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そのダンジョン事故、保険金は出ません。 〜元査定員の俺はログ鑑定で無謀な探索者の嘘を暴く〜  作者: 平八
第一章 支払うべき相手を間違えるな

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第3話 聖女ミミの契約解除

契約書というものは、紙に書かれた人間関係だ。


 誰が得をするのか。


 誰が損をするのか。


 誰が責任を負い、誰が責任から逃げるのか。


 丁寧な言葉で包まれていても、そこに書かれている本質は隠せない。


 そして、俺の目の前にある契約書は、かなりひどかった。


「御園さん」


「はい」


「先に確認します。この契約書を作成したのは誰ですか」


「レオンさんのマネージャーさんです。私は、内容はよく分からなくて……レオンさんに『形式だけだから』って言われて」


「形式だけ、ですか」


 俺は赤ペンを持ったまま、契約書の一枚目を机に置いた。


 御園ミミは、向かいの椅子に小さく座っている。


 昨日まで「聖女ミミ」と呼ばれていた回復役。


 勇者レオンのパーティで、治癒魔法と配信映えする涙を求められていた少女。


 今は、折り目のついた契約書を前に、膝の上で両手を握りしめている。


 契約書には、こう書かれていた。


『御園ミミは、勇者レオンチャンネルの専属回復役として活動する』


『活動に伴う名称、映像、音声、発言、収益権の一部は、勇者レオンチャンネルに帰属する』


『パーティ活動中に発生した回復薬、魔石、補助装備等の費用は、御園ミミが自己負担する』


『探索中の負傷者に対する初期回復責任は、御園ミミが負う』


『契約期間内の離脱には違約金が発生する』


 ひどい。


 かなりひどい。


 損害保険会社時代にも、読んでいるだけで胃が重くなる書類はあった。


 だが、これは保険以前の問題だ。


 契約の形をした責任の押しつけである。


「黒木さん……」


「はい」


「やっぱり、私が悪かったんでしょうか」


「何がですか」


「ちゃんと読まなかったことです」


「それは反省点です」


 ミミの顔が少し曇った。


 俺は続ける。


「ですが、読まなかった人間がいるからといって、読ませる気のない契約を作っていい理由にはなりません」


 ミミが顔を上げた。


「え……」


「契約とは、双方が内容を理解し、対等に合意して初めて意味を持ちます。片方が知識も立場も弱いことを利用して、責任だけを押しつける書面は、契約ではありません」


 俺は契約書の一文に赤線を引く。


「少なくとも、これは公平なパーティ契約ではありません」


 ミミは唇を噛んだ。


「でも、レオンさんは……私を有名にしてくれました」


「その代わりに、何を払いましたか」


「え?」


「回復薬代。魔石代。睡眠時間。事故時の責任。心労。誹謗中傷。そして今、証言圧力」


 ミミは黙った。


「有名にしてくれた、という言葉で、全部まとめて処理するには高すぎます」


「……そう、ですよね」


 彼女の声は小さい。


 まだ、自分を責める癖が抜けていない。


 こういう人間は、加害者からすると非常に扱いやすい。


 責められると、自分が悪かったのだと思う。


 感謝しろと言われると、苦しかったことまで恩だと思い込む。


 そして、逃げるべき場所から逃げ遅れる。


 俺は契約書をめくった。


 そこに、最も悪質な条項があった。


『御園ミミは、探索中に負傷者が生じた場合、可能な限り回復魔法を行使し、回復不履行による損害の一部を負担するものとする』


 俺は赤ペンを止めた。


「これは駄目です」


「ど、どこですか?」


「ここです」


 ミミが身を乗り出す。


 俺は該当箇所を指差した。


「あなたに、負傷者の損害を負担させる条項です」


「でも、私は回復役なので……」


「回復役だからといって、他人が作った危険の責任まで負う必要はありません」


 俺は昨日の事故ログを呼び出した。


 モニターに、火蜥蜴から逃げるレオンと、必死に追いかけるミミが映る。


 ミミは何度も叫んでいた。


『戻りましょう! この先は危険です!』


『レオンさん、お願いです!』


『私の魔力も、もう半分しかありません!』


 だが、レオンは振り返りもせず叫ぶ。


『うるさい! 聖女なら黙って回復してろ!』


 ミミの肩が震えた。


 その言葉を、改めて聞かされたからだろう。


 俺は映像を止めた。


「御園さん。あなたは忠告しています」


「……はい」


「撤退を提案しています」


「はい」


「魔力残量も伝えています」


「……はい」


「それを無視したのはレオン氏です」


 俺は契約書を指で叩く。


「にもかかわらず、この契約では、事故後の責任を回復役に寄せる構造になっている」


「構造……」


「はい。あなたの善意と責任感を、レオン氏側が保険代わりに使っています」


 ミミは俯いた。


「私……ずっと、役に立たないといけないって思ってました」


「なぜですか」


「私、戦えないから。攻撃魔法も苦手で、レオンさんに『お前は回復しかできないんだから、せめて役に立て』って言われていて」


「それは評価ではありません。支配です」


 少し強く言いすぎたかもしれない。


 だが、ここは曖昧にしない方がいい。


「回復しかできないのではありません。回復ができるんです」


 ミミがゆっくり顔を上げた。


「前衛が傷ついた時、探索を続けられるのは回復役がいるからです。撤退判断も、魔力残量も、治療優先順位も、本来は重要な専門判断です」


「専門……判断……」


「それに、昨日のログを確認しました」


「ログ、ですか?」


「あなたは火蜥蜴が暴れる前に三度、撤退を提案しています。魔力残量も正確に申告していた。パニック状態の現場で、あれだけ冷静に残量と危険度を判断できる回復役は多くありません」


