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第6話 王、水風呂で脱糞。

全米一位。


ランキング一位。


100万人登録者。


みんなが支持しているから興味を持つ心理。バンドワゴン効果。


顔がわからない「みんな」など、僕は信用しない。


しかしここは、顔が見える。


常連組に限らずサウナ利用者は、ほとんどと言っていいほど、水風呂に入る。


僕はこのサウナの守護者ではあるが、水風呂に入ったことは一度もない。


()()()()の4文字は、北海道のサウナブロガー濡れ頭巾ちゃんが2009年に言い始め、2016年タナカカツキの漫画『サ道』(2011年の加筆改訂版)により広まったという。


同時期、サッカーワールドカップ日本代表のキャプテン長谷部誠の『心を整える』という本の影響も追い風となり、この言葉は急速に普及していった。


ととのうとは、交感神経と副交感神経の切り替えで起こる恍惚感を指す。


サウナに入ると血管が拡張し、暑さに驚いた身体が、熱い、汗を出せ、鼓動を早めよと、その暑さに順応すべく、交感神経優位になる。


そこで水風呂に入ると、身体がさらに驚く。


「暑いと思ったら冷たいんかい」と、身体は慌てて血管を縮めようとし、ますます交感神経が活発になる。


そこで外気浴に移行すると、強まりすぎた交感神経が一気に、副交感神経に切り替わる。


ととのうは、この瞬間に訪れる。


ドーパミン、エンドルフィン、セロトニン、オキシトシン、幸せホルモンと呼ばれるそれらが、一気に分泌される。


しかし、理屈では理解できても、身体があの冷たさを、拒絶する。


サウナ後の開放感だけで僕は十分ととのっているつもりだったが、()()()その先に行っていると思うと、興味が沸いてくるのも事実。


一度くらいなら。


一度くらいなら試してみるか。


問題は、()()()()()()()の隠しかただ。


守護者であるこの僕が、素人感丸出しで水風呂に入るわけにはいかない。


水風呂デビューは、人がいないときを狙う。そのため、今日はいつもより早めに来た。


かけ湯で身体を流すとき、いつもなら目もくれない隣の水風呂に、手を伸ばしてみた。


のちに入るであろう水風呂の温度を、確認しておきたい。


水温計は19度。


これは水風呂としてはかなりぬるい方らしい。シングル(一桁代)を好むものもいるというが、僕にとってこんな数字は、なんの意味もなさない。


全米一位でも、100万人登録者でも、つまらないものはつまらない。


全ては、自分がどう感じるか。おっさんは全員セクハラ野郎で、刺青は歩くパワハラ野郎。


僕に言わせればこの水温は、0度。19度のわけがない。


しかし今なら、まだ常連の顔が少ない。ボス猿もいない。


奴ならきっと、水風呂の前でまごつく者を見つけると「どうした? 初めてか?」とにやけ顔で近づいてくるに違いない。


試すなら、今。


切り開け。新たな道を。


王に一歩でも近づくために。


誰かと出るタイミングが重なれば、水風呂も同時になる恐れがある。だから、誰も動きそうにない一瞬を狙った。


先人が一通り出て、後進が増えてきたあたりでサ室から出た。


絶好のチャンス。


誰もいない水風呂前に移動し、手を入れる。


身体が熱くなっているとはいえ、やはりこの中に身を投じるのは無理。諦めさせるには十分の冷たさだった。


王よ。


なぜあなたはこんなところに、その御身を浸けられるのか。


あなたの身体は、あなた一人の身体ではないのです。


この銭湯の、いや、あらゆるサウナの安寧を担うべきあなたが、なぜこんな危険な行為をなされるのか。


これまであなたをお慕い申し上げてきましたが、この行為だけは───


その場を立ち去ろうとしたそのとき、ガラガラッと銭湯の扉が開いた。


ボス猿だ。


最悪のタイミング。


今はまだ、水風呂前でまごつく僕には目もくれず、馴染みの常連を探すように全体の様子を伺っているが、このままここにいると、話しかけられてしまう───


二転三転する僕の脳は、とっさに風呂桶で水をすくい、左足にかける判断を下した。


(ひいいいいいっっ…!)


絶叫したくなるような衝動を抑え、無表情を保つ。


冷たさより、無表情を保つ方が難しい。


残った水を、右足にかける。


(かあああああああはあっっ…!)


サウナで温められていた面積が減っていく。


逃げ出したい。


でもみんなが、こちらを見ている。


気がする。


いずれにせよ、サウマナ的見地でいけば、次は全身にかける他ないが、ここからの選択肢は2つ。


もう一度、水をすくって全身にかける。


このまま立ち去る。


後者の場合、あまりの冷たさで逃げたと思われる。あいつ初めてだな、とバレるリスクが高い。


このあと僕がどうするか、この銭湯にいる全員が注目している。


気がする。


なにがととのうだ。心は乱れまくりだ。もうどうにでもなれ。


僕は桶を乱暴に水風呂に突っ込み、頭から全身に浴びせるようにかけた。


(きゃはああああはあっっっ……!)


