第48話 改善の前に、責任を査定します
【教育訓練支援室 標準処理改善案】
【件名:再確認フォームの標準組込について】
【提案者:久我】
画面の上で、その通知は静かに点滅していた。
前話の最後に届いたものだ。
早い。
あまりにも早い。
相沢が、通知の送信時刻を確認する。
『第47話の所見確定から、十一分後です』
「十一分か」
真鍋課長が、胃薬の瓶を見た。
まだ開けない。
「仕事が早いな」
『早すぎます』
相沢は、淡々と答えた。
『確認ではなく、吸収です』
御園さんが、画面を見た。
「吸収……」
「こちらの指摘を、向こうの改善案に変えるということです」
俺は通知を開いた。
【標準処理改善案】
【一、異議申立導線の初期画面表示】
【二、戻る操作の追加】
【三、途中保存機能の追加】
【四、無操作時処理を「異議なし」から「確認保留」へ変更】
【五、現場差異確認欄の追加】
【六、自由記述入力時の表示文言を「滞留」から「追加確認」へ変更】
綺麗な改善案だった。
こちらが指摘した問題が、ほとんど並んでいる。
異議導線。
戻る操作。
途中保存。
無操作時処理。
現場差異確認欄。
自由記述時の表示文言。
一つずつ見れば、悪くない。
むしろ、必要な修正だった。
だからこそ、厄介だった。
相沢が、文書の末尾を開いた。
【総括】
【事故査定課による再確認過程で得られた知見を踏まえ、今後の標準処理を改善する】
【旧様式における運用上の課題については、改善後仕様により再発防止を図る】
真鍋課長が、そこで低く唸った。
「きれいに包んできたな」
「はい」
「事故査定課の成果を、標準処理の進化に入れる」
「はい」
「旧様式の責任は」
「改善後仕様の中に沈みます」
御園さんの目が、そこで少しだけ細くなった。
「沈む、ですか」
「はい」
俺は、末尾の一文を指した。
【改善後仕様により再発防止を図る】
「再発防止は必要です。ですが、これだけでは、旧様式で何が成立していなかったのかが残りません」
画面上部に、本庁回線の接続表示が出た。
【教育訓練支援室 監理官室】
【上席監理官 久我:接続中】
久我は、すでにこちらの画面を見ていた。
穏やかな顔だった。
前話までと変わらない。
だが、今回は防戦ではない。
こちらの刃を、柄ごと取りに来ている。
『改善案をご確認いただけましたか』
「確認しました」
『事故査定課のご指摘は有用でした。標準処理の改善に資する内容です』
久我は、淡々と言った。
『良い仕様です。今後の標準処理に組み込みましょう』
御園さんが、わずかに息を止めた。
相沢は何も言わない。
真鍋課長の指が、胃薬の瓶の蓋に触れた。
普通なら、ここは勝ちだ。
導線が直る。
戻れるようになる。
無操作が異議なしにならなくなる。
現場差異欄が追加される。
担当者の画面表示も改善される。
未来の被害は減るかもしれない。
それは、間違いなく必要なことだった。
久我は、そこを突いてくる。
『今後の事故処理において、同種の不備は防げます』
「防ぐ必要はあります」
『同意します』
『であれば、改善を早急に進めるべきです』
「進めるべきです」
俺は答えた。
「ただし、改善として採用する前に、旧仕様の成立を査定します」
久我の表情は変わらなかった。
だが、画面の向こうで、書類の上を走っていたペンの動きが、一度だけ完全に止まった。
『旧仕様の成立、ですか』
「はい」
『改善によって同種事案の再発は防止できます』
「再発防止と、過去の成立確認は別です」
会議室の空気が、少しだけ重くなる。
真鍋課長が何も言わない。
御園さんは、朱ヶ丘の面談記録を開いたままにしている。
相沢は、旧様式と改善案の差分表を表示した。
【旧様式】
【異議申立導線:初期画面外】
【戻る操作:不可】
【途中保存:なし】
【無操作時処理:異議なし】
【現場差異確認欄:なし】
【自由記述入力時表示:滞留】
↓
【改善案】
【異議申立導線:初期画面表示】
【戻る操作:可能】
【途中保存:可能】
【無操作時処理:確認保留】
【現場差異確認欄:追加】
【自由記述入力時表示:追加確認】
綺麗な差分だった。
綺麗すぎる。
改善案が正しいほど、旧様式が何を欠いていたかもはっきりする。
久我は、その表を見た。
『改善後仕様との差分は、今後の設計資料として扱えます』
「旧案件の照合資料として扱います」
『黒木さん』
久我の声は低かった。
怒りではない。
確認の声だった。
『未来を直すことが重要です』
「重要です」
『現場は次の事故処理を待っています。今後の処理を止めないためにも、改善仕様の標準化を優先すべきです』
