第20話 断る
「断る」
レクスの返事は、それだけだった。
声を荒らげたわけでもない。
これまでの仕返しをするように笑ったわけでもなく、迷った末に絞り出した言葉ですらなかった。
明日の天気を聞かれて答えるのと大して変わらない調子だったからこそ、ギルバートはしばらく何も言えなかった。
「……そうか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
覚悟していなかったわけではない。
馬車の中で、セシリアから何度も言われた。
断られても怒るな。
戻ってくることを当然だと思うな。
追い出したのはこちらなのだから、と。
頭では理解していた。
それでも実際に聞くと、胸の奥へ重いものが落ちる。
「理由を……聞いてもいいか?」
「ああ」
レクスは魚籠を足元へ置いた。
「まず、今の生活が気に入ってる」
「釣りか?」
「それもある」
あっさり肯定され、ギルバートは少しだけ口元を緩めた。
「本当に好きになったんだな」
「思ったより面白い。魔物と違って弱体化しても釣れないしな」
「魚にかけようとしたの?」
セシリアが呆れた顔をする。
「考えただけだ」
「考えたんだ……」
ほんの少しだけ空気が緩んだ。
だがレクスは、そのまま話を続けた。
「釣りだけじゃない。朝、起きる時間を自分で決められる。今日は休むとか、この依頼は受けるとか、こいつとは組みたいとか、自分で選べる。それが俺には結構大きかった」
ギルバートは黙って聞いた。
「勇者パーティにいた三年間が全部嫌だったわけじゃない。楽しかった時もあったし、助けてもらったこともある」
「俺たちが?」
「あるぞ。ガルガディア戦で俺に飛んできた瓦礫をバルガスが防いだだろ」
「……ああ、そんなことあったな」
バルガス自身も忘れかけていたらしい。
「セシリアが夜中まで術式計算を手伝ったこともある。ギルバートだって、俺が魔力切れで動けなかった時に背負って戻ったことがあった」
ギルバートが少し目を見開いた。
「あれ……覚えてたのか」
「忘れる理由もない」
だからこそ、とレクスは言った。
「三年間を全部なかったことにはしない。でも、もう一度同じ場所へ戻りたいかと聞かれたら、答えは違う」
「同じにはしないって言っただろ」
「分かってる」
レクスはそこで少し考えた。
「たぶん、お前たちは本当に変えようとしてるんだと思う。少なくとも今日話した感じではな」
「だったら……」
ギルバートが身を乗り出しかける。
しかしレクスは続けた。
「それでも戻らない」
今度は、さっきよりもはっきりしていた。
「どうして?」
「変わったからって、元に戻る必要はないだろ」
ギルバートの動きが止まった。
「お前たちはお前たちでやり直せばいい。俺は俺で、もう別の生活を始めた。それでいいと思ってる」
言葉に棘はなかった。
だから反論もしづらい。
「俺が追放したからか?」
「それも理由の一つではある」
レクスは誤魔化さなかった。
「追放された時、腹は立った。でも、街を出て一人になってから思ったんだ。俺も、あのパーティに残ることを当たり前だと思いすぎてた」
「レクスが?」
「三年いたからな。辞めるって選択肢をほとんど考えなかった。夜番が増えても、装備の調整を全部やっても、まあ仕事だからと思ってた」
セシリアの表情が苦くなる。
「やっぱり、かなり負担だったのね」
「負担は負担だった。ただ、それを言わなかった俺にも責任はある」
「そこまで自分のせいにしなくていいでしょう」
「全部自分のせいにはしてない。ギルバートたちが酷かったところは普通に酷かったと思ってる」
「そこは言うのね……」
セシリアが苦笑した。
「今だからな」
レクスも少し笑う。
ギルバートは、そのやり取りを聞きながら、追放した日のことを思い出していた。
大勢の前で。
レクスを立たせて。
自分は勝者の顔をしていた。
相手が何を言うかなど、聞くつもりもなかった。
あの時点で、自分は「戻ってこない未来」を作っていたのだ。
「……俺が追放したんだもんな」
ぽつりと漏れた。
「そうだな」
「それで今さら戻ってくれは、やっぱり都合がいいか」
「かなり」
「少しくらい遠慮してくれよ」
「今さらだろ」
ギルバートは思わず笑った。
笑ったあと、胸が痛んだ。
でも、その痛みを誰かのせいにはしたくなかった。
