初めて。
その数字が。
安心ではなく、警告になった。
◇
祈祷堂の奥には、小さな地下室があった。
長年開かれていなかった石扉を、公国兵とドーガンが協力して開ける。
中から出てきたのは。
古い地図だった。
羊皮紙ではない。
石板へ刻まれた巨大な術式図。
「これ……」
レクスは思わず近づいた。
王国側の旧監視塔。
採掘坑。
公国側の祭壇。
位置が。
ほぼ一致する。
「四百年前からあった?」
マリアナが呆然とする。
「今の祭壇そのものではない」
エルドが慎重に調べる。
「ただし、配置の基礎は同じじゃ」
レクスも理解した。
現在の黒い祭壇は。
新しく一から作られたものではない。
四百年前の巨大封印術式。
その末端を。
誰かが作り替えている。
「封印を解くために、封印そのものを使ってる」
ローディスが言う。
「悪趣味だな」
「ああ」
「止められる?」
クラウディアが尋ねる。
レクスは石板を見る。
術式は巨大だった。
王国と公国。
二国の国境地帯どころではない。
地図上の広い範囲へ張り巡らされている。
確認済みの祭壇だけでも、その一部。
「端から一つずつ壊してたら間に合わないかもしれない」
「じゃあ中心を?」
「廃都地下」
「行くしかない?」
レクスはすぐには頷かなかった。
「今の人数では行かない」
クラウディアがわずかに笑う。
「前なら行ってた?」
「たぶん」
「成長したわね」
「岩脈竜に教えられた」
「ドーガンが飛ばされたおかげ?」
「だから俺を教材にするな」
後ろでドーガンが低く抗議する。
「今回は準備する」
レクスは石板の中央を指した。
「術式を止める方法を調べる。それから戦力を集める」
「どのくらい?」
「多い方がいい」
「雑ね」
「相手が分からないから、細かく言えない」
「《銀翼》は行くわよ」
クラウディアは即答した。
「まだ依頼も出てないぞ」
「今さらあなた一人で行かせる方が怖い」
「一人で行くとは言ってない」
「念のため」
フィンが遠い目をした。
「俺、当然人数に入ってますよね」
「《銀翼》だもの」
「ですよねえ」
「嫌なら残ってもいいぞ」
レクスが言うと、フィンは少し考えてから首を振った。
「いや。怖いですけど行きます」
「何で?」
「今度、レクスが『九十九まで落としたから大丈夫』とか言い出した時に、横で止める人が必要なので」
「もう言わない」
「それならなおさら見届けます」
エルドが笑った。
「よい心がけじゃ」
「爺さんも当然行くんですよ?」
「儂は老人じゃぞ」
「都合のいい時だけ老人になるな!」
張り詰めていた空気へ、ほんの少し笑いが戻る。
レクスはそれを聞きながら。
石板の中央。
旧バルハ廃都の印を見た。
その下。
四百年間眠り続けてきた何か。
今。
人間から奪った生命力を与えられ。
少しずつ。
目を覚まそうとしている。
◇
その頃。
旧バルハ廃都地下。
黒衣の女は、巨大な術式の中心に立っていた。
周囲の水晶のうち、いくつかは光を失っている。
王国側で一つ。
採掘坑で一つ。
公国側でも。
「トルメ系統、重症宿主十六名との接続が完全切断されました」
灰色の外套の男が報告する。
「祭壇の防御機構も大幅に弱体化されています」
「そう」
女は怒らなかった。
むしろ楽しそうだった。
「彼、どこまで気づいたかしら」
「レクス・アルヴァーンですか」
「他に誰がいるの?」
「旧封印術式へ到達する可能性があります」
「なら、来るわね」
「迎撃を?」
「何度も同じことを聞かないで」
女は中央の大穴を覗き込む。
底は見えない。
ただ。
遥か下から。
規則的な脈動だけが聞こえてくる。
どくん。
少し速くなった。
「まだ完全には起きないで」
女が囁く。
「せっかく、面白い人が来てくれるんだから」
男は黙っていた。
「九十九パーセント」
女は笑う。
「本当に見てみたいわ」
そして。
地下の闇で。
これまで閉じたままだった巨大な何かの瞼が。
ほんの僅かに。
開いた。




