第26話 黒魔導士様は護衛に向いていない?
国境砦からベルンへ戻った翌日、レクスは久しぶりに「今日は何も起きなさそうだ」と思っていた。
旧採掘坑で見つけた黒い中継柱については、王国騎士団と宮廷魔術院へ報告を回してある。
石柱そのものは壊さず、ローディスたちが監視を続けることになった。北東へ伸びる術式の先を調べるには準備が必要であり、国境を越える可能性まで考えれば、騎士団だけで勝手に動くわけにもいかない。
つまり、少なくとも数日はレクスの仕事ではない。
「今日は釣れるな」
朝食を終えたレクスが宿の玄関で釣り竿を確認していると、主人が少し気の毒そうな顔をした。
「レクスさん」
「何だ?」
「そういうこと、口に出さない方がいいんじゃないですかね」
「何で?」
「最近それを言うたび、何か起きてません?」
言われてみれば、否定しづらい。
「偶然だろ」
「だといいんですが」
「今日は緊急依頼も入ってない」
「昨日の夜までは、でしょう?」
「……不吉なことを言うな」
釣り竿を肩へ担ぎ、扉へ手を掛ける。
その瞬間だった。
「レクスさーん!」
宿の外から声がする。
主人がゆっくり目を閉じた。
「ほら」
「まだ何の用か分からない」
「その言い方も最近よく聞きますね」
扉を開けると、ベルン冒険者ギルドの若い職員が息を切らして立っていた。
「ミリアさんからです! できればすぐ来てほしいって!」
「できれば?」
「緊急討伐ではないそうです」
レクスは釣り竿を見る。
「なら、午後でも――」
「『釣りへ行く前に捕まえてください』と言われました」
「先回りされたか」
「最近、皆さん学習してますから」
「何をだよ……」
結局、釣り竿は宿へ戻すことになった。
◇
「護衛?」
ギルドへ着いたレクスは、受付台に置かれた依頼書を見て聞き返した。
「はい」
ミリアが頷く。
「ベルンから南西の交易都市まで、商隊の護衛です。馬車七台。商人、御者、使用人を合わせて十九名」
「普通の護衛依頼なら、俺じゃなくてもいいだろ」
「私もそう思います」
「じゃあ何で呼んだ?」
「依頼人があなたを指名しています」
「またか」
「またです」
ミリアは慣れた手つきで別の紙を出した。
「正確には、商隊側が『高位魔獣に遭遇した場合でも安全を確保できる者』を希望していて、先方が候補者一覧を見た結果、レクスさんを指名したそうです」
「高位魔獣が出る場所なのか?」
「最近、街道周辺で魔物の分布が少し乱れています。国境方面ほどではありませんが、Aランク級が通常の縄張りから外れて目撃された例もあります」
それなら、多少は納得できた。
「他の護衛は?」
「Bランクパーティが一組。それから商会が雇っている護衛が六名。戦力だけ見れば十分です」
「俺は保険か」
「そう考えていいと思います」
レクスは依頼書を読む。
日程は三日。
目的地で荷を降ろした後、別の商隊へ合流して戻る。
報酬も悪くない。
「出発は?」
「昼前です」
「今日?」
「だから急いで呼びました」
「釣りは?」
「帰ってからしてください」
「三日後か……」
「そこまで深刻な顔をしないでください」
ミリアが少し呆れた。
「命に関わる依頼なら仕方ない」
「本当にその基準だけはぶれませんね」
「で、俺が受ければいいのか?」
「そこなんですが」
ミリアが妙な間を置いた。
「何だ?」
「今回は、戦うだけでは済まないかもしれません」
「どういう意味だ?」
「商隊護衛って、人間同士の調整も仕事なんです」
「……調整?」
「宿代の負担、予定変更、荷物の優先順位、道を塞がれた時の迂回、他商隊との順番争い、関所での確認、護衛契約の範囲。要するに、揉めます」
「戦えばいいのか?」
「駄目です」
即答された。
「じゃあ、誰が決める?」
「基本は商隊長です。ただし危険に関する判断は護衛側にも発言権があります」
「なら問題ないだろ」
ミリアは少し不安そうだった。
「レクスさん、商人と値段交渉したことあります?」
「宿代ならある」
「値切りました?」
「提示された金額を払った」
「買い物は?」
