第19話 あいつを連れ戻せ
王都からベルンへ向かう馬車の中で、ギルバートは何度目か分からないため息を吐いた。
向かいに座るバルガスが、とうとう鬱陶しそうに顔を上げる。
「お前な。朝から数えたら十回どころじゃねえぞ」
「数えてたのかよ」
「暇だからな」
「放っとけ」
「放っておきたいけど、狭い馬車の中でやられるとこっちまで気が滅入るんだよ」
横ではセシリアが窓枠へ肘を置き、流れていく街道の景色を眺めていた。
王都を出てから、すでに一日以上が過ぎている。
ベルンまではもう半日もかからない。
近づけば近づくほど、ギルバートは落ち着かなくなっていた。
「今さらだけど」
セシリアが外を見たまま言う。
「本当に三人で行ってよかったの?」
「何がだよ」
「レクスに会いに」
「三人とも話があるんだろ」
「あるけど、あなたが先に話したいなら、私たちは別行動でもよかったってこと」
ギルバートは少し考えた。
「いや。一緒でいい」
「どうして?」
「……俺だけで行ったら、変なこと言いそうだから」
バルガスが鼻で笑った。
「自覚あるじゃねえか」
「最近できた」
「遅えんだよ」
「うるさい」
言い返しながらも、以前のような刺々しさはなかった。
再認定審査まで一月もない。
普通なら、その準備に集中するべき時期だった。
実際、王都ギルドからは訓練施設を使う許可も出ているし、騎士団から模擬戦の相手を派遣するという申し出まであった。
それでもギルバートは、先にベルンへ行くことを選んだ。
レクスに会わなければ始められないと思ったからだ。
「なあ」
バルガスが唐突に尋ねた。
「お前、レクスに何て言うつもりなんだ?」
「それ、昨日も聞いただろ」
「昨日は『考えてる』だった」
「今も考えてる」
「考え終わってねえじゃねえか」
「だからため息が出るんだよ」
セシリアがやっと窓から顔を離した。
「謝るんでしょう?」
「ああ」
「それから、私たちが受けていた補助について聞く」
「ああ」
「それだけ?」
ギルバートは返事をしなかった。
セシリアはその沈黙を見逃さない。
「やっぱり、戻ってきてほしいと思ってるのね」
「……悪いか?」
「悪いとは言ってない」
「だったら何だよ」
「頼むのは自由。でも、戻るのが当然だと思わないでって言いたいだけ」
ギルバートの表情がわずかに固くなる。
「そんなことくらい分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「そこは言い切りなさいよ」
セシリアは呆れたようだったが、それ以上責めなかった。
ギルバート自身、分かっているつもりだった。
追放したのはこちらだ。
しかも、大勢の前で。
役立たず。
寄生虫。
攻撃魔法も使えない無能。
思い出すたび、自分で自分の口を塞ぎたくなる。
そんな相手へ今さら「戻ってこい」と言う。
普通に考えれば、虫が良すぎる。
それでも。
「……あいつが戻ってくれたら」
ギルバートが呟く。
バルガスが眉を上げた。
「何だ?」
「再認定試験のためじゃないぞ」
「なら?」
「俺たち、前みたいに戦える」
口にしてから、自分でも少し違和感があった。
前みたいに。
それは本当に、戻るべき姿なのだろうか。
「前みたいにって、どの部分?」
セシリアの問いは鋭かった。
「勝てるって意味だ」
「じゃあ、レクスを戻したい理由は戦力?」
「それだけじゃない」
「他には?」
「三年一緒にいた」
「それは理由にならないでしょう。三年一緒にいたのに追い出したんだから」
「分かってるよ!」
少し声が大きくなった。
馬車を操る御者が前で振り返った気配がする。
ギルバートは声を落とした。
「……分かってる。でも、俺だって上手く言えねえんだよ」
膝の上で拳を握る。
「戦力として必要なのは本当だ。あいつがいれば、俺たちはもっと強い相手とも戦える。それを今さら否定する気はない」
セシリアは黙って聞いている。
「でも、それだけなら、もっと別の支援役を探せばいい。でも俺は……」
続く言葉が出てこない。
バルガスが口を挟んだ。
「慣れてたんじゃねえか?」
「何に」
「レクスがいることに」
その言葉は妙に腑に落ちた。
