第5話 王、コーラと戦う。
全身から、真っ黒な液体が噴き出ている。
ときに僕は、身体中から噴き出る自分の汗を、墨汁のような真っ黒色に脳内で着色する。
少し身体を動かすと、汗が全身を這うように流れていくのを実感する。仕事の迷いも、人間関係も、昨夜のラーメンも風邪の種も、全てこの黒く染まった汗と共に、排出されていくような気になれる。
人間の身体は約60%が水だ。
尿や汗として水分を排出すると、ナトリウムやカリウムといった電解質、老廃物が体外に捨てられる。
そこに新たに水を摂取することで、血液は希釈され、腎臓のろ過機能が助けられ、細胞に新しい水が行き渡る。
サウナに入ることは、この「出す」と「入れる」の劇的な実演であり、体内の水を新調する営みでもある。
だからサウナから出たあとは、少しだけ新しい自分になれた気がする。
「今日はなんだかコーラが飲みてえなあ」
「いいっすねえ、コーラ」
サ室から出ていくボス猿たちの会話が、わずかに聞こえた。
彼ら常連組はいつも、入り口前にあるウォータークーラーに口をつける程度で、きちんと水を飲んでいるところをあまり見たことがない。
あなた方のような年代の方こそ、コーラなど飲んでいないで、水分をしっかり補給すべきなのだ。健康診断を控えた人のように、口を湿らす程度にしかいつも水分を摂らない。そんなだから熟練止まりなのだ。
昨今、サウナ後の飲み物として愛好されているのが、オロポだ。
オロナミンCをポカリスエットで割ったもので、西麻布の老舗サウナadam・eveが発祥と言われている。
汗によって失われた水分と電解質、そしてレモン11個分とも言われるビタミンCとビタミンB2・B6を補給できる代物。
僕がサウナルーティンで摂り入れるのは基本水に限られるが、銭湯から出て、着替え終えたあと摂取するのは、それに限らない。
サウナのととのいが強いときはオロポ。ジムやプールで激しく運動した場合はポカリスエット。新しい自分を促進したいときは水。
今のような暑い時期は───
サウナ中は、“出たあとの解放感”という、数分後の未来を期待しながら過ごしている。それが、暑さと格闘できる所以でもある。
毒素を全部出して、新鮮な水を入れる。そしてそのあと……と未来への希望を、螺旋階段のように繋いでいく。
「コーラか……」
ボス猿たちの会話に引っ張られたのか、僕の頭をコーラが侵略し始めているのが分かった。
暑い時期は特に、身体が炭酸を欲する。渇いた喉が、刺激を求めるからだ。
オロポ人気も、炭酸の要因が大きいはず。あれが単にポカリのレモン割りだったら、ここまで流行っていないだろう。
「コーラか………」
湯船に浸かりながら、脳内で繰り返される。コーラの強い磁力に引きずり込まれていく。
銭湯を出て着替え終えた僕は、一階の自動販売機コーナーへ向かった。
オロポがない場合は、ペットボトルのポカリスエットを購入し、少し飲んだところにオロナミンCを投入して精製することもできる。この自作オロポの儀を、追いナミンと言う。
しかし今日は――─
サウナで汗を絞り出したあと、人は“素の欲望”に正直になる。普段なら選ばないものが、無性に欲しくなるときがある。
今日の僕にとってそれが、瓶のコーラだった。
3つ並んだ自販機の奥に、明らかに異彩を放つ、レトロな瓶の自動販売機。
「瓶か………」
仕事があるから休日があるように、我慢があるから解放がある。
瓶の口を塞ぐ王冠。
そう、王とは常に「封印と解放」の番人である。
瓶のラインナップは、コーラ、Hi-Cオレンジ、ジンジャエール。
わずか200mlしか入っていないのに、120円。コスパはあり得ないほど悪い。
