第13話 逃げろ!
紅蓮竜の喉奥で膨らんだ赤い光を見た瞬間、ギルバートは初めて「勝つ」ことを考えるのをやめた。
頭に浮かんだのは、どうやって生き残るか。それだけだった。
「ギルバート! 右へ走れ!」
高台から監視員の声が飛ぶ。
考えるより先に身体が動いた。
右腕は痺れ、呼吸をするたびに胸の奥が痛む。それでも地面を蹴り、岩陰を目指して走る。
直後、背後から轟音が迫った。
振り返る余裕などない。
熱が背中へ食らいついた。
「ぐっ……!」
空気そのものが焼けているようだった。
紅蓮竜の炎はギルバートのすぐ後ろを薙ぎ払い、黒い岩肌を赤く溶かしていく。直撃していないのに、外套の裾が燃え上がった。
走りながら外套を外し、地面へ投げ捨てる。
少しでも遅れていたら、自分自身がああなっていた。
そんな当たり前の事実が、今さら恐ろしく感じられた。
「止まるな! そのまま谷の出口へ!」
「分かってる!」
ギルバートは怒鳴り返した。
けれど先ほどまでのような苛立ちはなかった。
監視員の指示が正しい。
もう分かっている。
戦う相手ではない。
少なくとも、今の自分一人で勝てる相手ではない。
紅蓮竜の咆哮が背後で響いた。
次いで、大地を揺らす足音が追ってくる。
「嘘だろ……あの巨体で!」
逃げる人間を追う速度とは思えなかった。
ギルバートは横目で背後を見る。
紅蓮竜は翼を半ば広げ、岩場をほとんど跳ぶように駆けていた。人間より何倍も大きな身体が、一歩ごとに距離を詰めてくる。
以前戦った紅蓮竜は、もっと遅かった。
自分たちの周囲をのろのろと動き、ギルバートが死角へ回っても追いつけなかった。
『敏捷と知覚を落とした。背後へ回れば反応できない』
またレクスの声を思い出した。
「……全部かよ」
思わず口から漏れた。
鱗だけではない。
炎だけでもない。
筋力。
速度。
知覚。
再生。
その全て。
自分たちは三年間、魔物本来の力をほとんど見ていなかった。
見せてもらえていなかった、という方が正しいのかもしれない。
レクスが先に奪っていたからだ。
「ギルバート、伏せろ!」
監視員の叫びに反応し、反射的に地面へ身体を投げ出した。
頭上を何か巨大なものが通過する。
紅蓮竜の尾だった。
振り抜かれた尾が谷壁へ直撃し、岩が崩れ落ちる。
大小の破片が雨のように降ってきた。
「くそっ!」
腕で頭を庇いながら転がり、立ち上がる。
足首が痛む。
さっき着地した時に捻ったらしい。
今さら気づいた。
戦っている時は興奮で分からなかった痛みが、一斉に戻ってくる。
「ギルバート、こっちだ!」
監視員の一人が高台から降りてきていた。
「来るな!」
「このままだと追いつかれる!」
「お前たちは戦闘に介入するなって条件だっただろ!」
「依頼人が死にそうなら別だ!」
もっともな返答だった。
ギルバートは何も言い返せない。
監視員は小型の弩を構え、紅蓮竜の顔へ矢を放った。
もちろん、そんなもので鱗を貫けるはずはない。
矢は額に当たって弾かれた。
だが注意を引くことには成功した。
紅蓮竜の頭が監視員へ向く。
「馬鹿! 逃げろ!」
今度はギルバートが叫んだ。
監視員は答える代わりに、谷の反対側へ走る。
竜が追おうと身体を向けた瞬間、もう一人の監視員が魔法式の信号弾を空へ撃ち上げた。
赤い光が空で弾ける。
救援要請。
ギルドが危険度の高い討伐へ監視員をつける理由の一つだった。
「何をしてる! 今のうちに走れ!」
ギルバートは唇を噛んだ。
自分を助けるために、戦闘へ参加する予定ではなかった人間が囮になっている。
勇者である自分が。
それを守る側ではなく、守られている。
惨めだった。
それでも、ここで意地を張って死ぬほど馬鹿にはなれなかった。
少なくとも、今は。
「すまない!」
その一言を叫び、谷の出口へ向けて走った。
◇
紅蓮竜は、いつまでも人間を追ってくるわけではなかった。
縄張りから一定の距離を離れたところで、興味を失ったように足を止めた。
