第56話 その事故は、過失とは確定していません
【事故査定課 白浜原ログ照合結果】
【累積所見:集約中】
【過失評価:再確認】
【標準様式処理:支払済み】
白浜事故の画面が、再び一枚に戻った。
原ログ。
標準様式。
帰還石反応履歴。
退避指示送受信ログ。
第三層滞留ログ。
現場確認記録。
担当者閲覧画面。
補助評価語生成履歴。
ばらばらに開かれていた記録が、事故査定課の照合画面に集約されている。
これまで、標準様式は一つの結論を出していた。
【白浜臨時訓練場事故 標準様式記録】
【事故分類:退避判断遅延】
【退避指示:あり】
【退避完了:遅延】
【帰還石使用:なし】
【第三層滞留:あり】
【補助評価語:無謀行動あり】
【支払判定用要約:退避判断遅延および帰還石未使用による過失あり】
綺麗に閉じた記録だった。
指示はあった。
帰還石は使わなかった。
第三層に残った。
退避は遅れた。
無謀行動あり。
だから、過失あり。
短く、処理しやすい。
そして、間違えるには十分だった。
相沢が、累積所見を表示した。
【事故査定課 白浜原ログ照合結果】
【一、事故分類:退避手段不全疑い】
【二、帰還石:退避不成立可能性】
【三、退避指示:到達未確認】
【四、第三層滞留:退避手段の回復待ち状態であった可能性】
【五、通信死角:現場確認により検出】
【六、補助評価語「無謀行動あり」:生成根拠再確認】
真鍋課長が、画面を見た。
胃薬の瓶は、机の右端にある。
だが、手は伸びていない。
「並ぶと、なかなかだな」
『なかなかです』
相沢が答えた。
「褒めてない」
『分かっています』
御園さんは、累積所見の四行目を見ていた。
【第三層滞留:退避手段の回復待ち状態であった可能性】
彼女が現場で見た、黒い岩壁。
床の微弱な魔力残滓。
南側連絡路の乱流痕。
通信の届かない場所。
それらは、画面の中では折りたたまれていた。
現場では、折りたためなかった。
画面上部に、本庁回線が開く。
【教育訓練支援室 監理官室】
【上席監理官 久我:接続中】
久我は、白浜原ログ照合結果を読んでいた。
前話までよりも、少しだけ資料の枚数が増えている。
彼は逃げない。
この段階でも、ひとつずつ線を引いてくる。
『確認します』
「お願いします」
『退避手段不全疑いは、事故分類の再照合理由として妥当です』
「はい」
『帰還石退避不成立可能性は、帰還石本体の不具合確定ではありません』
「はい」
『退避指示到達未確認は、指示が届いていなかったことの証明ではありません』
「はい」
『第三層滞留についても、退避手段の回復待ち状態であったと断定するものではない』
「はい」
『通信死角は、現場確認時点の測定結果であり、事故時点の通信不全を直接証明するものではありません』
「はい」
『補助評価語の生成根拠再確認も、担当者判断の不成立を直ちに意味しません』
「はい」
久我の言葉は、ひとつも間違っていない。
どれも可能性だ。
どれも未確認だ。
どれも、過失なしを証明するものではない。
事実を過大評価しない。
その冷徹さにおいて、久我は俺たちと同じ側の人間だった。
だから、俺は頷いた。
「その通りです」
真鍋課長が、少しだけ顔を上げた。
御園さんも、こちらを見る。
相沢は黙っている。
久我は、画面の向こうで続けた。
『では、これらの所見で何を変更しますか』
「過失評価です」
『過失なしにするのですか』
「いいえ」
俺は、標準様式の最後の一行を指した。
【支払判定用要約:退避判断遅延および帰還石未使用による過失あり】
「この一行を、確定として扱えなくします」
久我の視線が、わずかに下がった。
『過失なし、ではなく、過失未確定ですね』
「はい」
俺は答えた。
「未確定です」
御園さんが、小さく息を吐いた。
それは安堵ではなかった。
ようやく言葉が正しい位置に戻った、という息だった。
過失なし。
それはまだ言えない。
本人の判断に問題がなかったかどうか。
別経路を探せなかったか。
別の行動を取れなかったか。
そのすべては、まだ確定していない。
だが、過失あり。
それもまた、言えない。
退避指示が届いたか分からない。
帰還石による退避が成立しなかった可能性がある。
第三層に残った理由が未確認。
通信死角が現場で検出された。
無謀行動という評価語の生成根拠は崩れている。
これでなお、過失ありと閉じることはできない。
相沢が、支払判定用要約の分解画面を出した。
【支払判定用要約 構成要素】
【退避判断遅延】
【帰還石未使用】
【無謀行動あり】
【過失あり】
↓
【再照合後】
