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第27話 国境の向こうから来た使者

 国境砦へ戻ってきたレクスが最初に見たのは、白旗だった。


 砦の正門から百メートルほど離れた草地に、見慣れない紋章を掲げた一団が待機している。白地に青い山と銀色の鳥。武装してはいるものの剣は鞘に納められ、槍の穂先にも布が巻かれていた。


 人数は十二。


 騎士というより、護衛を伴った外交使節に近い。


「本当に来てるな」


 レクスが言うと、隣を歩くクラウディアが横目で見た。


「まさかミリアが冗談で国境問題を作ったと思ってた?」


「そこまでは言ってない」


「今の顔はちょっと疑ってたわよ」


「三日前まで商人同士の道の譲り合いで揉めてたんだ。今度は国家同士の交渉だろ。面倒の規模が急に上がりすぎじゃないかと思って」


「あなた、世界最強の支援職なんて呼ばれてるのに、そこを気にするのね」


「魔物は弱くすればいい。国は弱くしたら駄目だろ」


「その判断だけは忘れないでね」


「やらない」


 レクスが答える横で、フィンがぼそりと呟いた。


「念押しされる時点で普通じゃないよな」


「聞こえてるぞ」


「聞こえるように言いました」


 国境砦の門が開く。


 中からローディスが出てきた。


「来たか」


「ああ。向こうは?」


「昨夜から待たせている」


「中へ入れないのか?」


「入れたいが、簡単じゃない。あちらは正式な使者を名乗っているが、我々だけで身元を完全には確認できていない。国境を守る側としては、いきなり砦内部へ十二人全員を招くわけにもいかん」