「なあ、レクス」
「何だ?」
「もし……あの日、俺が追放してなかったら、お前はまだ俺たちといたと思うか?」
レクスはすぐには答えなかった。
少し考えてから、正直に言う。
「しばらくはいたと思う」
「しばらく?」
「今みたいに自分で予定を決める生活を知らなかったからな。ただ、いつか限界は来たかもしれない」
「……そっか」
救いになる答えではなかった。
でも、不思議と納得できた。
自分が追放しなくても、何も変えなければいずれ離れていた。
つまり問題は、一度の追放だけではない。
三年間の積み重ねだったのだ。
バルガスが腕を組んだ。
「じゃあ、正式に戻るのはなしとしてだ」
「何だ?」
「たまに一緒に依頼へ行くのも嫌か?」
レクスはそちらを見る。
「臨時で?」
「ああ。お前、特別協力冒険者になったんだろ?」
「よく知ってるな」
「王都でも噂になってる」
「噂が広がりすぎだろ……」
「それでどうなんだ」
レクスは少し考えた。
「依頼次第だな」
三人が揃って顔を上げた。
「いいの?」
セシリアが聞く。
「戻るのと、一緒に仕事をするのは別だろ」
「そうだけど……」
「ちゃんと依頼として話が来て、俺の予定が空いてて、内容に納得できれば受ける」
「釣りの日は?」
「断る」
バルガスが笑った。
「そこは絶対なんだな」
「緊急なら考える」
「一応、人命は魚より上なのね」
「当たり前だろ」
「最近の話を聞いてると確認したくなるのよ」
レクスは不満そうだった。
ギルバートは、そんな三人の会話を聞いているうちに、自分の胸の中にあった何かが少しずつほどけていくのを感じた。
戻ってこない。
それは変わらない。
失ったものが元通りになるわけでもない。
でも。
全部が終わったわけでもなかった。
「……ありがとう」
ギルバートが言った。
レクスが怪訝そうにする。
「断られたのに礼を言うのか?」
「俺にもよく分からねえよ」
ギルバートは苦笑した。
「ただ、前みたいに戻れないなら全部終わりだと思ってた。でも違うんだな」
「何が?」
「別の付き合い方もあるってことだよ」
レクスは少し考えて、頷いた。
「そうだな」
その一言だけで十分だった。
◇
話がひと段落したところで、レクスは王都支部から求められていた過去の補助内容を、もう少し具体的に説明することになった。
結果。
三人は再び落ち込んだ。
「ちょっと待て」
バルガスが頭を抱える。
「探索中の疲労軽減って、どのくらい効いてた?」
「状況によるけど、体感なら三割から四割くらい」
「じゃあ俺、今まで自分は一日十時間歩いても平気な体力馬鹿だと思ってたぞ」
「体力はある方だと思うぞ」
「慰めになってねえ!」
セシリアも自分の杖を見ながら聞く。
「魔力循環補助って、私の消費をどれくらい減らしてたの?」
「二割から三割。ただ、連続使用時の詰まりを抑える方が大きかった」
「詰まり?」
「高出力魔法を続けて撃つと、魔力路が一時的に乱れるだろ。そこを自動で整えてた」
セシリアが額を押さえた。
「だから私、昔は大魔法を三発続けても平気だったのね……」
「素の状態でも二発は撃てるんだから十分だろ」
「そういう問題じゃないの!」
「最近本当によく言われるな、それ」
ギルバートは最後まで黙っていた。
「俺の聖剣は?」
「防御浸透補助が中心だな」
「どのくらい?」
「相手による」
「ガルガディアは?」
「ガルガディア自身の防御を九十九パーセント落とした上で、残った分を抜きやすくする補助を剣にかけてた」
ギルバートが固まった。
「二重だったのか?」
「高位魔族は耐性が多いから」
「俺、あの時『俺の聖剣なら魔王軍幹部の鎧なんか紙だ』って……」
「言ってたな」
「止めてくれよ!」
「戦闘中に気分が乗ってるなら、別にいいかと思って」
「そこは止めてくれ!」
バルガスが腹を抱えて笑い始めた。
セシリアまで耐えきれず笑う。
「笑うなよ!」
「だって……紙って……九十九パーセント落として、さらに防御貫通までかけてもらってたのに……」
「お前だって大魔法連射して天才だと思ってただろ!」
「今それ言う!?」
「お前ら二人とも似たようなもんだろ」
バルガスが笑いながら割って入る。
「お前は盾が硬いの全部自分の筋肉だと思ってただろ!」
「俺まで巻き込むな!」
気づけば三人とも笑っていた。
