幕間 真鍋課長の胃も、少し痛い
胃薬の瓶を、机の引き出しに入れる。
一本。
いや、正確には黒木から借りたものだ。
借りたと言ったが、あいつは「返却不要です」と言った。
返す気はない。
そもそも、これは事故査定課の共用備品として計上してもいいのではないか。
そう思って経費申請欄を見たが、さすがに項目がなかった。
【消耗品】
【文房具】
【通信費】
【外部照会費】
【現場調査費】
【胃薬】
ない。
当然だ。
あったらあったで、この課はもう終わっている。
いや。
終わっているから、必要なのかもしれない。
俺、真鍋修一は、引き出しを閉め、目の前の報告書を見た。
【GL3-17A貫通事故 最終処理記録】
長い案件だった。
勇者気取りの配信者。
聖女と呼ばれていた回復職。
死体のない死亡届。
企業の安全偽装。
本庁の調整。
外部資料。
内部協力者。
求償通知。
行政側検証。
普通の課なら、途中でどこかに投げている。
本庁へ移管。
法務へ照会。
監査へ相談。
結論保留。
そういう逃げ道は、いくらでもある。
だが、黒木は逃げ道を逃げ道として見ない。
通路があれば進む。
扉が閉まっていれば記録する。
鍵がかかっていれば、誰がいつ鍵をかけたか確認する。
扱いづらい。
心底、扱いづらい部下だ。
黒木司。
事故査定課の査定官。
前職は損害保険会社の事故査定員。
固有スキルは《因果鑑定》。
過去のログを確認し、事故原因を可視化できる。
能力だけ見れば、事故査定課にとって喉から手が出るほど欲しい人材だ。
ただし、性格に難がある。
いや、性格というより、運用に難がある。
上司の顔色を見ない。
空気を読まない。
忖度を資料から除外する。
そして、誰かが曖昧にしたいことほど、丁寧に記録する。
本庁の会議で、久我室長相手にこう言った。
「不適切な問いです」
普通は言わない。
言ってはいけない。
少なくとも、俺のような中間管理職は言わない。
言った瞬間、上から電話が来るからだ。
実際、来た。
何本も来た。
事故査定課はどうなっている。
黒木査定官の発言管理は誰がしている。
なぜ本庁を行政側検証対象に入れた。
なぜ事前相談記録を正式資料として扱った。
なぜ内部協力者保護申請を出した。
なぜ、なぜ、なぜ。
全部、俺に来る。
黒木本人に直接言えばいいものを、なぜか俺に来る。
管理職とは、そういうものだ。
組織の怒りは、本人ではなく、判子を押した人間に届く。
俺はそのたびに同じ返事をした。
「事故査定課として確認済みです」
胃が痛い。
だが、嘘ではない。
俺は判を押した。
押した以上、責任はある。
黒木司は、組織にとって扱いづらい部下だ。
だが、扱いやすい部下だけで守れる現場なら、そもそも事故査定課など要らない。
事故査定課は、誰かが「仕方ない」と言った後に呼ばれる部署だ。
無謀だった。
自己責任だった。
装着ミスだった。
本人の判断だった。
不幸な事故だった。
そういう言葉で片付けられかけたものを、もう一度、資料に戻す部署だ。
だから、扱いやすい人間ばかりでは困る。
扱いやすい人間は、扱いやすい結論を出す。
そして、扱いやすい結論は、たいてい誰かに負担を押しつける。
俺は、事故査定課長になってから何度も見てきた。
事故現場の床に残った血痕よりも、報告書の一文の方が人を傷つけることがある。
【本人の判断ミス】
【安全確認不足】
【装備不備は確認されず】
【制度対象外】
書類の言葉は冷たい。
だが、冷たいからこそ、そこに人間の責任が隠れる。
黒木は、それを嫌がる。
嫌がるというより、許容しない。
俺には、そこまでの強さはない。
俺は、組織の中で生きてきた。
上の顔色も見る。
予算も気にする。
政治的な落としどころも考える。
正しさだけでは、組織は動かない。
そんなことは、嫌というほど知っている。
久我室長も、組織を守ろうとしていたのだろう。
ただ、あの人は不都合なものを薄め、移し、見えにくくすることで守ろうとした。
俺は、そこまで器用ではない。
泥のついた報告書に判を押すくらいしかできない。
だが、不都合を見なかったことにして守った組織は、いつか中から腐る。
なら、せめて俺は、この課の中では不都合な記録を不都合なまま通す。
それくらいしか、できない。
だが、それくらいは、やらなければならない。
