第25話 勇者は、逃げることを覚えた
再認定試験の第二課題を告げられた時、ギルバートは思わず聞き返した。
「……護衛ですか?」
「ああ」
王都中央冒険者ギルドの審査官は、机の上へ一枚の地図を広げた。
第一課題から三日。
ギルバート、セシリア、バルガスの三人は、今度は王都南西部にある小さな宿場町まで呼び出されていた。
今回も審査官と騎士団の記録員が同行している。
しかし、前回のような「指定地域の魔物を調査せよ」という内容ではなかった。
「この宿場町から南へ半日ほど行ったところに、ラグナ村という農村がある。昨日から近隣で魔物の目撃数が増えたため、村人の一部をこちらへ移すことになった」
「討伐じゃなく、避難民の護衛?」
「そうだ」
ギルバートは地図を見る。
ラグナ村から宿場町まで一本道。
途中には小さな森と、岩場の多い丘陵地帯がある。
「人数は?」
「二十八名。うち子供が七名、老人が五名。自力で長距離を歩けない者のために荷馬車を二台用意している」
バルガスが腕を組む。
「魔物の種類は?」
「現在確認されているのはCランク以下が中心だ。角兎、灰牙狼、牙猪。それほど大きな脅威ではない」
「なら普通の護衛依頼じゃない」
セシリアが言う。
「試験にするくらいなら、何かあるんでしょう?」
審査官は表情を変えなかった。
「現地で判断しろ」
「またそれか」
ギルバートが苦笑する。
「不満か?」
「いや。前回で慣れました」
「なら結構」
審査官は資料を閉じた。
「今回の目的はただ一つ。村人二十八名を全員、生きて宿場町まで連れて帰れ」
ギルバートは即座に頷いた。
「分かりました」
「討伐数は評価しない」
「はい」
「高位魔物を倒したとしても、それ自体は加点対象にならない」
「……わざわざ言います?」
「念のためだ」
ギルバートは何とも言えない顔になる。
少し前までの自分なら、「つまり大物を倒せば、それだけでも勇者として評価されるだろう」と考えた可能性が高い。
そのことを審査官も知っているのだろう。
「目的は村人の護衛。それだけ覚えておけ」
「分かってます」
今度は少し強めに答えた。
◇
ラグナ村へ着いたのは昼前だった。
小さな農村だった。
麦畑と牧草地に囲まれ、石造りの家が二十軒ほど並んでいる。
村そのものが襲われたわけではない。
それでも、周辺で魔物が増えているという報告を受け、女子供と老人を中心に一時避難させることになったらしい。
「勇者様!」
村へ入った途端、少年が駆け寄ってきた。
十歳くらいだろう。
ギルバートは反射的に胸を張りそうになり、途中でやめた。
「危ないから走るな」
「本当に勇者様?」
「ああ。一応な」
「一応?」
少年が首を傾げる。
後ろから母親らしい女性が慌てて来た。
「申し訳ありません。この子、王都から勇者様が来ると聞いて朝からずっと落ち着かなくて」
「気にしないでください」
ギルバートは少年を見る。
「今日は俺たちが宿場町まで送るから、ちゃんと大人の言うことを聞けよ」
「魔物が来たら勇者様が全部倒してくれる?」
一瞬。
昔なら即答していた。
もちろんだ。
俺が全部倒す。
そう言って、子供を喜ばせただろう。
ギルバートは少し考えてから答えた。
「倒せる奴なら倒す」
「倒せない奴もいるの?」
「いる」
少年が驚いた。
母親も少しだけ目を見開く。
「その時は逃げる」
「勇者様なのに?」
「ああ」
自分で口にしても、もう恥ずかしくなかった。
「お前たちを連れて逃げる。今日の俺の仕事は、魔物に勝つことじゃなくて、みんなをちゃんと宿場町まで連れていくことだからな」
少年はしばらく考えた。
やがて、少し不満そうにしながらも頷いた。
「分かった」
「よし」
セシリアが後ろで小さく笑った。
「何だよ」
「別に」
「笑ってただろ」
