第21話 祭壇を壊した者
国境の北東。
王国の地図では、すでに「廃棄地域」とだけ記されている場所がある。
かつて小国の城塞都市だったという石造りの街は、何十年も前の戦争で住民を失い、今では崩れた城壁と傾いた塔だけが荒野に残っていた。
街路を埋める砂の上には、人の足跡がない。
少なくとも、地上には。
その廃都の中央、崩れ落ちた神殿跡の地下深くでは、青白い火が壁際の燭台に並んでいた。
火は燃えているのに熱を持たず、広い地下室の床へ不気味な影だけを落としている。
石床には幾重もの円形術式が刻まれていた。
その中心には、空になった黒い水晶器が置かれている。
「北西七番の供給が途絶えました」
灰色の外套をまとった男が、片膝をついて報告した。
顔の半分は黒い布で覆われている。
その前には、細身の女が立っていた。
年齢は二十代後半ほどに見える。
長い黒髪を一本に束ね、装飾の少ない黒衣を着ている。身なりだけなら高位の魔術師にも見えたが、右手の甲には見慣れない紋様が刻まれていた。
「途絶えた?」
「はい。旧監視塔に設置した収集祭壇です。寄生体との接続も完全に切断されています」
「兵士たちが死んだからではなく?」
「違います。宿主六十三名はいずれも生存しているようです」
女の眉がわずかに動いた。
「六十三人、全員?」
「はい」
「王国の呪術師に、そんな腕の者がいたかしら」
「確認できている限りではおりません。現地へ高位治癒術師と呪術師が派遣されましたが、最初は解除に失敗していました」
「なら、その後に誰か来た」
「その可能性が高いかと」
女は術式の中央へ歩いた。
空になった黒水晶へ指先を触れる。
本来なら、旧監視塔で奪われた生命力と魔力が少しずつ流れ込み、その内部を赤黒く染めるはずだった。
今は何もない。
「祭壇は?」
「破壊されています」
「壊したのは呪術師?」
「詳細はまだ。ただ……」
男が少し言葉を濁した。
「何?」
「祭壇そのものへ異常な弱体化痕が残っていました」
女の手が止まった。
「弱体化?」
「構成術式、防御、精神干渉、魔力出力。すべて急激に低下した直後に破壊された形跡があります」
「何割?」
「残留魔力から正確な測定は困難です。ただ、通常の弱体術では説明がつきません」
「数字で言いなさい」
男は短く息を飲んだ。
「……九割以上。場合によっては、それ以上かと」
地下室が静かになった。
女は黒水晶から手を離す。
「生物ではなく、術式そのものを弱らせた?」
「そのように見えます」
「面白いわね」
その声には喜びがあった。
部下の男は顔を上げなかった。
女が「面白い」と言った時は、たいてい誰かにとって面倒なことが始まるからだ。
「名前は?」
「現在、王国内で急速に名が広まっている黒魔導士が一人います。レクス・アルヴァーン」
「聞いたことがないわ」
「少し前まで勇者ギルバートのパーティに所属していた者です」
「勇者の?」
「はい。ただし最近、追放されたと」
「なぜ?」
「攻撃魔法が使えず、役に立たないと判断されたためと記録にはあります」
女はしばらく黙った。
それから。
「王国は昔から、たまに素晴らしい冗談を言うわね」
男は返事に困った。
「その役立たずが、祭壇を壊した可能性があるの?」
「高いと思われます。さらに同人物は、その後、災害級魔獣と神話指定魔獣の討伐にも関与しています」
「神話指定?」
「天殻巨獣バルディオスです」
女の表情から笑みが消えた。
「バルディオスが南へ出たの?」
「はい」
「……それは予定にない」
初めて、わずかな苛立ちが声に混じった。
「北部個体群の移動速度が、予測より早まっています」
「原因は?」
「まだ断定できません。ただ、地下脈の魔力濃度が上がっています」
女は床に刻まれた巨大な円へ目を落とした。
幾重もの線が、遠方に置かれた複数の祭壇を示している。
そのうち一つ。
北西七番だけが暗い。
「まだ起きるには早いのよ」
