第14話 レクスならどうした?
治療院の一室で、ギルバートは天井を見つめていた。
右肩には固定具が巻かれ、脇腹にも治癒術を施した跡が残っている。命に関わる傷ではないと診断されたものの、数日は剣を握らない方がいいと言われた。
少し前の自分なら、治癒術師の忠告など聞かなかっただろう。
傷が塞がれば動ける。
痛みなど我慢すればいい。
そう思っていた。
けれど今は、右腕を少し動かすだけで思い出す。
紅蓮竜の尾が迫ってきた時の風圧。
聖剣が鱗に弾かれた手応え。
そして、自分が何度斬りつけても消えてしまった傷。
「……レクスなら」
思わず声が漏れた。
言ってから、自分で嫌になった。
またあいつだ。
ここ数日、頭の中に浮かぶのはレクスのことばかりだった。
扉が開いた。
「起きてたのね」
入ってきたのはセシリアだった。手には小さな紙袋を持っている。
「何だ、それ」
「果物。治療院の食事だけじゃ気が滅入るでしょう」
「別にいらない」
「そう。じゃあ私が食べるわ」
「……置いとけよ」
「最初からそう言えばいいのに」
セシリアは椅子を引き、ベッドの横へ座った。
袋から赤い果実を一つ取り出し、卓上の皿へ置く。
「バルガスは?」
「ギルドに行ってる。あなたの依頼失敗について、監視員の報告書が届いたから確認したいって」
「……わざわざ?」
「あなたがどこで何を間違えたのか知りたいんでしょう。本人が言ってたわ。『次に同じ目に遭わないためなら、恥ずかしい記録ほどちゃんと見た方がいい』って」
ギルバートは顔をしかめた。
「説教しに来たのか?」
「してほしい?」
「いらない」
「ならしない」
セシリアはあっさり答えた。
以前なら、その態度が気に障ったかもしれない。
今は怒る気力もなかった。
しばらく沈黙が続く。
窓の外から、馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてきた。
「紅蓮竜、強かった?」
セシリアが静かに聞いた。
「……強かった」
「前に戦った時より?」
ギルバートは答えるまで少し時間がかかった。
「監視員は、普通の個体だと言ってた」
「そう」
「大きさも、強さも。むしろ成体の中じゃ少し小さいくらいだったらしい」
セシリアは何も言わない。
その沈黙が、今はありがたかった。
「俺の剣は通らなかった」
「うん」
「《聖断》もほとんど効かなかった。何度も同じ場所を斬って、やっと傷をつけたのに……すぐ再生した」
「一年前は?」
「一発だった」
口に出すと、差があまりにも露骨だった。
「翼も斬れた。炎だって、バルガスが真正面から受け止めた。俺は……あれを自分たちが強かったからだと思ってた」
「私もよ」
セシリアは否定しなかった。
「だから、あなただけを責めるつもりはない。私だって、レクスの補助がなくても同じように戦えると思ってたもの」
「でもお前は、俺より早く気づいた」
「気づいたんじゃない。怖くなっただけよ」
ギルバートが彼女を見る。
セシリアは自分の杖を膝の上へ置いた。
「ゴブリン相手に魔力を使いすぎた時、初めて思ったの。私って、こんなに燃費が悪かったっけって。そこから記録を調べて、杖の補助も、敵の弱体化も見つけた。別に賢かったわけじゃないわ」
「それでも、止めただろ」
「止めたわね」
「俺は聞かなかった」
「そうね」
容赦がない。
だが、慰められるよりましだった。
「……あの時、お前たちと行かなくてよかったな」
セシリアが眉を上げる。
「何が?」
「紅蓮竜だよ。バルガスがいたら、たぶん前と同じように炎を受けさせてた」
「……そうね」
「死んでた」
その言葉は重かった。
バルガスの頑丈さを、ギルバートは誰より知っている。
だからこそ分かる。
あの炎は、人間が盾一枚で耐えられるものではなかった。
「レクスは、あれを九割以上落としてたんだよな」
「たぶん」
「炎だけじゃない。力も、速度も、防御も、再生も」
「そうでしょうね」
「……全部じゃねえか」
セシリアは返事をしなかった。
代わりに、皿の上の果実を小さなナイフで切り分け始めた。
「なあ」
「何?」
「俺たちって、本当はどれくらい強いんだ?」
セシリアの手が止まった。
勇者ギルバートが、そんなことを聞く日が来るとは思っていなかった。
「分からない」
「分からない?」
「ええ。でも、それって悪いことじゃないと思う」
「どういう意味だよ」