「前なら絶対、『この勇者ギルバートに任せろ!』って言ってたと思って」
「……言ってたな」
「自覚あるならいいわ」
◇
避難する二十八人は、二台の荷馬車と徒歩の組に分かれた。
ギルバートたちは最初に村人たちへ説明した。
「誰か一人でも勝手に列を離れたら、全員を止めます。荷物を落としても勝手に戻らないでください」
年配の男性が手を挙げる。
「家財道具も積んでるんだが、魔物が来たらどうする?」
「重い荷物から捨ててもらうことがあります」
ざわめきが起きた。
「待ってくれ。あれには冬を越すための――」
「命とどっちが大事です?」
ギルバートは強く言い切った。
男性が黙る。
「全部捨てろと言ってるわけじゃありません。でも、馬車が動かなくなった時は荷物を降ろします。後で取りに戻れるなら戻ればいい。でも、命は取りに戻せない」
以前なら、そんな現実的な話を事前にしただろうか。
たぶんしなかった。
自分が全部守れると思っていたからだ。
「隊列は、俺が先頭。荷馬車一台目、その後ろに徒歩組、二台目。バルガスが最後尾。セシリアは中央」
「了解」
「狼が来たら?」
バルガスが確認する。
「少数なら俺かお前で追い払う。セシリアは基本温存」
「大物なら?」
「村人優先」
「討伐は?」
「後だ」
バルガスが口元を緩めた。
「よし」
出発した。
最初の一時間は順調だった。
森へ入る前に灰牙狼が二頭姿を見せたが、ギルバートとバルガスが威嚇すると近づいてこなかった。
追わない。
倒さない。
それだけでも昔のギルバートなら考えられなかった。
「倒さなくていいの?」
さっきの少年が荷馬車の横から尋ねる。
「襲ってこないならな」
「勇者様なのに?」
「勇者は見つけた魔物を全部殺す仕事じゃないぞ」
「そうなの?」
「俺も最近知った」
「最近?」
「そこは気にするな」
セシリアが顔を背けて笑っていた。
◇
森の中ほどへ入った頃。
空気が変わった。
最初に気づいたのはセシリアだった。
「止まって」
ギルバートがすぐに片手を上げる。
隊列が止まった。
「何?」
「風がおかしい」
セシリアが杖を持ち上げる。
葉が揺れている。
だが、地上ではほとんど風を感じない。
「上だけ強い?」
「そう」
次の瞬間。
森の鳥たちが一斉に飛び立った。
ギルバートの背中に緊張が走る。
「全員、馬車から離れるな!」
叫んだ直後。
上空から巨大な影が落ちた。
轟音とともに、街道脇の大木が折れる。
悲鳴が上がった。
「何だ!?」
バルガスが盾を構える。
土煙の向こう。
四本の脚。
鷲に似た頭。
広げれば荷馬車二台分はありそうな巨大な翼。
獅子の胴体には黒灰色の羽毛が混じっている。
セシリアの顔色が変わった。
「嵐翼獅鷲……!」
「ランクは?」
「普通の成体でもAランク!」
「普通じゃない?」
「見て!」
セシリアが翼を指す。
右翼の先端近く。
羽の一部が銀白色に変色している。
「銀羽個体。上位種よ」
バルガスが低く唸る。
「どのくらいだ?」
「Aランク最上位。記録によっては災害指定扱い」
ギルバートは相手を見る。
嵐翼獅鷲が喉を鳴らした。
周囲の空気が震える。
「まずい!」
セシリアが叫ぶ。
「風!」
翼が振るわれた。
「伏せろ!」
暴風が街道を叩く。
荷馬車が軋む。
村人たちが悲鳴を上げた。
「バルガス!」
「任せろ!」
盾を地面へ突き立てる。
ただし一人で全部を受けない。
荷馬車の側面へ入り、風を直接受ける面積を減らす。
「馬を押さえろ!」
御者たちが必死に手綱を引く。
馬が暴れる。
ギルバートは嵐翼獅鷲から目を離さなかった。
戦えるか。
考える。
自分。
セシリア。
バルガス。
三人。
相手はAランク最上位、あるいは災害指定。
第一課題で戦った銀王鋼牙狼より、明らかに上だ。