【退避判断遅延:未確定】
【帰還石未使用:退避不成立可能性あり】
【無謀行動あり:生成根拠再確認】
【過失あり:確定不可】
真鍋課長が、短く言った。
「確定不可か」
『はい』
相沢が答える。
『過失なしではありません』
「分かってる」
『過失ありとして閉じる条件を満たしていません』
「そっちが大事だな」
「はい」
俺は言った。
「過失ありとして閉じる条件を満たしていません」
久我が、静かに口を開いた。
『支払済み処理はどう扱いますか』
「取り消しません」
真鍋課長の目が、こちらへ動く。
久我は黙っている。
「支払済み処理の成立確認を継続します」
『つまり、支払判断そのものを直ちに反転させるのではない』
「はい」
『過失評価の確定状態を解除し、再査定対象に戻す』
「その整理です」
久我は、しばらく画面を見た。
『妥当です』
その一言は、軽くなかった。
久我が認めたのは、黒木側の勝利ではない。
白浜事故の記録が、標準様式だけでは閉じられないという事実だ。
俺は、再査定所見欄を開いた。
【事故査定課 再査定所見】
【対象:白浜臨時訓練場事故】
【標準様式上、当該事故は「退避判断遅延」「帰還石使用なし」「第三層滞留」「無謀行動あり」を根拠として、過失ありと処理されている】
【しかし、原ログおよび現場確認により、退避手段不全疑い、帰還石退避不成立可能性、退避指示到達未確認、第三層滞留理由未確認、通信死角、補助評価語生成根拠の再確認事項が確認された】
【上記により、当事者の退避判断遅延、帰還石未使用および無謀行動を過失として確定する根拠は不足】
【白浜臨時訓練場事故の過失評価を未確定とし、再査定対象とする】
【支払済み処理については、成立確認を継続する】
御園さんが、その所見を読んだ。
「これで、戻るんですね」
「はい」
「事故として」
「査定対象としてです」
御園さんは頷いた。
「閉じられたままではなく」
「はい」
「もう一度、見てもらえる」
「そうです」
真鍋課長が、所見を読んでいた。
「この書き方なら、過剰に踏み込んでないな」
「はい」
「逃げてもいない」
「はい」
「胃には悪い」
「はい」
「そこは否定しろ」
「否定できません」
相沢が、隣で小さく画面を更新した。
【再査定所見 語句確認】
【過失なし:使用なし】
【過失未確定:使用】
【支払取消:使用なし】
【成立確認継続:使用】
真鍋課長が、それを見て低く言った。
「念押しがうるさい」
『誤読防止です』
「必要だ」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『分かっています』
久我が、最終確認欄を見ていた。
『監理官室として、一点だけ確認します』
「はい」
『過失未確定とする場合、既存の標準様式テンプレートでは処理状態を保持できません』
「どういう意味ですか」
『標準様式上、過失評価は、過失あり、過失なし、調査中の三択です』
相沢がすぐに画面を出した。
【標準様式 過失評価ステータス】
【選択肢一:過失あり】
【選択肢二:過失なし】
【選択肢三:調査中】
【選択肢外:未確定】
【登録可否:不可】
真鍋課長が、顔をしかめた。
「未確定がないのか」
『ありません』
相沢が答えた。
「調査中では駄目なのか」
久我が答える。
『調査中は、初回処理未了案件に使用する区分です。支払済み処理後の再査定には適用しにくい』
「便利なようで、不便だな」
『標準処理です』
久我の返答は静かだった。
だが、そこに軽い皮肉はない。
標準処理は、処理を速くする。
しかし、戻るための場所を用意していない。
過失あり。
過失なし。
調査中。
その三つの箱のどこにも、今回の白浜事故は入らない。
俺は言った。
「暫定区分を作ります」
久我が、画面の向こうでこちらを見た。
『標準様式外区分ですか』
「はい」
『監理官室承認が必要になります』
「申請します」
『理由は』
「支払済み処理後の原ログ照合により、既存の過失評価を維持できないため」
久我は、少しだけ黙った。
『正確です』
相沢が、新しい区分案を表示した。
【標準様式外 暫定区分案】
【区分名:過失未確定】
【適用条件:支払済み処理後、原ログまたは現場確認により過失評価の成立根拠に未確認事項が確認された場合】
【処理効果:既存過失評価の確定状態を解除】
【支払済み処理:成立確認継続】
【再査定:開始】
真鍋課長が、画面を見て言った。
「標準様式にない区分を作るのか」
「一時的にです」
「通るか」
「通します」
「誰が」
「課長が」
「胃に来る話を、当たり前みたいに振るな」
