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そのダンジョン事故、保険金は出ません。 〜元査定員の俺はログ鑑定で無謀な探索者の嘘を暴く〜  作者: 平八
第二章 その判断ミスは、誰に教え込まれたものですか

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第23話 支払済みは、正しさの証明ではありません

停止という言葉は、弱い。


 取り消しではない。


 確定ではない。


 勝利でもない。


 ただ、これ以上その前提で進めるな、という一時停止だ。


 だが、事故査定では、その一時停止が命綱になることがある。


 誤った前提で処理が進めば、補償額が決まる。


 補償額が決まれば、通知が出る。


 通知が出れば、本人と家族はそれを「結果」として受け取る。


 結果は、後から訂正できる。


 理屈の上では。


 だが、人間は、通知書に書かれた言葉を忘れられない。


 あなたにも過失があります。


 四〇%です。


 その一文は、金額だけでなく、本人の中に残る。


 だから、止めるなら早い方がいい。


 確定する前に。


 本人の心へ、紙の重みが落ちる前に。


 朝。


 事故査定課の端末に、椎名遥斗案件の停止申請に対する返答が届いていた。


【本庁受付通知】

【対象:椎名遥斗案件】

【申請内容:本人過失割合案四〇%の適用停止】

【受付状況:受理】

【備考:教育訓練支援室より意見照会あり】


 受理。


 まだ通ったわけではない。


 だが、門は開いた。


 俺、黒木司は、通知を確認した。


 真鍋課長は、俺の背後から画面を覗き込む。


「受理か」


「はい」


「差戻しじゃないだけマシだな」


「はい」


「胃薬一錠分くらいはマシだ」


「定量化できません」


「するな」


 課長は椅子に座り、胃薬の瓶を机に置いた。


 今日は開けていない。


 珍しい。


「黒木」


「はい」


「受理されたからって、勝った顔をするなよ」


「していましたか」


「してない。だから余計に嫌なんだよ」


「承知しました」


「腹立つな」


 御園ミミが、横で小さく笑った。


 だが、すぐに表情を戻す。


「遥斗くん側には、どう伝えますか」


 そこが問題だった。


 本人過失割合案が止まった。


 こちらから見れば、前進だ。


 だが、本人に伝え方を間違えれば、また反省文を読み返させることになる。


 また「僕が悪い」を掘り返すことになる。


「本人には、まだ直接伝えません」


 俺は言った。


 御園さんが頷く。


「お母さんに、先に?」


「はい。本人への伝達は、母親と治療担当者の同席を前提にします」


「内容は」


「本人過失四〇%案は、現時点で採用不可となった。これ以上、反省文を事故原因資料として扱わない。調査は継続中」


「『あなたは悪くない』とは言わないんですね」


「言えません」


 俺は資料を見た。


「ただし、『あなたが悪いと決まったわけではない』とは言えます」


 御園さんは、少しだけ目を伏せた。


「その言い方の方が、遥斗くんには届くかもしれません」


「なぜですか」


「今の遥斗くんに、急に『悪くない』と言うと、たぶん怖がります」


 彼女は治療記録を閉じた。


「ずっと『自分が悪い』で耐えていた子に、急にそれを外すと、何を支えにしていいか分からなくなります」


「手続き上も同じです」


 俺は言った。


 御園さんがこちらを見る。


「今、こちらが『遥斗さんは悪くありません』と断定すれば、学校側は必ず反論します。手続きは長引きます。説明のたびに、椎名家はまた事故と反省文に触れることになります」