今回の件で久我室長が言った。
「記録がなければ、間違いを認めることもできない」
あの男にそれを言わせたのは、黒木だ。
腹立たしいが、認めるしかない。
机の上に、黒木の報告書がある。
厚い。
無駄に厚い。
いや、無駄ではない。
無駄ではないが、厚い。
頁をめくる。
【本庁発言】
【被害者三名の重傷について「全体から見れば、三件」と表現】
【直後に軽視否定】
【査定上の注意:被害規模の矮小化の可能性】
ここを読んだ時、本庁の誰かは頭を抱えただろう。
俺も抱えた。
だが、削除はしなかった。
削ったら、この報告書の意味が変わる。
さらに頁をめくる。
【責任押戻し構造】
【企業側:本庁見解を根拠化】
【本庁側:メーカー判断として切り離し】
【論点:曖昧な相談回答が販売継続の免罪符として使用された可能性】
性格が悪い。
だが、正確だ。
正確だから腹が立つ。
腹が立つから効いている。
さらに頁をめくる。
【被害者本人発言】
【探索者復帰未定】
【事故後恐怖あり】
【装着不備ではない確認により、自責感が軽減】
【本人認識:休む選択を許容】
ここで、俺は手を止めた。
佐伯真人。
新人探索者。
右脇腹を貫かれた少年。
彼は言ったらしい。
「休んでもいいんだって思えました」
黒木の報告書には、感動的な言葉はない。
だが、この一文だけで十分だった。
この事故は、装着ミスで処理されなかった。
それだけで、一人の若者が少し息をできた。
それなら、胃薬一本分くらいの価値はある。
いや、一本では足りない。
課として箱買いした方がいい。
最終確認欄に、俺の判がある。
朱肉の赤が、紙の上に沈んでいる。
それだけで、黒木の記録は「部下の暴走」ではなく、「事故査定課の正式見解」になる。
便利な魔法ではない。
判を押したところで、誰かが即座に救われるわけではない。
だが、組織の中では、判子一つが盾になることがある。
その盾の裏に、黒木の厄介な正しさと、御園の震える勇気を入れる。
それが、課長の仕事だ。
黒木が前へ出る。
御園が隣に立つ。
その二人を、ただの個人の暴走にしない。
課として出す。
組織の文書にする。
それが、俺の判だ。
正直、重い。
押したくない日もある。
だが、押さなければ届かない正しさがある。
だから、胃が痛くても押す。
判子一つが、組織の中では盾になることがある。
御園ミミの報告書も置いてある。
黒木の文体とは違う。
読みやすい。
人間が読むために書かれている。
黒木の文書は、事実を逃がさないために書かれている。
御園の文書は、人を傷つけすぎないために書かれている。
事故査定課には、どちらも必要だ。
【御園所見】
【負傷部位と訓練ログ記載に一部不一致】
【回復処置開始時刻に空白あり】
【本人判断ミスと断定するには、訓練指導側の配置記録が不足】
【訓練生本人の聞き取り時、責任誘導にならない質問設計が必要】
次の案件だ。
探索者育成学校。
未成年訓練生。
模擬ダンジョン訓練中の重傷。
学校側見解、本人の判断ミス。
訓練ログに一部欠損。
この文字列だけで、胃が痛い。
また自己責任か。
また本人の判断ミスか。
またログ欠損か。
事故は変わる。
関係者も変わる。
だが、逃げ方は似る。
この仕事をしていると分かる。
責任を逃がす文書には、独特の匂いがある。
主語が薄い。
時刻が曖昧。
判断した人間の名前がない。
被害者の行動だけが妙に詳しい。
そして、組織側の判断は「適切に対応」と書かれる。
適切。
総合判断。
調整。
本人の判断。
便利な言葉ばかりだ。
俺は御園の所見を読み返す。
あの子は、聖女と呼ばれていた頃より、今の方がずっと危なっかしい。
だが、今の方がずっと必要だ。
黒木が書類の嘘を見るなら、御園は傷の嘘を見る。
黒木が言葉の逃げ道を塞ぐなら、御園は被害者が自分を責める道を少し塞ぐ。
黒木は逃げ道を塞ぐ。
御園は、塞がれた道の前で立ちすくむ人間に、別の呼吸の仕方を教える。
あいつが角なら、この子は布だ。
黒木の言葉が相手を切り裂きすぎる前に、御園が傷口に触れる。
妙な組み合わせだ。
だが、事故査定課には、たぶんこの二人が要る。
そして、その二人が動けるように、俺が判を押す。
最悪の役割分担だ。
だが、悪くない。
内線が鳴った。
嫌な予感しかしない。
