208、遠い三歩
刹那、クララは迷った。
化け物としてのソレは止まった。
情け容赦なく、神に仇をなす敵を殺し尽くす舞台装置が壊れてしまった瞬間だ。
何たる無様、バカバカしい。
何たる恥辱、苦々しい。
己の志を貫き通せない者を、クララは嫌悪する。
だが、今まさしく自分が、ほんの僅かにでも自分の志を曲げようとした事に気付いている。
お粗末で、滑稽だった。
私情が挟まれば、行動がおかしくなる。不確定な要素に振り回されれば、冷静さを欠き、愚行を重る。その結果として待っているのは喪失だ。
一番大切なものが壊れ、涙がこぼれて落ちるだけ。
恐れを懐き、未来を見据えるクララは、悲惨な結末を何百と想定してきた。こうして情に絆されて、判断を誤る状況とて、いくらでも考えがついた。
だから、速く、余計なことを思う前に殺してしまえば良かったのだ。
だが、今までのやり取りの中に、クララの顔は覗き続けていた。
一個人のこだわり、願いといったノイズが、いつでも活動の邪魔をしていた。
そうでなければ、もう帰路に着いていたろう。おびただしい数の死体を作り、全身を包み込むような大量の返り血を落としながら。
これでもかと汚れを身に纏い、贖いきれない罪をいつまでも背負う。
反省することもなく、のうのうと、虐殺を続けていくことだろう。
とても残酷で、悪逆だ。
非難されるべき、完全なる悪だ。
だが、間違っている、いないを論じるつもりなど、クララにはない。
正義を求めているなら、とっくの昔に破綻している。
壊れている彼女がただ真っ直ぐに進み続け、障害を取り除き続けている理由がそれだ。
どうしても成し遂げたい願いがあって、なりふり構っていられる余裕がなくて。だから、タガが壊れて、目的のために何でも出来る狂人が出来る。
クララは、狂人であった。
狂人でなければ、願いは叶えられないからだ。
人並みの幸せもあったはずで、だが、そんな未来を切り捨てた。
人の肌でぬくもりを得て、人の笑顔で心を育んで、働きの報酬に感謝を貰う。そういう光の道があったとして、コレを選ぶことを甘えと断じた。
人の血のぬくもりに包まれて、人の怨恨の表情を嘲笑って、吐き出される呪詛を呑み干す。そういう闇の道があったとして、こうせねばならぬと、迷わず足を踏み入れた。
したい、したくない、の意思の問題は終わった。
クララが覚悟に対して、理解が浅いはずもない。
己の中にある巨大な力に似た波動を、カレンから感じた。それだけで、もう確定なのだ。
だから、カレンの意志を感じ取った時点で、クララは攻撃を開始していたのだ。
話をする中で少し離れてしまった距离を埋めるために、まず一歩を踏み出した。
「…………!」
距離を考えるなら、おそらく三歩だ。
そこからメイスを震えば、簡単にカレンの首をハネる事が出来るだろう。
十メートルも離れていない。
時間を考えれば、瞬きですら長すぎる。
クララの踏み込みは、音がカレンに届く前に完了する。この音が届くのは、確実にカレンの首を切り落とした後になるだろう。二歩目、三歩目の音を待たずして、その命を奪えるほどに速い。
だが、その刹那の合間は、思考が埋まった。
言葉にしきれないほど、瀑布のように流れる言葉、感情、記憶。
普段なら一秒でショートするような情報量が流れ、しかし、それを完璧に脳内で処理出来ている。時間が極限まで圧縮されているかのような、不思議な感覚だ。
走馬灯を見た事は何度もあるが、今回のは、クララが体験したものの中で一番濃かった。
水の中を進むような感覚が、より強く、さらに強く、カレンに近付くほどに強くなる。
服のシワに至るまで、細やかな情報も逃す事が出来ないほどの、極度の集中状態だった。
だから、ゆっくりと、母を殺すまでの間を体感出来る。
これが天罰と思えるなら少しは良かったが、クララの知る神はそんな事は断じてしない。
全ては自分の責任で、他所に理由が生まれるなど、ありはしないのだ。むしろ、神にそのことを教えられたようで、気分が悪い。
本来なら、気分の悪さを感じる間もないのに。
これがいつもの仕事なら、何も感じず終わりだ。そして今回なら、きっと仕事が終わった後で、たっぷりと嫌悪感を味わうだろう。
後悔も反省もないと断言できるが、負の感情が湧いて出ることが気持ち悪い。悪であることを定めておきながら、中途半端に心が傷つく事が、受け入れられない。
自分の事だから、思い通りにならないことが殊更腹が立つ。
激情を押さえつけるために、自分の頭を握り潰して、考えをリセットしてしまいたい。
脳を取り替えて収まるなら、いくらでもする。
だが、した所でどうにもならないから、試した所でどうにもならなかったから、しない。
自分のパーツを生贄にして、何かが解決したことがあったのだろうか?