「欲しいものがあれば値段を見て払う」
「釣り竿は?」
「言われた金額で買った」
「……でしょうね」
なぜか頭を抱えられた。
「何が問題なんだ?」
「商人相手に『言われた金額をそのまま払う』を繰り返す人は、交渉担当に向いてません」
「俺は護衛だぞ」
「はい。それを忘れないでください」
「分かった」
そこまで言われると少し気になる。
「そんなに面倒なのか、商隊って」
「魔物より面倒な時があります」
「それは嫌だな」
「でしょう?」
ミリアは満足そうに頷いた。
「だから、戦闘はレクスさん。人間関係は商隊長に任せてください」
「最初からそうする」
「本当にお願いしますね」
◇
今回の依頼主は《銀鹿商会》という、中規模ながら王国各地へ広く商品を運ぶ商会だった。
商隊長は四十代半ばほどの男で、名をベルトンという。
腹は少し出ているが、足取りは軽く、荷馬車を一台ずつ確認しながら御者たちへ細かく指示を出していた。
「あなたがレクス殿ですか!」
レクスを見るなり、両手で握手された。
「そうだ」
「いやあ、お会いできて光栄です。災害指定に神話指定、何でも弱くしてしまう黒魔導士様だとか!」
「様はいらない」
「ははは、ご本人はそう仰ると聞いております!」
「なら最初からつけなくていいだろ」
ベルトンは一瞬だけ止まり、それから大きく笑った。
「確かに!」
悪い人間ではなさそうだった。
ただし声が大きい。
「今回、あなたを雇えたと聞いて安心しました。これで魔物については心配無用ですな!」
「いや、無用にはならない」
「またまた、ご謙遜を」
「九十九パーセント落としても危ない奴がいた」
ベルトンの笑顔が固まった。
「……九十九パーセント?」
「ああ」
「それでも?」
「Aランクくらいの力が残った」
「元は何だったんです?」
「強化された岩脈竜」
「聞かなかったことにしていいですか?」
「もう聞いたぞ」
「そういう意味ではありません」
隣で話を聞いていたBランク冒険者たちが微妙な顔をしている。
その中の女剣士が口を挟んだ。
「商隊長、この人が言ってること本気だと思うよ」
「分かりますか?」
「最近、ギルドじゃ有名だから。本人が一番、自分の話を大したことないみたいにするって」
「してない」
レクスが反論すると、女剣士は笑った。
「じゃあ、よろしく。私たちは《青樹》。前衛二人、弓一人、治癒一人。普段の魔物はこっちで見るから、本当に厄介なのが出た時だけ頼むよ」
「その方が助かる」
話は早かった。
こういう相手は楽だ。
問題は、その二時間後に起きた。
◇
街道を進んでいた商隊が最初に止まった理由は、魔物ではなかった。
「通れない?」
先頭へ呼ばれたレクスが見ると、街道の真ん中に別の荷馬車が三台止まっていた。
車輪の一つが折れている。
しかも、かなり大きな商隊らしい。
後方にも馬車が続いていた。
「いやあ、参りましたな」
ベルトンが困った顔をする。
「道幅が狭くて、向こうが動かないとこちらも抜けられません」
「修理すればいいだろ」
「もちろん先方もそうしているんですが、二時間はかかるそうです」
「迂回路は?」
「あります。ただし林道です。馬車七台では一時間以上余計にかかります」
「なら待つか、回るか決めればいい」
レクスには簡単な話に思えた。
しかしベルトンは苦笑した。
「荷の一部が生鮮品なんです」
「腐る?」
「今日中に中継宿へ着ければ問題ありません。ただ二時間待つと、日没が近くなる。林道を使えば時間は伸びますが、まだ明るいうちに抜けられるでしょう」
「じゃあ迂回路」
「ただし、林道は別の土地を通ります」
「誰かの私有地?」
「地方領主の管理林です。通行には臨時料金がかかります」
「いくら?」
「馬車一台につき銀貨十二枚」
「七台なら八十四枚か」
「そうです」
「払えばいいだろ」
ベルトンが黙った。
「何だ?」
「レクス殿」
「ああ」
「商売というのはですね」
ベルトンは少し遠くを見るような顔になった。
「銀貨八十四枚を『払えばいい』で済ませていると、商会はかなり早く潰れます」
