第28話 魔物を弱らせても、人間は弱らせない
エルディナ公国中央軍の騎兵は、街道いっぱいに広がっていた。
数は十五騎ほど。
先頭にいる男は四十歳前後で、濃紺の外套を肩へ掛け、その留め具には中央軍の将校章がある。よく鍛えられた体つきと、迷いのない剣の構えを見る限り、ただ命令を伝えに来ただけの文官ではなかった。
「マリアナ副長!」
男は馬上からもう一度声を張る。
「王国側の武装兵と冒険者を連れて、それ以上進むな! 公国中央軍司令部の命令だ!」
マリアナは一歩前へ出た。
「その命令はいつ出たものですか」
「今朝だ」
「では、私が昨日送った共同医療調査に関する報告は?」
「司令部で確認済みだ」
「確認した上で止めると?」
「そうだ」
マリアナの表情が硬くなる。
「理由を聞かせてください」
「理由?」
男はレクスたちへ視線を移した。
「説明する必要があるのか?」
「あります。私は国境警備隊第二守備隊副長です。重症者十四名を含む百八十七名の住民と兵が原因不明の呪いに侵されています。その治療のため、王国で同様の症状を解決した者を正式な許可のもとで招きました」
「その『同様の症状を解決した者』が、原因を作った側でないという証拠は?」
男の目がレクスへ向く。
「黒魔導士レクス・アルヴァーン。勇者パーティから追放された後、短期間に災害指定、神話指定、国境の呪術事件へ次々と関与。あまりにも出来すぎていると思わないか?」
「思いません」
マリアナが即答した。
「私は王国側で実際に被害を受けた兵士の記録も確認しました。彼らの発症は、レクス殿が国境へ来る以前です」
「記録など書き換えられる」
「そこまで疑えば何も確認できません」
「だからこそ、他国の術師を病人のところへ近づけるわけにはいかん!」
男が言い切ると、後ろの騎兵たちも槍を構え直した。
王国側の騎士も反射的に手が武器へ動く。
「抜くな」
ローディスが低く言った。
「全員、そのままだ」
騎士たちの手が止まる。
クラウディアも二本の剣には触れていない。
フィンだけが少し身を低くしていたが、それも攻撃姿勢ではなく、何かあればすぐ避けられるようにしているだけだった。
「レクス」
クラウディアが小声で呼ぶ。
「ああ」
「何もしないでね」
「まだ何もしてない」
「『まだ』をつけない」
「分かった」
先頭の将校がそのやり取りを聞きつけた。
「やはり弱体術を使えるのか」
「使える」
「人間にも?」
「使える」
「レクス」
クラウディアの声が低くなる。
「聞かれたから答えてるだけだ」
「答え方を考えて」
騎兵の間にざわめきが広がる。
男は剣先をわずかに上げた。
「公国兵へ術を使えば、敵対行為とみなす」
「分かった」
レクスは頷いた。
「使わない」
男が一瞬、訝しそうな顔をした。
「……随分素直だな」
「敵じゃないなら、使う理由がない」
「我々が道を塞いでいても?」
「それと弱体化は別の話だろ」
「なら、このまま引き返せ」
「それはできない」
「なぜだ」
「病人が待ってるからだ」
レクスの答えは単純だった。
男は眉間へ皺を寄せる。
「お前に、公国民を気遣う理由などあるのか?」
「病人だから」
「国が違う」
「呪いが国境を気にしてるようには見えない」
レクスは街道脇の地面へ目を向けた。
王国側で見つかった祭壇。
採掘坑の中継柱。
公国側で確認されている黒い祭壇。
全部が同じ仕組みなら、術式を作った者にとって王国人も公国人も区別がない。
「俺たちがここで喧嘩してる間も、病人から生命力は抜かれてる」
騎兵の一人がわずかに視線を逸らした。
中央軍の兵の中にも、家族や知人が被害地域にいる者がいるのかもしれない。
だが先頭の男は動かなかった。
「それでも通すわけにはいかん。命令だ」
「命令なら仕方ないな」
レクスが言った。
「レクス?」
クラウディアが横を見る。
「引き返すの?」
「いや」
「じゃあ何が仕方ないのよ」
「この人が勝手に決めてるわけじゃないってこと」
レクスは男を見る。