なってたまるか、とも、クララは思う。
命を捧げても、どうにもならない事の方が多い。どうにかなったのは、運が良かっただけのことだ。過去の成功をバカ正直に信じることなど、クララには出来るはずもない。
どんなものを捧げても、対価を得られる事がない事など、珍しくもないのだ。
そんなに簡単に叶うのなら、クララの願いなどとっくの昔に叶っている。
積み上げても積み上げても、届かないから願いというのだと信じている。
ただ、迷わない事だけが重要だと信じている。
だから、今の迷いが納得出来ない。
何故こうして、身を引き裂くような痛みを感じているか、己の中に見当たらない。理由を探せば探すほど、理由が見当たらなくて、自分が軟弱だという事しか分からない。
どうしてそうなるのか、分からない。
今この場面において、やりたくない、よりも、果たさねば、が勝っている事以外は分からない。
力が足裏から、膝、腿に抜ける。
一瞬跳躍が、永遠のようにも思える。
浮遊感に支配されながら、まだまだ怪奇な思考時間は終わらない。
今この瞬間の感情について考えるだけでは、まったく足りない。
二歩目が地面に着く前に、まったく別の、関係のない場所へ移っていく。
そう、昔の夢のことだった。
昔クララは、美しい景色に憧れたのだ。
どんな場面か、どんな状況か、薄くぼやけていて、けれども鮮明に思い出せる。
幼い少女が語りかけて、涙を流していた。
クララは少女に抱きかかえられ、流れた涙が顔にかかっていた。赤みを帯びた可愛らしい頬と、濡れた宝石のような輝きが美しい。サラサラとした髪は絹のようで、垂れた部分から顔を撫でられて心地いい。
とにかく、目の前の少女に意識を奪われた。
息をするのも忘れるほどに、彼女に対して没頭してしまった。
春だったか、冬だったか。だが、どちらにせよ、記憶の中では暖かかった。春の穏やかな日だったなら、どうということはない。だが、冬なら、寒さなど感じないくらいに、その光景を見て幸せだったと思えたのだろう。
ただ日常を送ることが、至上の幸せと知ったのは、きっとそれ以降だ。
漠然と、心地良くて、暖かなものに包まれたのは感じていた。
やって来る日々を生きるだけで必死で、余計な事を考えなくても良かった。
怖かったし、苦しかった。だが、そこには必ず安心をくれるナニカがあった。
だから、きっと不幸ではなかったのだ。
具体的にな事など分からない、夢や霞のようなもので、けれども鮮烈な苦味やエグ味が飛び出てきて、だが、不幸ではなかったと胸を張れる、そんな曖昧な概念。
過去を脚色しているだけかもしれない。今が辛くて、過去がマシに見えているだけかもしれない。過去の自分は当時の環境を真に幸福とは思わなかったと、クララは、はっきり覚えてもいる。
しかし、今は、昔に、ただ憧れている。
手を伸ばしても届かないものを、心の底から欲して止まない。
金に手を付けないことを、無欲と言われたのは、いったい何時の話だったか?
任務をひたすらにこなし続けて、その末にあったのが虚無でも、何の文句も垂れない姿を寡欲と言われたのは、誰からだったか?
なら、金を尽くしても、手間をかけても、叶うかどうか分からないものに直進することは、どうなのか?
