第9話 消された資料は、消えた証拠ではありません
権限を失うと、資料は見えなくなる。
共有フォルダから消える。
検索しても出てこない。
開こうとすれば、こう表示される。
【アクセス権限がありません】
【指定された資料は存在しません】
【管理者権限により移動済み】
だが、それは事実が消えたという意味ではない。
ただ、誰かが「見えない場所」に置いただけだ。
俺、黒木司は、外部保全端末に残した資料を見ながら、胃薬の瓶を机に置いた。
ミカドギア社製防護ベスト《ガーディアン・ライトⅢ》。
試験体S。
一般販売品A。
縫合部の魔力繊維密度差。
事故後に編集された安全基準適合報告書。
内部告発資料。
そして、本庁による担当移管と資料の上位階層移動。
ここまで来ると、事故査定というより、事故査定の妨害査定である。
「黒木さん」
隣の席で御園ミミが、共有フォルダの空白画面を見つめていた。
「本当に、全部見えなくなっていますね」
「はい」
「でも、外部保全端末には残っている」
「はい」
「じゃあ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではありません」
「えっ」
ミミが不安そうにこちらを見る。
「外部保全データは保険です。証拠として使うには、保全経路、取得時刻、改ざん防止処理の正当性を説明する必要があります」
「つまり……?」
「こちらの手続きにも穴があれば、そこを突かれます」
ミミは少しだけ顔を曇らせた。
「向こうは、そういうところを狙ってくるんですね」
「はい。書類で嘘をつく相手は、書類の穴を探すのも得意です」
「嫌な相手ですね」
「企業と本庁ですから」
「黒木さん、今の言い方はかなり危険です」
「事実確認です」
「便利に使いすぎです」
その点については、反論資料が少ない。
俺は本庁から届いた照会回答を開いた。
【照会回答】
【対象資料について、削除の事実はありません】
【機密保持および担当移管に伴い、上位階層フォルダへ移動しました】
【事故査定課の閲覧権限は、担当変更により停止されています】
削除ではない。
移動しただけ。
権限がなくなっただけ。
組織では、こういう言い換えがよく使われる。
紙の上では正しい。
実務上は、資料を消されたのとほぼ同じだ。
俺は端末に追記した。
【照会論点】
【削除ではなく移動との主張】
【移動時刻:担当移管通知直後】
【事故査定課の閲覧不能化:確認済み】
【実質的な資料遮断:あり】
そこへ、真鍋課長がやって来た。
昨日よりもさらに顔が渋い。
「黒木」
「はい」
「本庁から追加で連絡だ」
「資料移動の件ですか」
「そうだ。向こうの言い分は、機密保持のための通常処理。削除ではない。担当が変わったから、お前たちには見えない。それだけだと」
「それだけ、ですか」
「それだけだそうだ」
「便利ですね」
「便利だな」
課長は椅子に腰を下ろした。
珍しく、俺の胃薬の瓶を見ても何も言わない。
「正直、内部資料だけだと厳しい」
「はい」
「本庁は権限で押してくる。ミカドギアは正式書類で押してくる。内部告発は真正性確認中。外部保全データは、お前が取ったものだから、手続きの正当性を突かれる」
「分かっています」
「どうする」
「外に残っている資料を集めます」
「外?」
「本庁にもミカドギアにも、移動できない資料です」
真鍋課長が少しだけ目を細めた。
「被害者側か」
「はい」
企業の社内資料は、企業が隠せる。
本庁の共有資料は、本庁が移動できる。
だが、被害者の家に残った購入記録。
講習時の動画。
保証登録メール。
中古市場に出た同一ロット品。
他の探索者の装着ログ。
そういうものは、組織の上位フォルダには移動できない。
「消された資料は、消えた証拠ではありません」
俺は言った。
「ただ、別の場所に同じ事実を探す必要があります」
真鍋課長は深く息を吐いた。
「お前、面倒なことを真顔で言うな」
「面倒な案件ですので」
「知ってる」
その時、ミミが小さく手を上げた。
「あの」
「どうしました」
「私、佐伯さんのお母さんに連絡してもいいですか?」
「理由は」
「この前、治療費の説明をした時に、『購入した時の書類も全部取ってあります』って言っていました。息子さんのせいにされたくないから、箱も説明書も捨てていないって」
俺はミミを見た。
ミミは少し緊張した顔で、しかし逃げる様子はなかった。
