第51話 帰還石は、使わなかったのではありません
【帰還石反応履歴 詳細照合】
【起動要求ログ:取得完了】
【座標補正ログ:取得完了】
【標準様式変換ログ:取得完了】
帰還石のログが開いた。
標準様式では、短い一行だった。
【帰還石使用:なし】
それだけだ。
その一行は、強い。
帰還石を使わなかった。
退避できる手段があったのに、使わなかった。
だから、退避判断に問題があった。
そう読める。
だから白浜事故は、過失ありに寄った。
だが、原ログは一行では終わらなかった。
相沢が、帰還石本体の反応履歴を表示する。
【帰還石反応履歴】
【所持者認証:成功】
【起動要求:あり】
【起動要求回数:二回】
【第一起動要求:受理】
【魔力同期:不成立】
【転移座標補正:失敗】
【起動完了:なし】
【第二起動要求:受理】
【魔力同期:不安定】
【転移座標補正:失敗】
【使用完了ログ:なし】
御園さんが、画面を見たまま眉を寄せた。
「これ、使おうとしていませんか」
「はい」
俺は答えた。
「少なくとも、起動要求はあります」
真鍋課長が、胃薬の瓶をまだ開けずに言った。
「標準様式では、使用なしだったな」
『はい』
相沢が、標準様式側を横に並べる。
【原ログ】
【起動要求:二回】
【魔力同期:不成立/不安定】
【転移座標補正:失敗】
【使用完了ログ:なし】
↓
【標準様式】
【帰還石使用:なし】
並べると、嫌な形になる。
起動しようとした痕跡。
起動できなかった可能性。
転移座標を補正できなかった記録。
それらがすべて落ちて、最後に残ったのは「使用なし」だった。
使わなかった。
その言葉だけが、残っている。
画面上部に、本庁回線の接続表示が出た。
【教育訓練支援室 監理官室】
【上席監理官 久我:接続中】
久我は、帰還石ログを読んでいた。
表情は変わらない。
ただ、前回から続けていたらしい電子書類の注記欄に、万年筆の影が重なっている。
『起動要求があったことは確認できます』
久我は、静かに言った。
『ただし、使用不能だったとはまだ言えません』
「はい」
『魔力同期が不安定でも、再試行によって起動できる場合があります』
「あります」
『転移座標補正の失敗も、帰還石本体の故障とは限らない。周辺環境、所持者の魔力状態、階層境界の揺らぎなど、複数の要因が考えられます』
「その通りです」
久我の指摘は正しい。
起動要求があった。
だから使用不能だった。
そこまでは言えない。
帰還石が完全に壊れていたのか。
ダンジョン側の環境が悪かったのか。
所持者の魔力状態に問題があったのか。
階層境界の揺らぎが一時的に補正を妨げたのか。
まだ、確定できない。
だが、確定できないのは、こちらだけではない。
「だから、使用なしとも確定できません」
久我の視線が、一度だけ帰還石ログに戻った。
沈黙は短い。
だが、万年筆の先が電子書類の欄外で止まった。
『……その整理なら、成立します』
相沢が、すぐに補助表を出した。
【帰還石使用判定】
【標準様式判定:使用なし】
【原ログ確認:起動要求あり】
【起動完了:なし】
【使用不能判定:未確定】
【使用意思なし判定:未確定】
【判定:使用なし確定不可】
真鍋課長が、低く言った。
「いい表だな」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『分かっています』
「なら言うな」
御園さんが、帰還石ログの時刻欄を指した。
「この二回目の起動要求、バイタルが急変した直後ですか」
相沢が、バイタルログを重ねる。
【治癒師到着前バイタル】
【呼吸数:上昇】
【心拍:急上昇】
【魔力循環:乱れ】
【第二起動要求:同時刻帯】
御園さんの声が、少し低くなる。
「呼吸が乱れて、魔力循環も乱れている。そこで帰還石を起動しようとした」
「はい」
「それを、使用なし」
御園さんは、それ以上言わなかった。
感情として言えば、いくらでも言える。
だが、彼女は治癒師として見る。
呼吸。
心拍。
魔力循環。
起動要求。
その重なりは、少なくとも「何もしていなかった」とは違う。
