第16話 私が強いんじゃない
ベルンの鐘が三度続けて鳴ったのは、朝食を終えたレクスが宿を出ようとした時だった。
火事を知らせる鐘とは間隔が違う。
魔物の襲来を知らせる警鐘だった。
廊下へ出ると、宿の主人が階段を駆け上がってくる。
「レクスさん、ギルドから使いが来てます! 北門の外で大物が出たらしくて、すぐ来てほしいって!」
「大物?」
「俺に聞かれても分かりませんよ。ただ、門番が見たこともないほどでかいって……」
今日は何の依頼も入れていなかった。
本来なら昼前から川へ行くつもりだったが、街の警鐘が鳴っている状況で釣りへ向かうほど非常識でもない。
「分かった。行く」
「釣り竿は置いていくんで?」
「さすがに持っていかない」
「少し安心しました」
「俺を何だと思ってるんだ」
主人は答えなかった。
最近、周囲の扱いに妙な偏りを感じる。
◇
冒険者ギルドへ着くと、すでに建物の中は騒然としていた。
普段は酒場にいる冒険者まで武装を整え、受付では職員が地図や依頼書を抱えて走り回っている。
「レクスさん!」
ミリアが人混みの中からこちらを見つけた。
「こっちです。支部長と《銀翼》が待っています」
「何が出た?」
「まだ確定していません。ただ……」
ミリアは一瞬言葉を選んだ。
「北門から三十キロほどの山間部で、巡回中の冒険者が巨大魔獣を確認しました。黒鎧のガルムがいた縄張りより、さらに北です」
「大きさは?」
「目撃者の証言では、四足で歩いていても頭が森の木々より高かったそうです」
「それは大きいな」
「感想が軽いです」
「まだ見てないからな」
奥の会議室には、支部長と《銀翼》の四人が揃っていた。
クラウディア、ドーガン、フィン、エルド。
それに見慣れない制服の男が二人いる。
胸章からして王国軍の斥候らしい。
「来たか」
支部長が地図を指す。
「時間がないから簡潔に説明する。北部の山林で正体不明の大型魔獣が南下している。王国軍の記録官が古い資料と照合した結果、かなり厄介な可能性が出た」
「どのくらい?」
クラウディアが腕を組んだまま答えた。
「神話指定」
レクスは地図から顔を上げた。
「災害指定より上か」
「ええ」
エルドが乾いた声で補足する。
「正式な呼称は《天殻巨獣バルディオス》。二百年以上前の記録に三度しか出てこない。山そのもののような甲殻を持ち、成熟個体は城壁を踏み崩したとある」
「昔話じゃなかったのかよ」
フィンが嫌そうに言った。
「俺、子供の頃に母ちゃんから『夜更かしするとバルディオスが来るぞ』って脅されたぞ」
「よかったじゃない。本物に会えるわよ」
クラウディアが言う。
「全然よくねえ」
ドーガンは笑わなかった。
「進路は?」
支部長が地図上へ線を引く。
「このまま真っ直ぐなら、夕方までに北街道へ出る。そこを越えれば農村が三つある。進行方向を変えない限り、避難だけでは間に合わん」
「黒鎧のガルムが南へ降りてきたのも、こいつから逃げてた可能性があるわね」
クラウディアの言葉で、室内の空気が少し重くなった。
レクスも同じことを考えた。
国境近くで起きている異変。
移動する高位魔獣。
旧監視塔の祭壇。
全部が直接繋がっていると断定するには早いが、偶然と片づけるには数が増えてきた。
「倒すのか?」
レクスが尋ねると、支部長は首を横へ振った。
「本来なら討伐ではなく、進路変更か足止めだ。神話指定に対して、ベルン支部だけで討伐命令を出す権限はない」
「でも農村へ向かってる」
「だから困っている」
クラウディアが地図を見ながら言う。
「レクス。あなた、黒鎧のガルムには八割くらいまでしか入らなかったのよね」
「ああ。抵抗が強かった」
「神話指定には?」
「やってみないと分からない」
「それで十分」
彼女は即座に立ち上がった。
「《銀翼》は行く。目的は足止め。レクスは無理に討伐まで狙わなくていい。術が通らないならすぐ退く。それでどう?」
「いいと思う」
「支部長」
「……頼む」
支部長は苦い顔で頷いた。
「王都へはすでに早馬を出した。増援が来るまで持たせてくれればいい。絶対に無茶はするな」
「私たちが無茶しそうに見える?」