女が呟いた。
誰に向けた言葉なのか、男には分からなかった。
「残りの祭壇から供給量を増やしますか?」
「駄目」
「しかし、予定量に届きません」
「一つ壊された直後に別の祭壇を強化すれば、こちらの構造まで辿られる。王国は鈍いけれど、馬鹿ではないわ」
「では」
「北西七番を壊した者を調べる」
女は改めて部下を見る。
「レクス・アルヴァーン。能力、経歴、現在地。特に、その弱体術がどこまで届くのか」
「排除しますか?」
「まだ早い」
「危険では?」
「危険かどうか分からないから調べるの」
女は薄く笑った。
「もし本当に、あの祭壇の術式を九割以上削ったのなら……殺すより使い道を考える価値がある」
「本人が従わなければ?」
「その時に考えるわ」
青白い炎が一つ、揺れた。
地下のさらに下から。
石でも獣でもない何かが、ゆっくり擦れるような音がした。
部下の男が反射的に床を見る。
「今のは……」
「気にしなくていい」
女は平然と言った。
「まだ眠っているわ」
言いながら、自分自身へ確認しているようにも聞こえた。
◇
同じ朝。
レクスはベルンの冒険者ギルドで、ミリアから一枚の依頼書を渡されていた。
「国境砦からです」
「また?」
「その言い方、騎士団の方に聞かれたら怒られますよ」
「別に嫌って意味じゃない。ただ、この間行ったばかりだと思って」
「向こうも、こんなに早くもう一度お願いするとは思ってなかったでしょうね」
依頼書には王国騎士団第三大隊の印が押されている。
送り主は副長ローディス。
内容は簡潔だった。
旧監視塔の祭壇を破壊して以降、周辺で魔物の移動が増えている。
さらに、北東方面の国境付近で正体不明の魔力反応を複数確認。
祭壇と関連する可能性があるため、調査への協力を求める。
「討伐じゃないんだな」
「今のところは調査です」
「人数は?」
「騎士団から斥候と護衛。《銀翼》にも声がかかっています」
「クラウディアたちも?」
「はい。先方から『高位魔獣が出る可能性があるので、戦闘経験のある者を』と」
レクスは依頼書を読み直した。
旧監視塔の祭壇。
あれが単独で置かれていたものとは思いにくい。
生命力や魔力をどこかへ送っていた以上、受け取る側がある。
それに。
「バルディオスも北から来た」
ミリアが頷く。
「ギルドでもそこを気にしています。黒鎧のガルムも縄張りを南へ広げていましたし、高位魔獣が立て続けに動くのは珍しいそうです」
「何かから逃げてる可能性はあるな」
「神話指定が逃げる相手なんて、考えたくないですけど」
「俺もだ」
ミリアは少し安心したような顔をした。
「レクスさんでも嫌なんですね」
「当たり前だろ」
「たまに『強ければ強いほど削りがいがある』とか言いそうで」
「言わない」
「本当に?」
「……たぶん」
「今ちょっと考えましたね?」
考えていないと言えば嘘になる。
相手が強ければ、割合で能力を奪う《深淵呪詛》の価値は上がる。
それは事実だ。
だが、神話指定バルディオスですら九十二パーセントまでしか落とせなかった。
もし、それ以上に抵抗が強い存在がいるなら。
「九割削っても危ない相手はいる」
レクスが呟く。
ミリアが表情を引き締めた。
「バルディオスみたいに?」
「あれは残り八パーセントでも十分危なかった。元が大きすぎると、削った後の方が問題になる」
以前なら、そこまで深く考えなかったかもしれない。
九十九パーセント落とせば、大抵は戦える。
実際そうだった。
しかし神話指定を相手にして、初めて分かった。
百分率だけ見れば圧倒的でも、残った数値がAランク魔獣並みなら、安全とは言えない。
「受けますか?」
「ああ」
レクスは依頼書を返した。
「祭壇を壊したのは俺たちだ。途中で放っておくのも気になる」
「釣りは?」
「明日行く」
「最近、緊急依頼が釣りに勝つようになってきましたね」
「元から人命が関わればそっちを優先してる」
「念のため確認しただけです」