「……はい」


「だから、段階を踏みます」


「段階」


「まず、『四〇%と決まったわけではない』を確定させる。次に、反省文を事故原因資料として扱わない。最後に、設備と訓練側の前提を再査定する」


 俺は、端末に表示された受理通知を閉じた。


「自責を剥がすにも、順番があります」


 御園さんは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「治療と同じですね」


「はい」


 固定したばかりの傷を、いきなり動かさない。


 自責も同じらしい。


 午前十時。


 椎名遥斗の母親への説明は、オンラインで行われた。


 本人は同席させない。


 御園さんの提案だ。


 画面の向こうで、椎名の母親は、両手を膝の上で握っていた。


 少し疲れている。


 それでも、前回より目の焦点が合っていた。


「本日は、遥斗さんの補償判断について、現時点の状況をお伝えします」


 俺は言った。


「はい」


 母親の声は小さい。


「まず、本人過失割合案四〇%については、事故査定課として適用停止を申請し、本庁側で受理されています」


 母親は、すぐには理解できなかったようだった。


「四〇%、というのは……」


「遥斗さん側に四割の過失があるという前提で、補償額を減額する試算です」


 母親の顔色が変わった。


 御園さんが、少しだけ身を乗り出す。


「ただし、その前提は止まっています」


 俺は続けた。


「現時点で、その四〇%案は採用不可です」


「……それは、遥斗が悪くないということですか」


 母親の声が震えた。


 言いたいことは分かる。


 だが、ここで言葉を飾ると、あとで別の傷になる。


「まだ、最終判断ではありません」


 俺は言った。


「ですが、少なくとも、反省文を根拠に遥斗さんの過失を四〇%とする処理は止めています」


 母親は、唇を噛んだ。


「反省文……」


「はい」


「私、あれを読んで、遥斗が本当にそう思っているんだと……」


 声が詰まる。


「先生も、本人が反省しているって言っていて。私も、早く前を向かせなきゃって」


 御園さんが、静かに言った。


「お母さん」


「はい」


「あの反省文は、遥斗くんの筆跡です。でも、言葉の使われ方には確認が必要です」


 母親が顔を上げる。


「筆跡が本人のものでも、言葉まで本人だけのものとは限りません」


 御園さんの声は、治療室の声だった。


 優しいが、曖昧ではない。


「今は、遥斗くんに反省文を読み返させないでください」


「……はい」


「『あれはどういう意味だったの』と聞くのも、まだ避けてください」


「はい」


「まずは、身体を休ませることを優先してください」


 母親は、何度も頷いた。


 頷きながら、涙をこぼした。


「私、あの子に……頑張らなきゃって言ってしまいました」


 御園さんは黙っていた。


 責めない。


 慰めすぎもしない。


 母親は続ける。


「先生がそう言うなら、あなたがもっと頑張らなきゃって。事故の後に。病院で」


 俺は記録しない。


 これは、今は記録にする言葉ではない。


 御園さんが、小さく言った。


「その言葉を、今すぐ取り消そうとしなくて大丈夫です」


「え……」


「取り消そうとして、何度も説明すると、遥斗くんはまた自分を責めるかもしれません」


 御園さんは続けた。


「今は、こう伝えてください」


 少し間を置いた。


「まだ何も決まっていない。だから、今は休んでいい」


 母親の肩が震えた。


「休んで、いい……」


「はい」


 御園さんは頷いた。


「それだけで十分です」


 母親は、画面の向こうで深く頭を下げた。


 オンライン説明は、そこで終わった。


 通話を切った後、御園さんはしばらく黙っていた。


「黒木さん」


「はい」


「反省文って、怖いですね」


「はい」


「一枚の紙なのに、親子の会話まで変えてしまう」


「はい」


 俺は端末に、本人保護メモを残した。


【本人伝達時留意】

【反省文の再読要求禁止】

【事故原因に関する本人への直接確認は延期】

【保護者には「未確定」「休養優先」を伝達】

【本人の自責を補強する表現を避ける】

【自責解除は段階的に行う】


 まずは、遥斗の四〇%を止める。


 それは、金額だけの話ではない。


 午後。


 次は朱ヶ丘民間訓練所案件だった。


 支払済。


 十四歳。


 左下腿骨折。


 魔力熱傷二度。


 過呼吸発作。


 本人過失割合案、五〇%。


 一覧表の中で、御園さんが最初に強く反応した案件だ。


 相沢から、追加資料が届いていた。


【朱ヶ丘案件 概要】

【事故分類:恐怖反応による行動停止】

【本人自認資料:有】

【補償状況:支払済】

【本人過失割合:五〇%適用済】

【反省文:有】

【指導記録:有】

【備考:過呼吸発作あり】


 支払済。


 この三文字は重い。


 もう終わったことになっている。


 関係者は、終わった処理として棚に戻している。