「敵と会ったら、後ろから『筋力落とした』って声がする。毒持ちが出たら『毒性下げた』って言われる。野営したら、気づいたら見張り順が決まってる。朝起きれば装備の調整が終わってる」
バルガスは苦笑した。
「俺たち、あいつを雑に扱ってたくせに、あいつがいる状態には滅茶苦茶依存してたんだよ」
「……最悪だな、それ」
「最悪だ」
「否定してくれよ」
「できねえ」
セシリアも小さく頷いた。
「私も同じだと思う。杖の調整なんて、自分でちゃんと見るようになって初めて面倒さが分かったもの」
「俺も盾の術式を一から組み直してもらったら、普通の魔術師に三日かかるって言われた」
「レクスは一晩でやってたわよね」
「ああ」
三人とも黙った。
追放してから初めて分かることが多すぎる。
それも、笑えないくらいに。
「だから」
ギルバートが低く言う。
「戻ってきてほしいと思う」
今度ははっきり口にした。
「戦力としても。仲間としても」
セシリアは彼を見た。
「断られたら?」
胸の奥が少し重くなる。
「……その時は、その時だ」
「怒らない?」
「怒る資格あると思うか?」
「ないわね」
「即答するなよ」
「でも事実でしょう」
「そうだけどさ」
バルガスが笑った。
「まあ、前よりマシになったんじゃねえか。少なくとも『戻る名誉をやる』とか言い出さなくなった」
ギルバートの顔が引きつった。
「俺、昔なら言ってたと思う?」
二人が同時に答えた。
「言ってた」
「言ってたわね」
「……そんなにか」
自分の過去が急に恥ずかしくなった。
◇
ベルンへ着いたのは昼前だった。
城門をくぐったところで、ギルバートは王都との空気の違いを感じた。
街そのものは王都ほど大きくない。
それでも交易都市らしく人通りは多く、荷車や馬車が絶えず往来している。通りには香辛料や焼き立てのパンの匂いが混じり、店先では商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。
「ここにレクスがいるのか」
「そうらしいわね」
セシリアも周囲を見る。
「本人、王都よりこっちの方が気楽そう」
「まだ会ってもいないのに分かるのかよ」
「手紙の返事はなかったけど、ベルン支部から聞いた話じゃ釣りばかりしてるんでしょう?」
「……あいつ、釣りなんか好きだったか?」
「知らない」
「俺も知らねえ」
バルガスが言う。
三年間一緒にいた。
それなのに、レクスが休みの日に何をしたかったのか、三人とも知らなかった。
その事実に気づき、誰も何も言わなくなる。
「ギルドへ行こう」
ギルバートが先に歩き出した。
◇
ベルン冒険者ギルドの扉を開けた瞬間、何人かの視線が三人へ向いた。
ギルバートは慣れている。
勇者である以上、どこのギルドでも顔を知られていた。
しかし今回は、いつもとは空気が違った。
尊敬でも期待でもない。
「あれが例の」という目だった。
「……居心地悪いな」
バルガスが小さく呟く。
「俺に言うな」
受付へ向かう。
そこには栗色の髪を後ろで束ねた女性職員がいた。
ギルバートたちを見ると、彼女は仕事用の穏やかな表情を崩さず立ち上がった。
「王都からいらしたギルバート様御一行ですね」
「そうです」
「ベルン支部受付のミリアです。中央支部から連絡は受けています」
ギルバートは少し迷った。
「レクスは?」
「本日は午前中、予定が入っております」
「依頼ですか?」
「いいえ」
ミリアは一拍置いた。
「釣りです」
三人とも黙った。
バルガスが最初に吹き出した。
「本当に釣りなのかよ」
「最近のレクスさんにとっては、かなり重要な予定のようです」
「俺たちが来ることは知ってるんですよね?」
セシリアが尋ねる。
「はい。昨日伝えました」
「それでも釣りへ?」
「『先に入っていた予定だから』とのことです」
ギルバートは返す言葉を失った。
以前なら怒っただろう。
勇者である自分がわざわざ来たのに、釣りを優先するのか、と。
今は。
「……分かりました」
そう答えた。
ミリアがほんの少し意外そうな顔をする。
「お待ちになりますか?」
「待ちます」
「昼過ぎには戻る予定です」
「それくらいなら」
「でしたら、酒場の席をお使いください」
三人は窓際の卓へ座った。
周囲から相変わらず視線を感じる。
しばらくすると、隣の卓にいた冒険者たちの会話が耳へ入ってきた。