 ミミは目を見開いた。


「私、そんな……」


「できています。少なくとも、ログ上はそう出ています」


「ログ上……」


「俺は慰めが苦手です。だから、事実だけ言います」


 俺はモニターを消した。


「あなたの判断は正しかった。ログ上も、そう出ています」


 ミミは、しばらく何も言わなかった。


 ただ、膝の上で握っていた手の力が、少しだけ緩んだ。


「……私、ちゃんと止めていたんですね」


「はい」


「無駄じゃ、なかったんですね」


「事故を止めることはできませんでした。ですが、あなたが危険を認識し、撤退を提案していた事実は残っています」


「事実……」


「はい。あなたのせいではないと示すには、十分な事実です」


 ミミは小さく息を吐いた。


 泣きそうな顔だったが、泣かなかった。


 それでいい。


 慰めより先に、事実が必要な時がある。


「それを『黙って回復してろ』で処理するリーダーは、リーダーではありません」


「……じゃあ、何ですか」


「事故要因です」


 ミミが小さく吹き出した。


「黒木さん、そういうところです」


「どこですか」


「真面目な顔で、ひどいことを言うところです」


「正確に言ったつもりです」


「だからです」


 少しだけ、ミミの表情が緩んだ。


 それでいい。


 泣いている人間は、書類を読めない。


 恐怖で固まっている人間は、契約を解除できない。


 まず、自分が壊れていないことを思い出させる必要がある。


 午後。


 ダンジョン庁事故査定課の小会議室に、レオン側の代理人がやって来た。


 代理人といっても、正式な弁護士ではない。


 レオンチャンネルの運営マネージャー。


 細い眼鏡をかけた、三十代半ばの男だった。


 名前は、浜田。


 名刺には「勇者レオンプロジェクト統括」とある。


 プロジェクト。


 人間関係をそう呼ぶ時点で、だいたい面倒だ。


 浜田は会議室に入るなり、作り笑いを浮かべた。


「いやあ、黒木さん。昨日から少々、大げさな騒ぎになっていますね」


「少々ではありません」


「まあまあ。若い探索者の失敗です。レオンも反省していますよ」


「本人は先ほどまで公式ログを捏造だと配信していました」


「そこは、感情的になってしまっただけで」


「感情的になった結果、事故関係者に証言圧力をかけています」


 浜田の笑みが一瞬だけ止まった。


 すぐに戻る。


「それも誤解です。彼はミミを心配していたんですよ。ねえ、ミミちゃん?」


 ミミは俺の隣に座っている。


 彼女の指先が膝の上で少し震えた。


 だが、昨日ほどではない。


 浜田は続ける。


「レオンは君を聖女として売り出した。君が有名になれたのは、彼のおかげだ。こういう時こそ支えてあげないと」


 俺はペンを置いた。


「浜田氏」


「はい?」


「今の発言も記録しています」


「……は?」


「事故関係者への心理的圧力、および契約上の優越的地位を背景にした証言誘導の可能性があります」


 浜田の表情が硬くなる。


「黒木さん。あなたは少し、物事を悪く取りすぎでは?」


「事故査定では、良く取る必要も悪く取る必要もありません。記録します」


 俺は資料を一枚、浜田の前に置いた。


「本日は、御園ミミさんと勇者レオンチャンネル間のパーティ契約について確認します」


「それは事故査定課の管轄外では?」


「昨日の事故において、回復責任、配信収益、証言圧力、事故後の誹謗誘導に関わっています。無関係ではありません」


 浜田は椅子に座り直した。


 笑みが少し薄くなっている。


「まあ、契約書にサインしたのはミミちゃん本人ですからね」