「お願いします」
「はい」
「ただし、無理に出してもらう必要はありません。本人と家族の負担が優先です」
「分かっています」
真鍋課長が俺を見る。
「御園さんの方が言い方がまともだな」
「否定材料がありません」
「そこは反論しろ」
反論できないものは、仕方がない。
佐伯真人の母親が事故査定課へ来たのは、その日の昼過ぎだった。
小さな紙袋を両手で抱えている。
中には、折り畳まれた外箱。
保証書。
購入時のレシート。
装着講習会の案内チラシ。
そして、スマートフォンに保存された講習会の動画。
「こんなものでも、役に立つんでしょうか」
佐伯の母親は、不安そうに言った。
「役に立ちます」
俺は即答した。
ミミが隣で柔らかく補足する。
「お母さんが残してくださったものは、事故当時の状況を確認する大事な資料になります」
「捨てられなかったんです」
佐伯の母親は、少し恥ずかしそうに紙袋を抱え直した。
「メーカーの方には、装着が甘かった可能性があると言われました。でも、あの子が家で何度も練習していたのを、私は見ていたので」
母親の指が、折り畳まれた外箱を撫でる。
「不器用な子なんです。だから余計に、命に関わることはちゃんとやるって、何度も鏡の前でベルトを締めていました」
その姿を知っているのは、たぶん母親だけだった。
だからこそ、この箱も、説明書も、捨てられなかったのだろう。
「あの子のせいじゃないって、いつか誰かに言いたかったんです」
ミミが、静かに息を呑んだ。
俺は紙袋を受け取る。
箱。
説明書。
レシート。
講習動画。
それは、ただの購入資料ではなかった。
母親が息子の努力を守るために残した、唯一の武器だった。
俺は資料を見る。
購入時のチラシ。
『初心者でも簡単装着』
『講習一回で正しく使える』
『縫合部強化により浅層変異種にも対応』
縫合部強化。
メーカーは昨日、縫合部の問題を装着不備に寄せていた。
だが、販売時には縫合部の強化を売りにしている。
さらに、講習会動画。
ミカドギア社の販売員が説明している。
『このモデルは縫い目の防護層が二重になっていますので、浅層の甲殻系モンスター相手なら十分耐えられます』
十分。
また出た。
俺は動画の該当箇所を切り出し、証拠化する。
【外部資料】
【提供者:佐伯真人家族】
【内容:購入時レシート、保証書、販促チラシ、装着講習動画】
【重要記載:縫合部強化/浅層変異種対応/初心者向け簡単装着】
【メーカー現見解:装着不備】
【矛盾点:販売時説明と事故後説明の不一致】
ミミが画面を見て、小さく息を吐いた。
「売る時は『初心者でも大丈夫』で、事故が起きたら『初心者の装着ミス』なんですね」
「よくある構造です」
「嫌な構造ですね」
「はい」
佐伯の母親が、震える声で言った。
「黒木さん」
「はい」
「息子は、もう探索者をやめるかもしれません。でも……せめて、あの子のせいで終わったんじゃないって、分かるようにしてあげたいんです」
俺は資料から目を上げた。
「分かりました」
「お願いします」
「支払うべき相手を間違えないために、確認します」
母親は深く頭を下げた。
その姿を、ミミがじっと見ていた。
次に来たのは、意外な人物だった。
瀬戸悠真。
銀狼の牙の死亡偽装案件で、死んだことにされた男だ。
医療支援を受け、生活再建相談へ繋がったばかりの彼は、まだ顔色が悪かった。
だが、今日は自分の足で来ていた。
「すみません。俺、来てもいいのか分からなかったんですけど」
「体調は」
「大丈夫……とは言えないです。でも、話したいことがあって」
ミミが椅子を勧める。
「無理しないでください」
「ありがとうございます」
瀬戸は座り、古い端末を取り出した。
「俺、借金で追い詰められていた頃、中古装備の買取業者とか、怪しい安売り業者とか、色々見ていたんです」
「はい」
「その時、このベストを見たことがあります。ガーディアン・ライトⅢの同じロットです」
俺は端末を見る。
そこには、中古装備掲示板のスクリーンショットが残っていた。
『GL3-17A大量入荷』
『浅層用ベスト、訳あり格安』
『メーカー回収前在庫、早い者勝ち』
日付は、事故後。
ミカドギア社が表向きには「製品不備なし」と言っていた時期だ。
「これ、どういう経路で出たんですか」
「分かりません。でも、昨日、この掲示板から商品が全部消えました」
「昨日」
