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そのダンジョン事故、保険金は出ません。 〜元査定員の俺はログ鑑定で無謀な探索者の嘘を暴く〜  作者: 平八
第五章 その現場ログ、標準様式に入りません

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第51話 帰還石は、使わなかったのではありません

【帰還石反応履歴 詳細照合】


【起動要求ログ:取得完了】


【座標補正ログ:取得完了】


【標準様式変換ログ:取得完了】


 帰還石のログが開いた。


 標準様式では、短い一行だった。


【帰還石使用:なし】


 それだけだ。


 その一行は、強い。


 帰還石を使わなかった。

 退避できる手段があったのに、使わなかった。

 だから、退避判断に問題があった。


 そう読める。


 だから白浜事故は、過失ありに寄った。


 だが、原ログは一行では終わらなかった。


 相沢が、帰還石本体の反応履歴を表示する。


【帰還石反応履歴】


【所持者認証:成功】


【起動要求:あり】


【起動要求回数:二回】


【第一起動要求:受理】


【魔力同期:不成立】


【転移座標補正:失敗】


【起動完了:なし】


【第二起動要求:受理】


【魔力同期:不安定】


【転移座標補正:失敗】


【使用完了ログ:なし】


 御園さんが、画面を見たまま眉を寄せた。


「これ、使おうとしていませんか」


「はい」


 俺は答えた。


「少なくとも、起動要求はあります」


 真鍋課長が、胃薬の瓶をまだ開けずに言った。


「標準様式では、使用なしだったな」


『はい』


 相沢が、標準様式側を横に並べる。


【原ログ】


【起動要求:二回】


【魔力同期:不成立/不安定】


【転移座標補正:失敗】


【使用完了ログ:なし】


   ↓


【標準様式】


【帰還石使用:なし】


 並べると、嫌な形になる。


 起動しようとした痕跡。


 起動できなかった可能性。


 転移座標を補正できなかった記録。


 それらがすべて落ちて、最後に残ったのは「使用なし」だった。


 使わなかった。


 その言葉だけが、残っている。


 画面上部に、本庁回線の接続表示が出た。


【教育訓練支援室 監理官室】


【上席監理官 久我:接続中】


 久我は、帰還石ログを読んでいた。


 表情は変わらない。


 ただ、前回から続けていたらしい電子書類の注記欄に、万年筆の影が重なっている。


『起動要求があったことは確認できます』


 久我は、静かに言った。


『ただし、使用不能だったとはまだ言えません』


「はい」


『魔力同期が不安定でも、再試行によって起動できる場合があります』


「あります」


『転移座標補正の失敗も、帰還石本体の故障とは限らない。周辺環境、所持者の魔力状態、階層境界の揺らぎなど、複数の要因が考えられます』


「その通りです」


 久我の指摘は正しい。


 起動要求があった。

 だから使用不能だった。


 そこまでは言えない。


 帰還石が完全に壊れていたのか。


 ダンジョン側の環境が悪かったのか。


 所持者の魔力状態に問題があったのか。


 階層境界の揺らぎが一時的に補正を妨げたのか。


 まだ、確定できない。


 だが、確定できないのは、こちらだけではない。


「だから、使用なしとも確定できません」


 久我の視線が、一度だけ帰還石ログに戻った。


 沈黙は短い。


 だが、万年筆の先が電子書類の欄外で止まった。


『……その整理なら、成立します』


 相沢が、すぐに補助表を出した。


【帰還石使用判定】


【標準様式判定:使用なし】


【原ログ確認:起動要求あり】


【起動完了:なし】


【使用不能判定:未確定】


【使用意思なし判定:未確定】


【判定:使用なし確定不可】


 真鍋課長が、低く言った。


「いい表だな」


『ありがとうございます』


「褒めてない」


『分かっています』


「なら言うな」


 御園さんが、帰還石ログの時刻欄を指した。


「この二回目の起動要求、バイタルが急変した直後ですか」


 相沢が、バイタルログを重ねる。


【治癒師到着前バイタル】


【呼吸数:上昇】


【心拍:急上昇】


【魔力循環:乱れ】


【第二起動要求:同時刻帯】


 御園さんの声が、少し低くなる。


「呼吸が乱れて、魔力循環も乱れている。そこで帰還石を起動しようとした」


「はい」


「それを、使用なし」


 御園さんは、それ以上言わなかった。


