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そのダンジョン事故、保険金は出ません。 〜元査定員の俺はログ鑑定で無謀な探索者の嘘を暴く〜  作者: 平八
第一章 支払うべき相手を間違えるな

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幕間 相沢は、知らなかったことにできなかった

見なかったことにすれば、何も失わずに済んだ。


 たぶん、それが一番賢かった。


 本庁の職員として働くなら、見なくていいものは見ない方がいい。


 聞かなくていいことは聞かない方がいい。


 残さなくていい記録は、残さない方がいい。


 そうやって、うまく流れていく人間の方が、組織では長く生きられる。


 俺、相沢圭吾は、それを知っていた。


 知っていたはずだった。


 けれど、見た記録は、見なかったことにはできなかった。


 ダンジョン庁本庁、装備産業調整室。


 そこが俺の職場だった。


 事故査定課とは違う。


 俺たちの仕事は、現場の血や悲鳴に直接向き合うことではない。


 装備業界との調整。


 安全基準の運用。


 供給体制の確認。


 業界団体との会議。


 メーカーからの相談対応。


 資料を読み、文言を整え、角が立たない回答を作る。


 誰かが困らないように。


 誰かが怒らないように。


 誰かの責任が、いきなり確定しないように。


 それが大人の仕事だと思っていた。


 久我室長は、その道の達人だった。


 言葉が綺麗だった。


 判断が早かった。


 業界の人間とも、本庁の上層部とも、うまく話せた。


 俺は、久我室長を尊敬していた。


 少なくとも、最初は。


 GL3-17Aの事前相談記録を見た時も、俺はただの相談案件だと思った。


【件名:GL3-17Aに関する安全基準上の取扱いについて】


 ミカドギア社から届いた資料。


 右脇腹縫合部の魔力繊維密度。


 社内推奨値未達。


 防護膜途切れの可能性。


 浅層甲殻系変異個体の爪攻撃に対する懸念。


 最初に読んだ時、少し嫌な感じはした。


 だが、俺は技術者ではない。


 現場の探索者でもない。


 本庁の若手職員だ。


 自分の違和感に、そこまでの価値があるとは思わなかった。


 室長は言った。


「即時回収までは不要だろう。供給安定もある」


 その言葉は、もっともらしかった。


 浅層向け低価格装備。


 新人探索者が買いやすい価格帯。


 市場から消えれば、別の危険が生まれる。


 だから、メーカー責任で周知。


 使用者への適正装着徹底。


 事故が起きたら個別事案。


 文書としては、綺麗だった。


 綺麗すぎるくらいに。


 事故が起きたと知った時、最初に思ったのは、嫌だな、だった。


 嫌だな。


 あの相談の件かもしれない。


 面倒なことになりそうだ。


 そう思った。


 自分で自分が嫌になった。


 怪我をした人がいると聞いて、最初に出てきた感情が「面倒」だったからだ。


 けれど、組織の中にいると、そうなる。


 怪我人の名前より先に、担当部署が気になる。


 傷の深さより先に、回答文の表現が気になる。


 誰が処理するのか。


 どこまで報告するのか。


 責任がこちらに来るのか。


 そういうことを、先に考えてしまう。


 俺は悪人ではないつもりだった。


 だが、善人でもなかった。


 ただ、面倒を避けたい職員だった。


 事故後、GL3-17Aの資料は担当移管された。


 事故査定課から本庁へ。


 表向きは、機密保持と案件一元化。


 その言い方は、間違っていない。


 だが、俺は知っていた。


 移管と同時に、事故査定課から見えなくなった資料がある。


 事故前相談記録。


 ミカドギア社の添付資料。


 久我室長の回答。


 それが、別階層へ移動した。


 消したわけではない。


 ただ、見えない場所に移した。


 組織では、そういうことがある。


 消すと問題になる。


 移すだけなら、説明がつく。


 俺はその作業ログを見ていた。


 見てしまった。


 黒木査定官を初めて見た時、嫌な人だと思った。


 本庁会議室で、淡々と記録していた。


 久我室長の言葉も。


 ミカドギア社の言い訳も。


 こちらが少し濁した表現も。


 全部、記録する。


 空気が悪くなっても、止めない。


 誰かが笑ってごまかそうとしても、拾う。


 俺は、あの人が苦手だった。


 あの人の前では、曖昧なまま立っていられない気がしたからだ。


 久我室長が言った。


「その記録は、組織内の信頼関係を損なう」


 黒木査定官は答えた。


「被害者三名の信頼は、すでに損なわれています」


 その時、胸の奥が嫌な音を立てた。


 俺は、被害者三名の顔を知らなかった。


 名前も、資料でしか知らなかった。


 けれど、その三人が、自分の装着が悪かったのかもしれないと苦しんでいるらしいことは、事故査定課の資料から読めた。


 自分のせい。


 装着ミス。