勝てる可能性はある。
《聖断》を使う。
セシリアの上級魔法を撃ち込む。
バルガスが耐える。
上手くいけば倒せる。
だが。
後ろには二十八人いる。
「ギルバート!」
バルガスの声。
「どうする!」
嵐翼獅鷲が一歩近づいた。
距離があるのに、圧迫感が凄まじい。
ギルバートは聖剣を抜いた。
その瞬間。
昔の自分が胸の中で囁いた。
倒せ。
これを倒せば証明できる。
上位個体。
しかも再認定試験の最中。
こいつを倒せば、誰も自分を弱いとは言えない。
勇者の称号にも文句は出ない。
「……違う」
「何?」
セシリアが聞く。
「何でもない」
今日は何をしに来た。
二十八人を生きて送り届けるためだ。
「戦わない」
ギルバートは言った。
バルガスが即座に頷く。
「なら逃がすぞ」
「待って」
セシリアが地形を見る。
「こいつ飛ぶわよ。街道を走るだけじゃ追いつかれる」
「森の中は?」
「翼が邪魔になる。飛びにくい」
「荷馬車は通れる?」
「道を外れたら無理」
ギルバートは街道と森を見る。
荷馬車。
老人。
子供。
このままでは速く動けない。
「荷物を捨てる」
村人たちがざわついた。
「馬車は残す。食料と水だけ。それ以外は降ろせ!」
「勇者様!」
年配の男が叫ぶ。
「あの荷箱には家の――」
「捨ててください!」
「だが!」
「俺が責任を持ちます!」
ギルバートは男を見る。
「後で回収できる状況なら必ず手配する。でも今は時間がない!」
嵐翼獅鷲が再び翼を広げる。
「セシリア!」
「《風障壁》!」
暴風と魔法がぶつかる。
セシリアの身体がよろめく。
「長くは無理!」
「バルガス、荷物を降ろせ!」
「おう!」
バルガスが馬車へ走る。
大箱を一つ抱え、そのまま地面へ下ろした。
「すまん! 後で取りに来る!」
「俺もやります!」
村の若者たちが加わる。
穀物。
鍋。
衣類。
農具。
大切な物ばかりだ。
それでも命よりは軽い。
「ギルバート!」
セシリアが叫ぶ。
「来る!」
嵐翼獅鷲が地面を蹴った。
「俺が引く!」
ギルバートは聖剣を掲げて街道の反対側へ走った。
「こっちだ!」
光を放つ。
嵐翼獅鷲の目が勇者を捉えた。
巨大な翼が動く。
狙いが変わった。
「ギルバート!」
「村人を先に行かせろ!」
「一人でやる気!?」
「倒す気はない!」
ギルバートは走る。
後ろから突風。
身体を投げ出す。
地面を転がる。
すぐ立つ。
以前なら反撃した。
今はしない。
「《聖閃》!」
低威力の光だけを放つ。
相手を傷つけるためではない。
注意を引くため。
嵐翼獅鷲が怒り、こちらを追う。
「そうだ、俺を見ろ!」
怖い。
普通に怖かった。
紅蓮竜と戦った時より、今の方が自分の危険を正確に理解している。
だから余計に怖い。
「ギルバート、右!」
セシリアの声が飛ぶ。
反射的に右へ跳ぶ。
爪がさっきまでいた場所を抉った。
「何で戻ってきた!」
「あなた一人に囮をやらせるわけないでしょう!」
「村人は!?」
「バルガスが連れてる!」
「ならいい!」
二人で距離を取る。
嵐翼獅鷲の目的が分からない。
縄張りに入ったから襲っているのか。
獲物として見ているのか。
どちらでもいい。
「村人と反対側へ引く!」
「分かった!」
セシリアは攻撃魔法を撃たない。
風で足元を乱す。
木の枝を揺らす。
視界を邪魔する。
「倒すより面倒ね!」
「でも魔力は持つだろ!」
「そういう問題じゃ――まあ、その通りだけど!」
ギルバートは自分でも笑いそうになった。
戦っているのに。
敵を倒そうとしていない。
こんな戦い方もある。
嵐翼獅鷲が大きく翼を広げる。
飛ぶ。
「まずい!」
上空へ出られれば、森の障害がなくなる。
「セシリア!」
「《風縛》!」
風の帯が右翼へ絡む。
一瞬だけ。
それで十分。
