幕間 御園ミミは、もう聖女ではない
机の上に、小さな名札がある。
【事故査定課 補助員 御園ミミ】
たったそれだけの文字なのに、私は何度も見てしまう。
私は、指の腹で名札の文字をそっとなぞった。
御園ミミ。
ただの名前なのに、そこに自分の体温が戻ってくるような気がした。
聖女ミミではない。
レオン様のパーティにいた回復役でもない。
配信画面の端で、笑って、頷いて、傷ついた誰かに手をかざすだけの飾りでもない。
事故査定課の補助員。
まだ仮の立場だ。
契約更新もこれからだし、覚えることは山ほどある。
黒木さんなら、きっとこう言う。
「雇用契約上は、まだ安定していません」
うん。
分かっている。
でも、それでも。
この名札を見ると、胸の奥で何かが少しだけほどける。
私は、誰かの商品名ではなくなったのだと思えるから。
聖女という名前は、私を綺麗に見せてくれた。
でも、御園ミミという名前は、私を私の場所に立たせてくれる。
その日、事故査定課は少しだけ静かだった。
ミカドギア社の事故案件は、一段落した。
もちろん、全部終わったわけではない。
求償通知に対して、ミカドギア社は争う可能性がある。
本庁の内部監査も始まったばかり。
久我室長のことも、相沢さんのことも、まだ何も終わっていない。
それでも、佐伯さんたち三人への正式支給は決まった。
治療費。
休業補償。
再訓練支援。
装備買い替え補助。
そして、何より。
【装着不備を理由とする減額なし】
この一文。
黒木さんは、たぶんこれを「重要な記録」と言う。
私は、少し違う。
これは、息をするための言葉だと思う。
佐伯さんは、あの一文を聞いた時、肩の力が少し抜けた。
戻るかどうかは、まだ分からない。
でも、休んでもいいんだと思えた。
そう言った。
あの瞬間、私は思った。
回復魔法で塞げない傷がある。
でも、記録で少しだけ軽くできる痛みもあるのだと。
引き出しの奥に、古いリボンが入っている。
白と金のリボン。
配信の時に、よく髪に結んでいたものだ。
レオン様が言っていた。
「ミミは白が似合うよ。聖女っぽいし、視聴者受けがいい」
その時の私は、嬉しいのか嫌なのかも分からずに笑っていた。
似合うと言われた。
必要だと言われた。
支えてくれと言われた。
だから、それが私の役割なのだと思っていた。
誰かが前に出る。
誰かが戦う。
誰かが間違える。
私は後ろで回復する。
それしかできないのだと、思っていた。
でも、黒木さんは言った。
「回復しかできないのではありません。回復ができるんです」
あの時は、意味が分からなかった。
嬉しいのに、少し怖かった。
私に価値があると言われたようで。
同時に、もう誰かの後ろに隠れていられないと言われたようでもあったから。
でも今なら、少しだけ分かる。
回復職は、傷を見る。
どこを刺されたのか。
どれだけ深かったのか。
魔力の流れがどこで途切れたのか。
治っても、痛みが残る場所はどこなのか。
それを見る仕事だ。
傷跡を見る時、私はまず深さを見てしまう。
皮膚の裂け方。
魔力の流れが乱れた場所。
回復処置が入るまでの空白。
痛みをこらえていた時間。
報告書には「軽度」「中度」「重度」としか書かれない。
でも、回復職には、その間にあった震えや恐怖が見えることがある。
なら、私はただ癒すだけではない。
傷がどこにあったのかを、言葉にすることもできる。
誰かが「大したことじゃない」と言った時に。
誰かが「本人のせいだ」と言った時に。
私は、その傷を見た人間として、言える。
違います、と。
ここに傷がありました、と。
回復職は、傷を消す仕事だと思っていた。
でも今は、消してはいけない傷もあるのだと知っている。
黒木さんの机は、いつも書類でいっぱいだ。
でも、不思議と散らかってはいない。
本人に言わせれば、配置には意味があるらしい。
左側に未処理。
中央に確認中。
右側に保全済み。
胃薬は、なぜかすぐ手が届く位置。
真鍋課長が一本持って帰ったので、数が減っている。
買い足した方がいいのかもしれない。
経費で落ちるかどうかは分からない。
黒木さんに聞いたら、たぶん「検討します」と言う。
その机の端に、分厚いファイルが置かれていた。
【GL3-17A貫通事故】
私は、そっと表紙に触れる。
この中には、たくさんのものが入っている。
佐伯さんのお母さんが捨てられなかった箱。
講習動画。
レシート。
装着ログ。
瀬戸さんが持ってきた中古市場の記録。
浅井さんたちの証言。
榎本さんの再検査提案。
相沢さんの保存チップ。
黒木さんの記録。
真鍋課長の確認。
そして、私の所見。
最初は怖かった。
私の言葉なんて、何の役に立つのだろうと思っていた。
でも、黒木さんは言った。
「御園さんの所見は、査定資料です」
それだけだった。
褒めるでもなく。
慰めるでもなく。
ただ、資料だと言った。
その時、私は少しだけ背筋が伸びた。
私の見た傷は、気のせいではない。
私が感じた違和感は、ただの感情ではない。
記録に残していいものなのだと。
事故査定課の廊下で、何人かの職員とすれ違う。
前より、視線を感じるようになった。
あれが、元聖女ミミか。
黒木査定官の隣にいる子か。
レオンの件で契約解除した回復職か。
ミカドギアの会議で久我室長に発言した補助員か。
いろいろな名前が、私の周りにつき始めている。
少し怖い。
また、誰かの物語に勝手に置かれてしまうような気がする。
でも、前と違うことがある。
今の私は、自分の名札を持っている。