「昨日の依頼、黒魔導士様が空いてたら頼みたかったんだけどな」
「お前の依頼なんざ自分で行けよ。灰牙狼三匹だろ」
「でも、あの人がいると安全じゃん」
「贅沢すぎるわ」
別のところでは。
「神話指定の報酬、結局四割受け取ったらしいぞ」
「受け取りたくないって揉めたんだろ?」
「金より釣りが大事って、どんな金銭感覚してんだ」
笑いが起こる。
悪意のない笑いだった。
ギルバートは黙って聞いていた。
「随分……好かれてるんだな」
セシリアが言う。
「そうね」
「王都にいた時、こんな風にあいつの名前が出ることなかった」
「私たちが出さなかったからでしょう」
「……そうだな」
それ以上言えなかった。
やがてギルドの扉が開いた。
「今日は四匹だった」
聞き覚えのある声がした。
ギルバートの身体が固まる。
振り返る。
そこにレクスがいた。
外套の肩には少し土がつき、片手には釣り竿、もう片方には魚を入れた籠を提げている。
勇者パーティにいた頃とは、何かが違って見えた。
装備が変わったわけではない。
顔つきも大きくは変わらない。
ただ。
妙に力が抜けていた。
「四匹ですか。目標達成ですね」
ミリアが言う。
「ああ。三匹で帰るつもりだったんだが、最後にもう一匹掛かった」
「それで少し遅れたんですね?」
「五分くらいだろ」
「ギルバート様たちは一時間以上待ってます」
レクスがこちらを見た。
目が合う。
ギルバートは一瞬、立ち上がるのを忘れた。
「……久しぶりだな」
先に言ったのはレクスだった。
「ああ」
やっと立つ。
「久しぶり」
セシリアとバルガスも立ち上がった。
「元気そうね」
「セシリアもな。手紙は読んだ」
その一言で、セシリアの肩が少し揺れた。
「そう」
「バルガス、脇腹は?」
「もう大丈夫だ」
「ならよかった」
あまりにも普通だった。
怒っている様子もない。
わざと冷たくするでもない。
だからこそ、ギルバートには言葉が出てこなかった。
「話があるんだろ?」
レクスが空いている椅子を引いた。
「座ろう。魚を宿へ持っていく前に聞く」
「魚を先に持っていかなくていいのか?」
「この程度なら少しくらい平気だ」
「……そうか」
妙な会話だった。
数日前まで同じパーティだった相手との再会が、魚の保存状態から始まるとは思わなかった。
◇
最初に口を開いたのはセシリアだった。
「レクス」
「ああ」
「手紙にも書いたけど、直接言いたかったの」
両手を膝の上で握る。
「ごめんなさい」
レクスは何も言わず聞いている。
「私はあなたの魔法をずっと軽く見てた。黒魔導士なのに攻撃魔法も使えないって、内心で馬鹿にしてたし、追放の時もギルバートに反対しなかった」
言葉を選びながら、続ける。
「それどころか賛成した。今になって、自分の杖にどれだけ補助してもらってたかも、敵をどれだけ弱くしてもらってたかも分かった。知らなかったじゃ済まない。あなたは説明してたのに、私が聞いてなかったから」
「分かった」
「……それだけ?」
「他に何て言えばいい?」
「怒ってもいいのよ」
「怒ってほしいのか?」
「そういうわけじゃないけど」
レクスは少し考えた。
「手紙を読んだ時にも思ったけど、謝ろうと思ってくれたなら、それは受け取る」
セシリアの目がわずかに潤んだ。
「許してくれる?」
「許すとか許さないとか、そこまで大げさに考えてない」
「あなた、そういうところ本当に変わらないわね」
「悪いか?」
「……いいえ」
セシリアは小さく笑った。
次はバルガスだった。
「俺も悪かった」
「随分簡単だな」
「長い謝罪は苦手なんだよ」
「知ってる」
「お前が何やってたかも知らずに、『俺一人で十分だ』とか言ってた。実際には盾の衝撃分散まで任せてたのにな」
バルガスは頭を掻いた。
「悪かった。本当に」
「分かった」
「それと……ありがとな」
「何が?」
「三年間」
レクスが少しだけ目を細めた。
「今さら数えたらきりがねえ。毒止めてもらったり、装備直してもらったり、俺が寝落ちした時に夜番代わってもらったり。全部まとめてだ」
「それは仕事だったからな」
「仕事でも礼くらい言わせろ」
「じゃあ、どういたしまして」
バルガスは満足そうに頷いた。
残ったのはギルバートだった。