「《聖断》!」
ギルバートは聖剣を振った。
狙うのは首ではない。
右翼の外側。
羽根。
光刃が銀色の羽を数枚切り落とした。
嵐翼獅鷲が叫ぶ。
致命傷ではない。
飛べなくするほどでもない。
だが姿勢を崩し、上昇を中断した。
「一発使った!」
セシリアが言う。
「ああ!」
「二発目は?」
「使わない!」
「よし!」
その返事に自分で驚いた。
以前なら「次で倒す」と言った。
今はもう決めている。
ここで倒さない。
倒す必要がない。
◇
森を抜ける直前。
バルガスが待っていた。
「何してる!」
ギルバートが怒鳴る。
「村人は!?」
「先へ行かせた!」
「お前も行けよ!」
「二人が戻らなきゃ意味ねえだろ!」
バルガスは盾を構えた。
「あとどのくらい離せばいい?」
「宿場町までまだ二時間!」
「いや、あいつをだ!」
嵐翼獅鷲が追ってくる。
ギルバートは周囲を見る。
道の左側に急な岩斜面。
右は森。
「岩場へ誘導する」
セシリアが顔をしかめた。
「何する気?」
「羽を怪我してる。狭い場所なら飛びにくい」
「倒すの?」
「違う」
ギルバートは地図を思い出す。
この先。
北側に深い谷がある。
「村人の進路から外す」
バルガスが理解した。
「谷側へ追いやるのか」
「ああ」
「上手くいけば、か」
「失敗したら?」
セシリアが聞く。
「逃げる」
「簡単に言うようになったわね」
「最近覚えた」
三人で動く。
バルガスが盾を木へ叩きつける。
ギルバートが光を放つ。
セシリアが左側の木々へ火花だけを散らし、嵐翼獅鷲が嫌がる方向を作る。
「こっちだ!」
少しずつ。
少しずつ。
街道から離す。
危険な作業だった。
爪を一度でもまともに受ければ致命傷になる。
風圧だけでも身体が飛ばされる。
それでも討伐しようと戦うより、消耗は少ない。
「谷!」
バルガスが叫ぶ。
見えた。
斜面の先。
深い谷。
「最後!」
ギルバートが大きく光を放つ。
嵐翼獅鷲が怒り、突っ込む。
「散れ!」
三人が左右へ飛ぶ。
嵐翼獅鷲は寸前で止まり切れず、谷側へ大きく踏み込んだ。
崖から落ちたわけではない。
だが翼を広げ、反対側の岩棚へ飛び移った。
「今だ!」
三人は走った。
追わない。
振り返らない。
相手が向こう岸で咆哮している。
飛んで追ってくる可能性もある。
それでも、負傷した右翼では森の中を追跡しづらいはずだ。
「走れ!」
ギルバートは叫んだ。
勇者が。
敵に背を向けて。
仲間と一緒に全力で逃げた。
◇
村人たちへ追いついたのは、それから二十分ほど後だった。
「勇者様!」
少年が荷馬車から身を乗り出す。
「戻ってきた!」
「だから言っただろ」
ギルバートは肩で息をしながら笑った。
「お前らを宿場町まで連れてくって」
「魔物は倒した?」
「倒してない」
「逃げたの?」
「ああ」
少年は少し考える。
「負けた?」
ギルバートは答えようとして。
一瞬迷った。
そして首を振った。
「今日は違う」
「違う?」
「みんながここにいるだろ」
少年は周囲を見た。
母親。
老人たち。
村人たち。
二十八人。
一人も欠けていない。
「だから、今日はこれでいい」
「ふうん」
少年にはまだ難しいらしい。
それでも。
「じゃあ勇者様、勝ったの?」
ギルバートは苦笑する。
「それも、ちょっと違うかな」
横でセシリアが笑った。
「難しいわね」
「何て言えばいいんだよ」
「ちゃんと仕事した、でいいんじゃない?」
バルガスが言う。
「それだな」
ギルバートは頷いた。
◇
宿場町へ全員が到着した時には、夕暮れが近かった。
二十八人。
負傷者なし。
荷物はかなり減った。
それでも全員、生きている。
審査官は宿場町の入口で待っていた。
「報告を」
ギルバートは包み隠さず説明した。
「森の中ほどで、銀羽の嵐翼獅鷲と遭遇しました」
