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そのダンジョン事故、保険金は出ません。 〜元査定員の俺はログ鑑定で無謀な探索者の嘘を暴く〜  作者: 平八
第五章 その現場ログ、標準様式に入りません

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第52話 退避指示は、届いていましたか

【退避指示到達確認】


【送信ログ:取得済み】


【受信ログ:取得完了】


【通信欠落区間:照合中】


 退避指示のログが開いた。


 標準様式では、これも短い一行だった。


【退避指示:あり】


 それだけで、十分に見える。


 指示は出ていた。

 退避しろと言われていた。

 それなのに、退避が遅れた。


 だから、退避判断遅延。


 だが、前話で確認した通り、標準様式は結果を短くする。


 短くする過程で、消えるものがある。


 相沢が、本庁側の送信ログを表示した。


【本庁側 退避指示送信ログ】


【退避指示作成:完了】


【送信先:白浜臨時訓練場第三層端末群】


【送信処理:成功】


【中継サーバ受理:成功】


【標準様式反映:退避指示あり】


 綺麗なログだった。


 本庁側では、何も失敗していない。


 指示は作成され、送信され、中継サーバに受理されている。


 だから標準様式は「退避指示あり」とした。


 真鍋課長が、画面を見たまま言った。


「送ってはいるんだな」


『はい』


 相沢が答えた。


『送信処理は成功しています』


「中継サーバも受理」


『成功です』


「なら、本庁側の記録は嘘ではない」


『嘘ではありません』


 御園さんが、静かに言った。


「でも、届いたかは別なんですね」


『はい』


 相沢は、次の窓を開いた。


【現場側 退避指示受信ログ】


【第三層端末A:受信確認なし】


【第三層端末B:パケット破棄】


【第三層端末C:接続断】


【音声端末:記録欠落】


【受信確認:なし】


【現場通信状態:断続欠落】


 同じ退避指示のはずだった。


 だが、本庁側と現場側で、見えているものが違う。


 本庁では送信成功。


 現場では受信確認なし。


 第三層端末Bでは、パケット破棄。


 端末Cでは、接続断。


 音声端末は、記録欠落。


 御園さんの表情が固くなる。


「これで、退避指示ありになるんですか」


「標準様式上は、なります」


 俺は答えた。


「本庁側の送信成功を拾っているからです」


 相沢が、変換ログを表示した。


【退避指示 標準様式変換ログ】


【入力項目:本庁側送信処理】


【値:成功】


【入力項目:中継サーバ受理】


【値:成功】


【入力項目:現場側受信確認】


【値:参照対象外】


【入力項目:パケット破棄ログ】


【値:参照対象外】


【入力項目:音声ログ欠落】


【値:参照対象外】


【標準様式出力:退避指示あり】


 真鍋課長が、胃薬の瓶を指で押した。


「また参照対象外か」


『はい』


「現場側の受信確認は見てない」


『標準様式変換では見ていません』


「送ったら、指示あり」


『はい』


 相沢は淡々としていた。


 だから、画面の冷たさがそのまま伝わる。


 送信成功。


 指示あり。


 その二つの間に、現場の受信は入っていなかった。


 画面上部に、本庁回線の接続表示が出る。


【教育訓練支援室 監理官室】


【上席監理官 久我:接続中】


 久我は、送受信ログを読んでいた。


 前話と同じく、表情は動かない。


 ただ、万年筆の先が、資料の余白で止まっている。


『本庁側の送信成功は確認できます』


「はい」


『現場側の受信確認がないことも確認できます』


「はい」


『ただし、受信確認がないことは、指示が届いていないことを直接示しません』


「その通りです」


 久我は、正しい。


 受信確認が残っていないからといって、必ず届いていなかったとは言えない。


 端末のログが欠落しただけかもしれない。


 音声で聞いたが、記録が残っていないだけかもしれない。


 現場担当者が別系統で伝えた可能性もある。


 原ログは、万能ではない。


 だが、標準様式も万能ではない。


「届いていないとは断定しません」


 俺は言った。


「ただし、届いていたとも確定できません」


 久我の視線が、現場側ログへ戻った。


『退避指示到達未確認、という整理ですね』