膨大な欲を、全てたった一つに捧げてこそ生まれる力があったから、ここまで来たのだ。
不要な枝を打ち落とし、幹を生かした。
こうしたい、という衝動を抑えられない。
自分の欲のために全部を蹴散らしても構わない。誰であろうと、道の上に立つことを許せない。
無我無欲に見えて、そこらの欲望では満足出来ず、巨大な幻想を追い求めているだけの強欲な人間だった。そして、その過程で犠牲になった者を想わぬほどに、傲慢だった。
傲慢で、強欲で、さらには臆病で女々しくて、強い反面とても脆い。
崩れていないのが奇跡だ。
要石が壊れれば一瞬で全て崩壊するだろう。だが、崩壊を押し留め、たった一つの要石で保たせている。ひとえに、意志の強さによるものだ。
一度も負けることはなく、曲げる必要もなかった。だから、今までやってこれた。ただ一度でも折れれば、それで終わっていただろう。だが、その一度が訪れたことは、数多き戦いの記録の中に一つもないのだ。
折れないが、脆いのは変らない。
夢に関することで『悪い』事がなら、きっと簡単に折れるだろう。
だが、何かを間違えれば、クララという存在は一瞬で瓦解する。だが、来るべき夢を叶えるまでは、決して折れない。夢なんて、曖昧なモノに命を賭けているからだ。
夢は、夢でしかない。
叶うか叶わないかで、どちらに転ぶかは分からない。夢、つまり理想なんて、現実になることは正直あまり期待はしていない。
叶えるための手段が歪であるのに、結末が何の歪みもなく終わるだなんて、幻想は抱かない。
戻れば地獄、進めば極楽なら、まだ良かった。
戻れば己の全てを否定する、地獄を超える地獄がある。進んだなら、その先にあるのは、実在が恐ろしく怪しいモヤのようなものでしかない。
約束も確信もなく、そういう意味なら、報酬など無きに等しい。
その程度のモノにでも、クララは全身全霊を賭けて、戦っている。
愚かとは思っている。
だが、誰かに言われて止まるなら、はじめからしていない。それに、やり通すこと以外の道は、既に塞がれてしまった後なのだ。
穏やかな日常への憧憬は、もう、ただ暗くクララの欲望を照らすだけだった。
二歩目、着地。
少し深く踏み込みながら、目線は標的を捉える。
メイスを振りかぶり、攻撃の準備に入る。
そう、メイスも懐かしい。
幾度となく血を吸わせてきた最も身近な武器。
神への忠誠を誓う儀式として、己の好きな部位を武器として加工するのだ。
クララが捧げたモノは、他の異端審問官よりもかなり多い。
何年もかけて改造した肉体を使った武器だ。いわば、世界最高クラスの素材である。使えば使うだけ、武器としての力を上げられる。作るのが神なのだから、なおさら素材は多く使ったほうがいい。
武器を作るための部位を抉り取るために、多少の時間を費やした。
最高の素材、至高の作り手。
その結果としてできたメイスは、世界最高峰の神器として生まれた。
自分を素材にしただけあって、よく手に馴染む。
鈍色のままであることが不自然なほど、作成時にも、使用時にも、赤い血を使ってきた。
凄まじい呪いが、溢れている。
余人の手には負えないような、死と絶望だ。
それを振るって願いを叶えることに葛藤はなかったが、一瞬の嫌悪はあった。
する必要のない、時間の無駄である。
夢を、理想を、穢しているのではないかと、ほんの僅かに考えたことがあったのだ。
今さら過ぎて、笑ってしまう。
穢すことを恐れているなら、事を始める資格などありはしなかったのだ。
知らずに居てくれるなら、それでいい。
本当に汚れているのは自分だけだと、腹の中でケリをつけている。
だから、これで良いのだ。
殺すしか、なかったのだ。
こうして罪業を正当化しなければ、行動することが出来なかったのだ。
己の弱さを、嫌悪している。
自分は好きでも、醜いとは思う。
醜い部分を直せないと、もうすでに投げ出している時点で、手の施しようもない。ずっと昔に、可用性は閉じきってしまっている。
哀れだが、もう変えられない。
二歩目は離れた。
僅かな砂煙と音も立たない、鋭くも繊細な跳躍だ。
無駄を削ぎ落とし続けて、途方も無い努力の果てにようやく踏み入れられる領域だった。
省く事ばかりして、犠牲を数え切れないほど支払って、それでようやく今、形になっている。そうでもなければ、納得出来るものにはならなかった。
つまり、暴力しか、能力を伸ばす事をしなかった、ということでもある。
その気になれば、親の願いの通り、人の役に立つような力も身に付けられたかもしれない。だが、そんな事は一切考えもしなかったから、クララはロクデナシなのだ。
こうして身につけた力を使って、決して向けてはいけない人間に向けた。
底へ底へと、堕ちていく。
今から、親元から離れた者を殺す。
クララ個人のただの感想だが、クララが親と呼べる人間は、後にも先にもカレン一人だった。
鍛えた人間も、導く人間も、どれも違う。
育てて、慈しんだ人間は、その生涯の中で一人だけだったのだ。
心の底から愛を与えてくれる、本当に尊い人と尊敬していた。
だが、クララが目を向けるモノのためには、ゴミの役にも立ちはしない。
捨てどころは、ここしかない。
冷徹さを残さねばならない。
甘さを無くさなければならない。
禍根は残るだろう。
疑問や謎、執念も生まれるだろう。
だが、ここで一人、人間を殺したとして、生まれる負は、クララからすればとても微かなものだ。
年月によって風化せず、何十年と熟成されるような怨が生まれることは、まずない。そこにあるリスクは、無視できる範疇でしかない。
あるとするなら、尊い人を完全に壊してしまうという、個人的な悲しみと苦しみだけだ。
あと、最期に感謝の言葉を伝えるくらいはしても良かったという、遅すぎる後悔と、か。
三歩目、着地。
メイス、標的の喉元へ。
吸い込まれるように、メイスの先端部分近くがカレンの首を通り抜けようとする。
刹那のやり取りを認識出来るのはクララだけだ。
戦闘訓練の『せ』の字もしたことのない一般人なら、気が付けば全て終わって見えるはず。
距離は詰め終わってしまった。
もう、完全に終わりだ。
だが、クララは、カレンを見て、ドキリとした。
真っ直ぐ見つめる視線を振り払おうと思うくらい、清らかなもの。
穢れきったと思うクララには、あまりにも綺麗過ぎて受け入れられない。
これは、死にゆく者の目では、断じてない。
何かへの執着、死への恐怖、殺し手への怨念、そういったものが抜け落ちて、まったく別の、クララの理解できないもので埋まっていた。
我が子たちへの執念はないのか?