「名前は?」
「……中央軍第三騎兵中隊長、ディアス・エルマンだ」
「ディアス隊長。司令部と直接話せないか?」
「ここから中央司令部まで何日かかると思っている」
「伝令魔法は?」
「軍用通信はある。だが、こんなことで中央司令部へ――」
「百八十七人の病人は『こんなこと』なのか?」
ディアスの口が止まった。
責める口調ではなかった。
ただ事実として聞いた。
「重症者十四人。生命力は三割以下なんだろ?」
マリアナが頷く。
「はい」
「一日待って、その十四人が二割になったら?」
ディアスは答えない。
「治せる保証はない。でも、王国側では同じ症状を六十三人治した。なら試す価値はあると思う」
「罠だった場合は?」
「その時は俺を止めればいい」
ディアスの顔に皮肉めいた色が浮かぶ。
「世界最強などと呼ばれる黒魔導士を、我々が?」
「人間相手なら、俺は弱体術を使わない」
「なぜだ」
「まだ敵じゃないから」
「こちらが剣を向けていても?」
「怖いけど、まだ話してる」
その返事に、ディアスがわずかに目を見開いた。
「怖い?」
「ああ」
「お前が?」
「剣は刺されれば痛いだろ」
フィンが思わず吹き出した。
「そこなんですか」
「他に何がある」
「いや、もっとこう……世界最強らしいこと言うのかと」
「世界最強は俺が決めた呼び名じゃない」
ディアスの後ろでも、何人かの騎兵が困惑していた。
敵国から来た危険な黒魔導士。
そう聞かされていた相手が、剣を向けられて「痛いから怖い」と真顔で言っている。
警戒の置き場に困るらしい。
だが。
その時。
後列の騎兵の一人が叫んだ。
「隊長!」
一頭の馬が突然いなないた。
前脚を高く上げ、騎手を振り落としかける。
「どうした!」
「分かりません!」
馬だけではない。
隣の馬も耳を伏せ、落ち着きを失い始める。
レクスはすぐ周囲を見る。
「何か来る」
「魔物?」
クラウディアがようやく剣へ手を掛けた。
「たぶん」
森の中から、葉を踏み砕く音がした。
一つ。
二つ。
多い。
「全員、街道中央から離れろ!」
ローディスが叫ぶ。
ディアスも即座に部下へ命じる。
「騎兵、馬を下げろ! 槍は森へ向けろ!」
さっきまで互いに向けられていた武器が、一斉に別方向へ向く。
森から出てきたのは、灰色の狼だった。
ただし普通の灰牙狼ではない。
目が赤黒く濁り、首筋には黒い石片が食い込んでいる。
「強化個体!」
レクスが叫んだ。
一頭だけではない。
次々と出てくる。
五。
十。
十五。
「多い!」
フィンが弓を引く。
「レクス!」
クラウディアの呼びかけに、レクスは即座に右手を上げた。
「《深淵呪詛》」
今度は迷わない。
相手は魔物だ。
「強化術式の出力低下。筋力、敏捷、防御、知覚――」
狼たちの動きが目に見えて鈍った。
一頭が跳躍する。
ディアスへ向かって。
「隊長!」
騎兵が叫ぶ。
ディアスは剣を構えた。
だが狼の速度は途中で急激に落ち、まるで泥の中を走るような動きになる。
「今!」
クラウディアの剣が走る。
一撃。
首元へ深く入った。
狼が倒れる。
「本当に……」
ディアスが呟く。
「弱くなった?」
「今は八十八パーセントくらい!」
レクスが答える。
「十分だ!」
ディアスも剣を振るう。
別の狼の肩へ入った。
先ほどまでなら騎兵の甲冑を噛み砕けそうな牙も、今は剣を避けきれない。
「中央軍、密集するな!」
ディアスの指示が飛ぶ。
「王国側を敵と見てる場合じゃない! 狼だけ見ろ!」
「了解!」
クラウディアも声を上げる。
「《銀翼》、左側! ドーガン、騎兵の前へ出すぎないで!」
「分かっている!」
「フィン、馬へ飛ぶ奴優先!」
「はい!」
「エルド、広範囲は?」
「味方が多すぎる。狭く焼くぞ!」
王国と公国。
つい数分前まで互いに武器を向け合っていた者たちが、自然に同じ敵を相手に動き始める。
レクスは狼を一頭ずつ見た。
すべてに同じ黒い石片がある。
強化の程度は黒晶甲熊ほどではない。
だが攻撃性が異常だった。