「課長案件です」
「便利な言葉にするな」
真鍋課長は、胃薬の瓶に手を伸ばした。
開けた。
一粒出した。
見た。
飲まずに、机の上に置いた。
「出せ」
それで十分だった。
俺は、確定画面へ進んだ。
【白浜臨時訓練場事故:ステータス更新】
【過失評価:確定】 → 【過失評価:未確定】
【評価内容:過失あり】 → 【評価内容:再査定対象】
【支払済み処理】 → 【成立確認継続】
【標準様式外暫定区分】 → 【過失未確定(監理官室承認申請中)】
画面が変わった。
その瞬間、白浜事故は初めて、過失ありという箱から外れた。
過失なしになったわけではない。
救済されたわけでもない。
誰かの責任が消えたわけでもない。
ただ、誤った確定が外れた。
それだけだ。
だが、査定では、その「だけ」が重い。
御園さんが、画面を見つめていた。
「未確定」
「はい」
「やっと、分からないと言えたんですね」
「はい」
「分からないことを、分からないままにした」
「それが査定です」
御園さんは、少しだけ笑った。
悲しい笑いではない。
疲れた笑いでもない。
ようやく、記録が現場の複雑さに追いついたような顔だった。
久我が、画面越しに言った。
『監理官室として、暫定区分申請を受理します』
真鍋課長が、低く言った。
「受理するのか」
『表現が正確であり、根拠資料が揃っています』
「厄介だな」
『はい』
久我は、淡々と答えた。
『非常に厄介です』
その声には、こちらへの敵意はなかった。
だからといって味方でもない。
正確なものを、正確なものとして受理する。
久我は、そういう男だった。
相沢が、次の参照資料一覧を表示した。
【白浜事故 未提出・未照合資料】
【訓練設計ログ:未提出】
【通信結晶配置設計書:一部欠落】
【第三層安全基準適合表:本庁承認済】
【地形補正データ:設計時点版未提出】
【教育訓練支援室承認ログ:開示保留】
真鍋課長が、机の上に置いた胃薬を見た。
「まだあるのか」
『あります』
相沢が答えた。
「言い方」
『未提出です』
「もっと悪い」
御園さんが、一覧を見て言った。
「事故後の処理ではなく、事故前の設計ですね」
「はい」
俺は答えた。
「次は、そこです」
久我は、画面越しにその一覧を見ていた。
『訓練設計ログは、教育訓練支援室の管轄資料です』
「承知しています」
『事故査定課の通常参照範囲ではありません』
「事故原因に関わるなら、参照します」
『開示には、本庁承認が必要です』
「申請します」
『承認されるとは限りません』
「承認されない理由も、記録します」
久我は、わずかに目を伏せた。
短い沈黙。
それから、静かに言った。
『申請してください』
真鍋課長が、久我を見た。
「止めないのか」
『止める理由が、今のところありません』
「今のところ、か」
『はい』
久我の声は、変わらない。
『今のところです』
相沢が、申請画面を開いた。
【訓練設計ログ 開示申請】
【対象:白浜臨時訓練場第三層】
【目的:事故発生前の退避経路、通信結晶配置、安全基準適合および階層環境リスク評価の確認】
【申請部署:事故査定課】
【関連案件:白浜臨時訓練場事故】
【過失評価:未確定】
俺は、申請理由欄にカーソルを置いた。
白浜事故は、過失ありとして閉じられた。
だが、原ログは閉じていなかった。
現場も閉じていなかった。
画面の評価語も、閉じるには早すぎた。
そして今、事故は事故前へ戻ろうとしている。
なぜ、通信が届かない位置が通信良好とされたのか。
なぜ、退避経路が乱れる場所を訓練場としたのか。
なぜ、危険が設計に入っていながら、事故後には当事者の過失として処理されたのか。
俺は、申請理由を入力した。
【申請理由】
【白浜臨時訓練場事故について、過失評価は未確定となった】
【事故後処理だけでは、退避手段不全、通信死角および現場条件不一致の発生理由を確認できない】
【事故発生前の訓練設計、通信結晶配置および安全基準承認過程の照合を要する】
入力欄の最後で、指が止まった。
危険を設計すること自体は、悪ではない。
訓練には、危険がある。
実戦対応力を育てるなら、管理された危険は必要になる。
だが、その危険が事故になったとき、誰の過失として処理したのか。
そこは、別の話だ。
俺は、申請を送信した。
【訓練設計ログ 開示申請】
【状態:送信済み】
【承認待ち】
画面の奥で、白浜事故の新しい状態が光っている。
【過失評価:未確定】
【再査定対象】
次に査定するのは、事故後の標準様式ではない。
事故の前に、危険がどう設計されていたかだ。




