第50話 その原ログは、まだ閉じていません
【現場ログ照合】
【対象:白浜臨時訓練場事故/派生訓練ログ】
【原ログ取得申請:承認】
【原ログ取得:完了】
【標準様式反映欄:なし】
【原ログ未解析項目:複数】
画面の色が変わった。
本庁資料の白ではない。
成果報告の整った表でもない。
原ログ専用の暗い背景に、細い文字が並んでいる。
ダンジョンが吐き出した記録だった。
人間が読みやすいように整えられる前のもの。
様式に入る前のもの。
評価語に変換される前のもの。
そこには、まだ誰かの都合が混ざりきっていない。
相沢が、原ログの上部を固定した。
『白浜臨時訓練場事故の派生訓練ログ、取得できました』
「改ざん検知は」
『現時点でなし。欠落はありますが、改ざんではなく通信断絶による欠落です』
「欠落区間は」
『後で出します。まず、標準様式に変換された箇所を並べます』
真鍋課長が、いつものように胃薬の瓶を机に置いた。
「いきなり胃に悪い言い方をするな」
『原ログは胃に配慮しません』
「知ってる」
相沢は何も返さず、標準様式側の記録を表示した。
【白浜臨時訓練場事故 標準様式記録】
【事故分類:退避判断遅延】
【退避指示:あり】
【退避完了:遅延】
【帰還石使用:なし】
【第三層滞留:あり】
【当事者行動評価:不適切】
【支払判定用要約:退避判断遅延および帰還石未使用による過失あり】
見慣れた記録だった。
支払済み案件を閉じるとき、何度も使われてきた形だ。
標準様式の上では、白浜事故は単純だった。。
指示は出た。
退避は遅れた。
帰還石は使わなかった。
第三層に残った。
だから、行動評価は不適切。
過失あり。
綺麗に閉じている。
御園さんが、画面を見たまま言った。
「この形だと、本人が逃げなかった事故に見えます」
「はい」
俺は答えた。
「だから閉じられました」
相沢が、次の画面を出した。
【白浜臨時訓練場事故 原ログ】
【第三層環境圧:急上昇】
【帰還石反応:不安定】
【現場通信:断続欠落】
【退避指示到達:未確認】
【階層境界揺らぎ:検出】
【治癒師到着前バイタル:急変】
【標準様式反映:一部のみ】
同じ事故のはずだった。
だが、そこに並んでいるものは違った。
退避判断遅延。
帰還石未使用。
第三層滞留。
標準様式では、行動だけが残っていた。
原ログには、行動の前にあった条件が残っていた。
階層環境圧。
帰還石反応。
通信欠落。
退避指示到達。
階層境界揺らぎ。
治癒師到着前のバイタル。
事故は、人間の判断だけで起きるわけではない。
ダンジョンの状態も、判断を変える。
標準様式は、その前段を落としていた。
真鍋課長が、低い声で言った。
「これを見ても、退避判断遅延か」
「標準様式上は、そうです」
「原ログ上は」
「まだ確定できません」
御園さんがこちらを見る。
「確定できない?」
「はい」
俺は、原ログの行を指した。
【退避指示到達:未確認】
【帰還石反応:不安定】
【現場通信:断続欠落】
「退避できたかどうか。指示が届いたかどうか。帰還石を使えたかどうか。まだ確認が必要です」
御園さんは、小さく頷いた。
「過失なし、ではないんですね」
「違います」
俺は言った。
「過失あり、と確定できないだけです」
画面上部に、本庁回線の接続表示が出た。
【教育訓練支援室 監理官室】
【上席監理官 久我:接続中】
久我は、すでに原ログを読んでいた。
背景も、姿勢も、表情も変わらない。
だが、前章とは画面の重さが違っていた。
ここから先は、資料の読み替えでは済まない。
ダンジョンそのものの記録に触れる。
『原ログ取得を確認しました』
久我は言った。
『白浜案件について、標準様式記録と原ログの差異を照合する段階ですね』
「はい」
『先に確認します。原ログに未解析項目がある以上、現時点で標準様式の評価を否定することはできません』
「否定しません」
『退避判断遅延がなかったとも言えない』
「言えません」
『帰還石が使用不能だったとも、まだ言えない』
「言えません」
久我は、そこで静かに頷いた。
『では、現時点で何を確認するのですか』
「標準様式が、何を落として事故分類を作ったかです」
相沢が、変換履歴の照合画面を開いた。
【標準様式変換履歴】
【原ログ参照:あり】
【変換処理:自動】
【人手補正:一部あり】
【未反映項目:複数】
真鍋課長の眉が動いた。
「変換履歴があるのか」
『あります』
相沢が答えた。
『標準様式は、原ログをそのまま写していません。判定用の項目に変換しています』
「それは分かる」
『問題は、変換で落ちたものと、変換で意味が変わったものです』
相沢が、比較表を出した。
【原ログ項目】
【第三層環境圧:急上昇】
【帰還石反応:不安定】
【現場通信:断続欠落】
【退避指示到達:未確認】
↓
【標準様式反映】
【第三層滞留:あり】
【帰還石使用:なし】
【退避指示:あり】
【退避完了:遅延】
御園さんが、声を落とした。
「条件が、行動に変わっています」
「はい」
俺は答えた。
「ダンジョン側の異常が、当事者側の行動評価に寄っています」
相沢が、比較表の一部をさらに展開した。
【原ログ項目】
【現場通信:断続欠落】
【欠落時間:十八秒】
【退避指示到達:未確認】
↓
【自動様式変換】
【退避指示:あり】
【判定基準:本庁送信成功】
【退避完了:遅延】
【加算対象:通信不通中の経過時間を含む】
真鍋課長の指が、胃薬の瓶の上で止まった。