 感情として言えば、いくらでも言える。


 だが、彼女は治癒師として見る。


 呼吸。


 心拍。


 魔力循環。


 起動要求。


 その重なりは、少なくとも「何もしていなかった」とは違う。


 俺は、相沢に言った。


「標準様式変換ログを出してください」


『出します』


 相沢が、帰還石ログの変換履歴を展開した。


【標準様式変換ログ】


【入力項目:帰還石使用完了ログ】


【値:なし】


【入力項目:帰還石起動要求ログ】


【値:参照対象外】


【入力項目:座標補正失敗ログ】


【値:参照対象外】


【入力項目:魔力同期不安定ログ】


【値:参照対象外】


【標準様式出力:帰還石使用なし】


 会議室の空気が、そこで一段冷えた。


 起動要求は、あった。


 座標補正失敗も、あった。


 魔力同期不安定も、あった。


 だが、標準様式が見ていたのは、使用完了ログだけだった。


 完了していない。


 だから、使用なし。


 そこに至るまでの失敗は、参照対象外。


 真鍋課長が、短く言った。


「乱暴だな」


『はい』


 相沢は即答した。


『完了ログしか見ていません』


「起動要求は」


『見ていません』


「失敗ログは」


『見ていません』


「それで使用なし」


『はい』


 相沢は、もう一段深いログを開いた。


【内部変換詳細】


【起動要求失敗:記録あり】


【終了理由:座標補正失敗】


【標準様式変換:未完了】


【支払判定用補助変換:操作キャンセル相当】


【最終出力:帰還石使用なし】


 御園さんが、静かに息を止めた。


「操作キャンセル相当」


 その言葉は軽い。


 軽すぎる。


 命をかけて帰ろうとして、帰還石が応じなかったかもしれない。


 その記録が、支払判定用の補助変換では「操作キャンセル相当」になっている。


 本人がやめたように見える。


 使わなかったように見える。


 帰る手段を放棄したように見える。


 相沢が、さらに詳細を表示する。


【補助変換ルール】


【使用完了ログなし】


【かつ、標準様式上の起動成功記録なし】


【かつ、担当者補足入力なし】


   ↓


【支払判定用要約:帰還石未使用(操作キャンセル相当)】


 真鍋課長が、胃薬の瓶を開けた。


 まだ飲まない。


「つまり、完了してないものは全部、未使用側へ倒れるのか」


『標準様式上は、その傾向があります』


「起動失敗でも」


『補足入力がなければ』


「座標補正失敗でも」


『補足入力がなければ』


「本人が死にかけて押していても」


『補足入力がなければ』


 相沢の声は平坦だった。


 だから、余計に冷たい。


 補足入力がなければ。


 その言葉が、白浜事故の上に重なる。


 担当者は、現場差異を見ていた。


 自由記述欄にカーソルも移していた。


 だが、入力しなかった。


 標準処理に戻った。


 その結果、起動失敗は補足されなかった。


 補足されなかった起動失敗は、使用なしに寄った。


 小さな処理が、過失を作っている。


 久我が口を開いた。


『補助変換は、処理上の便宜です』


「便宜は必要です」


『完了ログがない以上、帰還石による退避は成立していません』


「成立していません」


『帰還石で退避できなかったという結果は、標準様式上も正しい』


「結果は正しいです」


 俺は、内部変換詳細を指した。


【支払判定用補助変換:操作キャンセル相当】


「理由が違います」


 久我は、何も言わなかった。


「帰還石で退避できなかった。これは結果です」


 俺は続けた。


「帰還石を使わなかった。これは評価に近い」


 相沢が、二つの表示を並べる。


【結果】


【帰還石による退避成立:なし】


【評価】


【帰還石使用:なし】


【補助変換】


【操作キャンセル相当】


 御園さんが、低く言った。


「全然違いますね」


「違います」


 俺は答えた。


「結果と理由を混ぜています」


 久我は、画面の向こうで万年筆を持ち直した。


『黒木さん』


「はい」


『その整理を認める場合、帰還石未使用とされた案件全体に影響します』


「承知しています」


『使用完了ログなしの全件について、起動要求ログと失敗理由を照合する必要が出る』


「はい」


『処理量は相当増えます』


「はい」


『現場の帰還石管理責任にも及びます』


「及びます」


『白浜だけでは済まない』


「済みません」


 真鍋課長が、胃薬を一粒出した。


 今度は掌の上で転がした。


「黒木」


「はい」


「また増えるぞ」


「増えます」


