第57話 通信良好とされた場所
【訓練設計ログ 開示申請】
【状態:一部承認】
【開示範囲:通信結晶配置設計書、第三層通信シミュレーション、地形補正データ一部】
【未開示範囲:訓練効果設定、退避経路選定理由、教育訓練支援室内部評価】
俺は、画面を一度だけ下までスクロールした。
開示された資料より、開示されていない欄の方が目についた。
一部承認。
便利な言葉だ。
全部は見せない。
だが、何も見せていないわけではない。
開示した形は残る。
開示していない部分も残る。
だから、一部承認という言葉は、書類の上ではとても扱いやすい。
現場では、扱いにくい。
「一部って、どこまでだ」
真鍋課長が、事故査定課の端末を見ながら言った。
机の上には、いつもの胃薬がある。
今日はまだ蓋が開いていない。
課内端末のスピーカーから、相沢の声が返ってきた。
『通信結晶配置設計書、第三層通信シミュレーション、地形補正データ一部です』
「一部が多いな」
『未開示も多いです』
「そこは言わなくていい」
『事実です』
「胃に悪い事実だ」
御園さんが、開示範囲を見ていた。
「通信に関する資料だけは、出たんですね」
「はい」
俺は頷いた。
「向こうも、通信死角だけなら事故原因の一部にすぎないと見ているんでしょう」
「一部、ですか」
「はい」
事故は、ひとつの原因で起きるとは限らない。
通信が届かなかった。
退避経路が乱れていた。
帰還石の反応が不安定だった。
指示が届いたか分からない。
当事者は第三層に残った。
標準様式は、それらを短く畳んだ。
【退避判断遅延】
【帰還石使用なし】
【第三層滞留】
【無謀行動あり】
畳むこと自体は、悪ではない。
査定には要約が必要だ。
だが、畳んだあとに、折り目を消してはいけない。
相沢が、課内端末に現場照合用の画面を開いた。
【白浜臨時訓練場】
【第三層北東訓練区画】
【設計時点通信データ照合】
【照合対象:通信結晶配置設計書】
【比較対象:現場測定ログ】
御園さんが、小さく息を吸った。
白浜の第三層。
彼女が見た場所だ。
通信が届かず、床に魔力残滓が残り、南側連絡路の乱流痕があった場所。
画面の中では、それが線と数値に変わる。
だが、現場で感じた沈黙は、数値より先に残っていた。
「現地に行くんですか」
御園さんが尋ねた。
「行きます」
真鍋課長が、こちらを見た。
「今からか」
「はい」
「申請したばかりだぞ」
「一部承認が出ました」
「そういう時だけ処理が速いな」
相沢の声が、課内端末から続いた。
『現地照合予約を取得済みです』
真鍋課長が、胃薬を見た。
「いつの間に」
『一部承認通知の十七秒後です』
「仕事が速いのは助かるが、胃が追いつかない」
『胃については管轄外です』
「分かってる」
それでも課長は、立ち上がった。
蓋は、まだ開けなかった。
三十分後。
白浜臨時訓練場へ向かう車内で、スピーカーモードにした現場端末から相沢の声が流れていた。
『現地照合用端末との同期を完了。訓練場外縁までは接続安定です』
現場に向かうのは、俺と真鍋課長、御園さん。
相沢の役目は、現地同行ではない。
事故査定課側の端末から、設計時点データと俺たちの現場測定ログを重ねることだった。
「外縁までは、か」
真鍋課長が言った。
『第三層内部の通信状態は、現地測定後に判定します』
「そこを見に行くんだったな」
『はい』
「分かってる。分かってるが、言い方がもう胃に悪い」
『胃については管轄外です』
「知ってる」
白浜臨時訓練場の第三層は、前に来たときと同じように静かだった。
静かすぎる場所は、記録よりも先に嘘をつく。
事故のあとだから静かなのか。
もともと、そういう場所だったのか。
それを分けるために、ログがある。
【白浜臨時訓練場 第三層】