逃げようとしない。
仲間が倒れても。
自分が傷ついても。
ただ人間へ噛みつこうとする。
「痛覚も削られてるんじゃない」
エルドが言う。
「逆だ!」
レクスは術式を読む。
「痛みを感じにくくされてる。恐怖も!」
「自分から死ぬまで戦わせる術式か!」
ローディスが騎士の剣で一頭を押し返す。
「趣味が悪いな!」
「同感!」
残りの狼へ追加で術を入れる。
「筋力九十五。敏捷九十六。攻撃性も――」
そこでレクスは一瞬迷った。
感情へ干渉する。
生き物の精神を直接弱らせること自体はできる。
以前なら、敵なら気にしなかった。
今も魔物だ。
それでも、この異常な攻撃性は外から植え付けられている。
「どうしたの!」
クラウディアが叫ぶ。
「いや」
レクスは判断した。
「恐怖抑制の術式を落とす!」
狼自身の感情を弱らせるのではない。
外から「怖がれなくしている」仕組みだけを壊す。
黒い石片が明滅した。
次の瞬間。
まだ生き残っていた狼たちの動きが変わった。
周囲を見る。
仲間の死骸を見る。
自分たちを囲む人間たちを見る。
一頭が後退した。
そして。
逃げた。
「追うな!」
レクスが叫ぶ。
「放っておくのか?」
ディアスが聞く。
「強化はほぼ落とした。恐怖も戻った。人里と逆へ逃げてるなら追う必要ない」
ディアスは一瞬迷った。
それでも剣を下げた。
「……分かった」
残る狼も次々と森の奥へ消えていく。
誰も追わなかった。
街道に静けさが戻る。
馬たちの荒い鼻息。
怪我人の確認をする声。
鉄と血の匂い。
戦闘は数分だった。
けれど。
その数分で、さっきまでの空気は完全に変わっていた。
◇
「負傷者は?」
マリアナが確認する。
「中央軍、一名が腕を噛まれました!」
「王国側は?」
「なし!」
ローディスが答える。
噛まれた兵士も、鎧の上からだったため重傷ではない。念のため治癒魔法と解毒処置を受けている。
レクスは倒した狼の首元に埋まった黒い石片を観察していた。
「同じだ」
「何が?」
ディアスが馬から降りて近づく。
「王国側で出た魔物に埋め込まれてた石と同じ」
「これが強化の原因?」
「ああ」
「では、この狼たちも誰かに?」
「少なくとも自然にこうなったわけじゃない」
レクスは石片を直接触らず、布越しに持ち上げる。
「それと、術式の向きが北東だ」
ディアスの顔つきが変わる。
「旧バルハ廃都の方角?」
「たぶん」
マリアナが息を吐いた。
「隊長。これでもまだ、王国の工作だと言いますか」
ディアスはすぐには答えなかった。
彼にも立場がある。
中央軍から出された命令を、たった一度の戦闘だけで全否定することはできない。
「疑いが完全に消えたとは言わん」
やがて、そう答えた。
マリアナの眉が動く。
「まだ――」
「最後まで聞け」
ディアスはレクスを見る。
「だが、少なくとも今、この男が我々を害するために来たようには見えない」
「それなら道を開けてください」
「命令違反になる」
「では病人を見殺しに?」
「そうは言っていない」
ディアスは考え込む。
命令。
目の前の事実。
部下の命。
百八十七人の病人。
どれを優先するか。
簡単な顔ではなかった。
レクスは何も言わず待った。
少し前までなら、「通れないなら弱くして横を通ればいい」と冗談半分に考えたかもしれない。
今は分かる。
それをやれば、この男は命令を守ろうとしただけなのに、敵として扱われることになる。
そして。
公国側には「王国の黒魔導士が中央軍を術で制圧した」という事実だけが残る。
病人を助けても、次の問題が始まる。
「レクス殿」
マリアナが小声で言った。
「もし、隊長がどうしても通さない場合は……」
「使わない」
レクスは先に答えた。
マリアナがこちらを見る。
「弱体術ですか?」
「ああ」
「しかし、時間が」
「だから別の方法を考える」
「例えば?」
「説得する」
クラウディアが思わずレクスを見る。
「あなたが?」
「何だよ」
「いや……頑張って」
「そんなに不安か」
「少し」