「確認している」
「……見てたんですか?」
「記録員が遠方からな」
ギルバートは少し嫌な顔をする。
「だったら助けてくれても」
「致命的な状況なら介入した」
「つまり、あれくらいなら自分で何とかしろって?」
「試験だからな」
「容赦ないな……」
「続けろ」
「討伐はしてません。《聖断》で右翼の羽根を一部損傷させ、村人から引き離した後、谷の反対側へ誘導して撤退しました」
「なぜ討伐しなかった?」
来た。
ギルバートは少しだけ緊張した。
「勝てる確信がなかったからです」
「可能性は?」
「ありました」
「なら、なぜ挑まない?」
以前なら。
ここで格好をつけたかもしれない。
「村人二十八人がいたからです」
ギルバートは答える。
「俺たちだけなら、戦ったかもしれない。でも今日は護衛でした」
「上位個体の討伐実績を得る機会だったぞ」
「要りません」
自分でも驚くほど、すぐに言えた。
「今日の依頼に必要ないなら」
審査官は表情を変えない。
「再認定試験であることも忘れたか?」
「忘れてません」
「討伐すれば、戦闘能力を示せた」
「それで村人が死んだら、何を認定するんです?」
言った後で、少し強かったかと思う。
しかし引っ込めなかった。
「勇者が強いことを証明するために、護衛対象を危険へ置くなら意味がないと思います」
審査官は黙っていた。
長い数秒。
やがて。
「第二課題、合格だ」
ギルバートは瞬きをした。
「……また?」
「不満か?」
「いや。でも俺、今回ほとんど魔物倒してませんよ」
「だから何だ」
審査官が言う。
「最初に伝えた。今回の目的は二十八名を全員、生きて帰すことだ」
ギルバートは村人たちを見る。
「達成している」
「はい」
「そして、銀羽嵐翼獅鷲との遭遇は予定外だった」
「試験で用意したんじゃない?」
セシリアが聞く。
「そんなものを試験のためだけに放てるか」
「それもそうね」
「我々も出現を確認した時点で救援準備をした。しかし君たちは、護衛対象を切り離し、魔物を別方向へ誘導し、自力で撤退した」
審査官はギルバートを見る。
「以前の君ならどうした?」
ギルバートは考えるまでもなかった。
「倒そうとしたと思います」
「なぜ?」
「勇者だから」
「今は?」
「勇者だから、逃げました」
言ってから。
自分で少し笑った。
妙な言葉だ。
それでも今は、それが一番正しい気がした。
「俺一人なら、勝手に無茶をするのも自分の責任です。でも、今日は二十八人の命を預かってた」
少年が遠くから母親と一緒にこちらを見ている。
「俺が格好つけるために危険へ巻き込むわけにはいかない」
審査官がゆっくり頷く。
「その判断を忘れるな」
「はい」
「勇者に必要なのは、最後まで立ち続けることだけではない。退くべき時に退き、守るべきものを連れて帰る判断も同じくらい重要だ」
ギルバートは紅蓮竜から逃げた日を思い出した。
あの日も逃げた。
けれど、あれは違う。
死ぬのが怖くなり、勝てないと分かって初めて逃げた。
監視員に助けられ、何とか生きて帰った。
今日は。
まだ戦えるうちに退いた。
勝てる可能性が残っているうちに、それでも戦わないと決めた。
勇気とは、怖くても前へ出ることだけではない。
自分が勝てるかもしれない戦いを捨ててでも、守るべきものを優先すること。
それも勇気なのだと。
ようやく少し分かった。
◇
審査が終わった後。
村の年配の男が、ギルバートのところへ来た。
「勇者様」
「はい」
「さっきは荷物のことで食い下がって悪かった」
「気にしないでください」
「家族で長く使った物が多くてな。捨てると言われると、つい」
「分かります」
ギルバートは少し申し訳なくなる。
「回収できるか、ギルドへ頼んでみます。あの嵐翼獅鷲が移動したのを確認して、安全になってからですが」