 新人だから。


 その言葉が、三人の側に押し戻されている。


 俺たちが綺麗に整えた文書の向こうで。


 その時、初めて思った。


 これは、本当に調整だったのか。


 ただ、誰かに支払わせただけではないのか。


 保存チップは、机の奥にあった。


 古い形式の魔力記録媒体。


 本庁ではもうほとんど使われない。


 俺が新人研修の時に、バックアップ用として配られたものだった。


 使うつもりはなかった。


 使ってはいけないとも思った。


 本庁の内部資料を外へ出せば、処分対象になる。


 キャリアに傷がつく。


 異動もあるかもしれない。


 上司から睨まれる。


 同僚から距離を置かれる。


 全部、分かっていた。


 保存チップは、小さかった。


 指先でつまめば、簡単に隠せる。


 けれど、その薄い金属片が、やけに重かった。


 これを渡せば、自分の席も、評価も、将来の異動先も変わるかもしれない。


 ただの記録媒体ではない。


 爆弾だった。


 同時に、錨でもあった。


 この記録だけが、俺が見たものを現実につなぎ止めていた。


 それでも、俺は事故前相談記録を複製した。


 手が震えていた。


 端末の確認音が、やけに大きく聞こえた。


【複製完了】


 たった四文字。


 それだけで、自分が戻れない場所に足を踏み入れた気がした。


 俺は勇敢だったわけではない。


 正義感に燃えていたわけでもない。


 ただ、怖かった。


 この記録まで見えない場所へ移されたら、被害者三名はずっと自分を責めるのではないか。


 久我室長の綺麗な回答が、誰の目にも触れないまま終わるのではないか。


 そして何より。


 俺自身が、あの記録を見た自分を、なかったことにしてしまうのではないか。


 それが怖かった。


 俺は正義を選んだのではない。


 見なかったことにする自分を、これ以上信じられなくなっただけだ。


 黒木査定官に保存チップを渡す時、足が重かった。


 廊下の照明が白すぎて、逃げ道がないように見えた。


 何度も引き返そうと思った。


 渡さなくてもいい。


 誰か別の人がやるかもしれない。


 監査が見つけるかもしれない。


 事故査定課が別ルートでたどり着くかもしれない。


 そう思って、自分を止めようとした。


 だが、そのたびに、佐伯真人という名前が頭に浮かんだ。


 資料の中で見ただけの名前。


 右脇腹を負傷。


 探索者復帰未定。


 自責感あり。


 たったそれだけの記録。


 けれど、記録には人間がいる。


 黒木査定官は、たぶんそういうふうに読む。


 俺は、そう読めていなかった。


 だから、せめて記録を渡すことだけはしようと思った。


「本庁にも、消される前の記録を見た者がいます」


 そう言った時、自分の声はひどく頼りなかった。


 黒木査定官は驚かなかった。


 責めもしなかった。


 褒めもしなかった。


 ただ、聞いた。


「何の記録ですか」


 あの人らしいと思った。


 俺の勇気や恐怖より、まず資料の内容。


 少し冷たい。


 でも、その冷たさに救われた。


 もし「よくやった」と言われていたら、俺はその場で逃げ出していたかもしれない。


 俺は英雄になりたかったわけではない。


 ただ、記録を渡したかっただけだ。


「ミカドギア社から、本庁装備産業調整室へ送られた事前相談記録です」


 保存チップを差し出す手が震えた。


 黒木査定官は、それを受け取った。


「その記録、正式に預かります」


 正式に。


 その言葉に、少しだけ呼吸が戻った。


 黒木査定官は、俺を救ってくれたわけではない。


 ただ、俺が差し出した記録を、記録として扱ってくれた。


 それだけだった。


 でも、その時の俺には、それで十分だった。


 その後、本庁内の空気は変わった。


 直接何かを言われたわけではない。


 露骨な処分も、今のところはない。


 内部協力者保護申請が受理されたからだ。


 事故査定課から出されたものらしい。


 おそらく、黒木査定官が出した。


 いや、真鍋課長の確認もあるのだろう。


 組織の中で、申請というものは一人では通らない。


 誰かが判を押している。


 それでも、廊下の空気は冷たい。


 同僚たちは、前より少しだけ話しかけてこなくなった。


 会話が止まる。


 目が合うと逸らされる。


 資料共有の通知が、俺だけ少し遅れてくる。


 露骨ではない。


 だから、記録しづらい。


 組織の冷たさは、いつも明文化されるわけではない。


 だが、確かに温度は下がる。


 俺はそれを知った。


 保護申請は盾になる。


 だが、盾は暖房ではない。


 寒さは残る。


 久我室長とは、監査室の前で一度だけ会った。


 以前より、少し疲れて見えた。


 それでも、姿勢は崩れていない。


「相沢君」


「はい」


「君は、なぜ私に直接言わなかった」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 直接言えばよかったのだろうか。