ディアスまで聞いていたらしく、口元を僅かに歪めた。
「安心しろ。お前の交渉力を見る前に決めた」
「何を?」
「同行する」
マリアナが目を見開いた。
「隊長?」
「王国側を自由に通すわけではない。俺たち中央軍が監視役として付く」
「司令部命令は?」
「『通すな』という命令には逆らうことになる」
「それでいいのですか」
「よくはない」
ディアスは苦々しく答えた。
「だが、ここで引き返させて病人が死んだ後、『命令を守りました』で済むとも思えん」
「処分されるかもしれません」
「その時はその時だ」
ディアスは傷を負った部下を見る。
「俺たちは国を守るために軍人になった。命令を守ることはそのための手段であって、目的じゃない」
マリアナの表情が少し緩んだ。
「昔から頑固なくせに、最後はこういうところだけ融通が利きますね」
「うるさい」
二人は以前から知り合いらしい。
それも、あまり仲が悪いわけではなさそうだった。
「ただし条件がある」
ディアスはレクスを見る。
「公国兵への弱体術は禁止」
「分かった」
「命に関わる緊急時を除いて、だ」
「そこまで認めるんだな」
「さっき、お前が何をしたか見た」
ディアスは森を見る。
「狼を皆殺しにすることもできただろ」
「できたと思う」
「だが、逃げられる状態へ戻して放した」
「倒す必要がなくなったから」
「同じことを人間にもできるのだろう?」
「できる」
「なら、本当に必要になった時だけ使え」
「最初からそのつもりだ」
「……お前は説明の仕方で随分損をしている気がするな」
「よく言われる」
「でしょうね」
クラウディアが深く頷いた。
◇
中央軍の騎兵十五名が加わり、共同調査隊は再び街道を進み始めた。
さっきまでの緊張が完全に消えたわけではない。
王国騎士と公国兵は互いに少し距離を取って歩いている。
それでも、武器はもう相手へ向けられていなかった。
昼を過ぎた頃。
休憩中にディアスがレクスの隣へ来た。
「一つ聞きたい」
「何だ?」
「なぜ我々へ術を使わなかった」
「さっきも言っただろ。敵じゃないから」
「だが、我々は剣と槍を向けた」
「攻撃してこなかった」
「もし、俺が本当に斬りかかっていたら?」
「速度を落としてた」
「どのくらい?」
「止められるくらい」
「九十九パーセント?」
「そこまで必要ない」
ディアスは乾いた笑いを漏らした。
「自信があるのか、ないのか分からんな」
「傷つけずに済むなら、その方がいいだろ」
「兵士へ向ける術にしては、妙に優しい考え方だ」
「昔はそこまで考えてなかった」
「何かあったのか?」
レクスは少し考える。
勇者パーティ。
追放。
新しい仲間。
強すぎる魔物。
商人との交渉。
国境の向こうから助けを求めてきた人間。
短い期間に、ずいぶん色々あった。
「力があるから使う、だけじゃ駄目なんだと思った」
「十九歳の台詞には聞こえんな」
「そうか?」
「俺が十九の時は、剣が強ければ全部解決すると思っていた」
「俺も少し似てる」
「お前は剣ではないだろ」
「弱くすれば全部解決すると思ってた」
ディアスが初めて声を出して笑った。
「似たようなものか」
「ああ」
◇
夕方前。
一行はトルメ村が見える丘へ着いた。
小さな村だった。
煙突から煙は上がっている。
畑もある。
人の生活は残っている。
ただ。
静かすぎた。
「いつもなら、この時間は畑から戻る人間で道が混む」
マリアナが言う。
「今は外へ出る者を減らしています。体力が落ちた者から順に家へ籠もるようになったので」
村の入口には公国兵が二人立っていた。
マリアナを見ると、すぐ駆け寄ってくる。
「副長!」
「容体は?」
兵士の顔が曇る。
「重症者が十六人に増えました」
「十四人では?」
「昼前に二人、急に悪化しました」
「意識は?」
「まだあります。ただ……」
兵士が言い淀む。
「何?」
「一人が、自分の名前を思い出せなくなりました」
レクスの表情が変わった。
「精神干渉が強くなってる」
「治せますか?」