「いいんだ」
男は首を振った。
「全部じゃなくてもいい。家族が無事だった」
少し照れたように笑う。
「こっちの方が大事だって、今は分かる」
「……はい」
「ありがとう」
勇者として何度も礼を言われてきた。
魔物を倒した時。
町を救った時。
魔王軍の将軍を倒した時。
今日の「ありがとう」は、それらとは少し違って聞こえた。
倒していない。
華々しい勝利もない。
それでも。
役に立てた。
ギルバートは、その事実が思った以上に嬉しかった。
◇
夜。
三人は宿場町の食堂で遅い夕食を取っていた。
バルガスが肉の煮込みを口へ運びながら言う。
「今日、ちょっと怖かったな」
「何が?」
ギルバートが聞く。
「お前が途中で『俺があいつを倒す。村人を頼む』とか言い出すんじゃねえかって」
「俺も少し思った」
セシリアが認める。
「信用ないな、お前ら」
「今までの実績があるからな」
「それ言われると何も返せない」
ギルバートはパンをちぎった。
「でも、俺も一瞬思ったよ」
「倒すって?」
「ああ」
隠さなかった。
「あいつを倒したら、再認定に有利なんじゃないかって。勇者として格好いいんじゃないかって」
「まだそういう気持ちはあるのね」
「そりゃ、いきなり全部消えるわけじゃないだろ」
強く見られたい。
認められたい。
英雄でいたい。
そういう気持ちは今もある。
「でも、やらなかった」
バルガスが言う。
「ああ」
「ならいいんじゃねえか」
「そういうもんか?」
「人間なんて考えるだけなら好き勝手だろ。実際に何するかが大事だ」
セシリアが笑った。
「珍しくいいこと言うわね」
「珍しくは余計だ」
ギルバートも笑った。
その後。
ふと思い出す。
「レクスなら、今日どうしたと思う?」
「またそれ?」
セシリアが少し呆れる。
「いや、気になっただけだ」
バルガスが考える。
「嵐翼獅鷲を九十九パーセント下げて終わりじゃねえの?」
「普通ならそうかも」
ギルバートは苦笑した。
「でも最近、あいつも九十九パーセントなら絶対安全ってわけじゃないって言ってたな」
「そうなの?」
「ベルンで別れる前、強い相手ほど残った一パーセントが危ないこともあるって話をしてた」
「じゃあ」
セシリアがスプーンを置く。
「たぶんレクスも、村人がいたら逃がしたんじゃない?」
「やっぱり?」
「勝つ必要がない戦いはしないでしょう、あの人」
ギルバートは少し笑った。
「そうだな」
以前。
自分はレクスを臆病だと思ったことがある。
危険な敵を見れば、先に能力を調べる。
耐性を落とす。
味方が戦える状態まで整える。
無理なら撤退を提案する。
それを勇者らしくないと内心で笑っていた。
今になって。
ようやく理解した。
あれは臆病だったのではない。
仲間を生かして帰すことを、最初から仕事の一部として考えていただけだ。
「次の試験は?」
バルガスが聞く。
「まだ聞いてない」
「三つくらいあると思う?」
「分からん」
「称号、残せそう?」
セシリアの質問に。
ギルバートは少し考えた。
「残したい」
以前なら、「当然残る」と言った。
「でも、残らなかったとしても」
二人がこちらを見る。
「今日やったことが間違いだったとは思わない」
セシリアはしばらく彼を見た後、少し微笑んだ。
「なら、本当に変わったのかもね」
「何だよ、その言い方」
「褒めてるのよ」
「もう少し分かりやすく褒めろよ」
「調子に乗るから嫌」
「そこまで信用ない?」
「その部分はまだない」
バルガスが大声で笑った。
ギルバートも最後には笑った。
勇者は。
ようやく逃げることを覚えた。
ただし、それは戦うことを恐れたからではない。
何のために戦うのかを、少しずつ知り始めたからだった。