 室長、この記録は事故査定課に出すべきです。


 この回答は、見逃しに見えます。


 担当移管は資料遮断に見えます。


 そんなことを、自分が言えたとは思えない。


 俺は、久我室長を恐れていた。


 同時に、尊敬もしていた。


 だから余計に言えなかった。


「言えませんでした」


 そう答えるのが精一杯だった。


 久我室長は、しばらく俺を見ていた。


「黒木君には言えたのに?」


「黒木査定官には、記録を渡しただけです」


「同じことだ」


「違います」


 自分でも驚くほど、声が出た。


「黒木査定官は、俺の意見を聞いたわけではありません。記録を受け取っただけです」


 久我室長の目が、少しだけ細くなる。


「なるほど」


 その声には、怒りだけではないものが混じっていた。


「私は、君に意見を言わせる上司ではなかったということか」


「……分かりません」


「正直だね」


「すみません」


「謝る必要はない」


 久我室長は、廊下の窓へ視線を向けた。


「組織は、正しさだけでは動かない」


「はい」


「だが、記録がなければ、間違いを認めることもできない」


 その言葉は、黒木査定官に言ったものと同じだった。


 俺は、何も言えなかった。


 久我室長は、そのまま歩いていった。


 背中は、以前より小さく見えた。


 でも、完全に折れてはいなかった。


 あの人もまた、組織の中で何かを守ろうとしていたのだろう。


 ただ、その守り方が、誰かの傷を見えにくくした。


 それだけなのだと思う。


 それだけ、では済まないのだけれど。


 監査室の聴取は、淡々としていた。


「事前相談記録を最初に確認したのはいつですか」


「事故前です」


「久我室長の回答案作成に関与しましたか」


「文書整理のみです」


「回収指導不要という表現について、違和感はありましたか」


 ここで、少し止まった。


 違和感。


 あった。


 あったが、言わなかった。


 言わなかった違和感は、記録になるのだろうか。


 俺は答えた。


「ありました」


「その時点で上司に伝えましたか」


「いいえ」


「なぜですか」


「判断できる立場ではないと思ったからです」


「現在はどう考えていますか」


 俺は、手元の資料を見た。


 事故前相談記録。


 防護膜途切れの可能性。


 回収指導不要。


 そして、佐伯真人という名前。


「判断できる立場ではありませんでした。でも、見た記録をなかったことにしていい立場でもなかったと思います」


 監査官は、少しだけ顔を上げた。


 それから、黙って記録した。


 黒木査定官ではないのに、その沈黙が少し似ていた。


 記録される。


 それは怖い。


 だが、記録されないことの方が、もっと怖い時がある。


 聴取が終わった後、事故査定課から通知が届いていた。


【内部協力者保護申請 継続確認】

【資料提供者:相沢圭吾】

【資料提供内容:GL3-17A事故前相談記録】

【保護内容:不利益取扱い防止、聴取経路の監査室一本化、所属部署内での処分保留】


 添付メモ。


『資料提供は事故原因究明に寄与しました。今後の聴取では、事実と推測を分けて説明してください』


 黒木査定官からだった。


 礼でも慰めでもない。


 実務上の注意。


 少し笑ってしまった。


 この人は、どこまでいってもこうなのだ。


 俺は返信した。


『黒木査定官らしい返信ですね』


 送ってから、少し後悔した。


 失礼だったかもしれない。


 けれど、すぐに返事は来なかった。


 代わりに、事故査定課の御園補助員から短いメッセージが届いた。


『たぶん、黒木さんは褒められたのかどうか査定中です』


 思わず吹き出した。


 本庁の廊下で笑うことなど、最近ほとんどなかったのに。


 少しだけ肩の力が抜けた。


 自席に戻ると、机の上に新しい資料が置かれていた。


 探索者育成学校に関する照会依頼。


 第二章、などという言葉を俺は知らない。


 だが、事故査定課が次に追う案件なのだろう。


【探索者育成学校における訓練事故】

【対象:未成年訓練生】

【学校側見解:本人の判断ミス】

【訓練ログに一部欠損あり】

【本庁関連部署:教育訓練支援室、安全管理指導班】


 俺は、資料を読んで眉をひそめた。


 本人の判断ミス。


 訓練ログ欠損。