「そうなのか」
「そうなんです」
「でも二時間待って商品が傷んだら、もっと損するんじゃないか?」
ベルトンが目を丸くした。
「……そこは分かるんですね」
「計算の話なら」
「では何が分からないんです?」
「値切る理由」
「そこです!」
ベルトンは頭を抱えた。
結局、商隊長自ら管理林の番人と交渉することになった。
レクスは横で聞いていた。
「銀貨十二枚は規定です」
「もちろん存じています。ただ、こちらは七台まとめて通ります。個別の手間は少ないでしょう。十枚でどうです?」
「無理です」
「では十一枚。その代わり、帰路もこの道を使う場合は別料金で構いません」
「帰路の保証がない」
「そこを何とか」
話が長い。
レクスは途中で口を挟んだ。
「十二枚払えば通れるんだろ?」
双方がこちらを見る。
「はい」
「なら十二枚でいいんじゃないか?」
ベルトンが静かに目を閉じた。
番人の顔には笑顔が浮かぶ。
「さすが黒魔導士様、話が早い」
「待ってください」
ベルトンがすぐ止めた。
「レクス殿は護衛です。契約交渉は私がします」
「でも――」
「私が、します」
穏やかな声なのに逆らわない方がいいと分かった。
「分かった」
レクスは一歩下がった。
最終的に、一台十一枚で話がまとまった。
「七枚しか変わってないぞ」
林道へ入ってからレクスが言うと、ベルトンは真顔で答えた。
「七枚も、です」
「銀貨七枚だろ?」
「それを百回やれば七百枚です」
「ああ」
「一年ならもっとです」
「なるほど」
「お分かりいただけましたか?」
「ああ」
「よかった」
ベルトンはほっとした。
「でも交渉に使った時間も考えたら――」
「そこから先を考えると商人になれますよ」
「なりたくはない」
「私もレクス殿を商人にしたくありません」
意見は一致した。
◇
林道へ入って一時間ほど。
今度こそ魔物が出た。
「前方、灰牙狼四!」
《青樹》の弓使いが声を上げる。
レクスも視線を向ける。
四頭。
普通の灰牙狼。
特に異常強化もない。
「俺がやる?」
レクスが聞くと、《青樹》の女剣士が首を横へ振った。
「いや、これくらいなら私たちの仕事」
「分かった」
四人が前へ出る。
連携は手慣れていた。
一人が前を止め、もう一人が側面へ回る。弓で逃げ道を塞ぎ、治癒役は無理に前へ出ない。
短時間で二頭を倒すと、残り二頭は逃げた。
「追わない?」
レクスが確認する。
「商隊から離れる理由がない」
「それでいいと思う」
「世界最強の支援職様に合格もらえた?」
「様はいらない」
「そこ?」
女剣士が笑う。
戦闘はそれで終わった。
だから、この護衛は案外楽かもしれない。
レクスはそう考えた。
その十分後。
「話が違う!」
前方で怒鳴り声がした。
レクスは少し嫌な予感がした。
魔物の声ではない。
人間だ。
◇
林道の出口近くで、二つの商隊が鉢合わせしていた。
一方はこちら。
もう一方は反対側から入ってきた商人たち。
道が狭い。
馬車同士がすれ違えない。
「こちらが先に入った!」
「何を言う、こっちは通行証を持っている!」
「こっちも払ってる!」
「そっちが戻れ!」
「馬車七台を後退させろっていうのか!」
双方の商隊長が言い争っている。
レクスは状況を見る。
「どっちかが戻ればいいんだろ?」
隣の《青樹》の女剣士が苦笑した。
「理屈はね」
「なら、馬車が少ない方が戻ればいい」
「向こうも六台ある」
「一台しか違わないな」
「だから揉めてる」
向こうの商隊には、背の高い男が護衛としてついていた。
鎧は上等。
腰には剣。
レクスたちへ気づき、こちらへ歩いてくる。
「お前たち、そっちの護衛か?」
「ああ」
女剣士が答える。
「なら話は早い。そちらを下がらせろ」
「何で?」
「こちらは侯爵家の指定商会だ」
「だから?」
女剣士の返事が乾いている。
男の機嫌が悪くなる。
「立場を考えろと言っている」
「護衛同士で立場の話する?」
「お前たちBランクだろう」
「そうだけど」
「こちらにはAランク冒険者がいる」
男は自分の胸章を見せた。