「本人の署名はあります」


「なら、問題ないでしょう」


「問題がないかどうかを確認するのが、今日の目的です」


 俺は契約書を開いた。


「まず、報酬配分です。配信収益の七割が勇者レオンチャンネル、二割が運営管理費、一割が御園さん。回復薬代、魔石代、消耗品は御園さん負担。これは事実ですか」


 浜田は肩をすくめる。


「彼女はまだ知名度が低かったですから。レオンの看板で出してあげていたんです」


「看板料として九割持っていく契約ですか」


「言い方が悪いですね」


「数字の方が悪いです」


 ミミが隣で小さく息を呑む。


 浜田のこめかみがぴくりと動いた。


「黒木さん、これはビジネスです。人気者が多く取るのは当然でしょう」


「人気者が多く取ることと、回復薬代まで回復役に負担させることは別です」


 俺は次の条項を指す。


「次に、事故時の回復責任。探索中に負傷者が生じた場合、御園さんが可能な限り回復魔法を行使し、回復不履行による損害の一部を負担する。これはどういう意味ですか」


「回復役として当然の責任です」


「では、リーダーが警告区域に侵入し、撤退勧告を無視し、第三者を巻き込んだ場合でも、回復役が損害を負担すると?」


「そこまでは言っていません」


「契約書にはそう読めます」


「解釈の問題です」


「解釈の余地を利用して、弱い立場の人間に責任を押しつける書面を、俺は契約とは呼びません」


 浜田が初めて笑みを消した。


「あなた、さっきから何様ですか」


「事故査定官です」


「これは民間のパーティ契約ですよ」


「その契約が事故処理に影響している以上、確認対象です」


 俺はモニターに昨日のログを映す。


 レオンの声が流れる。


『うるさい! 聖女なら黙って回復してろ!』


 会議室が静まり返る。


 浜田は顔をしかめた。


「これは配信中の勢いで――」


「次です」


 別の映像。


 レオンの緊急配信。


『お前を“聖女ミミ”として売ってやったのは誰だと思ってるんだ!』


『俺の配信がなきゃ、お前なんてただの地味な回復役だっただろ!』


 ミミが息を止めた。


 浜田は視線を逸らす。


「本人も感情的に……」


「感情的になるたびに所有物扱いする人間は、契約相手として不適格です」


 俺は契約書の最後の条項を読み上げた。


「『聖女ミミとしての活動名義、映像、発言、収益権の一部は、勇者レオンチャンネルに帰属するものとする』」


 俺は浜田を見た。


「人間は、パーティの装備品ではありません」


 浜田は鼻で笑った。


「大げさですね。ただの芸名管理ですよ」


「では、御園さんがパーティを離脱した後も、その名前や映像で収益を得るつもりはありませんね」


「それは契約上、こちらに権利が――」


「先ほど、ただの芸名管理と言いました」


 浜田が黙る。


「都合のいい時だけ管理と言い、利益が出る時だけ権利と言い換える。便利な契約ですね」


 ミミが小さく言った。


「私……その名前、もう使えないんですか?」


 浜田がすぐに答えた。


「当然だよ。聖女ミミは、レオンチャンネルが育てたキャラクターだから」


 その言葉で、ミミの顔が強張った。


 俺は浜田を見た。


「今の発言も記録します」


「また記録ですか」


「はい。商品化の意図が明確になりました」


 浜田は舌打ちした。


「黒木さん。あなた、話を大きくしすぎですよ。ミミちゃんも、ここで揉めるより、レオンのところに戻った方が得だよ」


 ミミの肩が揺れる。


 浜田はそこを逃さない。


「君一人でやっていけるの? 回復しかできないのに。レオンがいたから、君は聖女でいられたんだよ」