その理屈は、また正しい。
今後の事故は待ってくれない。
制度の改善は早い方がいい。
過去の責任を掘り返す間に、次の処理が歪むなら、それは本末転倒になる。
久我は、そこを外さない。
だから、返す言葉は一つでいい。
「過去の不成立を確認しない改善は、責任の移動です」
相沢のキー入力が止まった。
御園さんが、画面から顔を上げた。
真鍋課長の胃薬の瓶が、机の上で小さく鳴った。
久我は、すぐには答えなかった。
沈黙というほど長くはない。
ただ、改善案の綺麗な項目が、急に別の意味を持ち始めた。
異議導線を初期画面に出す。
それは、旧様式では初期画面に出ていなかったということだ。
戻る操作を追加する。
それは、旧様式では戻れなかったということだ。
無操作時処理を確認保留に変える。
それは、旧様式では無操作を異議なしにしていたということだ。
現場差異確認欄を追加する。
それは、旧様式では差異を必須確認していなかったということだ。
改善案は、未来の修正であると同時に、過去の欠落一覧だった。
相沢が、差分表のタイトルを書き換えた。
【標準処理改善案 差分表】
↓
【旧仕様成立確認用 差分照合表】
久我の視線が、その行で止まった。
『相沢さん』
『はい』
『その名称変更は、事故査定課の判断ですか』
『はい』
相沢は、短く答えた。
『改善差分は、旧仕様の確認項目です』
久我は、数秒だけ黙った。
今度は、通信環境のせいではない。
『合理的ではあります』
受け入れる声だった。
だが、やはり譲歩ではない。
久我は、ただ次の盤面を作っている。
『ただし、旧仕様の全件照合を行えば、処理量は大きく増えます』
「承知しています」
『支払済み案件も含まれる』
「はい」
『再確認対象の拡大は、当事者側にも負担を生みます』
「分かっています」
御園さんが、そこで口を開いた。
「負担になります」
久我が、御園さんを見る。
「でも、黙ったままになっている人に、何も聞かないまま終わることも負担です」
御園さんの声は、静かだった。
「もう終わったことにされる負担です」
久我は、反論しなかった。
その代わり、丁寧に頷いた。
『治癒師としてのご意見として、記録します』
「お願いします」
御園さんは、すぐに言った。
「主観としてではなく、面談継続の必要性として」
相沢が、別欄を開いた。
【面談継続必要性】
【対象:支払済み通知後、再説明要求または異議表明を控えた可能性がある案件】
【判定:旧仕様成立確認用 差分照合表と照合】
真鍋課長が、眉間を押さえた。
「増えるな」
「増えます」
「胃に悪い」
「査定です」
「分かってきた自分が嫌だ」
そう言って、真鍋課長は胃薬を一粒飲んだ。
今回は、水も使った。
久我は、改善案の文末を開いた。
【総括】
【事故査定課による再確認過程で得られた知見を踏まえ、今後の標準処理を改善する】
俺は、その下に査定員所見欄を追加した。
【事故査定課 暫定所見】
【本改善案に列挙された修正項目は、旧仕様における説明成立、同意成立、異議申立機会、現場差異反映および担当者判断誘導の確認項目として扱う】
【改善採用前に、旧仕様適用済み案件との照合を要する】
久我が、その文面を読んだ。
『改善採用前に、ですか』
「はい」
『採用を止めるという意味ですか』
「違います」
俺は、改善案の上部に表示されている状態欄を指した。
【改善案状態:標準組込検討中】
「採用前照合を挟むという意味です」
相沢が状態欄を書き換える。
【改善案状態:標準組込検討中】
↓
【改善案状態:旧仕様照合後、標準組込可否判断】
真鍋課長が、低く笑った。
「また嫌な欄が増えたな」
『必要な欄です』
相沢が答える。
「お前は本当に嫌な欄を作るのが上手い」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『相互検証です』
「便利にするな」
そのやり取りを聞いても、久我の表情は変わらなかった。
だが、改善案の意味はもう変わっている。
未来の標準処理に組み込むための提案ではない。
旧仕様が何を成立させていなかったのかを照合するための資料になった。
俺は、確定キーの前で手を止めた。
これを確定すれば、改善は遅れる。
少なくとも、久我が望む速度では進まなくなる。
事故査定課はまた、救済を遅らせる側として記録される。
未来の処理を止めているように見える。
だが、過去を確認しない改善は、きれいすぎる。
きれいな改善ほど、責任を洗い流す。
俺は確定した。