「事故査定課、真鍋です」
『本庁監査室の大崎です。GL3-17A案件について、追加確認を』
「はい」
来た。
追加確認。
便利な言葉だ。
たいていは、面倒なことが増える前触れである。
『黒木査定官が提出した行政側検証依頼についてですが、表現がかなり強いですね』
「事故査定課として確認済みです」
『真鍋課長も、あの表現で問題ないと?』
問題はある。
ありすぎる。
だが、問題があることと、間違っていることは違う。
「資料に基づく表現です」
『本庁装備産業調整室の判断を、見逃し可能性と記載しています』
「可能性です」
『政治的にかなり厳しい』
「事故査定上、記載が必要です」
『黒木査定官の影響ですか?』
そこで、少しだけ腹が立った。
黒木のせいにすれば、俺は楽だ。
あいつが勝手に書いた。
部下の暴走だ。
管理が行き届かなかった。
そう言えば、俺は少し軽くなる。
だが、俺は判を押した。
「事故査定課長である私の確認済みです」
電話口が、一瞬黙った。
『……分かりました。では、その前提で監査資料に回します』
「お願いします」
通話が切れる。
俺は、深く息を吐いた。
胃が痛い。
しかし、今の痛みは覚えておくべきだ。
部下の報告書に判を押すとは、こういうことだ。
俺は正義の味方じゃない。
ただ、部下の報告書に判を押した責任くらいは取る。
昼休み。
黒木がカップ麺を食べていた。
事故査定課の隅で、資料を読みながら。
あいつは食事中も資料を読む。
身体に悪い。
絶対に悪い。
「黒木」
「はい」
「飯の時くらい資料を置け」
「時間効率が」
「置け」
「はい」
黒木は素直に資料を閉じた。
意外とこういうところは従う。
妙な男だ。
「育成学校の件か」
「はい」
「どう見てる」
「現時点では断定できません」
「そういう返事はいらん。嫌な匂いはするか」
「します」
即答だった。
聞かなければよかった。
「理由は」
「訓練ログの欠損、事故後編集履歴、学校側説明の主語の薄さ、本人判断ミスという結論の早さです」
「また面倒だな」
「はい」
「未成年案件だ。前回より言葉に気をつけろ」
「御園さんに同行を依頼しました」
「それは正解だ」
「はい」
黒木が、少しだけ不思議そうな顔をした。
自分の判断を褒められたのが意外だったらしい。
こいつは本当に、評価というものに興味がない。
だが、無関心ではない。
たまに、ほんの少しだけ動く。
御園が何か言った時や、俺が「送れ」と言った時のように。
本人は気づいていないだろう。
まあ、気づかなくていい。
「黒木」
「はい」
「お前は正しいかもしれんが、常に正しい言い方をするわけじゃない」
「承知しています」
「本当に承知してるか?」
「改善努力中です」
「その報告書みたいな返答をやめろ」
「検討します」
「やめろと言っている」
「はい」
やはり胃が痛い。
だが、不思議と苛立ちだけではない。
この部下は面倒だ。
だが、逃げない。
それだけは分かっている。
午後、御園が未成年案件の聞き取り設計を持ってきた。
「課長、お時間よろしいでしょうか」
「いいぞ」
彼女は少し緊張した顔で資料を出した。
【聞き取り設計案】
【対象:未成年訓練生】
【目的:事故原因確認】
【注意:本人判断ミスを前提としない】
【確認項目:当日の体調、指導員配置、訓練指示、避難導線、ログ欠損箇所、回復処置開始時刻】
【禁止事項:なぜ無理をしたのか、なぜ逃げなかったのか等の責任誘導質問】
俺は読みながら、少し驚いた。
いい資料だった。
黒木の資料とは違う。
攻めるためではなく、守るための設計だ。
「よくできてる」
御園が目を丸くする。
「本当ですか?」
「本当だ。未成年相手に『なぜ逃げなかった』は危険だ。聞いた側に悪意がなくても、本人は責められたと思う」
「はい。佐伯さんの時に、言葉で自分を責めてしまうことがあると感じたので」
「良い視点だ」
「ありがとうございます」
御園は、少しほっとした顔をした。
俺は資料に判を押す。
「黒木にもこれを守らせろ」
「はい。言い方を間違えたら止めます」
「遠慮なく止めろ」
「はい」
「止める時は強めでいい」
「分かりました」
事故査定課は、どうやら少しずつ形になっている。
黒木が突っ込む。
御園が傷を見る。
俺が判を押して胃を痛める。
