第17話 世界最強の支援職
神話指定魔獣《天殻巨獣バルディオス》を討伐した翌朝、レクスは予定通り川へ来ていた。
昨日は警鐘で中断されたので、今日は朝食を早めに済ませ、日が高くなる前から釣り糸を垂らしている。
川面は穏やかだった。
森から吹いてくる風には少しだけ冷たさがあり、対岸の草がさらさらと揺れている。神話指定魔獣が昨日までこの地方へ迫っていたなど、とても思えない静けさだった。
「今日はいいな」
レクスは誰に言うでもなく呟いた。
今朝はすでに二匹釣れている。
前回より明らかに上達していた。
餌の付け方も分かってきたし、浮きが沈む直前の微妙な揺れも、何となく見分けられるようになっている。
魔物の能力を九割以上奪うより、こちらの方が成長を実感できるのだから不思議なものだった。
「三匹目まで釣れれば――」
「レクスさーん!」
遠くから声がした。
レクスは目を閉じた。
聞かなかったことにしようかと一瞬考える。
「レクスさーん! そこにいるのは分かってますからー!」
無理だった。
振り返ると、街道からミリアがこちらへ走ってくる。普段は受付からほとんど動かない彼女が、珍しく髪を乱していた。
「どうして場所が分かった?」
「宿のご主人に聞きました!」
「教えないように頼んでおくべきだったな」
「今それを言います?」
川岸まで来たミリアは、膝へ手をついて息を整えた。
「大変なんですから……」
「また魔物か?」
「魔物なら、まだ話が早かったかもしれません」
「じゃあ何だ」
「人です」
それは場合によっては魔物より面倒そうだった。
「王都から?」
「王都だけではありません。北部冒険者連盟、王国騎士団、宮廷魔術院、それから他領のギルド支部まで……朝から使者が次々に来ています」
「何のために?」
ミリアは信じられないものを見るような顔をした。
「あなたに会うためですよ」
「俺に?」
「昨日、神話指定を倒したでしょう!」
「倒したのは全員だ」
「その説明をするためにも来てください!」
レクスは川面を見た。
浮きはまだ動いていない。
「あと一匹だけ――」
「駄目です」
「十分くらい」
「その十分で使者が増えます」
「魚より増えるのが速いな」
「そこを競わせないでください!」
結局、三匹目は諦めることになった。
◇
ギルドへ戻ったレクスは、扉を開けた瞬間に閉めたくなった。
人が多い。
普段の冒険者だけではない。
鎧姿の騎士、立派な外套をまとった魔術師、他都市のギルド職員らしき者までいる。
しかもレクスが入った途端、全員がこちらを見た。
「……帰っていいか?」
「駄目です」
今度は支部長まで即答した。
「私も帰りたいくらいだ」
「支部長なのに?」
「誰のせいだと思ってる」
「バルディオスじゃないか?」
「半分はな!」
奥の応接室へ通される。
そこには、すでにクラウディアと《銀翼》の三人、さらに宮廷魔術師アデルまでいた。
「久しぶりです、レクス殿!」
「数日前に会ったばかりだろ」
「研究者にとって、重大な発見の後の三日は長いんです!」
「そういうものか」
「そういうものです!」
アデルの前には紙束が山積みになっている。
嫌な予感しかしない。
クラウディアが椅子を指した。
「座った方がいいわよ。たぶん長いから」
「俺、昼までには川へ戻りたいんだが」
「その希望はたぶん叶わない」
「神話指定より強敵だな」
「人間社会を魔物と比べないで」
レクスが座ると、支部長も向かいへ腰を下ろした。
「まず、昨日の討伐について正式な査定が終わった」
「早いな」
「神話指定だぞ。後回しにできるか」
書類が差し出される。
「《銀翼》四名およびレクス・アルヴァーンによる共同討伐。功績配分についても、現場記録と本人たちの証言を照合した」
「半分とか言わないよな?」
「安心しろ。規定に従って計算した」
レクスは少しほっとした。
「討伐報酬総額の四割がお前だ」
「多くないか?」
「やっぱり言うと思った」
クラウディアが呆れる。
「私たち四人で六割、あなた一人で四割よ。むしろ私は妥当だと思う」
「でも、とどめはクラウディアだぞ」
「昨日もその話したでしょう」
「したな」