それでも三人は、さらに一刻近く走り続けた。
完全に安全圏へ入ったと判断したところで、ギルバートはとうとう道端へ座り込んだ。
「……もう、来ないのか」
「多分な」
監視員の一人が息を切らしながら答える。
「紅蓮竜は縄張り意識が強い。追跡範囲を出たんだろう」
もう一人の監視員は、ギルバートの右腕を確認していた。
「肩が腫れてる。骨まではいってないと思うが、王都へ戻ったらすぐ治療院へ行け」
「これくらい……」
大丈夫だと言おうとして、やめた。
大丈夫ではない。
右腕はまともに上がらない。
胸も痛い。
足首も腫れている。
誤魔化して何になる。
「分かった」
自分でも驚くほど素直な返事が出た。
二人の監視員が少しだけ意外そうな顔をする。
ギルバートはそれを見ないふりをした。
しばらく誰も喋らなかった。
谷から離れても、まだ硫黄の匂いが残っている。
焦げた外套の臭いも鼻から離れない。
「……なあ」
ギルバートは地面を見たまま尋ねた。
「あの紅蓮竜、本当に普通の個体だったのか?」
監視員二人が顔を見合わせた。
答えにくそうな反応だった。
「気を遣わなくていい。聞きたいだけだ」
年長の監視員が口を開いた。
「観測した限りでは、普通だ。成体としてはむしろ平均より少し小さいくらいだと思う」
「小さい……?」
「ああ」
胸の奥に、鈍いものが落ちた。
一年前に倒した紅蓮竜は、今日の個体と同じくらいだった。
いや、あの時の方が大きかったかもしれない。
「俺の攻撃は……」
言いにくかった。
それでも聞く。
「外から見て、どうだった?」
「正直に言っていいのか?」
「ああ」
「ほとんど効いてなかった」
分かっていた。
自分でも見ていた。
それでも第三者から言われると、別の重さがある。
「《聖断》も?」
「鱗へ傷は入ってた。ただ、再生された。成体の紅蓮竜なら普通だ」
普通。
またその言葉だ。
強すぎたのではない。
自分が弱くなったわけでもない。
今日初めて、普通のドラゴンと戦った。
ただ、それだけだった。
「前に……同じ紅蓮竜を倒したことがある」
「聞いてる」
「その時は、こんなじゃなかった」
監視員は返事をしなかった。
余計なことを言わないようにしているのだろう。
だが、その沈黙がかえって答えに思えた。
「黒魔導士がいた」
ギルバートは自分から言った。
「レクスっていう……俺たちの仲間だった奴だ」
「知ってるよ」
年長の監視員が苦笑した。
「今じゃ知らない冒険者の方が少ないんじゃないか」
ギルバートの指が僅かに動いた。
聞きたくなかった。
それでも訊いてしまう。
「そんなに有名なのか?」
「ベルンじゃ《黒魔導士様》って呼ばれてるらしい」
「……様?」
「俺も噂しか知らないけどな。災害級魔獣の討伐、国境砦の呪詛事件、それに王国騎士団からも正式な功績報告が来てる。今朝の時点で、この辺のギルドじゃその話ばかりだ」
ギルバートは笑おうとした。
だが、口元が引きつっただけだった。
「あいつが……?」
後ろでブツブツ呟いていただけの男。
戦いが終われば、報酬配分に口を出すこともなく、次の遠征準備をしていた男。
地味で。
派手な魔法もなく。
歓声を浴びることもなかった。
それが今では、Sランク冒険者や王国騎士団に評価されている。
一方、自分は。
ゴブリンから逃げ。
Bランク魔獣に二時間かけ。
ドラゴンには傷一つまともに残せず、監視員に助けられて逃げ帰ろうとしている。
「……帰ろう」
ギルバートは立ち上がろうとした。
足首に痛みが走り、顔が歪む。
監視員が肩を貸した。
「無理するな。近くの中継所まで行けば馬を借りられる」
「悪い」
その言葉も、以前なら言わなかったかもしれない。
自分でもそう思った。
◇
ギルバートが王都へ戻ったのは、その日の夜だった。
目立たない裏口から入ろうとしたが、監視員が同行している以上、依頼失敗の報告を避けることはできない。
冒険者ギルドの扉を開けた瞬間、酒場の喧騒が少しだけ小さくなった。
右腕を固定し、足を引きずるギルバート。