最悪の役割分担だ。
だが、悪くない。
夕方、予算管理システムを開いた。
現実は冷たい。
外部照会費が増えている。
現場調査費も増えている。
今回のミカドギア案件で、予定外の支出がかなり出た。
ログ復元。
外部資料保全。
専門家照会。
監査連携。
胃薬。
最後はまだ計上していない。
来期予算要求の欄に、俺は項目を追加する。
【事故査定課 追加要求案】
【外部資料保全費】
【ログ解析補助費】
【被害者聞き取り支援費】
【職員メンタルケア費】
メンタルケア費。
胃薬とは書かなかった。
大人だからだ。
その時、黒木が横から画面を見た。
「職員メンタルケア費ですか」
「見るな」
「必要だと思います」
「お前が言うな」
「事故査定課の業務負荷は増加傾向です」
「お前が増やしている」
「一因ではあります」
「認めるのか」
「事実です」
そこで真顔で認めるな。
怒りづらい。
「ただし」
黒木は続けた。
「必要な負荷だと考えます」
俺は溜息をついた。
「そういうところだぞ」
「はい」
「分かってないな」
「検討します」
俺は引き出しを開け、胃薬を一本取り出した。
黒木が見ている。
「それ、飲み過ぎでは」
「誰のせいだと思ってる」
「業務環境です」
「お前を含む業務環境だ」
「記録しますか」
「するな」
御園が少し離れた席で笑っていた。
事故査定課に、笑い声がある。
それは少しだけ、救いだった。
夜。
俺は一人で、課長席に残った。
窓の外には、新宿ダンジョンの魔力光が見える。
あの光の下に、今日も誰かが潜っている。
探索者。
訓練生。
配信者。
会社員。
学生。
誰かの子ども。
誰かの家族。
そして事故が起きれば、書類が来る。
怪我をした人間よりも早く、責任を押しつける言葉が来ることがある。
本人の判断ミス。
不運な事故。
安全確認不足。
制度対象外。
その言葉を、俺たちは受け取る。
受け取って、疑う。
疑って、調べる。
調べて、必要なら敵を作る。
嫌な仕事だ。
だが、誰かがやらなければならない。
机の上には、二つのファイルがある。
【GL3-17A貫通事故】
【探索者育成学校訓練事故】
一つは、一段落した案件。
もう一つは、これから胃を痛める案件。
俺は、新しいファイルを開いた。
最初の頁に、学校側の見解がある。
【本人の判断ミス】
その下に、黒木のメモ。
【判断主体、指示系統、ログ欠損理由を確認】
さらに、御園のメモ。
【責任誘導にならない聞き取りが必要】
俺はペンを取り、課長確認欄に署名した。
これで、また俺の責任になる。
分かっている。
分かっていて、判を押す。
俺は正義の味方じゃない。
だが、事故査定課長だ。
少なくとも、部下が記録したものを、見なかったことにはしない。
俺は書類を閉じ、引き出しの胃薬に手を伸ばした。
少し考えて、手を止める。
今日は、まだ飲まない。
明日、必要になるかもしれないからだ。
「……まったく」
独り言が漏れる。
「胃がいくつあっても足りん」
それでも、明日になれば黒木は端末を開くだろう。
御園は治療記録を見るだろう。
俺は電話を受け、予算を気にし、上に頭を下げ、最後に判を押すのだろう。
事故査定課は、そういう場所だ。
扱いづらい部下。
元聖女の補助員。
胃薬を持ち帰る課長。
ひどい布陣だ。
だが、悪くない。
俺は、課長席の明かりを消した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は第一章後の幕間、真鍋課長視点でした。
黒木は正しいけれど扱いづらい。
ミミは成長しているけれど、まだ危うい。
そして真鍋課長は、予算と政治と胃の痛みに挟まれながら、それでも判を押す大人です。
黒木司は、組織にとって扱いづらい部下。
でも、扱いやすい部下だけで守れる現場なら、事故査定課など要らない。
そして、判子一つが、組織の中では盾になることがある。
黒木の記録と、ミミの勇気を「事故査定課の正式見解」にする。
それが真鍋課長の仕事でした。
次回は、もう一本だけ幕間を挟みます。
本庁側の若手職員・相沢視点で、「知らなかったことにできなかった」彼のその後を描きます。
面白かった、続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。