「お前たちは比較的信用している」
「じゃあ誰が?」
支部長はレクスを見た。
「俺か?」
「お前は無茶をするというより、無茶を無茶だと認識しない」
反論しようとして、クラウディアたちが揃って頷いているのを見た。
「……そんなことはないと思うんだが」
「その台詞がもう不安なのよ」
◇
天殻巨獣バルディオスは、遠くからでも見えた。
最初、レクスは山の一部だと思った。
灰褐色の巨大な塊が、森の向こうでゆっくり動いている。
近づくにつれ、それが生物だと分かる。
四本の脚は太い塔のようで、背中には何層もの岩盤を重ねたような甲殻が盛り上がっている。頭部は低く、二本の角が前方へ伸び、歩くたびに周囲の木々が押し倒されていた。
「……でかいな」
レクスが呟く。
「だから感想が軽いって」
クラウディアが返した。
少し離れた高台には、王国軍の斥候とギルドの記録員が待機している。
今回の目的は討伐ではない。
まず進路を変える。
それが無理なら足止め。
それも無理なら、農村の避難時間を稼いで撤退する。
「エルド、最初に牽制をお願い」
「了解じゃ」
「フィンは目と関節を狙って。効かなくても構わない。ドーガンは正面に立たない。あれの突進を受けようなんて思わないでよ」
「俺だって命は惜しい」
「レクス」
「分かってる。最初は抵抗を見る」
クラウディアが頷く。
このやり取りは楽だった。
誰も「自分なら受けられる」と見栄を張らない。
誰も「弱体魔法なんかいらない」と笑わない。
できることと、できないことを確認してから戦う。
当たり前のことのはずなのに、レクスにとってはまだ少し新鮮だった。
「始めるわよ!」
エルドの杖から雷光が走った。
青白い稲妻がバルディオスの頭部へ直撃する。
凄まじい轟音が響いた。
だが。
「……効いとらんな」
煙が晴れた後、甲殻には焦げ跡すらなかった。
フィンの矢も続く。
目を狙った一矢だったが、巨獣が瞼を閉じただけで矢は弾かれた。
「瞼まで鎧かよ!」
バルディオスが頭を上げた。
こちらに気づいたらしい。
低い唸り声が森を震わせる。
ドーガンが盾を構えながらも、正面から一歩外れる。
「来るぞ!」
巨体が前へ出た。
一歩。
たった一歩で地面が揺れた。
レクスは右手を向ける。
「《深淵呪詛》」
いつもの感覚とは違った。
術が触れた瞬間、押し返される。
黒鎧のガルムより遥かに強い抵抗。
「どう?」
クラウディアが叫ぶ。
「そのままだと三割くらいしか落ちない」
「十分じゃないのね?」
「足止めなら足りない。抵抗から削る」
レクスは集中した。
相手の全能力へ一度に触れない。
まず、呪詛抵抗。
そこだけに術を絞る。
強い。
だが、通らないわけではない。
「抵抗を四割……五割……」
バルディオスが一歩ずつ近づく。
木々が次々と倒れる。
「レクス、急かしたくないけど、あと二十秒くらいでここまで来るわよ!」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんはやめて!」
クラウディアの声に、フィンがこんな時なのに吹き出した。
レクスは抵抗の層をさらに削る。
七割。
八割。
そこで感触が変わった。
「入る」
「どこまで?」
「全部やる」
筋力。
敏捷。
防御。
知覚。
魔力。
再生。
そして突進時の衝撃を支えている身体強化。
一つずつ、落としていく。
黒鎧のガルムより難しい。
九十九パーセントまでは届かない。
それでも。
「八十五……八十八……九十」
レクスは息を整えた。
「九十二パーセント。これが限界だ」
「九十二!?」
フィンが声を裏返した。
「神話指定を!?」
「残り八パーセントある。気をつけろ」
「それ、注意する方が八パーセントなんだ……」
クラウディアだけは笑わなかった。
目の前の巨獣を見ている。
バルディオスの歩みが明らかに遅くなっていた。
先ほどまで地面を揺らしていた一歩が、今は重そうに沈む。
「行ける」
クラウディアが剣を抜いた。
「《銀翼》、討伐へ切り替える!」
「足止めじゃなかったのか!?」
フィンが叫ぶ。
「この状態なら逃がす方が危ない! レクス、再生は?」