レクスは少し呆れながら、その様子を眺めている。
こんなふうに話したことが、以前にもあっただろうか。
あったかもしれない。
けれど、いつからか余裕がなくなり、戦果と評判と次の依頼ばかりを追いかけていた気がする。
ギルバートが笑いを収める。
「レクス」
「何だ?」
「再認定試験、絶対にお前なしで受かってみせる」
「ああ」
「それで、受かったら――」
一瞬、以前の癖が出そうになった。
受かったら戻ってこい。
そんな言葉が喉元まで出た。
ギルバートは飲み込んだ。
「受かったら?」
レクスが聞く。
「……報告くらいは聞いてくれ」
「それくらいなら」
「あと、たまには依頼受けろ」
「内容次第だ」
「釣りより優先しろとは言わねえよ」
「学習したな」
「うるせえ」
今度はレクスも笑った。
◇
三人がベルンを発つのは翌朝になった。
その夜は宿を取り、久しぶりに三人だけで食事をした。
レクスを誘う話も出たが、彼は宿へ魚を持ち帰っていたのでやめた。
「今夜は自分で焼くらしいぞ」
バルガスが聞いてきた話をすると、ギルバートは少し羨ましくなった。
「俺たちと食うより魚か」
「そういう言い方するなって昨日言われたばっかりでしょう」
「分かってるよ。ちょっと言ってみただけだ」
セシリアはパンをちぎりながら、しばらく黙っていた。
「ねえ」
「何だ?」
「戻ってくれなくて、残念?」
ギルバートは杯を置いた。
「残念だよ」
隠さなかった。
「めちゃくちゃ残念だ。正直、途中までは謝れば少しくらい考えてくれるんじゃないかって期待してた」
「私も少し思ってた」
バルガスも頷く。
「俺もだ」
「でも」
ギルバートは続けた。
「断られてよかったのかもしれない」
二人が意外そうに見る。
「何で?」
「もし今すぐ戻ってきたら、俺たちまた頼るだろ」
自分でも、その可能性は高いと思う。
「再認定試験だって、レクスがいたら簡単になるかもしれない。でも、それじゃ俺がどこまでできるのか分からないままだ」
「……そうね」
「だから、まずは三人で立てるようにならないと駄目だ」
バルガスが笑った。
「やっとまともなこと言ったな、勇者様」
「様はやめろ」
「黒魔導士様よりはいいだろ」
「確かに」
三人が笑う。
失ったものは戻らない。
けれど、失ったからこそ見えたものもある。
それを無駄にするかどうかは、これからの自分たち次第だった。
◇
翌朝。
ベルンの北門近くで、レクスは王都へ戻る三人を見送った。
「じゃあな」
バルガスが手を上げる。
「ああ」
「今度会う時は、少しくらい強くなってるわよ」
セシリアが言う。
「無理はするなよ」
「それ、あなたに言われると複雑なんだけど」
「何でだ?」
「自覚ないならいいわ」
最後にギルバートが残った。
「レクス」
「何だ?」
「昨日の返事だけど」
「戻らないぞ」
「最後まで聞けよ!」
思わず声が大きくなる。
レクスが少し笑った。
「冗談だ」
「お前、そんな冗談言う奴だったか?」
「最近覚えた」
「……誰の影響だよ」
「ベルンの連中かもな」
ギルバートは少しだけ寂しくなった。
知らないレクスが増えている。
けれど、それは当然だ。
自分の知らない場所で、相手は新しい生活を作っているのだから。
「戻ってこないって返事、分かった」
「ああ」
「もう無理に言わない」
「そうしてくれ」
「ただ、俺たちが困った時、仕事として頼むことはあるかもしれない」
「依頼なら普通に考える」
「分かった」
ギルバートは右手を差し出した。
レクスがその手を見る。
一瞬だけ間があった。
それから握り返した。
「またな」
「ああ。また」
それだけだった。
仲間へ戻る約束ではない。
昔のことを全部水に流した証でもない。
ただ、次に会うことを拒まない握手だった。
今の二人には、それで十分だった。
馬車が街道の向こうへ小さくなっていく。
レクスはしばらく見送ったあと、踵を返した。
今日の予定がある。
「午前中なら、まだ釣れるな」
勇者パーティへ戻る道を断った黒魔導士は、誰かの後ろへ戻るのではなく、自分で選んだ道を歩き始めた。
そしてその道の先には、王都の誰もまだ知らない新たな異変が待っていた。
国境の外。
壊された黒い祭壇のさらに北東で。
人間から集められるはずだった魔力が途絶えたことに、ようやく「何か」が気づき始めていた。