「通信が切れていた時間も、遅延に入っているのか」
『入っています』
相沢は答えた。
『標準様式では、退避指示の到達ではなく、本庁側の送信成功を拾っています。その後の経過時間は、当事者側の退避遅延として処理されています』
御園さんが、画面を見たまま言った。
「指示が届いたか分からない時間まで、本人が遅れた時間にされているんですか」
『標準様式上は、そう見えます』
相沢の声は、平坦だった。
『ログは、そう変換されています』
それは、単なる未反映ではなかった。
落としただけではない。
通信が欠けていた時間が、当事者の遅れに寄せられている。
現場の空白が、本人の過失に加算されている。
標準様式は、黙っていたのではない。
別の言葉に変えていた。
久我は、画面の向こうでその表を読んでいた。
『変換そのものは必要です』
「必要です」
『原ログはそのままでは事故処理に使いにくい。標準様式に落とさなければ、処理担当者による判断のばらつきが生じます』
「その通りです」
『では、変換処理が問題だと断定するのは早い』
「断定しません」
俺は、比較表の一番下を指した。
【標準様式変換履歴:あり】
「ただし、照合します」
久我の表情は変わらなかった。
だが、画面の向こうで、電子書類にチェックを入れていた万年筆の先が、紙の上でピタリと浮いた。
相沢が、最初の分類変更候補を表示した。
【事故分類照合】
【現分類:退避判断遅延】
【原ログ上の未確認要素】
【一、帰還石反応不安定】
【二、退避指示到達未確認】
【三、現場通信断続欠落】
【四、階層環境圧急上昇】
【五、階層境界揺らぎ】
【照合結果:退避手段不全疑い】
真鍋課長が、椅子の背にもたれた。
「出たな」
「はい」
「退避判断遅延ではなく」
「退避手段不全疑いです」
御園さんが、原ログの「バイタル急変」を見ていた。
「本人の判断だけを見る段階ではないんですね」
「はい」
俺は言った。
「退避する手段が、成立していたかを先に見ます」
久我が口を開いた。
『退避手段不全疑い、という分類は重いですね』
「軽くはありません」
『訓練場設備、帰還石管理、通信系統、退避指示系統の全てに確認が及びます』
「及びます」
『処理は大きく広がる』
「はい」
『支払済み案件の再確認にも影響する』
「はい」
久我の声は、前章と同じだった。
穏やかで、正確で、逃げない。
だが、ここで止めれば、原ログはまた標準様式に負ける。
俺は、新しい所見欄を開いた。
【事故査定課 暫定所見】
【白浜臨時訓練場事故について、標準様式上の事故分類「退避判断遅延」は、原ログ上の退避手段不全可能性を反映していない】
【帰還石反応不安定、退避指示到達未確認、現場通信断続欠落および階層環境圧急上昇を踏まえ、事故分類を「退避手段不全疑い」として照合する】
【通信不通中の経過時間が、当事者側の退避遅延として加算された可能性を確認する】
真鍋課長が、所見を読んだ。
「これを入れると、白浜は戻るな」
「戻ります」
「過失評価も」
「止まります」
「胃に悪い」
「査定です」
「戻ってきたな、その返し」
真鍋課長は、胃薬の瓶を開けなかった。
「通せ」
俺は、確定キーを押した。
【事故査定課 暫定所見:確定】
画面の表示が変わる。
【白浜臨時訓練場事故】
【事故分類:退避判断遅延】
↓
【事故分類:退避手段不全疑い】
【標準様式変換履歴:照合開始】
【過失評価:保留継続】
原ログの画面に、初めて標準様式側の分類が追いついた。
それは、過失なしを意味しない。
誰かが正しかったことも意味しない。
ただ、閉じていた分類が開いた。
事故が、再び事故として扱われ始めた。
御園さんが、小さく息を吐いた。
「閉じていたものが、開いたんですね」
「分類が戻っただけです」
俺は答えた。
「まだ、何も終わっていません」
相沢が、変換履歴の詳細を掘る。
【標準様式変換履歴 詳細照合】
【対象一:帰還石反応履歴】
【対象二:退避指示送受信ログ】
【対象三:第三層滞留理由】
【対象四:現場通信欠落区間】
【対象五:評価語生成履歴】
その中で、最初の項目が点滅した。
【対象一:帰還石反応履歴】
【詳細照合へ】
真鍋課長が、画面を見た。
「次は帰還石か」
「はい」
相沢が、帰還石ログの概要を表示する。
【帰還石反応履歴】
【起動要求:あり】
【起動要求回数:二回】
【反応:不安定】
【使用完了ログ:なし】
【標準様式反映:帰還石使用なし】
御園さんが、眉を寄せた。
「起動要求があるのに、使用なし?」
『はい』
相沢の声は、いつも通り平坦だった。
『深層ログを確認します』
久我も、その画面を見ていた。
『起動要求があったことは確認できます。ただし、使用不能だったとはまだ言えません』
「はい」
俺は答えた。
「だから、使用なしとも確定できません」
久我は、少しだけ黙った。
通信環境のせいではない一拍だった。
『承知しました。帰還石反応履歴を照合しましょう』
相沢の端末に、次の画面が立ち上がる。
【帰還石反応履歴 詳細照合】
【起動要求ログ:取得中】
【座標補正ログ:取得中】
【標準様式変換ログ:取得中】
標準様式は、「使わなかった」と書いた。
原ログは、まだ別のことを言おうとしている。
俺は、その取得画面を閉じなかった。
次に査定するのは、帰還石を使わなかったという結論ではない。
命を懸けた「起動要求」が、なぜ本庁の画面で、冷淡な「使用なし」という怠慢に書き換えられたのかだ。