 またか、と思った。


 教育訓練支援室への照会履歴を開いた。


 担当者名を見た瞬間、胃のあたりが冷たくなった。


 知っている名前だった。


 事故の処理が早いことで有名な人だ。


 正確には、処理を「早く終わらせる」ことで有名な人。


 教育機関相手の案件は、いつも言葉が綺麗になる。


 未来ある若者。


 教育的配慮。


 指導上の判断。


 本人の成長機会。


 綺麗な言葉が増えるほど、責任の所在は薄くなる。


 俺は画面を見つめた。


 今度は、最初から見よう。


 見えたものを、見なかったことにしないようにしよう。


 もちろん、怖い。


 また冷たい目を向けられるかもしれない。


 余計なことをするなと言われるかもしれない。


 だが、俺はもう知ってしまった。


 見なかったことにした記録は、消えるのではない。


 誰かの自己責任に変わるだけだ。


 俺は資料のメタデータを確認した。


【編集履歴】

【事故後二時間以内にログ一部修正】

【担当:育成学校安全管理室】

【共有先:教育訓練支援室】


 俺は、端末に短いメモを残した。


【相沢メモ】

【ログ修正履歴あり】

【教育訓練支援室への照会履歴を確認すること】

【事故前の訓練計画原本が存在する可能性】


 保存。


 それだけだ。


 まだ、誰かに渡すほどのものではない。


 だが、残した。


 見たものを、見たものとして残した。


 それが、今の俺にできる最初の仕事だった。


 定時を少し過ぎて、席を立つ。


 本庁の廊下は、相変わらず冷たい。


 けれど、前ほど息苦しくはなかった。


 エレベーターの前で、装備産業調整室の同僚とすれ違った。


 名前を呼ばれたわけではない。


 彼はこちらを見なかった。


 ただ、すれ違いざまに、ほとんど息のような声で言った。


「……あの記録、出してくれて助かった人もいると思う」


 それだけだった。


 彼は足を止めなかった。


 俺の顔も見なかった。


 庇うつもりも、味方だと名乗るつもりもないのだろう。


 でも、本庁の廊下では、その一言だけでも十分すぎるほど危うかった。


 俺は、しばらくその場に立っていた。


 味方になってくれたわけではない。


 声を上げて庇ってくれたわけでもない。


 ただ、一言だけ。


 それでも、十分だった。


 組織は冷たい。


 だが、全員が凍っているわけではない。


 そう思えた。


 庁舎を出ると、夜風が冷たかった。


 新宿ダンジョンの魔力光が、遠くに揺れている。


 あの下で、今日も誰かが装備を信じて潜っている。


 制度を信じている。


 報告書を信じている。


 そして、事故が起きた時には、誰かの言葉で責任の場所が決まってしまう。


 俺は、その言葉を作る側にいる。


 それが怖い。


 以前より、ずっと怖い。


 けれど、その怖さを持っていた方がいいのだと思う。


 何も怖くなくなった時、人はたぶん、綺麗な言葉で誰かの傷を隠す。


 見なかったことにすれば、何も失わずに済んだ。


 だが、見た記録は、見なかったことにはできなかった。


 俺は英雄ではない。


 内部告発者と呼ばれるほど強くもない。


 ただ、保存チップを渡した本庁職員だ。


 それだけだ。


 でも。


 次に何かを見た時、また手が震えるとしても。


 その震えごと、記録に残せる人間でありたいと思った。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は第一章後の幕間、相沢視点でした。


相沢は、勇敢な告発者というより、本当は黙っていたかった普通の本庁職員です。

けれど、事故前相談記録を見てしまった。

そして、それを知らなかったことにはできなかった。


黒木は彼を英雄扱いせず、ただ「記録提供者」として扱いました。

それが相沢にとっては、むしろ救いになりました。


これで第一章後の幕間は一区切りです。

次回から第二章、探索者育成学校の未成年訓練生事故へ進みます。


またしても「本人の判断ミス」とされた事故。

欠損した訓練ログ。

そして、教育機関という新たな壁。


黒木、ミミ、真鍋、そして本庁側の相沢。

それぞれの立場から、次の事故を追っていきます。


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