この自販機は、お金を入れてボタンを押すと、中のアームが動き、瓶を押し出して受け皿に落とす仕組み。
上二段はすべてコーラ。つまり1番から8番まで、どれを押してもコーラが出てくる。
ならば――─
アームがいちばん大きく動く、最上段の一番左の「1番」を選ぶ。
少しでも、運ばれてくる動きを楽しみたい。
お金を投入し、番号を押すと、アームが1番コーラの手前へと、素早くお迎えに上がった。
位置につくと、ゆっくりと押し出されたコーラが、アームの中に落ち、戻って来る。
ガタン
と力強い音を立て、取り出し口に顔を出したコーラを手に取った。
よく冷えている。レトロなデザインがいい。
瓶のコーラは、視覚、聴覚、触覚で楽しませてくれる。
残すは、味覚と嗅覚。
瓶の口を、自販機についている栓抜きに引っかける。
ただ、この栓抜きは、奥に引っ込んでいて外からは目視できない。感覚だけが頼り。
手探りで位置を探し、カチリと手応えを得た瞬間、一気に王冠を弾き飛ばす。
びしゃあああああああああああ
とコーラが暴発し、そこら中に液体が飛び散る――─
なぜ――─――─
アームで運ばられるときに揺さぶられたか――─
それとも、業者がここに運び入れるときか――─
暴発したコーラが床に着地する既のところで、無数の小さなタオルが、ばら撒かれるように飛んできた。
そのタオルは、全ての水滴が床に落下するのを防いだのだ………!
買ったばかりのコーラの暴発、それを防ぐように投げ込まれた無数のタオル。
なにが起きたか分からずにいる僕の前に、一人の男性が現れた。
「危なかったですね」
王だ。
見慣れぬ私服姿の王が、そう言いながら一枚一枚、ゆっくりとタオルを拾い上げていく。
この前もこんなようなことがあった。この人はタオル使いなのだろうか。
王はどこかでこの一連の様子を見ていて、コーラが暴発するや否や、忍者のようにタオルを投げ込んだというのか。
この人はいったい、なにものなんだ。
今なら。
今なら王に話しかけられるかもしれない。
ここまで誰かに憧れたことが、僕の人生であっただろうか。
どれだけ立派な人を見ても、カッコいい人を見ても、僕は傍観者だった。
しかしこの人は。
王だけは。
ここまで誰かを、平和を、無欲に考えて行動できる大人を、僕は知らない。
近づきたい。話しかけてみたい。その衝動は、この人に宿るなにか1%でも、自分に取り込みたいという欲求の表れなのかもしれない。
僕はとうとう自分ルールを破り、王に話しかけてみることにした。
――─しかし、なにを……?
住まい? 年齢? 職業?
それではまるでストーカーだ。
サウナの流儀。サウナの極意。
あなたにとって、サウナとはなんですか。
そんな情熱大陸みたいな質問を、第一声でぶつけるのは不自然すぎる。
どうやってこのタオルを投入できたのか。
いつから僕を見ていたのですか。
そんな聞き方は無粋だ。
そうだ。お礼だ。
助けてもらったのだから、お礼を言うのが人として当然の礼節。サウマナ道以前の問題。
そうだ、今こうしてる間も、僕はずっと礼節を欠いている。
声を放出しようとした瞬間、ドキン、と急に心臓が高鳴るのが分かった。
鼓動が早まる――─
タオルを拾う王を見ながら直立不動だった僕は、数年ぶりに声を出すかのように、か細く、絞り出すように口を開いた。
「あ、あの、」
―――ガバッ
身体が一瞬、空気を切るような感覚に包まれ、心臓がドクンと鳴った。
長い夜を抜け、静かに訪れた朝の気配。柔らかな光が、ゆるやかに全身を抱きしめる。それは、世界がひとつ深呼吸したかのような安らぎだった。
目を開けると、白い壁が静かに広がり、カーテン越しの光が、風に揺られて淡い模様を描いていた。
「夢か……」
次回「王、水風呂で脱糞。」