「面倒を起こしたくなければ、商隊長に戻るよう伝えろ」
レクスは少し考えた。
「Aランクだと道を優先できるのか?」
男がこちらを見る。
「誰だ、お前は」
「レクス」
「レクス……?」
男の顔が変わった。
「黒魔導士の?」
「たぶん」
「何で自分のことなのに、たぶんなんだよ」
《青樹》の女剣士が横から突っ込む。
Aランクの男はしばらく黙った。
「……世界最強の支援職って呼ばれてる?」
「呼ぶ奴はいる」
男が少し下がった。
先ほどまでの強気が明らかに薄れた。
「いや、まあ、だったら無理に揉める必要もないか」
レクスには、その変化の理由が分からない。
「別に俺と揉めても何もしないぞ」
「本当か?」
「ああ」
「弱体化とか」
「人間相手にそんなことで使わない」
「……そうか」
安心した顔をされた。
その横で、《青樹》の女剣士が小声で言う。
「今の、それだけでかなり圧になってるからね」
「何で?」
「『使わない』って言える時点で、使えるって分かるから」
「使えるけど」
「そういうところ」
結局。
双方の商隊長が話し合うことになった。
道幅。
後退できる距離。
荷車の重量。
近くにある退避場所。
比較した結果、相手側の三台だけが少し戻れば、こちらが途中の広い場所へ入り、その後で交互に抜けられると分かった。
言い争いをしていた時より、話し合いを始めてからの方が早かった。
「最初からそうすればいいのに」
レクスが呟く。
ベルトンが聞きつけた。
「人間というのは、最初に『自分が損する』と思うと計算が下手になるんです」
「魔物なら単純なんだけどな」
「魔物と商人を比べないでください」
「どっちが面倒だ?」
「答えによっては私が傷つきますよ」
「じゃあ言わない」
「お気遣いありがとうございます」
◇
その日の夕方。
一行は予定していた中継宿へ無事到着した。
魔物との戦闘は灰牙狼四頭のみ。
怪我人なし。
荷物の損傷もない。
護衛としては順調だった。
にもかかわらず。
「疲れた」
食堂の椅子へ座ったレクスは、心からそう言った。
《青樹》の女剣士が笑う。
「神話指定と戦った時より?」
「種類が違う」
「何が一番疲れた?」
「値段交渉と道の譲り合い」
「戦ってないじゃない」
「だから疲れる」
ベルトンが向かいへ座った。
「レクス殿」
「何だ?」
「今日一日で分かりました」
「何が?」
「あなたは護衛には向いています」
「そうか?」
「少なくとも戦闘面では文句なしです。危険があれば真面目に見るし、勝手に持ち場を離れない。灰牙狼を私たちの護衛へ任せた判断もいい」
「それなら普通だろ」
「でも」
ベルトンは笑った。
「交渉役には絶対に向いていません」
「それは俺も分かった」
「よかった」
「そんなに安心するな」
「今日、通行料を何度そのまま払おうとしたと思ってるんです?」
「二回くらい」
「三回です」
「一回多かったか」
「多いですよ」
そこへ、食堂の入口から声がした。
「あら。ずいぶん楽しそうね」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると。
「クラウディア?」
《銀翼》のクラウディアが立っていた。
どうやら別の依頼でこの宿場へ来ていたらしい。
「どうした?」
「それはこっちの台詞。あなた、国境から戻った翌日に何してるの?」
「護衛」
「休みは?」
「帰ったら釣りへ行く」
「それ、休みって言うの?」
「俺にとっては」
クラウディアは空いている椅子を引いた。
「それで、何の話?」
ベルトンが楽しそうに答える。
「レクス殿が、商人との交渉に壊滅的に向いていないという話です」
「でしょうね」
即答だった。
「何で分かる?」
「あなた、値段が書いてあったらそのまま払うタイプでしょう」
「ミリアにも言われた」
「やっぱり」
「そんなにおかしいか?」
「おかしいというより、危なっかしいのよ」
クラウディアは水差しから自分の杯へ水を注ぐ。
「あなた、自分が必要だと思ったものには平気で金を出すでしょう?」
「ああ」