マリアナが尋ねる。
「見てみないと分からない」
「こちらです」
案内されたのは、村の集会所だった。
寝台が並び、十数人が横になっている。
空気には薬草と汗、それから治癒魔法を何度も使った後に残る独特の甘い魔力臭が混じっていた。
レクスは一番近くの寝台へ寄る。
十九歳だと聞いていた兵士だった。
頬が痩せ、唇の色も悪い。
それでもマリアナを見ると、弱々しく笑った。
「副長……本当に、連れてきたんですね」
「喋らなくていい」
「王国の……黒魔導士?」
「レクスだ」
「もっと……怖い人かと」
「今日はそれ何回目だろうな」
クラウディアが後ろで少し笑った。
兵士の緊張もわずかに緩む。
「診るぞ」
「お願いします」
レクスは魔力感覚を広げた。
すぐに見つかった。
胸の奥。
心臓でも肺でもない。
もっと別の場所へ、黒い糸のようなものが食い込んでいる。
国境砦の六十三人と同じ。
ただし。
「深いな」
「違うの?」
クラウディアが聞く。
「同じ種類。でも成長してる」
「呪いが?」
「ああ」
寄生体が宿主の魔力へ馴染んでいる。
王国側で見た時より、生命力の通り道に複雑に絡みついていた。
そして。
その糸は一本ではない。
「まずい」
レクスが呟く。
「何が?」
「こいつらの呪い、全部どこかで繋がってる」
マリアナが息を呑む。
「互いに?」
「違う」
レクスは村の北東方向を見た。
「向こうだ」
旧バルハ廃都。
地図上で、すべての術式が集まっていた場所。
「祭壇を壊すだけじゃ足りないかもしれない」
「では?」
「根元を探す」
レクスは兵士の胸元へ手をかざした。
「でも先に、この人たちを切り離す」
「できますか?」
「ああ」
今度は迷わなかった。
「同じ仕組みなら、弱くできる」
兵士がかすかに笑った。
「それ……敵に言う台詞ですよね」
「呪いは敵だろ」
「確かに……」
マリアナがその横で、初めて少しだけ安心したように笑った。
レクスは《深淵呪詛》を発動する。
人間の生命力ではなく。
人間の意思でもなく。
その身体へ勝手に食い込んだ寄生呪詛だけを狙って。
「寄生固定力低下。生命吸収効率低下。精神干渉低下。外部接続――」
黒い糸が震える。
遠くで何かが、それを引き戻そうとするような抵抗が返ってきた。
レクスの目が細くなる。
「やっぱり、向こうから繋いでる」
「廃都から?」
「たぶん」
さらに術を重ねる。
「接続強度九十五……九十七……九十九」
黒い糸が千切れた。
寝台の兵士が大きく息を吸う。
「……軽い」
自分の胸を押さえる。
「副長、胸が……軽いです」
マリアナは何も言えなかった。
代わりに兵士の肩を強く握る。
その手が少し震えていた。
「一人目」
レクスは次の寝台を見る。
「あと十五人」
「休まなくていいの?」
クラウディアが聞く。
「重症者を先にやる」
「じゃあ私たちは?」
「祭壇の場所を確認してほしい。それと、村の全員を調べて軽症者も人数を出してくれ」
「分かった」
クラウディアはすぐ動く。
ローディスとディアスも、それぞれの兵へ指示を出した。
ほんの数時間前まで。
王国と公国の兵は街道で武器を向け合っていた。
今は同じ集会所で、同じ病人を運んでいる。
魔物を弱くするのは簡単だった。
敵なら能力を落とせばいい。
人間は違う。
弱くして従わせれば、その場は静かになるかもしれない。
けれど、それでは次へ繋がらない。
レクスは二人目の患者へ術をかけながら、ようやくその違いを少し理解し始めていた。
そして。
十六人目の接続を切った時。
村の北東。
丘の向こうから。
低く、地面を震わせるような音が響いた。
どくん。
採掘坑の黒い石柱から聞いたものと、同じ音だった。
ただし。
今度はずっと近い。
レクスはゆっくり顔を上げた。
「廃都の方角だ」
クラウディアも窓の外を見る。
夕暮れの北東。
空の一部が、ごく僅かに青黒く染まっていた。
眠っているはずの何かが。
こちらの手で切断された十六本の糸に、気づいたかのように。