二人分のやり取りを聞いている間に、何度も言葉を考えた。
ところが自分の番になると、頭の中で用意したはずの文章が全部消えた。
「ギルバート?」
レクスが呼ぶ。
「ああ」
喉が乾く。
「俺も……謝りに来た」
「うん」
「あの日、俺はお前を大勢の前で追い出した」
「そうだな」
「寄生虫って言った」
「言ったな」
「無能とも」
「言った」
「細かく覚えてるな」
「それなりに印象には残るだろ」
「……そうだよな」
笑えない。
「悪かった」
ギルバートは頭を下げた。
勇者になってから、誰かへこんなふうに頭を下げた記憶はほとんどなかった。
「俺が間違ってた。お前がどれだけやってたか知らなかったんじゃない。説明されてたのに、認めようとしなかった」
頭を上げる。
「自分が強いと思いたかった。全部、自分の功績だと思いたかった。だから、お前の役割を小さく扱った」
レクスは黙っている。
「紅蓮竜に行って、初めて分かった」
「一人で行ったんだってな」
「……ああ」
「無茶だろ」
「今なら分かる」
「ならいい」
「いや、よくはないだろ」
「生きて帰ったなら、次からやらなければいい」
あまりにも簡単に言う。
ギルバートは少し苦笑した。
「そういうところ、腹立つな」
「謝りに来た直後に言うことか?」
「悪い」
今度は少しだけ、昔のように話せた。
その空気に、ギルバートは勇気を得た。
「それで、もう一つある」
「何だ?」
「俺たちが受けてた補助のこと、教えてほしい」
「いいぞ」
即答だった。
「聖剣には防御浸透。バルガスの盾には衝撃分散と疲労軽減。セシリアの杖には魔力循環補助。あとは全員へ毒、麻痺、呪詛耐性。探索時の知覚補助、疲労抑制。それから――」
「待て待て待て」
ギルバートが止めた。
「そんなにあったのか?」
「まだ半分くらいだぞ」
三人の顔が揃って引きつった。
「半分?」
「遠征中の睡眠効率補助もあったし、野営地の獣避け、食中毒防止、武具の腐食抑制……」
「食中毒まで?」
セシリアが聞き返す。
「バルガス、生焼けの肉を平気で食うだろ」
「おい!」
「事実だろ」
「だから腹壊さなかったのか……?」
「たぶんな」
バルガスが頭を抱えた。
「俺、戦闘以外まで世話されてたのかよ……」
「今さらそこに気づくの?」
セシリアに言われ、さらに落ち込んでいる。
ギルバートは逆に笑ってしまった。
そして笑った後で、胸の中の決意が固まった。
「レクス」
「何だ?」
「戻ってこないか」
セシリアとバルガスが黙る。
レクスの表情は変わらなかった。
「勇者パーティに?」
「ああ」
ついに言った。
「前と同じにするつもりはない」
ギルバートは言葉を急いだ。
「報酬配分も見直す。仕事も一人へ押しつけない。お前の術についても、今度はちゃんと全員で共有する。お前が何をやってるか、俺たちも理解する」
レクスは黙って聞いている。
「俺は再認定試験を受ける。その試験にお前の力を借りるつもりはない。そこは自分たちでやる」
「なら、どうして戻ってほしい?」
聞かれた。
ギルバートは少し迷ってから答える。
「必要だからだ」
「戦力として?」
「それもある」
逃げずに認める。
「お前の力が必要だ。俺たちだけじゃ戦えない相手がいる。それはもう分かった」
「他には?」
「仲間としても」
今度ははっきり言った。
「三年間一緒にいた。追放した俺が言うのは勝手だって分かってる。でも、できるならまた四人でやりたい」
レクスはしばらく何も言わなかった。
ギルバートの心臓が嫌に大きく鳴る。
「もちろん、すぐ決めなくていい」
思わず続ける。
「条件があるなら聞く。報酬だって、お前が一番多くても構わない。王都で住むのが嫌なら拠点を変えても――」
「ギルバート」
レクスが静かに止めた。
「何だ?」
「そこまで考えてきたのは分かった」
責める口調ではなかった。
「ありがとう」
その一言で、ギルバートの胸にわずかな希望が浮かぶ。
レクスは魚籠の蓋を閉め直した。
そして、かつて自分を追放した三人を順番に見た。
「でも、その返事は簡単だ」
ギルバートは息を止めた。
レクスの顔には怒りも、迷いもなかった。
ただ、自分で選んだ生活を手放すつもりのない人間の、穏やかな確信だけがあった。