 本人と家族も、終わったものとして生活の中に押し込めているかもしれない。


 そこを開ける。


 簡単ではない。


「まず資料だけです」


 真鍋課長が言った。


「本人にも保護者にもまだ触れるな」


「はい」


「朱ヶ丘側にも、いきなり再査定とは言うな。資料確認だ」


「はい」


「御園」


「はい」


「医療記録の確認範囲を絞れ。過呼吸発作の発生時刻、負傷時の姿勢、救護到着までの時間」


「分かりました」


「黒木」


「はい」


「支払済だからといって、最初からひっくり返す前提で書くな」


「前提確認として書きます」


「そうしろ」


 課長は胃を押さえた。


「俺は、回収見込みのないコストを払うのが嫌いなだけだ」


 真鍋課長は、朱ヶ丘案件の資料を指で叩いた。


「だが、過失割合をひっくり返せるだけの証拠が目の前にある」


「はい」


「だが、前提をひっくり返せるだけの根拠があるなら、見ないふりをする方が高くつく」


 その言い方は、真鍋課長らしかった。


 無駄に格好つけない。


 だが、逃げない。


 朱ヶ丘案件の資料を開く。


 まず、事故報告書。


【朱ヶ丘民間訓練所 事故報告書】

【訓練内容:閉鎖空間退避訓練】

【対象者:十四歳訓練生】

【事故概要:恐怖反応により行動停止。退避指示に反応できず転倒、魔力障害物に接触】

【本人反省:恐怖に負けたことを認め、訓練継続意思あり】

【本人過失割合:五〇%】


 閉鎖空間退避訓練。


 恐怖反応。


 行動停止。


 過呼吸発作。


 俺は、指導記録を開いた。


【指導記録】

恐怖は敵ではない。だが、恐怖に支配されれば仲間を危険に晒す。

止まるな。呼吸を整えろ。前へ進め。

訓練中の停止は、本人の判断責任として扱う。


 次に、反省文。


【本人反省文】

私は恐怖に支配され、訓練中に停止してしまいました。

呼吸を整える努力を怠り、前へ進む判断ができませんでした。

私の行動停止により、周囲に迷惑をかけました。

次は恐怖に負けず、訓練を継続します。


 御園さんが、資料を見たまま言った。


「これ、過呼吸の子に書かせたんですか」


「資料上は」


「呼吸を整える努力を怠り、って」


 彼女はそこだけ、ゆっくり読んだ。


「過呼吸を、努力不足にしている」


 俺は、医療記録を開く。


【医療記録 抜粋】

【事故直後:過換気症状あり】

【SpO2低下なし】

【意識混濁なし】

【呼吸数増加】

【パニック反応】

【処置:安全確保、呼吸誘導、下腿固定、熱傷処置】


 御園さんの声が低くなる。


「SpO2低下なし。意識はある。呼吸数増加。パニック反応」


「はい」


「典型的な過呼吸発作です」


「はい」


「本人の判断遅延というより、身体反応です」


「はい」


「それを、呼吸を整える努力を怠った、ですか」


 御園さんは、そこで黙った。


 怒りがある。


 だが、今回はすぐに言葉へ変えない。


 彼女は治癒師として、資料を読み直している。


 感情ではなく、所見にするために。


 その時、相沢から追加のメッセージが来た。


『朱ヶ丘案件、反省文の入力時刻が出ました』


 俺は添付を開く。


【朱ヶ丘案件 反省文入力ログ】

【骨折固定処置完了:十六時十二分】

【過呼吸発作後の経過観察開始:十六時十八分】

【反省文入力:十六時四十二分】

【入力端末:訓練所事務室端末】

【本人確認:チェック済】


 御園さんの表情が、はっきり変わった。


「処置から三十分も経っていません」


「はい」


「パニックが完全に収まっていたとは思えません」


 相沢のメッセージが続いた。


『筆跡データではなく、端末入力です。本人署名欄はチェックボックスのみです』


 会議室が静まった。


 大人が打った文章に、十四歳がチェックを入れた。


 それが、本人反省文として保険資料に残っている。


「御園所見をお願いします」


「はい」


 御園さんは深く息を吸った。


「過呼吸発作は、本人の意思で即時制御できるものではありません。訓練中の恐怖刺激によって誘発された身体反応です」


 俺は入力する。


【御園所見】

【過呼吸発作は不可抗力性の高い身体反応】

【本人の判断遅延・努力不足と直結させるには医学的根拠不足】

【反省文内「呼吸を整える努力を怠った」は、医療記録と整合しない可能性】

【反省文入力時点で、過呼吸発作後の経過観察中】


 御園さんは続けた。


「左下腿骨折と熱傷があるなら、行動停止ではなく、転倒後の移動不能も考えるべきです」


「了解しました」


【追加所見】

【左下腿骨折発生後の移動不能と、事故分類「行動停止」の関係を要確認】


 倫理が、論理になる。


 怒りが、再査定事由になる。


 必要なのは、ここだ。


 夕方。


 朱ヶ丘案件について、本庁へ資料照会を投げた。


【照会事項】

【過呼吸発作を本人過失とした医学的根拠】

【下腿骨折後の移動不能を考慮した事故分類の有無】

【本人反省文の作成時刻・同席者・設問様式】