「そのうち『黒魔導士様専用・伝説の釣り餌、金貨一枚』とか売られて買いそう」
「効果があるなら」
「買わないで!」
「まだ売ってないぞ」
「今後も!」
ベルトンが腹を抱えて笑っている。
「レクス殿、よいお仲間をお持ちで」
「仲間というか、よく注意される」
「誰のせいよ」
クラウディアが呆れた。
「それより、護衛中なんでしょう? 明日の道は?」
ベルトンが地図を広げる。
「ここから南西へ半日。途中に小さな関所があり、そこを抜ければ目的の交易都市です」
「最近、その辺りで魔物は?」
「大物の報告はありません」
クラウディアは地図を見ながら考える。
「だったら問題は関所ね」
「どうして?」
レクスが聞く。
「荷物検査で時間を取られる可能性がある」
「見せればいいだろ」
「中身によって税率が違うの」
「払えば――」
「言うと思った」
クラウディアが額を押さえた。
ベルトンまで笑っている。
「明日は黙ってた方がいいか?」
「戦闘が始まるまでは、それが一番ありがたいかもしれません」
「護衛なのに?」
「護衛だからです」
どうにも納得しづらい。
◇
翌朝。
問題の関所へ着いた時。
レクスは前日の助言通り、黙っていた。
少なくとも最初は。
「この箱は薬草か?」
「はい。乾燥済みの治療用薬草です」
関所の役人が帳簿を見る。
「加工品扱いで追加税だな」
「お待ちください。加工は乾燥のみです。この地域の規則では原料扱いのはずですが」
「今年から変わった」
「改定文書を見せていただけますか?」
ベルトンが穏やかに尋ねる。
役人の表情が少し硬くなる。
「現場判断だ」
「税に現場判断があるのですか?」
「細かいことを言うなら、全箱開けて検査するぞ。夕方までかかるかもしれんがな」
空気が変わった。
レクスにも、さすがに分かった。
金を余計に払えば早く通す。
そういう話らしい。
ベルトンは笑顔を崩さない。
「正式な規定に従うのであれば、検査を受けます。ただし、こちらも王都商業組合へ照会を出します」
「好きにしろ」
役人も引かない。
その時。
後ろの荷馬車から誰かが囁いた。
「銀貨十枚くらい渡した方が早いんじゃ……」
レクスは思わず言った。
「十枚で済むなら払えばいいんじゃないか?」
ベルトンがゆっくりこちらを振り返った。
しまった。
黙っている約束だった。
「レクス殿」
「悪い」
「後でお話があります」
「分かった」
役人がレクスの名前に反応した。
「レクス?」
まじまじと顔を見る。
「まさか、あの黒魔導士の……?」
「そうだけど」
「神話指定を?」
「皆で倒した」
「宮廷魔術院が世界最強の支援職と認定した?」
「認定じゃなくて、可能性が高いって――」
「レクス殿」
ベルトンが止める。
「そこは今どうでもいいです」
「そうか」
役人の顔色が少し変わった。
「いや、その……規則を確認してくる」
奥の詰所へ消える。
しばらくして戻ってきた時。
「確認した。乾燥のみなら原料扱いだった。追加税は不要だ」
ベルトンがにこやかに頭を下げる。
「ご確認いただきありがとうございます」
関所を抜けてから。
レクスは聞いた。
「俺、何かしたか?」
「何もしてません」
「じゃあ何で急に変わった?」
「あなたの名前を聞いたからでしょうね」
「弱体化すると思われた?」
「たぶん」
「しないのに」
「本人にその気がなくても、評判が交渉材料になることはあるんです」
レクスは少し嫌そうな顔をした。
「それは好きじゃないな」
「でしょうね」
ベルトンも、その点だけは笑わなかった。
「だから私は、あなたの名前で脅したくはありませんでした。商売は一回で終わりませんから」
「次も会う?」
「関所の役人とも、商人とも、宿屋とも。だから余計な恨みを買わないようにしつつ、こちらも損をしないところを探すんです」
「面倒だな」
「面倒ですよ」
「でも必要?」
「必要です」
レクスはしばらく考えた。
「魔物の討伐と少し似てるな」
「どこがです?」
「相手を見ないで同じやり方をすると失敗する」
ベルトンが意外そうな顔をした。
それから笑う。