 ミミの指が、ぎゅっと握られた。


 俺は口を開こうとした。


 だが、その前に。


「違います」


 ミミが言った。


 声は小さかった。


 しかし、はっきりしていた。


「私は、回復しかできないんじゃありません」


 浜田が眉をひそめる。


「は?」


「私は、回復ができます」


 ミミは顔を上げた。


 まだ震えている。


 だが、逃げてはいない。


「レオンさんが危ない時も、他の人が怪我をした時も、私はずっと回復してきました。怖くても、魔力が足りなくても、できる限りやってきました」


「だから、それをレオンチャンネルが――」


「でも、私はレオンさんの持ち物じゃありません」


 会議室が静かになった。


 ミミは胸の前で手を握りしめる。


「聖女って呼ばれるのは、嫌いじゃありませんでした。誰かの役に立てる気がしたから。でも……その名前を使って、私が何も言えなくなるなら、いりません」


 浜田の顔が歪む。


「ミミちゃん、感情的になってるね」


「はい。怖いです」


 ミミはうなずいた。


「でも、怖いままでも言います」


 そして、ゆっくりと言った。


「私は、勇者レオンさんのパーティを抜けます」


 俺は何も言わなかった。


 これは俺の査定ではない。


 彼女自身の意思だ。


 それを奪ってはいけない。


 浜田が机を叩いた。


「ふざけるな! 契約期間中の離脱には違約金が発生する!」


 俺はそこで、初めて口を開いた。


「その違約金条項も査定対象です」


「また査定か!」


「はい」


 俺は契約書の該当箇所を指差す。


「離脱時違約金三百万円。根拠となる損害算定なし。さらに、レオン氏側の重大な安全配慮違反、収益配分の不均衡、事故時責任の不当な押しつけ、証言圧力が確認されています」


 浜田が顔を赤くする。


「だから何だ!」


「少なくとも、現時点で御園さんに違約金を即時請求できる状態ではありません」


「あなたに決める権限はない!」


「俺一人ではありません。法務、労務監査、探索者契約審査部へ回します」


「なっ……」


「事故査定課だけで終わる話ではない、と言いました」


 浜田が立ち上がろうとする。


 俺はその前に、もう一枚の資料を机に置いた。


「それと浜田氏」


「まだ何か?」


「違約金三百万円を主張するのは自由です。ただし、こちらも確認します」


「確認?」


「レオン氏側の安全配慮義務違反、証言圧力、契約上の不均衡、事故責任の不当な押しつけ。これらによって御園さんに生じた損害です」


 浜田の顔色が変わった。


「なっ……」


「概算ですが、違約金三百万円で済む話ではありません。請求する側が、請求される側になる可能性があります」


「そんな馬鹿な!」


「数字は感情では動きません」


 浜田は、今度こそ言葉を失った。


 俺は資料を閉じる。


「また、昨日の事故に関して、御園さんへの責任転嫁を前提とした発信が継続した場合、レオン氏側の求償額および行政処分に影響します」


 浜田は立ち上がった。


「こんなの横暴だ!」


「横暴ではありません。後始末です」


「レオンは人気者だぞ! こんなことをして、探索者業界を敵に回す気か!」


「業界を守ることと、被害者を黙らせることは別です」


 浜田は言葉を失った。


 俺は最後の一枚をミミに差し出す。


「御園さん。これは確認書です」


「確認書……?」


「本日、あなたが自分の意思でパーティ離脱を希望したこと。事故に関する証言について、レオン氏側から心理的圧力を受けたと感じていること。今後、契約審査部による確認を希望すること」