【本人確認チェックの実施状況】

【本人過失五〇%の算定根拠】

【本人および保護者への説明資料】


 榊原係長からの返信は早かった。


【回答】

【支払済案件につき、再査定要否を確認します】


 確認します。


 また来た。


 俺は返信する。


【確認期限を設定してください】

【期限が設定されない確認は、査定上、回答保留ではなく回答拒否と同じ機能を持ちます】


 数分後。


【回答期限:明日十七時】


 よし。


 確認に期限がついた。


 逃げ道が、ひとつ狭くなる。


 夜。


 相沢から追加連絡が来た。


『朱ヶ丘案件、補償支払時の説明資料に非表示添付があります』


 俺は画面を開いた。


【非表示添付】

【本人納得確認書】

【保護者説明済チェック】

【減額理由説明書】


 相沢の次のメッセージ。


『ただし、減額理由説明書の本文が取得できません。添付参照ログだけ残っています』


 本文がない。


 参照ログはある。


 また同じだ。


 隠したものの形は、隠し方に残る。


 俺は返信する。


【参照ログ、作成者、削除・移動履歴を保全してください】


 相沢から、すぐに返る。


『了解しました。今回は先に期限も切ります』


 成長している。


 俺は少し考えた。


【想定より早い判断です】


 返信。


『それは褒めてますか?』


【業務評価です】


『褒め言葉として処理します』


 同じやり取りを、またした。


 だが、悪くない。


 真鍋課長に朱ヶ丘案件の暫定所見を送る。


【朱ヶ丘案件 暫定所見】


一、十四歳訓練生に対し、恐怖反応による行動停止として本人過失五〇%が適用済。


二、医療記録上、過呼吸発作が確認されている。


三、過呼吸発作は不可抗力性の高い身体反応であり、本人の判断遅延・努力不足と直結させるには医学的根拠不足。


四、反省文入力は骨折固定処置完了から約三十分後、かつ過呼吸発作後の経過観察中。


五、反省文は端末入力であり、本人署名欄はチェックボックスのみ。


六、左下腿骨折後の移動不能が事故分類に考慮された形跡は現時点で未確認。


七、反省文内の語彙は指導記録と高く一致する可能性がある。


八、減額理由説明書の本文未取得。参照ログのみ確認。


九、前提事実の誤認による再査定事由に該当する可能性あり。


 送信。


 真鍋課長から返信。


『まず椎名を通せ。その次に朱ヶ丘だ』


 その通りだ。


 順番は間違えない。


 俺は椎名遥斗案件の停止申請状況を再確認した。


【本人過失割合案四〇%:適用停止処理中】

【反省文の事故原因資料扱い:停止申請中】

【本人伝達:保護者経由/本人直接確認延期】

【補償額再試算:学校側過失・設備不備前提で再作成依頼中】


 まだ終わっていない。


 遥斗の四〇%は、止まりかけているだけだ。


 確定ではない。


 ここを通す。


 それから、朱ヶ丘を開ける。


 その後、北央。


 支払済案件。


 再査定。


 標準添付テンプレートKG系の作成責任者。


 やることは多い。


 だが、順番は見えている。


 御園さんが、隣に立った。


「黒木さん」


「はい」


「朱ヶ丘の子、名前はまだ見えないんですよね」


「はい」


「でも、いますよね」


「はい」


「どこかに」


「はい」


「過呼吸を努力不足って書かれて、五割悪いことにされた子が」


「資料上は、その可能性があります」


 御園さんは、少しだけ目を閉じた。


「資料上って、冷たいですね」


「はい」


「でも、その言い方じゃないと動かせないんですよね」


「はい」


「なら、動かしてください」


「その予定です」


 御園さんは頷いた。


 それ以上、言わなかった。


 俺は端末に、今日最後のメモを残した。


【椎名遥斗案件を最優先】

【朱ヶ丘案件は資料再査定準備】

【本人再接触は保護手順確定まで禁止】

【支払済みは、正しさの証明ではない】


 支払済み。


 処理済み。


 説明済み。


 納得済み。


 どれも、組織にとって都合のいい逃げ切りの呪文だ。


 だが、前提が壊れていれば、その処理はただの蓋に過ぎない。


 蓋をしただけで、膿は消えない。


 傷は治らない。


 俺は画面を閉じた。


 まだ、本人の判断ミスとは認めない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


第23話では、椎名遥斗案件の四〇%を止める手続きと、支払済みだった朱ヶ丘案件への再査定の入口を描きました。


「支払済み」「処理済み」「説明済み」「納得済み」。


それらは、必ずしも正しさの証明ではありません。


前提が壊れていれば、処理はただの蓋になる。


次回は、椎名遥斗案件の補償再試算と、朱ヶ丘案件の減額理由説明書へ踏み込んでいきます。


引き続き、黒木たちの査定を見届けていただけると嬉しいです。

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