「はい」


 相沢が、補助表を出す。


【退避指示判定】


【標準様式判定:退避指示あり】


【本庁側送信:成功】


【中継サーバ受理:成功】


【現場側受信確認:なし】


【パケット破棄:あり】


【音声ログ:欠落】


【判定:退避指示到達未確認】


 御園さんが、小さく息を吸った。


「送信と到達は、別ですね」


「はい」


 俺は答えた。


「送信と到達は、別です」


 会議室に、その言葉が落ちた。


 派手な言葉ではない。


 だが、事故査定ではそこがずれるだけで、過失の向きが変わる。


 本庁が送った。


 それは本庁側の記録だ。


 現場が受け取った。


 それは当事者側の状態だ。


 その二つを同じものとして処理すれば、届かなかった可能性まで本人の判断ミスに寄る。


 相沢が、通信欠落区間の照合結果を出した。


【現場通信欠落区間】


【欠落開始:退避指示送信後〇・八秒】


【欠落継続:十八秒】


【欠落中イベント:退避完了遅延時間に加算】


【通信回復後:第三層端末Bパケット破棄ログ検出】


【標準様式反映:退避完了遅延】


 真鍋課長の顔から、わずかに表情が消えた。


「またか」


『はい』


 相沢が答える。


『通信欠落中の経過時間も、退避完了遅延に加算されています』


「指示が届いたか分からない時間が」


『退避が遅れた時間として扱われています』


 御園さんが、画面を見たまま言った。


「聞こえていないかもしれない時間も、従わなかった時間になる」


『標準様式上は』


 相沢は短く返した。


『そう見えます』


 俺は、標準様式の変換ログを見た。


【本庁側送信成功】


   ↓


【退避指示あり】


【通信欠落中経過時間】


   ↓


【退避完了遅延】


 綺麗すぎる。


 送信した側の記録だけで、指示は成立する。


 届いたか分からない時間も、退避の遅れになる。


 その結果、白浜事故は退避判断遅延になった。


 現場の沈黙が、本人の遅れに変換されている。


 久我が、静かに口を開いた。


『退避指示の到達確認を必須にした場合、通信不安定環境では多くの案件が保留になります』


「はい」


『本庁側の送信成功を基準にしなければ、指示を出した事実そのものが処理上扱いにくくなる』


「その通りです」


『現場で受信確認が取れないことは、ダンジョン事故では珍しくありません』


「珍しくありません」


『であれば、送信成功をもって退避指示ありとする設計には、一定の合理性があります』


「あります」


 久我は強い。


 こちらの指摘を否定するのではなく、設計上の必要性を出してくる。


 通信が安定しない場所で、すべての受信確認を必須にすれば処理は止まる。


 現場は、確認できないものだらけになる。


 だから、送信成功を基準にする。


 その理屈は分かる。


 だが、事故査定はそこで終わらない。


「送信成功を記録することは合理的です」


 俺は言った。


「ただし、送信成功を到達確認として扱うことは別です」


 相沢が、二つの表示を並べる。


【送信成功】


【意味:本庁側送信処理および中継受理の成立】


【到達確認】


【意味:現場側端末または対象者への指示受領確認】


【標準様式】


【送信成功をもって退避指示ありと反映】


 真鍋課長が、低く言った。


「綺麗に混ぜてるな」


『はい』


 相沢は答えた。


『処理上は便利です』


「便利なものは、だいたい胃に悪いな」


『課長の胃とは相関を取っていません』


「取るな」


 御園さんが、バイタルログを表示した。


「通信欠落中のバイタルを見てもいいですか」


『出します』


 相沢が、欠落区間とバイタルを重ねた。


【現場通信欠落区間】


【欠落継続:十八秒】


【同時刻帯バイタル】


【呼吸数:上昇】


【心拍:急上昇】


【魔力循環:乱れ】


【音声反応:記録なし】


【退避動作ログ:断続】


 御園さんが、しばらく黙った。


 感情ではなく、確認の沈黙だった。


「この十八秒、指示を聞いて判断できる状態だったかどうかは、分かりません」


「はい」


「でも、少なくとも、安定して処理できる状態だったとは言えません」


「所見にできますか」


「できます」


 御園さんは、治癒師補助所見欄を開いた。


【治癒師補助所見】


【通信欠落区間と同時刻帯に、対象者の呼吸数上昇、心拍急上昇、魔力循環乱れを確認】