「向こうも怒らない?」


「それを分かった上で、外で待つと言っている」


 ローディスは少し疲れた顔をした。


「むしろ問題は、あちらが妙に切羽詰まっていることだ」


「病人が百人以上いるから?」


「今朝、新しい数字を聞いた」


「増えた?」


「百八十七人だ」


 レクスの表情が変わった。


「昨日の報告より多いな」


「ああ。しかも症状が確認されているのは三つの集落と、一つの国境駐屯地。実際にはもっといる可能性が高い」


「死者は?」


「まだ出ていないそうだ」


「まだ?」


「彼らがその言い方をした」


 嫌な言葉だった。


 旧監視塔の寄生呪詛は、宿主をすぐには殺さない。


 少しずつ魔力と生命力を奪う。


 治癒魔法をかければ、補充された力まで食う。


 放置すればいずれ死ぬ。


 王国側の六十三人を治した時、レクスはそこまで確認している。


「会おう」


「そのために呼んだ」


 ローディスは一度砦へ戻り、間もなく副官と騎士四人を連れてきた。


 こちら側はレクス、《銀翼》、ローディスたち。


 相手も代表三人だけが前へ出てくる。


 先頭にいたのは、三十代前半ほどの女だった。


 深緑色の軍装。


 腰に細身の剣を帯びている。


 長い黒髪は首の後ろでまとめられ、疲れているはずなのに姿勢だけは崩していない。


 彼女はローディスの前で立ち止まると、右手を胸に当てた。


「エルディナ公国国境警備隊、第二守備隊副長マリアナ・ルーセルです」


「アルヴェル王国王国騎士団第三大隊副長、ローディスだ」


 互いに礼をする。


 エルディナ公国。


 王国北東部と細長く国境を接する小国だった。


 古くは何度か小競り合いがあったものの、ここ二十年ほどは大きな衝突はない。ただし友好国というほど近くもなく、交易はあるが軍事面では互いに警戒している。


 マリアナはレクスへ目を向けた。


「あなたが、レクス・アルヴァーン殿ですか」


「そうだ」


「思っていたより若いですね」


「よく言われる」


「十九歳と聞きましたが」


「ああ」


 マリアナは一瞬だけ何とも言えない表情をした。


 国境越しの他国にまで、年齢まで伝わっているらしい。


「もっと年配の呪術師を想像していました」


「黒魔導士だ」


「失礼しました。ただ、我が国ではあなたのことを『王国最高位の呪術師』と聞いていましたので」


「誰がそんな話を」


 ローディスが少し目を逸らした。


「王都経由で伝わった情報だろう」


「また大きくなってないか?」


「世界最強よりは控えめじゃない?」


 クラウディアが言う。


「比較対象がおかしい」


 マリアナは二人のやり取りを見て、わずかに表情を緩めた。


 だが、それも短い間だった。


「率直に申し上げます。助けていただきたい」


 彼女は頭を下げた。


 国家間の使者としては、かなり深い礼だった。


「病人を?」


「はい」


「症状を聞きたい」


 レクスが言うと、マリアナはすぐ顔を上げた。


「最初は強い倦怠感です。次に四肢の痺れ、食欲の低下。熱はありません。しかし寝床へ入ると、胸の上へ何かが乗っているような圧迫感を訴えます」


「声は?」


「聞こえる者がいます」


「何て?」


 マリアナの口元が硬くなる。


「『渡せ』と」


 やはり同じだ。


「治癒魔法は?」


「効きます。一時的には」


「どのくらい?」


「軽症者なら数時間。重症者では、一時間も持ちません」


「その後、前より悪くなる?」


「……なぜ分かるのです?」


「同じだからだ」


 レクスはローディスを見る。


「国境砦の六十三人と同じ寄生呪詛だと思う」


 マリアナが息を飲んだ。


「やはり、そちらでも?」


「全員治した」


「全員?」


「ああ」


 その一言だけで、マリアナの肩から力が少し抜けた。


 期待してはいけないと思いながら、それでも期待せずには来られなかった。


 そんな顔だった。


「治せるのですね」


「同じ仕組みなら」


 レクスは言い切らなかった。


「ただし、実際に見ないと分からない。似た症状でも別物の可能性はある」


「それでも構いません」


「感染経路は?」


「分かっていません」


「最初に出た場所は?」


「北東部のトルメ村です」


 マリアナの後ろにいた男が地図を広げた。


「ここです」


 国境から北東へ約四十キロ。


 王国側で見つかった旧採掘坑より、さらに北東。


 レクスの視線が止まった。


「他の三地点は?」


「南西へ七キロのエルタ村、北へ十二キロの駐屯所、さらに東にある炭焼き集落です」


 クラウディアが地図へ指を置く。


「ばらばらに見えるけど……」


「いや」


 レクスは四地点を見比べた。


「並んでる」


「何と?」


「旧監視塔と採掘坑」


 王国側の二地点を地図上で結ぶ。


 そこから北東へ伸ばすと。


 エルディナ公国側で症状が出ている地域と、ほぼ同じ帯に重なる。


 ローディスの顔が険しくなった。


「一本道みたいに続いている?」


「地上の道じゃない」


 レクスは地図を指でなぞった。


「地下の魔力網だと思う」


 マリアナが意味を測るように眉を寄せる。


「魔力網?」


 旧監視塔で見たもの。


 採掘坑の中継柱。


 レクスは必要な範囲だけ説明した。


 人間から魔力と生命力を抜く祭壇。


 北東へ送られていた力。


 魔物へ逆方向に力を流すことができる中継点。