その姿を見れば、結果など聞くまでもなかった。
支部長が受付から出てきた。
「生きて戻ったか」
責める声ではなかった。
安堵していた。
それが今のギルバートには、かえって辛かった。
「……討伐は失敗した」
「そうか」
「紅蓮竜は通常個体だった。俺の攻撃は……ほとんど通らなかった」
周囲が静かになる。
もう誤魔化さなかった。
なぜか、その方が楽だった。
「依頼失敗の記録をつけてくれ」
支部長は一瞬だけ驚いた。
以前のギルバートなら、何かしら理由をつけて認めなかったはずだ。
「分かった。まず治療院へ行け。報告書は監視員からも受け取る」
「……ああ」
奥から駆けてくる足音がした。
「ギルバート!」
セシリアだった。
その後ろにはバルガスもいる。
二人とも、傷だらけの姿を見て顔色を変えた。
「何してるのよ、その腕!」
「大丈夫だ」
「大丈夫な人間は肩を固定して帰ってこないでしょう!」
セシリアは怒りながらも、左側へ回って身体を支えた。
バルガスは何も言わない。
ただ、ギルバートの顔を見ていた。
「……負けた」
ギルバートが先に言った。
「見れば分かる」
「違う」
声が掠れる。
「今までみたいな言い訳をするつもりはない。あのドラゴンは普通だった。俺が……勝てなかった」
バルガスはしばらく黙っていた。
「そうか」
それだけだった。
慰めもしない。
責めもしない。
今はその方がありがたかった。
三人はギルドを出て、治療院へ向かった。
夜の王都はまだ賑やかだったが、ギルバートには遠く感じられた。
「なあ、セシリア」
「何?」
「レクスが……今どこにいるか知ってるか?」
セシリアの足がわずかに止まった。
バルガスも横を見る。
「ベルンにいるらしいわ」
「そうか」
また少し歩く。
「会うつもりか?」
バルガスが尋ねた。
ギルバートはすぐに答えられなかった。
酒場で追放した日のことを思い出す。
笑い声。
罵倒。
寄生虫。
不要。
全部解除していいかと確認されて、自分は「好きにしろ」と言った。
今さら、どんな顔をして会えばいい。
「……分からない」
ようやくそれだけ答えた。
「ただ」
ギルバートは固定された右腕を見た。
「聞きたいことはある」
「何を?」
「俺たちと戦ってた時、あいつがどれだけ敵を弱らせてたのか。ちゃんと……本人の口から聞きたい」
それはまだ謝罪ではなかった。
助けを求める言葉でもない。
けれど、レクスの力を認めることすら拒んでいた昨日までとは違う。
セシリアは何も言わず、ギルバートの身体を支え直した。
◇
同じ夜。
ベルンの宿で、レクスは釣り竿の糸を張り替えていた。
「明日は赤晶大蠍だったな」
《暁鷹》と約束した討伐協力の日だ。
釣りは昼までに切り上げたし、今のところ予定通りだった。
机の上には、今日釣った魚が四匹分、宿の料理人によって燻製にされて置かれている。
目標は三匹だった。
一匹多かった。
「悪くない」
本人にとっては、王国騎士団から評価されたことより、その成果の方が少し嬉しかった。
そこへ扉が叩かれた。
「レクスさん、まだ起きてますか?」
宿の主人だった。
「起きてる」
「冒険者ギルドから伝言です。明日の朝、少し早めに来てほしいそうですよ」
「何かあったのか?」
「王都から急ぎの書簡が届いたとか」
レクスは釣り糸を巻く手を止めた。
王都。
その言葉を聞いたのは、追放されてから久しぶりな気がした。
「分かった。朝に寄る」
「伝えておきます」
足音が遠ざかる。
レクスは再び釣り竿へ視線を戻した。
王都から何が届いたのか。
今のところ、心当たりはない。
ただその書簡には、紅蓮竜討伐に失敗した勇者ギルバートの報告とともに、一つの問い合わせが添えられていた。
――勇者パーティが過去に討伐した高位魔物について、黒魔導士レクス・アルヴァーンが行使した弱体術の実態を確認したい。
王都冒険者ギルドが、ついに過去三年間の「勇者の功績」そのものを調べ始めようとしていた。