【当該状態下において、退避指示の到達および認知処理成立を当然視することは困難】


 御園さんは、最後の一行を見つめた。


 少し考えてから、言葉を変えた。


【当該状態下において、退避指示の到達および認知処理成立は未確認】


 俺は頷いた。


「そちらで」


 御園さんも頷いた。


 彼女は、優しさで断定しない。


 だから、強い。


 久我が、その所見を読んだ。


『治癒師所見として妥当です』


「ありがとうございます」


『ただし、認知処理成立が未確認であることは、認知できていないことを意味しません』


「はい」


『未確認として扱う範囲に留めるべきです』


「そのつもりです」


 久我は、また正確だった。


 認知できていない、とは言えない。


 ただ、認知できていた、とも言えない。


 未確認。


 その言葉は地味だ。


 だが、過失評価を止めるには十分だった。


 俺は、事故査定課の所見欄を開いた。


【事故査定課 暫定所見】


【白浜臨時訓練場事故において、本庁側退避指示送信ログは成功している】


【一方で、現場側受信確認はなく、第三層端末にパケット破棄および接続断が記録されている】


【標準様式は本庁側送信成功をもって「退避指示あり」と出力しており、現場側到達確認を反映していない】


【通信欠落中の経過時間が、退避完了遅延として加算された可能性を確認する】


【退避指示到達および認知処理成立は未確認】


 真鍋課長が、所見を読んだ。


「これを入れると、退避判断遅延の前提が崩れるな」


「崩れる、ではありません」


 俺は訂正した。


「未確認になります」


「細かいな」


「細かいところで人の過失が決まります」


 真鍋課長は黙った。


 胃薬の瓶を見て、それから机の端に押した。


「通せ」


 俺は、確定キーを押した。


【事故査定課 暫定所見:確定】


 画面の表示が変わる。


【白浜臨時訓練場事故】


【退避指示:あり】


   ↓


【退避指示:到達未確認(現場パケット破棄)】


【欠落時間処理:遅延時間算入妥当性要確認】


【退避判断遅延評価:保留継続】


 退避指示あり。


 その一行が、もう単独では使えなくなった。


 本庁が送ったことは残る。


 だが、現場に届いたことにはならない。


 届いたか分からない指示に、従わなかったとはまだ言えない。


 御園さんが、小さく息を吐いた。


「届いていたかもしれない。でも、届いていなかったかもしれない」


「はい」


「それを、あり、にしていた」


「標準様式上は」


 御園さんは、画面を見たまま頷いた。


「未確認に戻せて、よかったです」


「戻っただけです」


 俺は言った。


「まだ、待機していた理由が残っています」


 相沢が、次の照合対象を表示した。


【標準様式変換履歴 詳細照合】


【対象三:第三層滞留理由】


【標準様式反映:第三層滞留あり】


【支払判定用要約:退避判断遅延】


【原ログ照合:未了】


 真鍋課長が、画面を見た。


「帰還石は退避不成立可能性」


「はい」


「指示は到達未確認」


「はい」


「次は、そこに残っていた理由か」


「はい」


 相沢が、第三層の移動ログを開く。


【第三層滞留ログ】


【指定退避経路:使用不可区間あり】


【階層環境圧:急上昇】


【帰還石再起動待機:可能性あり】


【移動開始ログ:断続】


【標準様式反映:第三層滞留】


 御園さんが、低く言った。


「残ったんじゃなくて、動けなかった可能性があるんですね」


「まだ可能性です」


 俺は答えた。


「次に確認します」


 久我も、その画面を見ていた。


『第三層滞留理由の確認ですね』


「はい」


『滞留していた事実は残ります』


「残ります」


『それが無謀だったか、待機だったかは、別の問題です』


「同意します」


 久我は、こちらより先に、その線を引いた。


 崩れない。


 むしろ、査定の精度を上げに来る。


 俺は、第三層滞留ログの取得画面を見た。


 標準様式は、「残っていた」と書いた。


 だが、原ログが示しているのは、ただの滞留ではないかもしれない。


 次に査定すべきは、彼らが「そこに留まった」という表面上の事実ではない。


 環境圧、通信欠落、帰還石退避不成立可能性に囲まれたあの第三層で、なぜ、そこから一歩も動くことができなかったのかだ。

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