 その話を聞くうち、マリアナの表情が変わっていく。


「待ってください」


「何だ?」


「黒い祭壇と言いましたか?」


「ああ」


「円形の溝が刻まれ、中心に拳ほどの黒水晶がある?」


 今度はレクスが顔を上げた。


「見たことがある?」


「……あります」


「どこで?」


「トルメ村から北へ二キロほどの丘です」


 ローディスが身を乗り出す。


「いつ発見した?」


「五日前です。病の原因を探していた斥候が見つけました。ただ、魔術師が調べようと近づいたところ、精神干渉を受けたため封鎖しています」


「壊してない?」


「できませんでした」


 マリアナの声に悔しさが滲む。


「魔術攻撃を当てても傷一つつかず、呪術師が解除を試みたところ、逆に二人が倒れました」


「寄生された?」


「はい」


「今は?」


「隔離しています。治癒術で命は繋いでいますが……」


 レクスは地図を見る。


 一つではない。


 やはり。


「他にもあるかもしれない」


「我々もそう考え始めています」


 マリアナが言った。


「実は、別の集落でも似た黒い石片が見つかっています」


「祭壇の破片?」


「おそらく。ただ、祭壇本体はまだ」


「何個ある?」


「分かりません」


 その答えが一番厄介だった。


 旧監視塔だけなら、一つ壊して終わりだった。


 採掘坑で中継点が見つかった。


 エルディナ側にも祭壇がある。


 さらに別の集落にも痕跡。


 線ではなく。


 網だ。


「この病は、そちらの国が仕掛けたものではないのですね」


 マリアナが突然言った。


 ローディスの表情が硬くなる。


「我々を疑っていたのか?」


「当然でしょう」


 彼女は取り繕わなかった。


「症状が出た地域は王国との国境沿いです。黒い術式は南西方向へ伸びていました。軍内部には、王国側の呪術工作ではないかと主張する者もいます」


「こちらにも同じ病人が出ている」


「今は信じています」


「今は?」


「実際にここへ来て、あなた方の資料を見たからです」


 マリアナはローディスを見る。


「逆に、そちらにも我が国の仕業だと考えている者がいるのでは?」


 ローディスは否定しなかった。


「いる」


「でしょうね」


 友好とはそういうものだった。


 平穏な時には交易できる。


 しかし正体不明の被害が国境沿いで起きれば、最初に疑うのは向こう側だ。


 レクスは少し考える。


「だったら、一緒に調べればいいんじゃないか?」


 二人が同時にレクスを見る。


「何だ?」


「簡単に言うわね」


 クラウディアが苦笑した。


「王国騎士と他国兵が一緒に国境を歩くのよ?」


「目的が同じなら、その方が早いだろ」


「理屈ではね」


 マリアナがわずかに笑った。


「あなたは外交官には向かなそうですね」


「商人にも言われた」


「なぜ?」


「値段交渉が下手だから」


「何の話だ?」


 ローディスが困惑する。


「気にしなくていい」


 レクスは地図を見たまま続ける。


「王国側だけ調べても、術式は国境を越えてる。向こうだけ調べても同じだ。誰が作ったにせよ、国境線を気にしてない」


 それは明白だった。


 呪いは関所で止まらない。


 地下を走る術式に、国家間の境界など意味がない。


「共同調査は、私からも正式に要請するつもりでした」


 マリアナが言う。


「ただし、一つ問題があります」


「まだあるのか」


「あります」


「人間は多いな」


「だから魔物と比べないで」


 クラウディアがすかさず止める。


 マリアナは少し不思議そうな顔をしたが、話を続けた。


「我が国の軍すべてが、この協力に賛成しているわけではありません」


「王国を疑ってる連中?」


「それだけではありません」


 マリアナは地図の北東側を指した。


「病が広がっている地域は、我が国でも王都から離れています。国境警備隊、地方領主軍、中央軍。それぞれ指揮系統が違う」


「つまり?」


「私が王国側の人間を連れて行っても、別部隊が敵と判断する可能性があるということです」


 フィンが遠い目をした。


「もう嫌な予感しかしない」


「私もよ」


 クラウディアが同意した。


「事前に伝えられないのか?」


 レクスが聞く。


「伝えます。ですが連絡には時間がかかります。そして病人には、その時間がない」


「重症者は?」


「十四人」


「生命力はどのくらい残ってる?」


「我が国の術師によれば、健康時の三割以下」


 レクスの顔が変わった。


 三割。


 旧監視塔で助けた兵士たちより悪い可能性がある。


「先に病人を見る」


 ローディスが反応する。


「待て。まだ共同調査の条件も――」


「重症十四人は待てない」


「それは分かる。だが、お前一人を他国領へ先行させるわけにはいかん」


「一人で行くとは言ってない」


 クラウディアがすぐ口を挟む。


「当然、私たちも行くわよ」


「俺たちも?」


 フィンが聞く。


「嫌なの?」


「嫌ですけど、置いていかれる方がもっと嫌です」


「なら決まりね」


「決まり方が雑なんだよなあ……」


 ローディスはしばらく考えた。


「最低限の手続きは必要だ」


「どのくらい?」


「今日中に砦から王都へ緊急伝書を送る。同時に、エルディナ側にも正式な越境許可の文書を用意してもらう」


 マリアナが頷く。


