第12話 傷一つ付かない
紅蓮竜が翼を大きく広げた瞬間、谷を満たしていた熱気が一段階増した。
ただ羽ばたいただけだった。
それなのに地面の砂礫が一斉に舞い上がり、ギルバートの外套が背後へ強く引かれる。顔を庇うように腕を上げなければ、細かな石粒が目へ入っていただろう。
「こんなもの……!」
ギルバートは聖剣を握り直した。
一年前も同じ種類の竜を倒している。
あの時だって最初は大きく見えたはずだ。戦いが始まれば、恐ろしさなどすぐ消えた。
今回も同じだ。
そうでなくては困る。
「来いよ。俺が勇者だってことを、もう一度思い知らせてやる」
紅蓮竜に人間の言葉が通じたわけではない。
だが挑発する声に反応したかのように、竜の頭がわずかに下がった。
次の瞬間、巨体が地面を蹴る。
「なっ……!」
速い。
そう思った時には、もう目の前まで来ていた。
ギルバートは反射的に横へ跳ぶ。直後、竜の前脚が先ほどまで立っていた場所へ叩きつけられ、岩盤が砕けた。
砕けた。
それも、ひびが入ったという程度ではない。
人間の胴体ほどもある岩が何個も宙へ舞い、谷壁へ叩きつけられて粉々になった。
「……おい」
口の中が乾く。
一年前に戦った紅蓮竜の攻撃も、こんな威力だっただろうか。
違う。
あの時、バルガスはこれを盾で受けていた。
何度も。
しかも後ろにいた自分たちは、吹き飛ばされるどころか満足に砂埃すら浴びていない。
『筋力は落とした。バルガスなら受けられる』
レクスの声が脳裏へ蘇った。
「違う……」
ギルバートは頭を振った。
「今のは、たまたま地面が脆かっただけだ」
離れた高台から戦況を確認している監視員には聞こえない声だった。
むしろ、自分自身に聞かせている。
紅蓮竜が首を巡らせた。
黄色い瞳がギルバートを追う。
逃げたわけではない。
攻撃をかわしただけだ。
次はこちらの番だった。
「《聖光加護》!」
聖剣へ魔力を流し込む。
刀身が白い光に包まれた。
王家に認められた勇者だけが扱える武器であり、魔物への攻撃では並の名剣とは比較にならない威力を発揮する。
鋼牙虎の硬い毛皮だって、最後にはこれで斬り裂いた。
「俺の剣が通らない魔物なんか――」
一気に距離を詰める。
狙うのは前脚。
以前なら、一撃で深い傷を与えられた場所だ。
「いるわけがない!」
全身の力を乗せて振り下ろす。
甲高い音が谷へ響いた。
ギルバートの手から、聖剣が危うく抜けかけた。
「……え?」
刀身は折れていない。
しかし、紅蓮竜の鱗にも傷がなかった。
ほんのわずかな白い線が表面についただけで、血どころか鱗一枚欠けていない。
ギルバートは自分の剣を見る。
続けて竜の脚を見る。
「当たりが浅かったか」
そうに違いない。
体勢が悪かった。
全力を出したつもりで、実際には剣先が滑っただけだ。
紅蓮竜が前脚を振るう。
「くっ!」
今度は余裕を持って後ろへ跳んだつもりだった。
爪そのものは当たらなかった。
それでも風圧が胸へぶつかり、ギルバートの身体が宙へ浮く。
「がっ……!」
背中から岩場へ落ちた。
肺から空気が押し出され、一瞬だけ呼吸ができなくなる。
直接攻撃を受けていない。
それなのに胸当ての内側まで痛んだ。
「勇者ギルバート!」
遠くから監視員の声がする。
「危険です! 一度距離を――」
「黙ってろ!」
ギルバートは無理やり立ち上がった。
「まだ始まったばかりだ!」
ここで退けばどうなる。
ゴブリンから逃げた。
鋼牙虎には二時間かかった。
そして紅蓮竜からも逃げた。
そう記録される。
その横では、追放したレクスがSランク冒険者と災害級魔獣を倒し、王国騎士団を救ったと噂されている。
そんなことは認められない。
「今度こそだ」
聖剣を両手で握る。
狙うなら首ではない。
まず翼。
一年前と同じだ。
翼を斬れば飛べなくなる。
そこから首を落とせばいい。
竜がこちらへ噛みつこうと首を伸ばしてくる。
ギルバートは紙一重でかわし、その頭部を足場にするつもりで踏み込んだ。
鱗へ靴底を掛ける。
そのまま跳び上がり、翼の付け根へ聖剣を叩き込んだ。
「《聖断》!」
聖剣の光が一気に膨れ上がる。
ギルバートが扱える中でも、最も威力の高い剣技の一つ。
一年前。
同じ技で紅蓮竜の翼を半ばまで切断した。
今度も同じ結果になる。
少なくとも、ギルバートはそう信じていた。
爆ぜるような音がした。
反動で腕が痺れる。
ギルバートは着地すると、すぐに竜の翼を見上げた。
「……嘘だろ」
斬れていなかった。
鱗の表面に細い傷が一本ある。
それだけだった。
翼膜すら破れていない。
「俺の《聖断》だぞ……?」
魔王軍の重装兵なら、鎧ごと両断できる。
岩壁へ撃ち込めば亀裂が走る。
その必殺の一撃を受けても、目の前の竜は痛がる様子すらなかった。
むしろ。
怒らせた。
紅蓮竜の喉奥が赤く輝き始めた。
ギルバートの背筋に、本能的な恐怖が走る。
「ブレス……」
知っている。
以前も見た。
あの時はバルガスが前へ立った。
『炎の出力は九十三パーセント落ちた。熱は残るから、長く受けるな』
レクスがそう言っていた。
「九十三……」