「そんなに信用ないのか……」
◇
ギルドを出ると、《銀翼》の四人がちょうど通りの向こうから歩いてきた。
クラウディアがレクスに気づき、片手を上げる。
「聞いた?」
「国境調査だろ」
「やっぱりあなたも呼ばれたのね」
「クラウディアたちも行くんだな」
「断る理由がないもの」
フィンだけは少し嫌そうな顔をした。
「俺はありますけどね。最近、レクスと組むたび敵の格が上がってるんですよ」
「黒鎧のガルムの次がバルディオスだからな」
ドーガンが真面目に頷く。
「順番でいけば、次は何だ?」
「順番で考えるのをやめてくれ」
レクスが言う。
エルドが杖をつきながら笑った。
「次は神様でも出るかもしれんのう」
「やめてくださいよ爺さん」
フィンが本気で嫌がった。
クラウディアが肩をすくめる。
「冗談はともかく、今回は少し慎重に行った方がよさそうね」
「ああ」
レクスも同意した。
「旧監視塔の祭壇は、生命力を北東へ送ってた。今回の魔力反応もそっちだ」
「何か見つかると思う?」
「見つからない方が変だと思う」
「嫌な答えね」
「嘘をついても仕方ないだろ」
「そういうところは嫌いじゃないけど」
クラウディアは地図を広げた。
「出発は明日の朝。国境砦までは二日。そこでローディスたちと合流して、その先へ行く」
「国境を越えるのか?」
「今のところは越えない。反応が出てるのは国境線のこちら側。ただし、かなり近いみたい」
「なら、向こうの兵と鉢合わせる可能性もあるな」
「それも問題よね」
北東の国境は、完全な敵対状態ではない。
しかし親しい国でもない。
商人や旅人の往来は認められている一方、武装した部隊が不用意に越境すれば外交問題になる。
「戦う相手が魔物だけなら楽なんだけど」
クラウディアの言葉に、レクスは少し笑った。
「人間を九十九パーセント弱くして話を聞くわけにはいかないからな」
「それ、本当にやらないでよ?」
「やらない」
「念のため」
「ミリアにも似たようなこと言われた」
「周りから信用されてる証拠ね」
「逆じゃないか?」
◇
翌朝。
ベルンを出発した一行は、予定通り二日後に国境砦へ到着した。
城門ではローディスが待っていた。
「また来てもらって悪いな」
「今度は六十三人倒れてないだけましだろ」
レクスが言う。
「その言い方を聞くと、俺たちの感覚まで狂いそうだ」
ローディスは苦笑した。
砦の中は以前より落ち着いている。
治療棟に寝ていた兵士たちも、ほとんどが任務へ戻っていた。
レクスを見ると、何人かが遠くから頭を下げる。
「黒魔導士様!」
一人が声を上げた。
「それやめてくれ」
「まだ嫌なんですか?」
「慣れない」
「俺たちは命を助けてもらったんです。様くらい付けさせてくださいよ」
「普通にレクスでいい」
「じゃあレクス様」
「変わってないだろ」
周囲から笑いが起きる。
クラウディアが横で楽しそうにしていた。
「随分人気者ね」
「やめてくれ」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど、落ち着かない」
ローディスが手を叩いた。
「再会はそのくらいにしてくれ。まず状況を説明する」
砦内の作戦室へ移動する。
地図には、旧監視塔の位置と、さらに北東へ点が三つ記されていた。
「三日前から、この三地点で異常な魔力反応を確認している」
「同時に?」
クラウディアが尋ねる。
「ほぼ同時だ。ただし反応は一定じゃない。強くなったり消えたりする」
「移動してる可能性は?」
「斥候もそう考えたが、位置そのものは変わっていない」
ローディスが一つ目の点を指す。
「一番近いのは、ここだ。国境まで十五キロ。昔の採掘坑跡がある」
「人は住んでる?」
「三十年前に閉鎖されて無人だ」
「いかにも何か置いてありそうね」
クラウディアが嫌そうに言う。
「我々も同意見だ」
ローディスは別の報告書を出した。