「今まで私たちは、レクスが敵を弱くした状態でしか自分たちの力を測ってなかった。だから本当の実力が分からない。でも分からないなら、これから測ればいいでしょう」
「最初からやり直せって?」
「私はそうするつもり」
セシリアは切った果実を一つ口へ運んだ。
「レクスがいなくてもBランクの鋼牙虎は倒せた。二人で二時間かかったけど、それは今の私たちにできることよ。だったら、まずそこから始めればいい」
「俺は勇者だぞ」
「だから何?」
「……お前、最近それ言うな」
「だって便利な言葉みたいに使うからよ」
少しだけ、以前のようなやり取りだった。
ギルバートは苦笑しそうになって、肩の痛みに顔をしかめる。
「痛む?」
「少しな」
「無理して笑うからよ」
「笑ってねえよ」
「はいはい」
その時、廊下から重い足音が近づいてきた。
扉が開き、バルガスが大きな紙束を抱えて入ってくる。
「起きてんならちょうどいい」
「何だよ、それ」
「過去三年の主な討伐記録。支部長に頼んで写しを借りてきた」
「また記録か」
「今回はもっと細かいぞ」
バルガスは紙束をベッド脇の机へ置いた。
「王都支部が、レクスの弱体術がどのくらい戦果に影響してたか正式に調べ始めた」
ギルバートの顔からわずかに血の気が引く。
「なんで今さら」
「今さらだからだろ。お前が紅蓮竜に負けた。それと同じ頃、ベルンじゃレクスの能力が実測された。敵の能力を百分の一近くまで落としてたってな」
「知ってる」
「だったら分かるだろ。今までの勇者パーティの討伐実績が、どこまで俺たち自身の力で、どこからレクスの補助込みだったのか確認しねえと、今後の依頼基準を決められない」
「俺たちの功績を取り消すつもりか?」
反射的に声が強くなる。
バルガスはすぐに答えなかった。
「そこまでは知らん。ただ、記録を見直すのは当然だと思う」
「当然だと?」
「じゃあ聞くが、前と同じつもりで俺たちにドラゴン討伐を依頼していいと思うか?」
ギルバートは黙った。
答えられない。
「依頼する側は人の命を預かってる。俺たちの実力を間違って見積もったら、依頼主だけじゃなく同行者まで死ぬ。今回のお前みたいにな」
言葉は厳しい。
けれど悪意はなかった。
だからこそ、逃げ場がない。
「……見せろよ」
ギルバートが手を出した。
「何を?」
「記録だ」
バルガスが少し驚いた。
それでも何も言わず、一番上の紙を渡す。
一年前の紅蓮竜討伐。
戦闘開始。
黒魔導士レクス、弱体術式開始。
筋力低下。
魔力低下。
外殻脆化。
敏捷低下。
再生阻害。
炎熱出力低下。
その後。
盾士バルガスが炎を受け止める。
魔術師セシリアの氷槍が翼へ命中。
勇者ギルバートが《聖断》で翼を切断。
最後に首を落とし、討伐完了。
ギルバートは何度も同じ箇所を読んだ。
「……本当に全部やってたんだな」
「記録上はな」
バルガスが答える。
「俺、これ全部聞いてたのか?」
「聞いてたわよ」
セシリアが言った。
「私たち、戦う前にレクスから毎回説明されてた。敵の何を落としたか、何が危ないか。聞いてたけど、重要だと思ってなかっただけ」
「じゃあ……」
ギルバートは紙を握る手に力を入れた。
「俺が翼を斬れたのも」
「レクスが外殻を弱くしてた影響は大きいでしょうね」
「バルガスが炎を受けられたのも」
「炎を弱くしてもらってたからだろうな」
「セシリアの氷槍が刺さったのも」
「同じよ」
自分で聞いておきながら、胸が苦しくなる。
「それじゃ俺たち……何をやってたんだ」
今度はセシリアがすぐに答えた。
「戦ってたわよ」
ギルバートが顔を上げる。
「何?」
「レクスが弱らせても、誰かが倒さなきゃ戦闘は終わらない。あなたの剣も、バルガスの盾も、私の魔法も必要だった。それまで否定する必要はないでしょう」
「でも――」
「だからって、レクスが不要だったことにもならない」
セシリアははっきり言った。
「私たちはそこを間違えたのよ。誰かが役に立っていたと認めたら、自分たちの価値が下がるみたいに考えてた」
バルガスも椅子へ腰を下ろす。
「たぶん、あいつ自身も悪い意味で慣れすぎてたんだろうな」
「レクスが?」
「ああ。夜番も、装備調整も、敵の弱体化も、全部普通にやってた。俺たちが礼を言わなくても文句を言わなかった。だからこっちも、いつの間にか『やって当然』になった」
ギルバートは否定できなかった。
「それで最後には……寄生虫か」
自分で口にして、酷い言葉だと思った。
「最低だな」
「今さら自分を殴っても何も変わらないわよ」
セシリアが言う。
「じゃあ、どうすりゃいい」