「はい。黒木さんたちがミカドギアの件を調べているって、探索者界隈で話題になった後です」
ミミが眉を寄せた。
「回収したんでしょうか」
「可能性はあります」
瀬戸は続けた。
「あと、これも」
別のスクリーンショット。
業者へのメッセージ。
『GL3-17Aはメーカー都合で買取停止』
『在庫を持っている場合は指定倉庫へ返送』
『理由は安全検査ではなくブランド管理と説明すること』
ブランド管理。
また便利な言葉だ。
安全検査とは言わない。
だが、在庫を回収する。
俺は資料を保存した。
【外部資料】
【提供者:瀬戸悠真】
【内容:中古装備掲示板、同一ロットGL3-17A流通記録】
【事故後の動き:商品削除/メーカー都合の買取停止/指定倉庫返送】
【表向き理由:ブランド管理】
【査定上の論点:不具合把握後の市場回収隠蔽疑い】
瀬戸は、少し俯いた。
「俺、偉そうに協力できる立場じゃないのは分かっています。俺も保険金詐欺に関わろうとしたし」
「はい」
「でも、黒木さんに見つけてもらわなかったら、たぶん死んだことにされたままだった。だから……俺が持っている記録で役に立つなら、出したいです」
俺は瀬戸を見る。
「ありがとうございます」
瀬戸が少し驚いた顔をした。
「黒木さんも、お礼言うんですね」
「失礼ですね」
「すみません」
ミミが小さく笑った。
「黒木さんは、お礼も事実確認みたいに言います」
「御園さん」
「はい」
「それは批評ですか」
「所見です」
言い方を覚え始めている。
少し厄介だ。
夕方。
さらに別の資料が届いた。
差出人は、新宿第七ダンジョン事故の被害者の一人。
勇者レオンに巻き込まれた初心者パーティの戦士、浅井だった。
件名は、
『同じベストを使っていた人たちの証言です』
添付ファイルには、探索者コミュニティで集めた匿名証言がまとめられていた。
『GL3-17A、脇腹の縫い目がすぐほつれた』
『講習では問題ないと言われた』
『クレームを入れたら、装着不備と言われた』
『同じ箇所を魔物に引っかかれて、交換を頼んだら有償扱い』
『メーカーに問い合わせたら、使用環境の問題と返された』
証言だけでは、決定打にはならない。
だが、数が揃えば傾向になる。
傾向が現物検査と一致すれば、調査対象になる。
俺は浅井に返信した。
『資料を受領しました。無理のない範囲で、元データと投稿時刻の保存をお願いします』
数分後、返信が来た。
『了解です。前に助けてもらったので、今度はこっちが記録を残します』
ミミがその文面を見て、小さく笑った。
「黒木さん」
「何ですか」
「黒木さんが記録した人たちが、今度は記録を持ってきてくれていますね」
俺は少しだけ黙った。
俺が残したのは、証拠だった。
だが、彼らが持ってきたのは、記録にならなかった声だった。
装備を信じて怪我をした者。
自分のせいだと思い込まされていた者。
安いから仕方ないと黙っていた者。
その声が、ひとつずつ資料になっていく。
査定とは、金額を決める仕事ではない。
誰の責任だったのかを、元の場所へ戻す仕事だ。
俺は集まった資料を、ひとつずつモニターに並べた。
左上に、佐伯家の購入レシート。
右上に、装着講習動画。
中央に、事故品ベストの破損写真。
その下に、被害者三名の治療記録。
さらに横へ、中古市場のGL3-17A流通記録。
探索者コミュニティの証言。
内部告発資料。
報告書メタデータ。
ひとつひとつは、小さな資料だった。
レシート。
動画。
投稿。
スクリーンショット。
治療記録。
だが、それらを並べると、すべてが同じ場所を指していた。
GL3-17A。
右脇腹縫合部。
装着不備ではなく、構造的な弱点。
散らばっていた欠片が、ひとつの事故原因の形になっていく。
【外部補強資料一覧】
【佐伯家:購入時資料・講習動画】
【瀬戸悠真:中古市場流通記録・事故後回収疑い】
【浅井および初心者探索者コミュニティ:同一ロット不具合証言】
【被害者三名:治療記録・装着ログ・破損部位一致】
【事故査定課外部保全:内部告発資料・メタデータ・担当移管通知】
【結論:資料遮断後も外部証拠により調査継続可能】
ミミが、少しだけ目を潤ませていた。
「どうしました」
「いえ……なんか、よかったなって」
「何がですか」
「黒木さん、ちゃんと嫌われるだけじゃなかったんですね」
「そこですか」
「すみません。でも、本当に」