「すでに持参しています。限定区域における医療協力と調査許可です。ただし、王国騎士団の大部隊を入れる権限は私にはありません」


「人数を絞る」


 ローディスは判断した。


「私と騎士二名。レクス。《銀翼》四名。そちらから案内と護衛」


「それなら通せます」


「問題が起きた場合は?」


「互いの指揮官が止める」


「止まらない部隊が出たら?」


 マリアナが一瞬黙った。


「その時は……」


「弱体化して止めればいいか?」


 レクスが言った。


 全員がこちらを見た。


「冗談だ」


「今の間が冗談に聞こえなかったんだけど」


 クラウディアの声が低い。


「俺からは攻撃しない」


「そこは絶対にお願い」


「ただ、向こうから攻撃されたら?」


 ローディスとマリアナが顔を見合わせる。


 答えは簡単ではない。


 国境を越えた先で、王国側の冒険者がエルディナ兵を魔法で無力化する。


 事情によっては、外交問題になる。


「命を守るために必要なら仕方ありません」


 最終的にマリアナが言った。


「ただし、できる限り殺さないでください」


「その方が得意だ」


「……弱体術でしたね」


「ああ。足を遅くするとか、筋力を落とすとか」


「どのくらい?」


「必要なだけ」


 マリアナの顔に、一瞬警戒が浮かぶ。


「九十九パーセント?」


「人間相手にそこまでやる必要はないと思う」


「よかった……」


「必要ならやるけど」


「レクス」


 クラウディアが止めた。


「不安にさせる情報を追加しない」


「聞かれたから答えただけだ」


     ◇


 話し合いは砦の外では終わらなかった。


 正式に客人としてマリアナたち三名だけを砦へ入れ、そこでさらに詳細な情報を照合することになった。


 王国側の地図。


 エルディナ側の地図。


 二枚を並べる。


 そこへ確認された祭壇、中継柱、病人が出た集落、異常な魔物の移動地点を書き込んでいく。


「これは……」


 エルドが唸った。


 点を増やせば増やすほど、ある形が見えてくる。


 一本の線ではない。


 枝分かれしている。


「木の根みたい」


 クラウディアが言った。


「逆じゃ」


 エルドが答える。


「根というより、川へ流れ込む支流じゃな」


「全部、どこか一つへ集まる?」


 レクスが北東の地図端を見る。


「そう見えるのう」


「その先は?」


 マリアナが答える。


「旧バルハ廃都です」


「廃都?」


「六十年ほど前まで小さな城塞都市がありました。今は無人です」


 レクスの中で、何かが繋がった。


 廃都。


 黒い術式。


 すべてがそこへ向かっている。


「人は本当にいない?」


「公式には」


 マリアナの言い方が引っかかった。


「公式には?」


「近年、密輸業者や盗賊が利用しているという噂はあります。しかし軍が大規模に捜索した記録はありません」


「何で?」


「廃都周辺は魔物が多い上、土地自体に価値がないからです」


「今は?」


「最近、魔物がいなくなりました」


 室内が静まった。


「いなくなった?」


 ローディスが聞き返す。


「はい」


「いつから?」


「正確には分かりません。ただ、三か月ほど前から猟師が『北東の森で獲物を見なくなった』と報告しています」


 レクスは思い出す。


 黒鎧のガルムが南へ動いた。


 バルディオスも南下した。


 王国側の魔物たちも北東を避けている。


 そしてエルディナ側も。


「全部、廃都から離れてる」


 クラウディアが低く言った。


「たぶんな」


「神話指定まで?」


「可能性はある」


 フィンが椅子へ深く座り直した。


「帰っていいですか?」


「駄目」


「冗談ですよ。半分くらい」


 マリアナは地図から目を離せなかった。


「我々は病の原因だけを探していました」


「こっちも最初はそうだった」


 ローディスが答える。


「それが祭壇へ繋がり、魔物の異常移動へ繋がった」


「そして全部が廃都へ?」


「まだ断定はできない」


 レクスが言う。


「でも調べる価値はある」


「まず病人でしょう?」


 クラウディアが確認する。


「ああ」


 レクスは即答した。


「廃都は逃げない。病人は待てない」


 マリアナが深く頷いた。


「ありがとうございます」


「まだ治せるとは限らない」


「それでもです」


 彼女は少し迷ってから続けた。


「実を言えば、こちらへ来るまで反対されました」


「王国を頼ることを?」


「はい」


「何て?」


「敵国の魔術師を自国内へ入れるくらいなら、自分たちで原因を探すべきだと」


「敵国?」


 フィンが眉を上げる。


「戦争中じゃないだろ?」


「過去に何度も戦っています。二十年平和だからといって、全員が忘れるわけではありません」


 マリアナは自嘲気味に笑った。


「私自身も、最初は王国の術式ではないかと疑いました」


「それでも来た」


「部下が病に倒れました」


 その一言で、理由は十分だった。


「二人です。一人は、私が国境警備隊へ入った時から知っている男です。もう一人は十九歳」


 レクスと同い年だった。


「二人とも、『大丈夫です』と言うんです」


 マリアナの指が、地図の端を少し強く押さえた。


「眠るたびに何かに命を吸われて、日に日に立てなくなっているのに。それでも私に心配をかけたくないのか、大丈夫だと」


 声は崩れなかった。


 軍人としての顔を保っている。