「それと、周辺の魔物が減っている」
「減ってる?」
レクスが聞き返す。
「ああ。正確には、南へ移動している」
黒鎧のガルム。
バルディオス。
同じ流れだ。
「採掘坑のさらに北東に、何かある」
レクスは地図を見る。
「魔物はそれを避けてるのかもしれない」
「我々もそう考えている」
「祭壇の送信先と方向は一致する?」
「ほぼな」
部屋が静かになった。
偶然ではなくなりつつある。
「明朝、第一地点へ向かう」
ローディスが言う。
「今回は戦闘より調査を優先する。異常を見つけても、勝手に触らない」
その言葉で、何人かがレクスを見る。
「何だ?」
「いや」
クラウディアが笑いを堪える。
「あなた、前回普通に祭壇へ近づいてたから」
「敵意があるか確認しただけだ」
「その結果、攻撃されたでしょう」
「だから弱くした」
「順番がおかしいのよ」
「でも壊せた」
「結果論で押し切らない」
ローディスが咳払いした。
「とにかく、今回は特に慎重に頼む」
「分かった」
「本当に?」
「……たぶん」
「その返事が一番怖い」
◇
夜。
砦の外は静かだった。
見張り台から遠くを見ると、国境の向こうには黒い山影しか見えない。
レクスは眠る前に、一人で外気に当たっていた。
「珍しいね」
後ろからクラウディアが来た。
「何が?」
「釣り竿も持たずにぼんやりしてるの」
「砦の中に川はない」
「そういう意味じゃないわ」
隣へ並ぶ。
「気になる?」
「何が?」
「祭壇の先」
「ああ」
レクスは正直に答えた。
「旧監視塔の術式は、六十三人から少しずつ生命力を抜いていた」
「もし他にも同じ祭壇があるなら?」
「もっと大勢から集めてる可能性がある」
「何のために?」
「分からない」
少し間を置く。
「ただ、ああいう術式は、集めること自体が目的じゃない」
「使う先がある」
「たぶんな」
クラウディアは暗い北東の空を見る。
「バルディオスまで逃げるような何かと関係があると思う?」
「可能性はある」
「嫌な話ね」
「ああ」
「でも、あなたでも嫌って言うのね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「九割削れば大抵どうにかなると思ってる人」
「最近はそうでもない」
クラウディアがこちらを見る。
「バルディオス?」
「残り八パーセントでも、普通の高位魔獣より強かった」
「確かに」
「もし元の力があれの十倍とか百倍なら、九割落としても足りない」
「百倍はやめて」
「例えだ」
「そういう例えが現実になりそうなのが嫌なのよ」
レクスは少し笑った。
「その時は逃げる」
「即答?」
「勝てないならな」
「前の勇者様にも聞かせたい台詞ね」
「今はあいつも分かってると思う」
「そう?」
「ああ」
短い返事だった。
ギルバートたちとの再会について、それ以上話す気はないらしい。
クラウディアも聞かなかった。
少しして、北東の地平線で淡い光が瞬いた。
二人とも同時に顔を上げる。
「見た?」
「ああ」
青黒い光。
一瞬だけ。
雷ではない。
雲もない。
「魔力反応?」
「たぶん」
レクスは目を細めた。
光はもう消えている。
それでも、ほんのわずかに。
空気の中へ嫌な感覚が残っていた。
旧監視塔の地下で感じたものと似ている。
「明日、何か見つかりそうね」
「見つからない方がよかったんだけどな」
「珍しく弱気」
「面倒が増えそうだから」
「結局そこなのね」
二人は砦の中へ戻った。
そして。
彼らが見た青黒い光とほぼ同じ時刻。
国境のさらに向こう、廃都地下の巨大術式では、一つの水晶が赤黒く染まり始めていた。
「北西七番を壊した者が、こちらへ向かっています」
部下の報告を聞いた黒衣の女は、静かに笑った。
「ちょうどいいわ」
「迎撃しますか?」
「いいえ」
女は新たに灯った水晶へ指を滑らせた。
「見せてもらいましょう」
世界最強と呼ばれ始めた弱体術が。
どこまで届くのかを。