俺は返答に困った。
嫌われることは査定項目ではない。
好かれることも同様だ。
だが、資料を持ってきてくれる人がいることは、実務上かなり重要である。
「助かります」
俺は言った。
「誰にですか?」
「全員に」
ミミは少し驚いた後、嬉しそうに笑った。
「それ、ちゃんとしたお礼ですね」
「そうですか」
「はい。記録しておきます」
「しなくていいです」
「します」
なぜそこだけ黒木式になるのか。
その夜。
俺は本庁宛ての照会文書を作成した。
【照会先】
【ダンジョン庁本庁 装備産業調整室】
【担当:久我室長】
【照会事項】
一、ミカドギア案件資料を上位階層フォルダへ移動した日時および操作権限者
二、担当移管決定の具体的根拠
三、内部告発資料を装備産業調整室が預かることの利益相反に関する見解
四、事故後編集された安全基準適合報告書を本庁が把握していたか
五、同一ロットGL3-17Aの市場流通および回収状況に関する本庁把握資料
六、被害者側外部資料に対する本庁の取扱い方針
添付資料。
佐伯家の購入資料。
講習動画。
中古市場記録。
探索者コミュニティ証言。
被害者治療記録。
装着ログ。
外部保全データ。
資料消失記録。
本庁回答記録。
そして最後に、一文。
『権限を失ったことと、事実が消えたことは別です』
送信前に、真鍋課長がやって来た。
「黒木」
「はい」
「それを送るのか」
「はい」
「かなり強いぞ」
「事実確認です」
「本庁は怒る」
「怒鳴り声は記録しやすいです」
「怒鳴らない連中だから面倒なんだよ」
「その場合も記録します」
真鍋課長は天井を見た。
「お前を止めるのは、たぶん無理だな」
「止める理由があれば検討します」
「理由は山ほどある」
「被害者三名の傷より優先される理由ですか」
課長は黙った。
そして、深く息を吐く。
「送れ」
「はい」
「ただし、事故査定課名義じゃなく、俺の確認済みで出せ」
俺は少しだけ手を止めた。
「よろしいのですか」
「よくない」
課長は苦々しく言った。
「よくないが、ここで逃げたら、俺まで後で胃が痛くなる」
「胃薬を共有しますか」
「いらん」
ミミが小さく笑う。
真鍋課長は俺の端末を見て、最後の添付資料を確認した。
「……行け」
俺は送信ボタンを押した。
【照会文書送信完了】
数秒後。
既読。
早い。
「待ち構えていましたね」
ミミが画面を見る。
「そんなに早いものなんですか?」
「通常の照会文書なら、ここまで早くありません」
「じゃあ……」
「監視対象のメールは、優先度が高いようです」
さらに数分後、本庁から返信が来た。
差出人は、久我室長本人。
本文は短かった。
『明朝九時。本庁にて説明する。黒木査定官、御園補助員、真鍋課長の三名で来るように』
ミミが画面を見て、息を呑む。
「説明……」
「はい」
「怖いですね」
「胃が痛いです」
「私も少し胃が痛いです」
「それはよくありません」
「黒木さんのせいでは?」
「因果関係を確認します」
「しなくていいです」
真鍋課長が頭を抱えた。
「明日は修羅場だな」
「はい」
俺は端末を閉じた。
消された資料は、消えた証拠ではない。
見えない場所に移された事実は、別の場所に痕跡を残す。
組織が上から隠すなら、こちらは外から集める。
事故査定課の権限が届かない場所にも、被害者のレシートは残る。
講習動画は残る。
中古市場の記録は残る。
助けた人たちの声は残る。
そして、それらを資料にすれば。
もう、見えない場所へ移すことはできない。
支払うべき相手を間違えるな。
それが査定の第一原則だ。
明日、その原則を。
本庁の会議室で、もう一度確認する。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第9話は、消された資料を外側から補強する回でした。
本庁の権限で資料が見えなくされても、被害者の手元、購入記録、講習動画、中古市場、探索者コミュニティには、別の形で事実が残っていました。
これまで黒木が関わった人たちが、今度は証拠を持って戻ってくる。
少しずつ、査定課だけの戦いではなくなってきました。
次回は、本庁での説明回です。
企業だけでなく、庁内の誰が何を守ろうとしていたのか。
黒木が、どこへ請求書を向けるのか。
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