【北東訓練区画】
【現場測定開始】
御園さんが持つ現場端末が、周囲の通信反応を拾い始めた。
『現場端末から通信反応を取得しています』
【通信結晶A:反応あり】
【通信結晶B:反応あり】
【通信結晶C:反応不安定】
【中継反応:断続】
御園さんが、壁際の黒い岩肌を見た。
「ここです」
「前に、通信が落ちた場所ですね」
「はい。南側連絡路へ抜ける手前で、端末が沈みました」
沈む。
御園さんは、そう表現した。
通信が切れた、ではない。
沈んだ。
現場にいた者の言葉だった。
事故査定課側で、相沢が設計時点の通信結晶配置図を現場地形に重ねた。
御園さんの端末画面に、配置図が表示される。
【通信結晶配置設計書】
【設計時点配置:第三層北東区画】
【標準通信範囲:全域良好】
【退避指示到達率:標準範囲内】
画面には、綺麗な円が並んだ。
通信結晶を中心にした範囲が、淡い青で塗られている。
第三層北東区画は、その青の中に入っていた。
書類の上では、ここは通信良好だった。
相沢が、現場測定の結果を重ねる。
【現場測定ログ】
【第三層北東区画】
【通信結晶A:到達】
【通信結晶B:到達】
【通信結晶C:断続】
【南側連絡路前:通信減衰】
【壁面乱流帯:通信断絶】
青い範囲の中に、黒い穴が浮いた。
小さい。
地図全体で見れば、わずかな欠けだった。
だが、そこに立つ人間にとっては、十分すぎる穴だった。
「ここだけ、抜けてるな」
真鍋課長が言った。
「はい」
俺は、地図上の黒い穴を見た。
「問題は、この抜けが事故後に発生したものか、設計時点からあったものかです」
『設計時点通信シミュレーションを重ねます』
相沢が、事故査定課側で画面を操作した。
現場端末の表示が切り替わる。
【設計時点通信シミュレーション】
【参照地形:設計時点版】
【第三層北東区画:通信評価】
【出力:良好】
良好。
短く、便利な言葉だ。
御園さんが、画面を見つめる。
「設計時点では、良好になっています」
「はい」
相沢が、さらに下層の計算結果を開いた。
【通信評価 詳細】
【地点別反応値】
【北東区画入口:八十二】
【中央通路:七十六】
【南側連絡路前:二十一】
【壁面乱流帯:九】
【区画平均値:六十三】
【標準出力:良好】
真鍋課長が、数値を見たまま止まった。
「待て」
『待機します』
「いや、そういう意味じゃない」
課長が、南側連絡路前の数値を指した。
「二十一って、良好なのか」
『地点単独では不良です』
「壁面乱流帯の九は」
『通信断絶相当です』
「なのに、区画平均で良好か」
『はい』
相沢の声は変わらない。
『平均化処理により、区画全体の標準出力は良好です』
御園さんが、ぽつりと言った。
「……悪い場所が、消えたんですね」
「消えたのではありません」
俺は言った。
「平均処理の底に沈みました」
南側連絡路前、二十一。
壁面乱流帯、九。
人が立てば通信が死ぬ場所でも、区画全体で均せば良好になる。
「良好だったのは、現場ではありません。区画の平均です」
画面には、数値が残っている。
南側連絡路前、二十一。
壁面乱流帯、九。
通信が届かない場所は、設計時点からそこにあった。
ただ、区画全体の平均値に混ぜられた。
平均は便利だ。
現場の穴を、小さく見せる。
人が立つ場所ではなく、区画という箱で見る。
箱の中に穴があっても、箱全体が良好なら良好になる。
だが、事故は箱全体で起きない。
人が立った一点で起きる。
御園さんが、現場端末を持って南側連絡路前に立った。
画面が揺れる。
【通信反応:不安定】
【退避指示受信テスト:遅延】
【音声伝達:欠落】
御園さんは、端末を見たまま言った。
「ここで指示を待っていたら、どうなりますか」
『指示の一部が欠落する可能性があります』