「九割以上落ちてる。傷は残る」
「十分!」
クラウディアが走った。
バルディオスが角を振り上げる。
その動きは、本来なら人の目で追える速度ではなかったのだろう。
だが今は違う。
クラウディアは軌道を見切り、角の内側へ潜り込む。
「ドーガン!」
「任せろ!」
盾が角の側面へ叩きつけられ、僅かに軌道を逸らす。
フィンの矢が、先ほど弾かれた瞼の隙間へ刺さった。
今度は通った。
バルディオスが低く呻く。
「エルド!」
「老体を働かせおって!」
雷撃が傷口へ直撃する。
巨獣の頭が大きく揺れた。
クラウディアは、その瞬間を待っていた。
二本の長剣を交差させるように構え、前脚の付け根へ踏み込む。
「ここ!」
斬撃が走る。
岩盤のようだった甲殻が割れた。
その下へ、二撃目。
深く。
三撃目。
さらに深く。
バルディオスの前脚が崩れ、巨体が傾いた。
「下がって!」
クラウディアの声と同時に、全員が距離を取る。
巨獣が横倒しになった。
地面が大きく揺れ、土煙が空へ舞い上がる。
まだ死んではいない。
起き上がろうとしている。
「首の下だ!」
レクスが叫んだ。
甲殻の薄い場所が見える。
弱体化したことで、魔力の流れまで読みやすくなっている。
「そこが一番薄い!」
「了解!」
クラウディアが走った。
倒れた巨獣の首元へ飛び乗る。
剣を逆手に持つ。
一度だけ息を整えた。
「終わりよ!」
二本の刃を同時に突き下ろす。
甲殻を貫き、そのまま深部へ到達した。
バルディオスの巨体が激しく痙攣する。
クラウディアは剣から手を離さない。
最後の力で振り落とされそうになりながら、さらに深く押し込む。
やがて。
巨大な身体から力が抜けた。
森を震わせていた低い唸りも止まる。
静寂が戻った。
「……死んだ?」
フィンが恐る恐る言う。
エルドが魔力反応を確認する。
「死んどる」
「本当に?」
「二回言わせるな」
「神話指定だぞ……」
フィンはその場へ座り込んだ。
ドーガンも盾を下ろし、倒れた巨獣を見上げている。
「俺たち……神話指定を倒したのか」
クラウディアは首元から降りてきた。
服も顔も土と血で汚れている。
それでも表情は妙に落ち着いていた。
「倒したわね」
「もっと喜べよ!」
「喜んでるわよ」
「見えねえ!」
レクスも近づいた。
「怪我は?」
「擦り傷くらい。みんなも平気?」
ドーガンたちが確認し合う。
大きな怪我はない。
それを確かめてから、クラウディアはようやく長く息を吐いた。
「よかった」
「クラウディア」
「何?」
「最後の突き、かなり深かったな」
「あなたが甲殻を柔らかくしたからでしょう」
「それでも位置を外してたら倒せなかった」
「そうね。だから私たち全員で倒したのよ」
クラウディアはそう言って、少し笑った。
◇
問題はベルンへ戻ってからだった。
神話指定魔獣の討伐。
しかも、王都からの増援が到着する前に。
その知らせは一行より先に早馬で伝えられていた。
北門の前には、冒険者だけではなく騎士や商人、住民まで集まっていた。
バルディオスの巨体はそのまま運べないため、討伐証明となる角の一部と魔石だけを持ち帰った。それでも、巨大な魔石を見た瞬間、人々から歓声が上がる。
「《銀翼》だ!」
「神話指定を倒したぞ!」
「クラウディア!」
「さすがSランク!」
歓声の中心へ押し出されたのはクラウディアだった。
彼女は困った顔をした。
ギルド前では支部長も待っている。
「よくやった。《銀翼》」
「ちょっと待って」
クラウディアが手を上げた。
歓声が少しずつ静まる。
「訂正しておきたいことがあります」
周囲の人々が何事かと見る。
クラウディアはレクスを手招きした。
「何だ?」
「こっち来て」
「俺は別に――」
「いいから」
仕方なく隣へ立つ。
クラウディアは集まった人々へ向き直った。
「今日、天殻巨獣バルディオスにとどめを刺したのは私です」
また歓声が上がりそうになる。
しかし彼女は続けた。
「でも、勘違いしないでください。私が神話指定より強かったわけじゃない」
静かになった。