【事故査定課 補助員 御園ミミ】
それは仮の肩書きかもしれない。
いつか変わるかもしれない。
でも今は、私が選んで立っている場所の名前だ。
聖女と呼ばれていた頃、私は誰かの物語を飾る役だった。
でも今は、誰かの傷を記録に残す役になった。
そう思うと、少しだけ息がしやすい。
「御園さん」
背後から声がした。
振り返ると、黒木さんが立っていた。
手には、新しい案件ファイル。
表紙には、昨日届いた事故報告の文字。
【探索者育成学校における訓練事故】
未成年訓練生。
模擬ダンジョン。
重傷。
本人の判断ミス。
訓練ログの一部欠損。
その言葉を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
「資料の初期確認をします」
「はい」
「御園さんには、治療記録と回復ログを見ていただきます」
「分かりました」
私は頷いた。
怖くないわけではない。
未成年。
訓練事故。
本人の判断ミス。
その言葉だけで、誰かがどれだけ自分を責めたのか想像してしまう。
でも、目を逸らしたくはなかった。
「黒木さん」
「はい」
「この事故も、本当に本人の判断ミスかどうか、確認するんですよね」
「はい」
「学校がそう言っていても?」
「はい」
「本庁と似た書式でも?」
「はい」
「面倒でも?」
「はい」
即答だった。
黒木さんはいつも通り、表情を変えない。
「事故査定ですので」
私は少し笑ってしまった。
「黒木さんらしいです」
「そうですか」
黒木さんは、自分の正しさが人にどう思われるかには、あまり興味がない人だと思う。
けれど、私がそう言った時だけ、端末を打つ指がほんの一瞬止まった。
たぶん本人は気づいていない。
私も、気づかなかったふりをした。
「はい」
そう言うと、黒木さんはほんの少しだけ首を傾げた。
褒められているのか分からない顔だ。
たぶん、査定不能なのだと思う。
治療記録を開く。
未成年訓練生の名前は、まだ伏せられている。
年齢。
訓練歴。
負傷部位。
回復処置。
魔力循環の乱れ。
恐怖反応。
私は一つずつ目を通す。
痛そうだと思う。
怖かっただろうと思う。
でも、そこで止まってはいけない。
どこをどう傷ついたのか。
どの時点で回復処置が入ったのか。
傷の形と、報告書の説明は合っているのか。
本人の判断ミスという言葉と、身体に残った記録は一致しているのか。
私は、ペンを取った。
【御園所見】
【負傷部位と訓練ログ記載に一部不一致】
【回復処置開始時刻に空白あり】
【本人判断ミスと断定するには、訓練指導側の配置記録が不足】
書いてから、少し手が止まる。
私が、こんなことを書いていいのだろうか。
まだ怖さはある。
でも、消さなかった。
黒木さんが隣で端末を打っている。
私の所見をちらりと見て、短く言った。
「必要な記録です」
それだけだった。
でも、十分だった。
「はい」
私はもう一行、書き足す。
【追加確認】
【訓練生本人の聞き取り時、責任誘導にならない質問設計が必要】
黒木さんが、少しだけ画面を見る。
「良い指摘です」
今度は、私にも分かった。
たぶん、褒められた。
「ありがとうございます」
「事実確認です」
「はい」
知っています。
でも、少し嬉しかった。
帰り際、私は引き出しから白と金のリボンを取り出した。
しばらく眺める。
捨てようかと思った。
でも、やめた。
それを捨てれば、過去の自分が消えるわけではない。
聖女ミミと呼ばれていた私も、確かにいた。
利用されていた。
でも、何も見ていなかったわけではない。
傷を見ていた。
人の痛みに手を伸ばしていた。
ただ、自分の言葉を持っていなかっただけだ。
私はリボンを小さな箱に入れた。
机の奥へしまう。
代わりに、名札を机の真ん中に置いた。
【事故査定課 補助員 御園ミミ】
もう、聖女ではない。
でも、回復職であることは捨てない。
誰かを癒すことも。
誰かの傷を見逃さないことも。
どちらも、私の仕事にしていけるなら。
私は、ここにいてもいいのかもしれない。
部屋の明かりを落とす前に、黒木さんが言った。
「御園さん」
「はい」
「明日、育成学校の聞き取りに同行できますか」
「できます」
「未成年案件です。言葉の選び方に注意が必要です」
「はい」
「俺が言い方を間違えた場合は」
「止めます」
黒木さんが、少しだけ瞬きをした。
「早いですね」
「必要な記録ですので」
そう言うと、黒木さんはほんの少しだけ黙った。
それから、いつもの声で言った。
「助かります」
その一言だけで、私は明日もここに来ようと思えた。
聖女ミミではなく。
御園ミミとして。
誰かの物語を飾るためではなく。
誰かの傷を、ちゃんと傷として残すために。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は第一章後の幕間、ミミ視点でした。
「聖女ミミ」として利用されていた彼女が、事故査定課の補助員として、自分の見た傷を記録に残す側へ変わっていく回です。
回復職は、傷を消す仕事。
でもミミは、消してはいけない傷もあるのだと知りました。
黒木は事実を記録する。
ミミは傷を人に届く言葉へ変える。
第一章を経て、この二人の役割が少しずつ形になってきました。
次回は、もう一本幕間を挟む予定です。
真鍋課長視点で、黒木という扱いづらい部下と、事故査定課の胃痛事情を描きます。
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