 ミミは震える手でペンを取った。


「ここに、書けばいいんですか」


「はい。ただし、無理に書く必要はありません」


「書きます」


 ミミはゆっくり名前を書いた。


 御園ミミ。


 それは、聖女ミミではなかった。


 レオンチャンネルの商品名でもなかった。


 一人の探索者の名前だった。


 浜田は、怒りと焦りを隠せないまま会議室を出て行った。


 扉が閉まると、ミミは大きく息を吐いた。


「……足が、震えています」


「座っていてください」


「はい」


 彼女は椅子に座り直し、両手で顔を覆った。


「私、言えました」


「はい」


「抜けるって、言えました」


「はい」


「でも……怖いです」


「普通です」


 ミミが顔を上げる。


「普通、ですか」


「契約を切る時は、誰でも怖いです。特に、相手が声の大きい人間なら」


「黒木さんも怖いですか?」


「俺は胃が痛くなります」


「それは怖いに入るんですか?」


「実務上は、かなり近いです」


 ミミは少し笑った。


 俺はタブレットを操作し、彼女の確認書を庁内システムへ登録する。


【契約審査依頼】

【対象:御園ミミ/勇者レオンチャンネル間パーティ契約】

【主な論点:不均衡な収益配分、費用負担、違約金、事故責任転嫁、活動名義権利帰属】

【緊急度:高】

【事故関連性:あり】


 送信。


 これで、少なくともレオン側が一方的にミミを縛ることは難しくなる。


 完全に終わったわけではない。


 むしろ、手続きはこれからだ。


 だが、一歩目としては十分だ。


「黒木さん」


「何ですか」


「私は、これからどうすればいいんでしょうか」


「まず休んでください」


「え?」


「魔力枯渇、睡眠不足、誹謗中傷、証言圧力。今のあなたは、どう見ても稼働状態ではありません」


「稼働……」


「言い方を間違えました」


「いえ、黒木さんらしいです」


 俺は少し考える。


「その後については、選択肢があります」


「選択肢?」


「探索者として別のパーティを探す。しばらく休業する。被害者支援制度を利用する。あるいは、庁の臨時補助員として、事故被害者対応を手伝う」


 ミミが目を瞬かせた。


「私が、ダンジョン庁で?」


「正式雇用ではありません。あくまで臨時です。今回のような事故では、回復職の知識が必要になる場面があります」


「でも、私にできるでしょうか」


「できます」


 俺は即答した。


 ミミは驚いた顔をする。


「あなたは昨日、初心者三人に回復魔法をかけ続けました。レオン氏に怒鳴られても、最後まで現場を離れなかった。事故被害者の痛みを知っている。これは、事故査定課にとって十分な能力です」