「最初に剣を当てた時、傷一つつかなかった。フィンの矢も、エルドの魔法も通らなかった。ドーガンだって、正面から受ければ死んでいたと思う」
ドーガンが素直に頷く。
「間違いないな」
「それが途中から、私の剣で甲殻を割れるようになった」
クラウディアは隣のレクスを見る。
「レクスが、神話指定の能力を九割以上落としたからです」
どよめきが広がった。
「九割?」
「神話指定を?」
「そんなことできるのか……?」
レクスは少し居心地が悪くなった。
「九十二パーセントくらいだ」
つい訂正すると、クラウディアがこちらを見た。
「今、その細かい訂正いる?」
「九割と九十二は違うだろ」
「そういうところよ」
周囲から笑いが起きた。
クラウディアも呆れたように笑ってから、すぐ真顔へ戻る。
「私は、自分の剣の腕に誇りを持ってます。《銀翼》の仲間たちも強い。でも、今日の勝利を『Sランクの私たちが神話指定を倒した』だけで終わらせたくない」
その言葉に、フィンもエルドもドーガンも異論を挟まなかった。
「私が強いんじゃない、なんて言うつもりもない。私たちは強い。でも、今日はそれだけじゃ勝てなかった」
クラウディアははっきりと言った。
「レクスが、私たちの強さで勝てるところまで敵を落としてくれた。だから倒せた。それが今日の事実です」
レクスは彼女を見た。
以前なら。
ギルバートなら、と一瞬だけ考えた。
とどめを刺した者が英雄になる。
後ろで敵を弱らせた者の名前など、記録の片隅にあれば十分。
それが普通なのだと思っていた。
だがクラウディアは、自分の手柄を減らすことを恐れない。
レクスを評価したところで、自分の価値まで消えるとは考えていない。
「だから支部長」
「何だ」
「討伐報告には、全員の役割をそのまま書いてください。《銀翼》が倒した、だけはなし」
「最初からそのつもりだ」
「ならよし」
「それと報酬配分だが――」
「半分はレクスへ」
「いらない」
即座にレクスが割り込んだ。
「また始まった」
クラウディアが額を押さえる。
「今回は神話指定よ?」
「だから何だ」
「金額が前とは違うの」
「決めた協力報酬があるだろ」
「それは足止め前提の金額!」
「足止めのつもりで行ったからな」
「途中で討伐に変えたでしょう!」
人々が見守る中、神話指定魔獣を倒した直後とは思えない報酬争いが始まった。
支部長が疲れた顔で割って入る。
「分かった。規定に沿って功績査定する。お前らだけで決めるな」
「それが一番助かる」
「レクスは黙って受け取れ」
「多すぎたら困る」
「金が多くて困る冒険者を初めて見たぞ!」
また笑いが起きた。
◇
その夜。
ベルン支部では、天殻巨獣バルディオス討伐の正式記録が作成された。
《銀翼》の戦闘能力。
クラウディアによる致命傷。
そして。
『黒魔導士レクス・アルヴァーン、対象の呪詛抵抗を段階的に低下させた後、筋力、敏捷、防御力、魔力、知覚、再生能力等を平均九十二パーセント低下させる』
その一文を読んだ支部長は、しばらく羽根ペンを止めた。
「これ、王都へ送ったらまた騒ぎになるな……」
ミリアが隣で書類を整理している。
「もう諦めた方がいいと思います」
「何をだ」
「静かな支部生活をです」
「お前までそんなことを言うな」
「レクスさんが来てから、Aランク魔獣、災害指定、王国騎士団の呪詛事件、神話指定ですよ」
「まだ十日も経ってないんだぞ……」
二人は揃って黙った。
その事実が一番怖かった。
一方。
当のレクスは宿の部屋で、明日の予定を確認していた。
「午前中なら空いてるな」
机の脇には釣り竿。
今日は急な呼び出しで行けなかった。
なら明日は行けばいい。
神話指定魔獣を倒した夜に考えることとしては、たぶん間違っているのだろう。
けれど今のレクスには、そんな日常の方が大切だった。
同じ頃。
ベルンから王都へ向けて、一羽の高速伝書鳥が夜空へ放たれた。
その脚には、神話指定魔獣討伐の速報が結ばれている。
そして報告書の中心に記された名前は、勇者ではなかった。
黒魔導士レクス・アルヴァーン。
その名が王国中の高位冒険者と騎士団に知られるまで、もうほとんど時間は残されていなかった。