【事故査定課 暫定所見:確定】
画面の表示が変わる。
【再確認フォーム】
【扱い:標準処理改善案】
↓
【扱い:旧仕様成立確認用 査定資料】
【標準組込:旧仕様照合後に判断】
【既存支払済み案件:差分照合対象】
御園さんが、その表示を見つめていた。
「これで、改善が責任の蓋にならないんですね」
「まだ、なりにくくなっただけです」
俺は答えた。
「蓋にしようとすれば、また査定します」
久我が、画面の向こうで微かに頷いた。
『事故査定課の判断として受理します』
同じ言葉だった。
だが、今回は少しだけ硬い。
『ただし、旧仕様照合の範囲については、監理官室として再確認します』
「お願いします」
『改善を止める理由にはしません』
「止めるつもりはありません」
『では、同時並行ですね』
「はい」
久我は、すぐに次の表を出した。
【旧仕様照合対象】
【一、KG系テンプレート適用済み案件】
【二、支払済み移行済み案件】
【三、異議申立導線未到達案件】
【四、現場差異反映欄なし案件】
【五、自由記述欄カーソル移動後、未入力案件】
こちらが査定資料に変えた瞬間、久我は照合範囲を整理してきた。
早い。
冷たい。
そして、有能だった。
真鍋課長が、胃薬の瓶を見た。
「こいつ、厄介だな」
「はい」
「敵にしたくない」
「もうしています」
「胃に悪い」
「査定です」
「今日はそれで押し切るな」
相沢が、照合対象一覧を見て、手を止めた。
『黒木さん』
「何ですか」
『照合対象の抽出条件に、久我監理官が一件追加しています』
「表示してください」
相沢が、一覧の下部を拡大した。
【六、再確認フォーム改善項目と旧様式欠落項目が一致する案件】
御園さんが、低く言った。
「自分で、広げたんですか」
「はい」
俺は画面を見た。
「広げた上で、管理するつもりです」
久我は、こちらを見ていた。
『旧仕様の成立確認を行う以上、照合範囲は明確であるべきです』
「同意します」
『曖昧なまま広げれば、事故査定課の判断も不安定になります』
「同意します」
『ですので、こちらでも範囲を定義します』
久我の言葉は、また正しかった。
だが、こちらにとって都合のいい正しさではない。
彼は、負けを認めていない。
盤面を広げ、線を引き直し、自分の管理下に戻そうとしている。
その強さがあるから、久我式は簡単には崩れない。
俺は、照合対象の六項目目を見た。
再確認フォーム改善項目と旧様式欠落項目が一致する案件。
その条件は、こちらが欲しかったものでもある。
だが、その条件を久我が出したということは、彼ももう理解している。
改善案は、未来の仕様ではない。
過去の欠落を照らす鏡になった。
相沢の端末に、抽出結果が表示される。
【旧仕様成立確認用 差分照合】
【対象候補:抽出中】
【一致候補:複数件】
【支払済み案件を含む】
灰色の行が、また増えた。
御園さんが、そっと息を吐いた。
「終わっていないんですね」
「はい」
俺は答えた。
「支払済みでも、終わっていません」
久我は、画面の向こうで静かに言った。
『では、次回は照合対象の範囲確定から入りましょう』
「はい」
『その前に、一点だけ』
久我の声が、ほんの少し低くなった。
『改善そのものを止めるつもりはありません』
「こちらも、止めるつもりはありません」
『では、確認しましょう』
久我は、画面上に一行を表示した。
【改善採用と旧仕様責任確認は、同時並行で進行】
その一行は、合意のように見えた。
だが、俺には違って見えた。
戦場が二つに増えただけだ。
未来の仕様。
過去の責任。
久我は、どちらも自分の管理下に置く気でいる。
俺は、同じ画面の下に事故査定課の注記を追加した。
【事故査定課注記】
【旧仕様責任確認が完了するまで、改善採用は過去案件の成立を補完しない】
確定。
短い音が鳴った。
改善という言葉は、便利だ。
未来を向いている。
前向きで、きれいで、誰も反対しにくい。
だが、過去の不成立をそのままにした改善は、責任の移動になる。
再確認フォームは、もう久我式の飾りではない。
旧仕様を査定するための刃になった。
相沢の画面に、次の表示が出る。
【KG系テンプレート】
【状態:標準処理】
【設計審査対象化:判定準備中】
真鍋課長が、目を細めた。
「次は、そこか」
「はい」
俺は答えた。
「標準処理のままでは、もう置けません」
画面の中で、状態欄が静かに点滅していた。
次に変えるのは、仕様の数字ではない。
本庁が標準処理として扱ってきた、久我式そのものの正当性だ。