 ミミの目が、少しだけ潤んだ。


「……黒木さん」


「それに、先ほども言いましたが、あなたの撤退判断と魔力残量の申告は正確でした」


「そんなに、何度も言わなくても……」


「重要なので繰り返しています。あなたは現場で、回復役として必要な判断をしていました。少なくとも、ログ上はそう出ています」


 ミミは俯き、少しだけ笑った。


「ログ上、ですか」


「はい」


「黒木さんらしい褒め方ですね」


「褒めたつもりはありません。事実確認です」


「それが、少し嬉しいです」


 その言葉に、俺は返答に困った。


 感謝や好意は、苦情より処理が難しい。


 俺が黙っていると、ミミは小さく笑った。


「黒木さん」


「何ですか」


「そういう時は、『どういたしまして』でいいと思います」


「……どういたしまして」


「はい」


 その笑顔は、昨日までの「聖女ミミ」の配信用の笑顔とは違っていた。


 疲れていて、頼りなくて、でも少しだけ軽い。


 それでいい。


 人間は、商品名を外したあとに、ようやく自分の顔に戻ることがある。


 その日の夕方。


 勇者レオンチャンネルは、大荒れになっていた。


 レオンはまた配信を始めていた。


 タイトルは、


『ミミに裏切られました』


 だった。


 俺はもう驚かなかった。


 胃薬だけは飲んだ。


 画面の中で、レオンは涙目で叫んでいる。


『俺はミミを育てた! なのにあいつは、黒木にそそのかされて契約を切ろうとしてる!』


『聖女ミミは俺のチャンネルの看板だ! 勝手に辞めるなんて許されない!』


『違約金三百万、絶対に払わせる!』


 コメント欄は、以前ほど一枚岩ではなかった。


『いや、契約見せろよ』

『ミミちゃんを商品扱いしてたの見た後だときつい』

『黒木また出番だぞ』

『レオン、請求書を自分で厚くしてない?』

『ミミちゃん逃げて』


 俺は配信を見ながら、タブレットに入力する。


『契約解除妨害』


『違約金請求予告』


『名誉毀損・誹謗誘導の継続』


『活動名義の権利濫用疑い』


 ミミが横から覗き込む。


「また資料になるんですか」


「なります」


「レオンさん、本当にどんどん請求書を厚くしていきますね」


「そうですね」


「止めなくていいんですか?」


「止める権限はありません」


 俺は少し間を置く。


「ただ、記録する権限はあります」


 ミミは静かに頷いた。


 怖がってはいる。


 けれど、もう一方的に怯えてはいない。


 その変化だけでも、今日の査定には意味があった。


 レオンの配信はまだ続いている。


『俺は悪くない! 全部、黒木が仕組んだんだ!』


 俺は配信画面を見ながら、深く息を吐いた。


「黒木さん」


「何ですか」


「次は、どうするんですか」


「次ですか」


 俺は未処理案件一覧を開く。


 レオン関連の追加資料が山のように増えている。


 だが、その下に、別の案件が表示されていた。


『死亡保険金請求』

『探索者パーティ:銀狼の牙』

『申告内容:メンバー一名がダンジョン内でモンスターに捕食』

『遺体未回収』

『保険金受取人変更履歴あり』


 俺は画面を見て、眉をひそめた。


 ミミが不安そうに聞く。


「どうしたんですか?」


「死亡案件です」


「え……」


「しかも、死体がありません」


 ミミの顔が引き締まる。


「それは……本当に亡くなったんですか?」


「それを確認するのが仕事です」


 俺はタブレットを閉じる。


 保険金詐欺。


 死亡偽装。


 借金逃れ。


 遺族保護。


 死体がない死亡案件には、嫌な可能性がいくつもある。


 そして、そのどれもが、軽く扱っていいものではない。


 ミミが小さく言った。


「私も、行っていいですか」


「休むように言ったはずですが」


「はい。でも……もし本当に亡くなった人がいるなら、回復役として見ておきたいです。もし嘘なら、騙されそうな人を止めたいです」


 俺はミミを見た。


 昨日まで、彼女はレオンの後ろで震えていた。


 今日、彼女は自分で契約を切った。


 そして今、次の被害者を見ると言っている。


 人間は、案外強い。


 ただし、強い人間ほど、自分が壊れるまで頑張ることがある。


「無理はしないでください」


「はい」


「それと」


「はい」


「現場で泣いても構いません。ただし、証拠品には触らないでください」


 ミミは少しだけ笑った。


「黒木さん、本当に最後の一言が台無しです」


「重要事項です」


「分かりました。証拠品には触りません」


 俺は立ち上がった。


 聖女ミミの契約解除。


 それは、ひとまず完了した。


 だが、ダンジョン事故は待ってくれない。


 次の案件は、死体のない死亡保険金請求。


 コメント欄の同情は、証拠能力を持たない。


 契約書の文字も、逃げない。


 そして死体のない死亡届は、たいてい厄介だ。


「行きましょう」


「はい」


 俺たちは、次の現場へ向かった。


 支払うべき相手を、間違えないために。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


第3話は、御園ミミの契約解除回でした。

レオン案件はここで一区切りですが、彼の請求書は今回も少し厚くなりました。


次回からは、死亡保険金請求の案件に入ります。

死体のない死亡届。

本当に亡くなったのか、それとも別の嘘が隠れているのか。


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