 それでも、その下にあるものは伝わった。


「だから、嫌われても構わないと思いました」


「誰に?」


「自国の人間にです」


 マリアナはレクスを見る。


「王国へ頭を下げたと言われても、敵に弱みを見せたと責められても、二人が死ぬよりましです」


 レクスは少しだけ黙った。


「その判断でいいと思う」


 外交的な言い回しではない。


 ただ、そう思ったから言った。


「助けられるなら助ける」


 マリアナの目がわずかに揺れた。


「お願いします」


     ◇


 共同調査隊は翌朝出発することになった。


 目的はまずエルディナ公国内のトルメ村。


 そこで重症者を診察し、確認されている黒い祭壇を調べる。


 その後の行動は現地判断。


 ただし、廃都へ直接向かうことは禁止。


 少なくとも今の人数では危険すぎる。


 夕食後。


 レクスは砦の中庭で装備を確認していた。


 隣ではクラウディアが剣へ油を薄く塗っている。


「今度は国外ね」


「ああ」


「少しは緊張する?」


「戦闘?」


「国境を越えること」


「初めてだから、少しは」


「意外」


「何で?」


「あなたなら『地面は同じだろ』とか言いそう」


「それは思ってる」


「やっぱり」


 クラウディアは笑った。


「でも、人は違う?」


「ああ」


「今日の話を聞いたから?」


「それもある」


 レクスは自分の杖を確認する。


「向こうには、俺たちを敵だと思ってる奴もいる」


「いるでしょうね」


「その相手を弱くすれば解決、ってわけじゃない」


「成長したわね」


「最初から分かってる」


「本当に?」


「商隊護衛でも人間に術は使わなかったぞ」


「値段交渉で使おうとは?」


「思ってない」


「ちょっと間があったわね」


「ない」


 クラウディアは楽しそうに笑った。


 レクスは否定しながらも、少し考える。


 人間相手に《深淵呪詛》を使えば、大抵の争いは力だけなら止められる。


 筋力を半分にする。


 速度を落とす。


 武器を持てなくする。


 その程度なら傷つけず制圧もできる。


 けれど。


 使えるから使う。


 それでは、たぶん駄目なのだ。


「何考えてるの?」


「必要じゃない相手には使わない方がいいなと思って」


「いい判断ね」


「敵意がある奴には?」


「状況次第」


「やっぱり人間は面倒だな」


「だから魔物と比べないの」


     ◇


 翌朝。


 国境門の前には、共同調査隊が揃っていた。


 王国側。


 ローディスと騎士二名。


 レクス。


 《銀翼》のクラウディア、ドーガン、フィン、エルド。


 エルディナ側。


 マリアナと護衛兵六名。


 病人の状態が悪いため、移動は急ぐ。


「ここから先はエルディナ公国領です」


 国境標識の前で、マリアナが言った。


「念のため伝えておきます。我が国の兵へ遭遇した場合、まず私が話します。武器へ手を掛けないでください」


「分かった」


「レクス殿」


「俺?」


「特にあなたです」


「どうして」


「昨日の話を聞いたからです」


「人間に弱体術は使わないって言っただろ」


「『必要なら使う』とも仰いました」


「覚えてたのか」


「当然です」


 クラウディアが横で笑っている。


「信用を積み上げるって大変ね」


「何で俺だけ」


「あなたが一番危険なことをできるからでしょう」


 マリアナも否定しなかった。


「ただし」


 彼女は少し表情を和らげた。


「本当に危険になった場合はお願いします」


「どっちなんだ」


「私も命は惜しいので」


 それは人間らしい答えだった。


 一行が国境標識を越える。


 地面の色も。


 風の匂いも。


 空の青さも。


 何も変わらない。


「本当に同じだな」


 レクスが呟く。


「何が?」


「国境を越えても地面は変わらない」


 クラウディアが笑った。


「やっぱり言った」


「何を?」


「何でもない」


 そして。


 国境を越えて一時間ほど。


 先頭を歩いていたマリアナが突然、拳を上げた。


「止まって」


 一行が止まる。


 前方。


 街道の向こうから、馬蹄の音が聞こえてくる。


 一頭ではない。


 十。


 いや、もっと。


 間もなく、深い青色の軍装をまとった騎兵隊が姿を現した。


 エルディナの兵だ。


 だが。


 マリアナの顔が険しくなった。


「中央軍……」


「味方じゃないのか?」


 ローディスが尋ねる。


「同じ国です」


 マリアナは答えた。


「ですが、私たちが王国側と共同調査をすることに反対していた部隊です」


 騎兵たちが道を塞ぐ。


 先頭の男が剣を抜いた。


「マリアナ副長!」


 怒声が飛んでくる。


「王国の兵と冒険者を連れて、どこへ行くつもりだ!」


 マリアナは馬上の男を睨んだ。


「病人を救いに行く!」


「その黒魔導士が病の原因ではないという保証がどこにある!」


 騎兵たちの槍が、一斉にこちらへ向けられた。


 レクスはそれを見ながら、小さく息を吐いた。


「やっぱり人間の方が面倒だな」


「だから今それ言わない!」


 クラウディアが小声で叱る。


 国境を越えて最初に立ちはだかったのは、魔物ではなかった。

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