相沢が答える。
「ここで帰還石の反応を待っていたら」
『外部確認に遅延が出る可能性があります』
「ここから動かずにいたら」
『第三層滞留として記録されます』
御園さんの指が、端末の縁を少し強く握った。
責めるためではない。
確認するためだ。
ここで起きたことを、画面の言葉に戻すために。
真鍋課長が、低い声で言った。
「設計時点で、この穴は見えていたんだな」
『詳細値には存在します』
「でも、提出された資料では」
『通信良好です』
「便利だな」
『標準処理です』
「もっと便利だ」
課長の声には、怒りよりも疲れが混じっていた。
標準処理。
平均化。
良好。
どれも間違いではない。
だから厄介だ。
俺は、御園さんの端末に表示された設計時点版の地形データを見た。
【地形補正データ】
【参照版:設計時点版】
【南側連絡路前:補正あり】
【壁面乱流帯:補正対象外】
補正対象外。
また、便利な言葉が出てきた。
「相沢」
『はい』
「壁面乱流帯が補正対象外になっている理由は」
『該当欄は未開示です』
「通信評価には影響しているか」
『影響しています』
「でも、補正対象外」
『はい』
真鍋課長が、とうとう胃薬の瓶を取り出した。
蓋を開けた。
一粒出した。
見た。
飲まなかった。
「まだ飲まないんですか」
御園さんが、小さく尋ねた。
「今飲むと、負けた気がする」
「何にですか」
「標準処理にだ」
相沢が、事故査定課側で画面を更新した。
現場端末にも、同じ照合結果が表示される。
【通信評価 再照合】
【標準出力:通信良好】
【地点別評価:南側連絡路前 通信不良】
【地点別評価:壁面乱流帯 通信断絶相当】
【平均化処理:適用】
【事故地点反映:未確認】
事故地点反映、未確認。
俺は、その行を見た。
設計時点の通信シミュレーションには、死角があった。
しかし、標準出力では良好になった。
事故後の標準様式では、退避判断遅延になった。
ここで通信が届かなかった可能性は、畳まれた。
見えないものにされた。
「黒木さん」
御園さんが言った。
「これで、通信が届かなかったと証明できますか」
「できません」
俺は答えた。
御園さんは、頷いた。
もう、その答えに傷つく顔ではなかった。
正確な答えを待っている顔だった。
「事故時点で、必ず通信が届かなかったとは言えません」
「はい」
「ですが、設計時点で通信が不安定な場所が存在し、それが標準出力では良好として扱われていたことは確認できます」
御園さんは、もう一度頷いた。
「分からないことが、少し狭くなったんですね」
「はい」
査定は、分からないものを一気に正解へ変える作業ではない。
分からない範囲を狭める。
言えることと言えないことを分ける。
その積み重ねで、嘘が逃げられる場所を減らす。
相沢が、事故査定課側で照合結果を作成した。
【事故査定課 現場照合所見】
【対象:白浜臨時訓練場第三層北東区画】
【確認事項一:設計時点通信シミュレーション詳細値において、南側連絡路前および壁面乱流帯に通信不良相当地点あり】
【確認事項二:区画平均値により、標準出力は通信良好】
【確認事項三:事故地点周辺の地点別不良値が、支払判定用要約に反映された形跡なし】
【確認事項四:事故時点の通信不全は未確定】
【所見:通信良好判定の根拠再確認を要する】
真鍋課長が、現場端末の画面を見た。
「踏み込みすぎてないな」
「はい」
「逃げてもいない」
「はい」
「胃には悪い」
「はい」
「そこは一回くらい否定してくれ」
「否定できません」
相沢が、最後の更新欄を表示した。
【白浜臨時訓練場事故:通信評価再照合】
【標準記録:通信良好】
↓
【地点別評価:通信不良地点あり】
【通信死角:設計時点より存在】