「私は謝る」
「……レクスに?」
「ええ」
迷いのない返事だった。
「戻ってきてほしいからじゃない。今さらそんな都合のいいことを頼むつもりはない。ただ、私はあいつの仕事を馬鹿にした。それは謝る」
バルガスも頷いた。
「俺もだ」
二人の視線がギルバートへ向く。
「何だよ」
「別に」
セシリアは果物をもう一切れ食べた。
「あなたがどうするかは、自分で決めればいいでしょう」
それが一番困る。
謝れと言われた方が、まだ反発できた。
自分で決めろと言われると、逃げ道がなくなる。
「……レクスなら」
ギルバートが呟く。
「何?」
「いや」
さっきから何度も考えていた。
もし今、レクスがここにいたら。
自分のように紅蓮竜へ無茶に挑んだだろうか。
おそらく、しない。
相手の能力を見て、自分たちが勝てる状態になるまで弱らせる。
無理なら退く。
仲間が負傷していれば休ませる。
レクスは臆病だったわけではない。
戦う前に勝てる条件を整えていただけだった。
「前に俺、あいつのことを『後ろに隠れてるだけ』って言ったことがある」
「覚えてるわ」
「本人の前で?」
「ああ」
「レクスは何て?」
「『前に出る必要がないからな』って」
バルガスが吹き出した。
「らしいな」
「その時は腹が立った。でも今なら……正しかったんだな」
前に出る必要がない者が前へ出る。
受ける必要のない攻撃を受ける。
勝てない敵へ意地だけで挑む。
それは勇敢なのではない。
ただの無謀だ。
昨日の自分が、まさにそうだった。
「ベルンまで、どれくらいだ?」
ギルバートが尋ねた。
セシリアとバルガスが顔を見合わせる。
「馬車なら二日くらいでしょうね」
「怪我が治ったら行く」
「レクスに会いに?」
「ああ」
「何を言うつもりだ?」
バルガスに聞かれ、ギルバートは少し考えた。
「……まだ分からない」
謝罪。
感謝。
質問。
言わなければならないことは山ほどある。
けれど、それをどう言葉にすればいいのかは分からなかった。
「ただ、一つだけ聞きたい」
「何を?」
「俺たちが今まで倒した敵を、あいつは本当はどこまで弱らせてたのか」
セシリアは苦笑した。
「たぶん聞いたら、また落ち込むわよ」
「もう今さらだ」
「それもそうね」
◇
同じ日の昼。
ベルンから南へ伸びる街道を、レクスはAランクパーティ《暁鷹》の三人と歩いていた。
目的は赤晶大蠍の討伐だ。
「レクスさん」
リーダーのリーナが歩きながら振り返る。
「本当に半分じゃなくていいんですか?」
「昨日も言っただろ。俺は補助だけだ」
「ですから、その補助に価値があるんです」
「分かってる。ただ、俺は依頼料として決めた分をもらえれば十分だ」
「欲がないんですね」
「金はもう当分困らないくらいある」
「黒鎧のガルムの報酬ですか?」
「それもあるが、その前のブラッドホーンベアも高かった」
「例の小石の……」
「その呼び方はやめてくれ」
同行する剣士ハルトが笑った。
「もう無理ですよ。ベルンじゃ『小石でAランクを倒した黒魔導士』って有名なんですから」
「黒魔導士様よりはましか」
「本人、あれ嫌なんですね」
「十九歳に様をつけられても落ち着かない」
治癒術師メイまで笑う。
勇者パーティにいた頃の遠征とは、随分違う。
歩きながら誰かが冗談を言い、疲れれば普通に休憩する。誰か一人へ雑用が集中することもない。
レクスは不意に思った。
これなら、誰かと組むのも悪くないかもしれない。
もちろん、今すぐ新しいパーティへ入る気はない。
一人で過ごす時間は気に入っている。
ただ。
誰かと戦うこと自体が嫌だったわけではないのだと、ようやく分かった。
「見えてきました」
リーナが前方を指した。
岩山の中腹。
赤い水晶のような甲殻を持つ巨大な蠍が、崩れた岩陰からゆっくり姿を現す。
「前回は、あの甲殻を突破できませんでした」
「毒は?」
「尾に受ければ、高位治癒術でも危ないです」
「分かった」
レクスは右手を上げた。
「なら、甲殻と毒を先に落とす。ついでに速度も」
リーナたち三人が武器を構える。
誰一人、「そんなもの必要ない」とは言わなかった。
「お願いします」
その一言に、レクスは少しだけ笑った。
「了解した」
《深淵呪詛》が発動する。
赤晶大蠍の巨体が、目に見えて鈍った。
そしてこの日。
王都では勇者たちが初めて「レクスならどうしただろう」と考え始めた一方で。
レクスは新しい仲間たちと、ごく当たり前のように互いの役割を信じて戦い始めていた。