スッ


肩から胸にかけて、突き刺すような冷たさが広がっていく中、僕はその場を颯爽と離れた。


そして内湯にあるガーデンチェアへ向かい、腰を掛けた。


僕は“水風呂勢”ではなく、“水浴び勢”だ。


“水浴び勢”なる派閥があるかどうかは知らない。しかし、あれだけ冷たければ、水風呂には入らず、()()()()()()()という人がいてもおかしくはない。


あくまで僕は、気まぐれ水浴び勢の一派とみなされているだろう。冷たさに恐れをなし、敵前逃亡したとは思われていない。


初めての水浴びで、パニック寸前の自分を隠すように平然を装っていると、水を浴びた冷たさが、体内のなにかと、わずかに中和し始めていることに気づいた。


さっきまで、確実に冷たさを感じていた身体が、温かくはないが、冷たくもない。


寒いのか、暑いのか、そのどちらでもない宙ぶらりんな感覚。


これが、ととのうの源泉だろうか。


あの水風呂に浸かることができたら、この先の景色が見えるのかもしれない。


しかし、とてもじゃないが、慣れた様子で入る自信がない。冷たすぎて大騒ぎしてしまいそうだ。


もっと人が少ないときに試したい。しかしボス猿をはじめ、常連組が増え始めてきている。


どうすべきかと思案を巡らせていると、サ室から王が出てくるのが見えた。


王は丁寧に水を全身にかけ、ゆっくりと身体を沈めるように、水風呂に浸かっていった。


5秒、10秒、、、


両手を前に水平に突き出し、少しずつ膝を曲げていく。


20秒、、、


わずかに身体は沈んでいっているようだが、まだお尻が水面についていない。


あまりのゆっくりさゆえに、途中、脱糞を開始したのかと思えるほど、静止状態に見える。


自分が水風呂をやらないから、王の着水スタイルに注目したことはなかったが、いざ見てみると、王の着水は驚くほどゆっくりだった。


水風呂は、身体をととのえる恩恵であると同時に、刃のような一面を持つ。


急激な冷却は、血管を収縮させ、心臓を驚かせる。だからこそ、皮膚と血管、そして心臓に、()()()()()()()()()()を与えることも重要。


そして、水面を乱さぬことは、先に浸かっている者への敬意でもあり、決して、水しぶきをかけず、先人を覆っている()()()()を壊してはならない。


それが水風呂と向き合う者の作法であり、冷水そのものへの礼でもある――と、本で読んだことがある。


常連組はいつも、プールに飛び込むかのような勢いで入るが、王のあの入り方こそが、サウナを極めし者の着水スタイルなのだ。


平穏をもたらす王を象徴するように、水面に波紋を残すことなく着水する。


二回目のサウナを終え、僕は再び左足に水をかけた。


未だ慣れない冷たさが襲う。


しかし、この冷たさの上限を僕は知っている。


続いて右足。


さっきに比べ、やや薄れてきた恐怖心に勢いづけ、並々と入った桶の水を頭からかけた。


心臓周りを襲う水だけは何度やっても恐ろしいが、この勢いで行くしかない。


僕は左足を水風呂に入れた。


(いいいいいいっっっ……!)


水浴びの冷たさとは次元が違う。


水浴びは所詮かかった瞬間だけだが、水中は、体温の逃げ場がない。


とはいっても左足を入れてしまった以上、ここで引き返すのはおかしい。


おかしいが、右足が前に出ない。


ここで右足を前に出したら、いよいよ引き返せなくなる。


今ボス猿はどこにいる? 今何人くらいがこちらを見ている?


誰もいなければ確実に引き返している。誰かが見ていると思うから、その期待に応えようと行動することをピグマリオン効果という。


そんな心理作用からか、ついに僕は右足を入れ、ゆっくりと膝を曲げていった。


もう表情に出てしまう。冷たくて堪らないという顔をしてしまう。


落ち着け。


ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。


ドキドキドキドキドキ


心臓付近にまで水が近づくと、心拍数が上がっていくのが分かる。


はあはあはあはあ


息が。


息がなんか。


今、顔に出ているんじゃないか。恐怖に怯える表情が。


足をガクガク震わせる生まれたての子羊のように、ゆっくり、ゆっくり。


しかしまだ、着水は終わらない。


もうバレている。僕が今、人生初の水風呂体験中ということを。


なぜ初体験は、こんなにも恥ずかしいのだろう。そのくせなぜ風俗へ行くと、初めてですみたいな顔をするのだろう。


違う。


恥ずかしくなんか、ない。


王は、もっとゆっくりだった。


途中、銅像のようだった。


王があれだけゆっくりなのだから、何にも恐れることはない。


信じろ。王を。今お前は、なにも間違っていない。恥ずかしいことなど、何一つない。


僕はゆっくり、ゆっくり、膝を曲げ、ついに、全身を水風呂に入れることに成功した。


できた。


できました。


王、見ていますか。


あなたに一歩、また近づきました。


頭で10秒カウントし、「よし」と呟いて水風呂を出た。


再びガーデンチェアに向かう。見慣れたそのガーデンチェアは、今この瞬間から「ととのい椅子」と呼べる。


全身が冷たい膜で覆われている。


表皮は冷たいが、中は温かい。


外側の冷たさを、内側から温め返している。


今この身体は寒いのか、温かいのか、脳が判断を迷っている。


次第に、ささやかな恍惚感が訪れた。


小学生の頃───


夏の体育の時間。プール。


出たあとの心地良い倦怠感。


眠気が襲う5時間目。


そう、だから4時間目のプールが好きだった───


いつものサウナ終わりには感じたことのない、そんな感覚に包まれ、ふいに小学生時代の記憶が甦った。


おそらく常連たちは、この感覚のもっと先にいるのだろう。


自分の体質、その日の体調、サウナと水風呂の温度、時間。あらゆる相互作用によって、ととのうは訪れるという。


全貌はまだ掴めないが、ととのうの影は踏めた気がした。


今日はこれくらいにしておこう。


急ぐ必要はない。


一日で知った気になるのが素人の特徴。


ゆっくりでいいのだ。


サウナは決して、逃げない。


逃げるのはいつも、自分なのだ。

次回「新たなる王の誕生。」

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