俺は、相沢に言った。
「標準様式変換ログを出してください」
『出します』
相沢が、帰還石ログの変換履歴を展開した。
【標準様式変換ログ】
【入力項目:帰還石使用完了ログ】
【値:なし】
【入力項目:帰還石起動要求ログ】
【値:参照対象外】
【入力項目:座標補正失敗ログ】
【値:参照対象外】
【入力項目:魔力同期不安定ログ】
【値:参照対象外】
【標準様式出力:帰還石使用なし】
会議室の空気が、そこで一段冷えた。
起動要求は、あった。
座標補正失敗も、あった。
魔力同期不安定も、あった。
だが、標準様式が見ていたのは、使用完了ログだけだった。
完了していない。
だから、使用なし。
そこに至るまでの失敗は、参照対象外。
真鍋課長が、短く言った。
「乱暴だな」
『はい』
相沢は即答した。
『完了ログしか見ていません』
「起動要求は」
『見ていません』
「失敗ログは」
『見ていません』
「それで使用なし」
『はい』
相沢は、もう一段深いログを開いた。
【内部変換詳細】
【起動要求失敗:記録あり】
【終了理由:座標補正失敗】
【標準様式変換:未完了】
【支払判定用補助変換:操作キャンセル相当】
【最終出力:帰還石使用なし】
御園さんが、静かに息を止めた。
「操作キャンセル相当」
その言葉は軽い。
軽すぎる。
命をかけて帰ろうとして、帰還石が応じなかったかもしれない。
その記録が、支払判定用の補助変換では「操作キャンセル相当」になっている。
本人がやめたように見える。
使わなかったように見える。
帰る手段を放棄したように見える。
相沢が、さらに詳細を表示する。
【補助変換ルール】
【使用完了ログなし】
【かつ、標準様式上の起動成功記録なし】
【かつ、担当者補足入力なし】
↓
【支払判定用要約:帰還石未使用(操作キャンセル相当)】
真鍋課長が、胃薬の瓶を開けた。
まだ飲まない。
「つまり、完了してないものは全部、未使用側へ倒れるのか」
『標準様式上は、その傾向があります』
「起動失敗でも」
『補足入力がなければ』
「座標補正失敗でも」
『補足入力がなければ』
「本人が死にかけて押していても」
『補足入力がなければ』
相沢の声は平坦だった。
だから、余計に冷たい。
補足入力がなければ。
その言葉が、白浜事故の上に重なる。
担当者は、現場差異を見ていた。
自由記述欄にカーソルも移していた。
だが、入力しなかった。
標準処理に戻った。
その結果、起動失敗は補足されなかった。
補足されなかった起動失敗は、使用なしに寄った。
小さな処理が、過失を作っている。
久我が口を開いた。
『補助変換は、処理上の便宜です』
「便宜は必要です」
『完了ログがない以上、帰還石による退避は成立していません』
「成立していません」
『帰還石で退避できなかったという結果は、標準様式上も正しい』
「結果は正しいです」
俺は、内部変換詳細を指した。
【支払判定用補助変換:操作キャンセル相当】
「理由が違います」
久我は、何も言わなかった。
「帰還石で退避できなかった。これは結果です」
俺は続けた。
「帰還石を使わなかった。これは評価に近い」
相沢が、二つの表示を並べる。
【結果】
【帰還石による退避成立:なし】
【評価】
【帰還石使用:なし】
【補助変換】
【操作キャンセル相当】
御園さんが、低く言った。
「全然違いますね」
「違います」
俺は答えた。
「結果と理由を混ぜています」
久我は、画面の向こうで万年筆を持ち直した。
『黒木さん』
「はい」
『その整理を認める場合、帰還石未使用とされた案件全体に影響します』
「承知しています」
『使用完了ログなしの全件について、起動要求ログと失敗理由を照合する必要が出る』
「はい」
『処理量は相当増えます』
「はい」
『現場の帰還石管理責任にも及びます』
「及びます」
『白浜だけでは済まない』
「済みません」
真鍋課長が、胃薬を一粒出した。
今度は掌の上で転がした。
「黒木」
「はい」
「また増えるぞ」
「増えます」
「胃に悪い」
「査定です」
「それしかないのか」