「じゃあ蒸し返さない」
「分かった」
素直に引くと、今度はクラウディアの方が少し驚いた。
「……珍しく早いわね」
「同じ話を何度もするのは面倒だからな」
「理由がレクスらしい」
支部長は咳払いした。
「本題はここからだ」
アデルが待っていましたとばかりに立ち上がる。
「私から説明しましょう!」
「嫌な予感しかしない」
「光栄に思ってください」
「ますます嫌だ」
「昨日、バルディオスへ行使された《深淵呪詛》について、記録魔石と現場に残った魔力痕を分析しました」
アデルは一枚目の資料を広げた。
「まず、対象は神話指定。呪詛抵抗は、私がこれまで計測したどの魔物より高い値でした」
「だから最初は三割くらいしか入らなかった」
「そこです」
アデルは机を叩きそうになって、支部長に睨まれ、寸前で手を止めた。
「普通の弱体術師なら、それで終わるんですよ。抵抗が高い。術が通らない。なら別の手段を探す。それが常識です」
「俺も別の手段を使ったぞ」
「抵抗そのものを弱体化する、という別の手段でしょう!」
「ああ」
「それが常識外なんです!」
アデルは二枚目の資料を出した。
「対象の呪詛抵抗を先に削り、その後、筋力、敏捷、防御、魔力、知覚、再生、身体強化へ同時干渉。平均低下率、九十二・四パーセント」
「細かく出たな」
「あなたが九十二くらいと言っていたので、正直また誇張だろうと疑った研究員がいました」
「それは普通の反応だと思う」
「実測値の方が少し高かったので、その研究員は今朝から無言です」
フィンが吹き出した。
「ざまあねえな、その研究員」
「笑い事ではありません」
アデルは真顔だった。
「重要なのはここからです。通常の支援魔術は、相手が強くなるほど効果が相対的に小さくなる。ところがレクス殿の術は、基本的に割合で能力を削る」
支部長が腕を組む。
「つまり?」
「相手の元の能力が高いほど、奪う数値そのものは大きくなります」
アデルは紙へ簡単な数字を書いた。
「攻撃力百の魔物を九割落とせば十になります。奪ったのは九十です」
続けて、その隣へ書く。
「攻撃力一万の魔物を九割落とせば千になる。奪ったのは九千です」
さらに。
「十万なら九万」
室内が静かになった。
レクスは数字を見る。
「それはそうだろ」
「あなたは黙って聞いていてください」
「はい」
なぜか叱られた。
「つまり」
アデルは周囲へ向き直る。
「レクス殿の能力は、低級魔物を倒す時より、高位魔物を相手にした時の方が価値が大きい可能性があります」
クラウディアが納得したように頷いた。
「黒鎧のガルムやバルディオス相手で、特に違いが出た理由ね」
「はい。そしてこれは、従来の支援職の常識とは完全に逆です」
「逆?」
ドーガンが聞く。
「普通、支援役は相手が強大になるほど、自分の術が通りにくくなり、戦力としての寄与率が下がります。ところがレクス殿は抵抗そのものを削れる。完全ではありませんが、高位個体にも強引に術を通せる」
「つまり、強い敵ほど相性がいい?」
クラウディアが尋ねる。
「そう考えるべきです」
アデルは一枚の書類を取り出した。
上部には王国宮廷魔術院の紋章がある。
「そこで魔術院として、暫定的な能力評価をまとめました」
「暫定?」
「まだ検証例が少なすぎます。ですが少なくとも、既知の弱体術師とは同じ分類に置けません」
レクスは嫌な予感がした。
「変な職業名を作ったりしてないだろうな」
「そこまではしていません」
「ならいい」
「ただし評価欄には、こう記載しました」
アデルが読み上げる。
「『現時点において、王国が確認している支援職の中で戦略的価値最高位。特に災害級以上との戦闘では代替不能。実戦記録に基づけば、世界最高水準の支援能力を有する可能性が極めて高い』」
レクスは少し考えた。
「長いな」
「感想はそこですか?」
「短くならないのか?」
「だから宮廷魔術院内部では、すでにもっと短く呼んでいる者もいます」
「何て?」
アデルは少し嬉しそうに答えた。
「《世界最強の支援職》です」
レクスは黙った。
クラウディアもこちらを見る。
フィンは笑いを堪えていた。
「嫌そうね」
「嫌というか、大げさだろ」