いや、きっと割り切っているのだろう。彼ら彼女らなら、まったく問題はないのだと。自分を子を育むための装置として考え、部品が代わってもどうとでもなると、冷たい事実を受け入れている。自分が死んだところで、実際に困ったことなど起こらないと信じていた。もう十分だと、納得してしまっていたのだ。次というものを、諦めきっていた。
死への恐怖はないのか?
いや、既に死を受け入れている。老体はただ立つだけでも軋み、病によって命は貪り尽くされようとしている。死ぬ事に折り合いを付け終わっているのだ。当然やって来る終わりが、ただ来ただけだと、特別とも思わない。
怨念はどこにあるのか?
いや、そんなものがあるはずがない。自分の娘に対して、そんなものを抱くなど、最早己の人生に対する裏切りだ。どうしても、これだけは出来ないのだろう。
敬愛と親愛が浮かぶ。
これは、これから殺す相手に対して、決して抱いてはいけない迷いだった。
完全にもう戻れない段階に入って、親殺しに対する苦を味わい直した。
もしも、考える時間があったのなら、もう殺せなかったかもしれない。ただでさえ、脆くて不安定なのだ。敵である、必要であるという感覚すらもないのなら、立つことが出来なくなっただろう。
しかし、もう攻撃は不可逆な段階に突入している。
クララは、少しホッとしていた。
殺せないということは、己の信念への裏切りだ。
自分の望むことを投げ捨てていたなら、後で屈辱と怒りで憤死していたかもしれない。
だから、これで良かったのだ。
親殺しも、背負うべき業だった。悲しくはあるが、仕方がないと納得出来る。
集中は、拡散へ。
繊細は、粗雑へ。
ゼロコンマゼロ一秒を切る攻撃だったが、それよりも早く、攻撃の趣旨を変える。
カレンの首以外を傷付けないよう、繊細な攻撃を仕掛けようとしていた。だが、繊細さの欠片もない、力まかせの一撃へと切り替えることにした。
きっと、余波で建物にも影響が出る。
それほど、強引で、そして適当だ。罪悪感や迷いといったものを振り切るためにそうしたように見える。
首が離れた後のカレンなど、滅茶苦茶になって飛び散るだろう。
そうまでしなければ、ならないと思った。
この場の全てを壊してでも、過去の執着を切ってしまわなければと。
過去にこだわる性質を持っていたとしても、こだわりが過ぎれば、何もない。過去を願っても、それを確定させるためのキャンバスは未来にしかない。
自分を捨てて、前に進むことを願われたのだ。
クララは、もうやる以外の道がなかった。
はじめから、ずっと、進む以外は。
進む。
壊す。
跡形もなく。
こわして、
「嗚呼……」
金属音がした。
クララがメイスを振り切り、静止し、これまでの行動で巻き起こった音がやってきた後で、遥かに遅れて追いついてきたのだ。
クララのメイスと打ち合った音が。
必殺の一撃を前にして、誰も死なせなかった音が。
「やっぱり、邪魔しに来た……」
一人、青年がナイフを構えていた。
クララもよく知る顔だ。
いきなり現れたはずなのに、不思議と敵意や疑問や驚きが湧いてこない。
そういう人間だと、知っているからか。
いちいち考えるのも億劫になって、面倒そうに彼の名を呼ぶ。
もたらす破壊の大きさに反した、弱い弱い声で。
「アレン……」
居るはずのない、もうひとりの異端審問官。
この孤児院で、道を踏み外した三人の一人だった。