「胃に悪い」


「査定です」


「それしかないのか」


「現時点では」


 真鍋課長は、掌の上の錠剤をじっと見つめた。


 やがて、それを飲むことなく、静かに机の上に戻す。


「通せ」


 俺は、新しい所見欄を開いた。


【事故査定課 暫定所見】


【白浜臨時訓練場事故において、帰還石の起動要求ログが二回確認されている】


【魔力同期不成立/不安定、転移座標補正失敗により、帰還石による退避が成立しなかった可能性がある】


【標準様式は使用完了ログの欠落をもって「帰還石使用なし」と出力しており、起動要求ログおよび失敗理由を反映していない】


【支払判定用補助変換において、起動失敗が操作キャンセル相当として扱われた可能性を確認する】


 久我が、その所見を読んだ。


『使用不能可能性、ではなく、退避不成立可能性ではどうですか』


 真鍋課長が、久我を見る。


 御園さんも、相沢も黙った。


 久我は、淡々と続ける。


『使用不能とすると、帰還石自体に問題があった印象が強くなります。現時点では、帰還石本体、階層環境、所持者魔力状態のいずれが主因か未確定です』


 正しい。


 嫌になるほど、正しい。


 俺は所見欄を見た。


 帰還石使用不能可能性。


 その表現は、少し強い。


 帰還石が壊れていたとはまだ言えない。


 使おうとしたが、退避が成立しなかった。


 その方が正確だ。


「修正します」


 相沢が、所見欄の一部を変えた。


【帰還石使用不能可能性:要確認】


   ↓


【帰還石退避不成立可能性:要確認】


 久我は、小さく頷いた。


『その表現なら、監理官室としても受理できます』


 譲歩ではない。


 線引きだ。


 久我は、こちらの所見を弱めたのではない。


 正確にした。


 その正確さで、こちらの刃はむしろ抜きにくくなる。


 俺は、確定キーを押した。


【事故査定課 暫定所見:確定】


 画面の表示が変わる。


【白浜臨時訓練場事故】


【帰還石使用:なし】


   ↓


【帰還石退避不成立可能性:要確認】


【標準様式変換:操作キャンセル相当を再確認】


【過失評価:保留継続】


 使用なし、という一行が消えたわけではない。


 だが、もう単独では使えない。


 帰還石を使わなかった。


 その断定は、起動要求ログと失敗理由を照合しない限り、成立しない。


 御園さんが、静かに言った。


「押していたんですね」


「押した可能性はあります」


「二回」


「はい」


「それが、使用なしになった」


「標準様式上は」


 御園さんは、それ以上言わなかった。


 感情を所見に変える人だ。


 だから彼女は、バイタル欄に注記を入れた。


【治癒師補助所見】


【第二起動要求時、対象者に呼吸数上昇、心拍急上昇、魔力循環乱れを確認】


【当該状態下において、帰還石操作の失敗を単純な使用意思なしと扱うことは困難】


 相沢が、その所見を帰還石ログに紐づける。


【帰還石反応履歴】


【治癒師補助所見:紐づけ済み】


 真鍋課長が、それを見て短く言った。


「いい」


 それだけだった。


 だが、御園さんには十分だったように見えた。


 久我は、まだ画面を読んでいる。


『次は、退避指示ですね』


「はい」


『帰還石退避が成立しなかった可能性を確認するなら、同時に退避指示の到達も確認する必要があります』


「同意します」


『指示が届いていたなら、別の退避手段を選べた可能性がある』


「あります」


『届いていなければ』


「退避判断遅延の前提が揺らぎます」


 相沢が、次のログを表示した。


【退避指示送受信ログ】


【本庁側送信:成功】


【現場側受信確認:なし】


【現場通信:断続欠落】


【音声ログ:一部欠落】


 真鍋課長が、目を細めた。


「送信は成功」


『はい』


「受信確認はなし」


『はい』


「嫌な予感しかしないな」


『ログは予感を扱いません』


「扱え」


『無理です』


 相沢は、次の照合画面を開いた。


【退避指示到達確認】


【送信ログ:取得済み】


【受信ログ:取得中】


【通信欠落区間:照合中】


 標準様式は、「退避指示あり」と書いた。


 本庁は送った。


 だが、現場に届いたかどうかは、まだ別の問題だ。


 俺は、退避指示ログの取得画面を見た。


 次に査定すべきは、本庁側に残った「送信成功」の記録ではない。


 その声が、乱れたダンジョンの中で、本当に彼らに届いていたかどうかだ。

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