「神話指定を九割以上弱らせた人が言っても説得力ないわよ」
「世界中を調べたわけじゃない」
「だから正式文書では『可能性が極めて高い』なんです!」
アデルだけが妙なところで律儀だった。
「呼び名まで広めるなよ」
「もう遅いと思います」
「なぜ?」
アデルが答える代わりに、支部長が一枚の紙を差し出した。
「今朝までに届いた指名依頼一覧だ」
レクスは受け取った。
上から順に見る。
北方騎士団。
王都第一冒険者団。
東部辺境伯領守備隊。
Sランクパーティが二組。
大商会の護衛部門。
宮廷魔術院。
途中で読むのをやめた。
「多いな」
「四十三件ある」
「昨日十三件じゃなかったか?」
「増えた」
「三倍以上だぞ」
「神話指定を倒したからな!」
支部長も疲れているらしい。
ミリアが別の紙束を置いた。
「それから『パーティへ加入してほしい』という申し出が十一件です」
「断ってくれ」
「全部?」
「全部」
「内容も見ずに?」
「今は固定パーティへ入らないと決めた」
クラウディアが横で少し笑った。
「そこは変わらないのね」
「ああ」
支部長が真面目な顔になる。
「その件だが、ギルド側から提案がある」
「何だ?」
「お前を通常のパーティ所属ではなく、特別協力冒険者として扱いたい」
「特別協力?」
「特定の一団に固定せず、高難度案件が発生した時だけ本人の同意を得て派遣する制度だ。騎士団、ギルド、冒険者パーティ、どことでも臨時契約できる」
レクスは少し興味を持った。
「依頼は断れる?」
「当然だ」
「休日も?」
「当然だ」
「釣りの日も?」
支部長は一瞬黙った。
「……緊急事態でなければ」
「それならいい」
「決める基準が釣りなの、本当にやめてくれない?」
クラウディアが呆れていた。
「でも、それならレクスに合ってると思うわ。自由は残るし、必要な時だけ誰かと組める」
「俺もそう思う」
レクスは頷いた。
「それで頼む」
支部長の顔に、ようやく安堵が浮かんだ。
「助かった。これで各所への説明が少しは楽になる」
「そんなに困ってたのか?」
「昨夜から『レクスを専属で寄越せ』という話ばかりだ」
「物みたいだな」
「だから全部断った」
レクスは支部長を見た。
「勝手に受けなかったんだな」
「当たり前だろう」
支部長は少し不機嫌そうに答えた。
「本人の意思を無視して所属を決めるほど、この支部は腐っていない」
「そうか」
短い返事だった。
だがレクスには、その言葉が妙に残った。
三年前。
勇者パーティへ誘われた時、自分は役に立てるならと思って加入した。
その後は、相手の予定に合わせることが当然になっていった。
今は違う。
誰と組むか。
どの仕事を受けるか。
いつ休むか。
全部、自分で決めていい。
「ありがとう」
レクスが言うと、支部長は少し驚いた。
「何がだ?」
「いや。勝手に決めないでくれて」
「礼を言われるようなことじゃない」
「そうかもしれない」
レクスは少し笑った。
「でも言いたかった」
支部長は照れたのか、書類へ目を落とした。
「それより昇格の話だ」
「まだあるのか」
「ある。お前の冒険者等級について、中央本部から返答が来た」
「上げなくてもいいんだが」
「却下だ」
間髪入れず言われた。
「通常なら複数段階を一度に上げることはない。だが、Aランク魔獣単独討伐、災害指定討伐への決定的貢献、王国騎士団の呪詛事件解決、そして神話指定討伐への主要貢献。これだけ積んで下位等級に置いておく方が制度上おかしい」
「何ランクになる?」
「Aだ」
「Sじゃないのか?」
フィンが聞く。
支部長は首を振った。
「Sランクは単純な戦闘能力だけでは決まらない。長期の実績、判断力、社会的信用まで審査する。レクスは実績の密度が異常だが、単独冒険者としての登録期間が短すぎる」
「それなら納得だ」
レクスはあっさり言った。
「お前が一番納得するな」
「制度には理由があるんだろ?」
「あるが……」
支部長は何とも言えない顔になった。
「とにかくAランク昇格だ。異議は?」
「ない」
「よし」
「それで終わりか?」
「なぜそんなに帰りたがる」
「魚が一匹足りない」