「なるほど。そこへ持っていきますか」
「違うのか?」
「いえ。案外、合っているかもしれません」
◇
交易都市へ到着したのは昼を少し過ぎた頃だった。
荷物はすべて無事。
商隊にも怪我人はいない。
依頼は完了した。
「レクス殿」
報酬の受け渡しを終えた後、ベルトンが頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ああ」
「正直に言えば、最初は戦闘以外では少し扱いづらい方なのかと思っていました」
「今は?」
「やっぱり交渉には向いていません」
「そこは変わらないのか」
「ただ」
ベルトンは笑った。
「人の話を聞く方ではあると分かりました」
「そうか?」
「はい。分からないことを分からないと言える。これは案外、難しいんですよ」
レクスは首を傾げる。
「分からないまま決める方が危ないだろ」
「そう思えない人が世の中にはたくさんいるんです」
それは最近、少し分かるようになった。
自分にも。
ギルバートにも。
分からないのに分かったつもりになっていた時期がある。
「次も護衛をお願いしてよろしいですか?」
「予定が合えば」
「交渉も?」
「それはベルトンがやってくれ」
「安心しました」
「そんなにか?」
「ええ」
隣にいた《青樹》の女剣士まで笑った。
◇
ベルンへ戻ったのは三日後の夕方だった。
ミリアが受付で報告書を受け取る。
「怪我人なし。荷物の損害なし。魔物は灰牙狼二頭討伐、二頭追い払い」
「ああ」
「問題は?」
「人間」
「やっぱり」
ミリアは驚かなかった。
「値段交渉と道の譲り合いと関所」
「なるほど」
「戦ってる方が楽だった」
「その感想は護衛としてどうなんでしょうね」
「でも誰も死んでない」
「そこは満点です」
ミリアは報酬確認の書類へ印を押した。
「ところで」
「何だ?」
「帰ってきたところで悪いんですが、王国騎士団第三大隊から新しい連絡が来ています」
レクスの表情が止まる。
「国境?」
「はい」
ミリアの冗談めいた空気が消えた。
「旧採掘坑の黒い石柱を監視していた斥候が、北東側から人が近づいてくるのを確認しました」
「人?」
「単独ではありません。武装した一団です」
「王国側の兵じゃない?」
「違います」
ミリアは封書を開いた。
「国境の向こう側にある小国の紋章を掲げています。ただし、侵攻ではないようです」
「じゃあ何をしに?」
「先方は白旗を掲げ、交渉を求めています」
レクスは嫌な予感がした。
つい三日間で思い知ったばかりだ。
魔物なら、弱くすれば話が早い。
人間はそうはいかない。
「……また交渉か?」
「おそらく」
「ベルトンを連れていけないかな」
「商人ですよ」
「俺より向いてる」
「それは否定しませんが」
ミリアは続く一文へ目を落とし、表情を引き締めた。
「ただ、今回は商売の話ではありません」
「何だ?」
「向こうの国でも、国境砦と同じ病が広がっているそうです」
レクスの顔から、わずかに気楽さが消えた。
「眠れなくなって、胸の上に何かが乗っている感覚がある?」
「はい。それから、『渡せ』という声を聞く者もいると」
旧監視塔の寄生呪詛。
同じ症状だった。
「何人?」
「分かっているだけで百人を超えるそうです」
レクスはしばらく黙った。
国境砦の六十三人だけではなかった。
祭壇も一つではない。
なら。
北東へ送られている生命力は、想像していたよりずっと大きい。
「いつ行く?」
「ローディス副長は、明朝までに返事が欲しいそうです」
「受ける」
今度は迷わなかった。
ミリアが頷く。
「釣りは?」
「後だ」
「即答ですね」
「百人以上ならな」
レクスは依頼書を受け取った。
三日間の護衛で、人間相手のやり取りは魔物以上に面倒だと理解したばかりだった。
それでも。
面倒だから放っておける話ではない。
国境の向こうから来た者たちは、敵なのか。
味方なのか。
それとも、同じ何かに狙われた被害者なのか。
少なくとも一つだけ、はっきりしている。
黒い祭壇が奪っていた命は、王国だけのものではなかった。