今さらになって、数字の意味が理解できる。
百の炎を七まで落としていた。
そういうことだったのではないか。
目の前の紅蓮竜が吐こうとしているのは、その残り七ではない。
百。
本来の炎だ。
「くそっ!」
ギルバートは横へ走った。
直後、紅蓮竜が炎を吐いた。
轟音が谷を埋める。
炎などという生易しいものではなかった。
赤白い奔流が岩場を舐め、その表面を一瞬で黒く変える。直撃していないのに、熱だけで髪が焼ける匂いがした。
ギルバートは転がるように岩陰へ飛び込んだ。
「熱っ……!」
腕を庇う。
籠手の金属が熱を帯びている。
数秒前まで立っていた場所を見ると、地面が赤く溶けていた。
汗が一気に噴き出した。
こんなものを。
バルガスが盾一枚で受けられるはずがない。
どれだけ頑丈な男でも、人間だ。
つまり以前の炎は、本当に別物だった。
「違う……」
それでも認めたくなかった。
「同じ個体じゃない。こいつが強いんだ。一年前の奴より……」
監視員の一人が遠くから叫ぶ。
「勇者! 撤退してください! あの個体は通常の成体です! 観測値も標準範囲です!」
「余計なことを言うな!」
「しかし――」
「俺が判断する!」
監視員は黙った。
その沈黙さえ、今のギルバートには責められているように感じた。
通常個体。
強くない。
少なくとも、同種の中では。
では、弱かったのは一年前の紅蓮竜なのか。
なぜ弱かった。
答えが頭の中にある。
あるからこそ、見たくなかった。
「俺は……勇者だ」
立ち上がる。
膝が少し震えていた。
「聖剣に選ばれた。子供の頃から剣を習って、誰よりも鍛えてきた。王国中に期待されて、魔王を倒すために……」
嘘ではない。
努力してきた。
才能もある。
それはレクスがいようがいまいが変わらない。
だからこそ認められなかった。
自分が努力してきた事実と、レクスに助けられていた事実が両立することを。
どちらか一方しか認められないような気がしていた。
「俺の力だって……本物なんだ」
紅蓮竜が岩陰へ向けて歩き出す。
重い足音が近づく。
ギルバートは剣を構えた。
勝てる。
今までだって何度も勝ってきた。
攻撃が通らないなら、同じ場所へ何度も叩き込めばいい。
「《聖光加護》!」
再び刀身へ魔力を集中させる。
今度は一点。
最初に白い傷をつけた前脚の鱗を狙う。
「うおおおおっ!」
紅蓮竜が爪を振るう寸前、その懐へ飛び込んだ。
一撃。
二撃。
三撃。
同じ鱗へ続けざまに聖剣を叩き込む。
金属を叩くような音が響いた。
四撃目。
五撃目。
腕の筋肉が悲鳴を上げても、止めない。
「斬れろ!」
六撃目を振り下ろす。
ようやく鱗の表面へ細い亀裂が走った。
「見たか!」
喜んだ直後だった。
紅蓮竜の尾が横から迫る。
避けられない。
ギルバートは咄嗟に聖剣を立てた。
直撃。
「ぐあっ!」
身体が弾き飛ばされた。
何度地面を転がったのか、自分でも分からなかった。
最後に岩へ肩をぶつけて止まる。
右腕に力が入らない。
肋骨も何本かやられたかもしれない。
口の中に鉄臭い味が広がった。
それでも聖剣だけは離していなかった。
「まだ……だ」
ギルバートは這うように起き上がった。
視界が揺れている。
そして、先ほど必死になって斬りつけた紅蓮竜の前脚を見た。
鱗に入ったはずの亀裂が。
消えていた。
「……は?」
竜の身体を淡い赤光が覆っている。
高位魔獣が持つ自己再生。
一年前にも当然、同じ能力はあった。
『再生を止めた。多少傷つければ、そのまま残る』
またレクスの声を思い出す。
「再生まで……」
あいつが止めていた。
防御だけではない。
力も。
速度も。
炎も。
再生も。
自分たちが「ドラゴン」と呼んで戦っていた怪物から、戦うための武器を一つずつ奪っていた。
そしてギルバートは、その残りを斬っていただけだった。
「そんな……」
声が掠れた。
一年前、自分は紅蓮竜を一撃で傷つけた。
今日は必殺技を使っても傷一つまともに残せない。
聖剣は同じ。
自分も、一年前よりむしろ強くなっている。
違うのはただ一つ。
レクスがいない。
「そんな馬鹿な……」
認めたくない。
認めれば、酒場で浴びせた言葉が全部自分へ返ってくる。
『何もしていない寄生虫』
『お前が消えた方が取り分も増える』
『そんな魔法、最初から役に立っていない』
レクスは反論しなかった。
ただ一つだけ確認した。
『俺の支援・弱体術式は全て解除するが問題ないな?』
問題ないと答えたのは、自分だ。
「俺が……」
ギルバートの喉が震えた。
「俺が、いらないって……」
最後まで言えなかった。
紅蓮竜がこちらを向いたからだ。
遊びは終わりだと言うように、巨大な顎が開く。
喉の奥で、先ほどよりも強い赤光が膨らんでいく。
岩陰までは遠い。
右腕はまともに動かない。
逃げ切れない。
高台にいた監視員の声が響いた。
「ギルバート! 逃げろ!」
今度のギルバートには、怒鳴り返す余裕さえなかった。
ただ迫りくる灼熱の光を見ながら、初めてはっきり理解した。
一年前。
自分がドラゴンを倒せたのではない。
レクスが――自分でも倒せるドラゴンに変えてくれていたのだ。