【通信良好判定:平均化処理により出力】
画面の中で、良好という言葉の下に、初めて穴が開いた。
大きな穴ではない。
だが、人が立てば落ちる穴だ。
その穴の上に、標準様式は良好という板を置いていた。
御園さんが、南側連絡路の奥を見た。
「ここに立っていたら、助けを待ちます」
誰も、すぐには答えなかった。
「指示が届かないなら、動いていいのか分からない。帰還石が揺れていたら、使っていいのか分からない。道が乱れていたら、どちらへ逃げていいのか分からない」
彼女は、端末を下ろした。
「それでも画面では、滞留になるんですね」
「はい」
俺は答えた。
「第三層滞留になります」
「通信が沈んでいても」
「はい」
「良好だったことになるから」
「標準出力では、良好です」
御園さんは、静かに目を伏せた。
怒りではない。
それは、現場で見たものが、ようやく画面の中で形を持ったときの沈黙だった。
真鍋課長が、胃薬を携帯ケースに戻した。
「戻るぞ」
「はい」
「次は、通信が悪かったかどうかじゃないな」
「はい」
俺は、現場端末の設計時点ログを閉じた。
「悪い場所を、なぜ良好として提出できたのかです」
事故査定課に戻ると、本庁回線に通知が入っていた。
【教育訓練支援室】
【通信評価照会への回答】
【回答者:上席訓練設計官 鷹宮怜司】
真鍋課長が、名前を見たまま黙った。
いつもの軽口が、すぐには出てこなかった。
「……鷹宮怜司か」
「ご存じですか」
「あの部署で、訓練設計の切れ者扱いされてる男だ」
課長は、画面から目を離さなかった。
「安全基準を、盾じゃなく刃物みたいに使う」
相沢が、回答文を開いた。
【回答】
【第三層北東区画の通信評価について、標準出力は適正に算出されている】
【訓練区域内に一時的な通信減衰地点が存在することは、探索者訓練上、直ちに設計瑕疵を意味しない】
【実戦環境において、通信不安定、退避経路不明瞭、指示遅延は想定される負荷である】
【当該訓練設計は、本庁承認済みの安全基準に適合している】
御園さんの表情が、少し硬くなった。
真鍋課長が、低く言った。
「出たな」
『出ました』
相沢が答えた。
「言い方」
『上席訓練設計官です』
「もっと悪い」
俺は、回答文の一行を見ていた。
【通信不安定、退避経路不明瞭、指示遅延は想定される負荷である】
通信不安定。
退避経路不明瞭。
指示遅延。
その言葉は、事故後の標準様式には残っていなかった。
残っていたのは、退避判断遅延。
帰還石使用なし。
第三層滞留。
無謀行動あり。
設計側の負荷は、事故後の画面から消えていた。
そして今、設計官本人が、それを負荷と呼んだ。
俺は、回答文を保存した。
【教育訓練支援室回答:保存】
【回答者:鷹宮怜司】
【記録対象:白浜臨時訓練場事故】
相沢が、次の照合項目を表示する。
【次回照合対象】
【第三層安全基準適合表】
【本庁承認済】
【現場形状補正:確認待ち】
真鍋課長が、今度こそ胃薬の瓶を開けた。
一粒出した。
見た。
そして、机の上に置いた。
「まだ飲まないんですか」
御園さんが言った。
「まだ通信の話だ」
課長は、画面を見たまま答えた。
「安全基準が出てから飲む」
俺は、鷹宮怜司の回答文をもう一度見た。
危険な訓練はある。
必要な負荷もある。
通信が不安定な状況を経験させること自体は、否定できない。
だが、その負荷が事故になったとき。
それを設計した側の言葉が消え、受けた側の過失だけが残るなら。
それは、査定する必要がある。
【標準記録:通信良好】
↓
【通信死角:設計時点より存在】
【通信良好判定:平均化処理により出力】
良好とされた場所には、最初から届かない点があった。
次に見るのは、その届かない点を含んだまま、なぜ安全基準に適合したのかだ。