「現時点では」
真鍋課長は、掌の上の錠剤をじっと見つめた。
やがて、それを飲むことなく、静かに机の上に戻す。
「通せ」
俺は、新しい所見欄を開いた。
【事故査定課 暫定所見】
【白浜臨時訓練場事故において、帰還石の起動要求ログが二回確認されている】
【魔力同期不成立/不安定、転移座標補正失敗により、帰還石による退避が成立しなかった可能性がある】
【標準様式は使用完了ログの欠落をもって「帰還石使用なし」と出力しており、起動要求ログおよび失敗理由を反映していない】
【支払判定用補助変換において、起動失敗が操作キャンセル相当として扱われた可能性を確認する】
久我が、その所見を読んだ。
『使用不能可能性、ではなく、退避不成立可能性ではどうですか』
真鍋課長が、久我を見る。
御園さんも、相沢も黙った。
久我は、淡々と続ける。
『使用不能とすると、帰還石自体に問題があった印象が強くなります。現時点では、帰還石本体、階層環境、所持者魔力状態のいずれが主因か未確定です』
正しい。
嫌になるほど、正しい。
俺は所見欄を見た。
帰還石使用不能可能性。
その表現は、少し強い。
帰還石が壊れていたとはまだ言えない。
使おうとしたが、退避が成立しなかった。
その方が正確だ。
「修正します」
相沢が、所見欄の一部を変えた。
【帰還石使用不能可能性:要確認】
↓
【帰還石退避不成立可能性:要確認】
久我は、小さく頷いた。
『その表現なら、監理官室としても受理できます』
譲歩ではない。
線引きだ。
久我は、こちらの所見を弱めたのではない。
正確にした。
その正確さで、こちらの刃はむしろ抜きにくくなる。
俺は、確定キーを押した。
【事故査定課 暫定所見:確定】
画面の表示が変わる。
【白浜臨時訓練場事故】
【帰還石使用:なし】
↓
【帰還石退避不成立可能性:要確認】
【標準様式変換:操作キャンセル相当を再確認】
【過失評価:保留継続】
使用なし、という一行が消えたわけではない。
だが、もう単独では使えない。
帰還石を使わなかった。
その断定は、起動要求ログと失敗理由を照合しない限り、成立しない。
御園さんが、静かに言った。
「押していたんですね」
「押した可能性はあります」
「二回」
「はい」
「それが、使用なしになった」
「標準様式上は」
御園さんは、それ以上言わなかった。
感情を所見に変える人だ。
だから彼女は、バイタル欄に注記を入れた。
【治癒師補助所見】
【第二起動要求時、対象者に呼吸数上昇、心拍急上昇、魔力循環乱れを確認】
【当該状態下において、帰還石操作の失敗を単純な使用意思なしと扱うことは困難】
相沢が、その所見を帰還石ログに紐づける。
【帰還石反応履歴】
【治癒師補助所見:紐づけ済み】
真鍋課長が、それを見て短く言った。
「いい」
それだけだった。
だが、御園さんには十分だったように見えた。
久我は、まだ画面を読んでいる。
『次は、退避指示ですね』
「はい」
『帰還石退避が成立しなかった可能性を確認するなら、同時に退避指示の到達も確認する必要があります』
「同意します」
『指示が届いていたなら、別の退避手段を選べた可能性がある』
「あります」
『届いていなければ』
「退避判断遅延の前提が揺らぎます」
相沢が、次のログを表示した。
【退避指示送受信ログ】
【本庁側送信:成功】
【現場側受信確認:なし】
【現場通信:断続欠落】
【音声ログ:一部欠落】
真鍋課長が、目を細めた。
「送信は成功」
『はい』
「受信確認はなし」
『はい』
「嫌な予感しかしないな」
『ログは予感を扱いません』
「扱え」
『無理です』
相沢は、次の照合画面を開いた。
【退避指示到達確認】
【送信ログ:取得済み】
【受信ログ:取得中】
【通信欠落区間:照合中】
標準様式は、「退避指示あり」と書いた。
本庁は送った。
だが、現場に届いたかどうかは、まだ別の問題だ。
俺は、退避指示ログの取得画面を見た。
次に査定すべきは、本庁側に残った「送信成功」の記録ではない。
その声が、乱れたダンジョンの中で、本当に彼らに届いていたかどうかだ。