室内が静かになった。
アデルが最初に口を開く。
「王国最高水準の支援職認定より、三匹目の魚の方が大事なのですか?」
「今日は三匹釣るつもりで来たからな」
「研究対象として理解できません……」
「人間を研究対象って言うな」
◇
レクスがようやく川へ戻れたのは、昼をかなり過ぎてからだった。
陽射しは朝より暖かくなっている。
同じ場所へ腰を下ろし、釣り糸を投げる。
しばらくすると、クラウディアがやってきた。
「やっぱりここにいた」
「今日はもう呼び出しはないぞ」
「仕事じゃないわよ」
「じゃあ何だ?」
「見物」
「何を?」
「世界最強の支援職が三匹目の魚を釣れるかどうか」
「その呼び方はやめろ」
「もう広まってると思うわ」
「早すぎないか?」
「冒険者の噂は早いもの」
クラウディアは近くの石へ腰を下ろした。
少しの間、二人で川を眺める。
「レクス」
「何だ?」
「さっきの特別協力冒険者の話、本当にそれでいいの?」
「ああ」
「《銀翼》に入らなかったこと、後悔してない?」
「してない」
「即答ね」
「でも」
レクスは浮きを見たまま続けた。
「また一緒に戦うのは嫌じゃない」
クラウディアが少し目を丸くする。
「それ、あなたにしては随分うれしいこと言ってくれるのね」
「そうか?」
「ええ」
「黒鎧のガルムも、昨日のバルディオスも、戦いやすかったからな」
「褒め方が冒険者すぎるわ」
「駄目か?」
「いいんじゃない?」
クラウディアは笑った。
「私たちも、あなたと組むのは楽よ。自分たちの役割に集中できるから」
「なら、お互い都合がいい」
「そうね」
ちょうどその時。
浮きが沈んだ。
「来た」
レクスが竿を上げる。
今度は慌てなかった。
糸の張りを見ながらゆっくり引き寄せ、最後に銀色の魚を水面から持ち上げる。
「三匹目」
「おめでとう」
「ああ」
レクスは本当に嬉しそうだった。
クラウディアはその顔を見て、思わず笑った。
「昨日、神話指定を倒した時より喜んでない?」
「昨日は予定外だったからな」
「その基準、やっぱりおかしいわ」
◇
その頃、王都中央冒険者ギルドでは、ベルンから届いたバルディオス討伐報告が回覧されていた。
会議室にはギルド幹部、王国騎士団の代表、宮廷魔術院の審査官が集まっている。
机の中央には、二つの報告書が置かれていた。
一つは。
『黒魔導士レクス・アルヴァーン、神話指定魔獣の各種能力を平均九十二・四パーセント低下させ、《銀翼》による討伐を成立させる』
もう一つは。
『勇者ギルバート、通常個体の紅蓮竜へ単独挑戦。討伐失敗。監視員の救援を受け撤退』
年配のギルド幹部が、二枚を交互に見た。
「同じ時期の報告とは思えんな」
騎士団代表が腕を組む。
「それだけではない。勇者パーティは黒魔導士離脱後、通常種ゴブリンの討伐にも失敗している」
「一方、離脱した黒魔導士は?」
「Aランク魔獣、災害指定、王国騎士団の呪詛事件、神話指定。いずれも短期間で結果を出しています」
宮廷魔術院の審査官が、別の資料を机へ出した。
「さらに、過去三年間の勇者パーティ討伐記録を再解析しました。高位魔物との戦闘では、ほぼ例外なくレクス・アルヴァーンの弱体術が先行しています」
部屋が静まった。
「つまり」
ギルド幹部が低い声で言う。
「我々は、勇者パーティの実力を過大評価していた可能性があるということか」
「少なくとも、レクス・アルヴァーンの支援を含めた戦果を、そのままギルバート個人あるいは三名の純粋な戦闘力として評価していた部分はあるでしょう」
「問題だな」
その言葉は重かった。
勇者という称号は、人気や名誉だけではない。
王国が認める戦略戦力であるという証明でもある。
もし、その評価の前提そのものが間違っていたなら。
「王宮へ報告する」
最年長の幹部が決断した。
「勇者ギルバートの称号についても、能力再審査が必要だと付記しておけ」
誰も反対しなかった。
ベルンの川辺で三匹目の魚を眺めているレクスは、まだ知らない。
自分が《世界最強の支援職》と呼ばれ始めたその日。
かつて自分を追放した勇者の称号が、初めて王国による正式な再審査の対象になったことを。




