206、ねがいごと
元は、ひと目見ただけなら可愛らしい、何事をもつまらなそうな目で達観して見ている、神官服を纏った小生意気そうな少女だったはずだ。
短く切り揃えた、濡れたような黒髪。
目に映る全てをつまらなそうに眺める、吸い込まれるような黒い瞳。
幼さがまだ残る顔立ち。
手袋で隠れている、ほっそりとした指や、僅かに見える白い肌。
まるで人形のような美しさだった。
気が緩みこそすれ、見て警戒する者などまず居ない。幼さの内包する容姿は、相手の油断を誘う。間違っても、コレが強いなどとは思わせない。
しかも、その容姿に加え、多くの人間を魅了する、魔性が宿っていた。
それは奇妙で、美しく映えるモノ。嫉妬を、敬意を、夢を、持たざる者にもたらす、甘い蜜のような。その他大勢の一般大衆が持たず、彼らはソレの持ち主をどんな形にせよ、酷く意識する。
美しい、不屈の意志という宝玉。
持つことを焦がれ、だが、大抵の場合どうしても持つことが出来ない夢幻の類だ。
他人を引っ張り、誘導する資質とも言える。
自分が絶対という確信が、夜の街灯に集まる虫の群れのように惑わせる。
さらには、自分の持つ容姿を、意志を、見せつける技術があった。
性質を正しく理解し、都合の良い部分を、最も効果的に演出する。思考、演技、交渉、口車、煽動するための術は何から何まで出来るのだ。
ただ魅せるのではなく、それで物事を思い通りにさせる能力だ。
一つの武器として十分通用する。
もちろん、見た目なぞを参考にしない強者や、生活を他の人間から乖離させた社会不適合者には通じないだろうが、策謀、騙し合いには重宝した。
戦いだけがソレの仕事ではないのだ。
むしろ、普段からすれば戦闘よりも使う機会が多い。
使えるだけ使い尽くせて、その上で長い時間の中でしか劣化しないのだから、便利な武器であったのだろう。
だが、そんな武器も容易く壊れるらしい。
再生を司るソレからすれば、きっと信じられない話だ。
美しいとも思えた皮膚は大部分がただれ、黒い瞳の片側は窪みへと置き換わっている。特に顔の右側は酷いもので、首から額にかけては完全に潰れてしまっていた。
皴の一つすらなかった神官服も、所々が焼け焦げ、その下から炭化した皮膚が見える。いや、服と肌は燃え、崩れ、再生し、燃えを繰り返している。痛ましいという言葉すら、今の惨状には足りないほど痛々しい。
右側の目は、眼窩だけが残されていた。おそらく、右側の顔が焼かれたと同時に蒸発したのだろう。残された左目が、黒く異様に輝いている。甘く蕩かすために使っていたはずの、ソレの絶対の意志が、ギラギラと黒い邪悪な太陽のように。今度はまるで、人を呪い、侵して弱らせ、殺すための猛毒のように。
ソレは、化け物へと変わり果てていたのだ。
人のふりをした化け物だったが、その皮すら無くなってしまった。
その危険性を隠せなくなっている。
傷により、剥き出しになったソレの、何とおそろしく、おぞましいことか。噴火寸前の活火山と変わらない、爆発まで秒読みの状態だ。
実際にソレを目に映している三人の内二人は、もう泡を吹いて倒れる寸前だった。
だが、ただ外見を見ただけならば、ソレは押せば簡単に倒れそうなほどに弱っていた。
どれほど血を流したのか、どれほどその身を焼いたのか、どれほどの痛みに耐えたのか?
見ている方が、痛いくらいだ。
先も述べたように、ソレの有様は散々たるものなのだ。いつ死んでもおかしくはない。凄まじい威圧感に反比例して、ソレの肉体は傷付き過ぎていた。
いや、ならば、押せば倒れるのは間違いか。
倒れるでは済まないほど、ソレの体は終わってしまっているのだから。
これなら、押せばその箇所が崩れるだろう。
ボロボロの炭になってしまえば、もう倒れるも何もなくなってしまう。
死んでいる詰みの状態を、無理矢理、死にかけの詰み一歩手前に押し留めているのだ。
手負いの猛獣。
壊れかけの殺戮兵器。
今のソレの状況は、そんなところだ。
己を含めて全てに対して危険という、最悪よりもたちの悪い状況だった。
「おかえりなさい、クララ」
だが、ただ一人、その老婆にとっては、状況も危険もソレも、全て関係ないらしい。
声音から、抱えきれない親愛が覗く。
瀕死なだけで、ソレが人間を辞めた存在であると知らないはずがないだろうに。
愛おしそうに、迎え入れている。
歩行補助の杖をついていなければ、すぐに両の手を広げて抱き締めていたかもしれない。それとも、ソレが抱擁を拒絶しなければ、杖云々関係なく、そうしたかもしれない。
明らかに尋常ではないソレから見えた、僅かなたじろぎが、カレンの接近を拒絶していた。
ほんの一歩、ソレは下がった。
カレンを恐れて、下がったようにも見える。
そのままどこかえ消えてほしいと、カレンの後ろの二人は思ったが、現実はそうはならない。
近づけば近づくだけ、寿命が削られそうな気配をしているソレに、育ての親たるカレンが関わってほしくないというのが本音だが、彼らの希望なぞ後回しも後回しだ。
この場で彼らに、自由も権利もない。
ソレにも親にも、触れることすら許されない。
カレンはそのまま、ソレが退いた分だけ距離を詰める。
障害など、どこにもないかのように。
「今日も、無茶したようですね。いつもいつも、どうしてそう……」
呆れを含み、カレンは言う。
あくまでも親として、どこまでも愛を込めて。
何故そこまで寄り添えるのか、彼女以外に理解出来ないだろう。
誰の父でも、母でもない彼らは経験不足だ。
この場を支配しているのは、最も存在感を放つ危険な猛獣ではなく、ただ一人の母が持つ奇妙な感情だった。
理解出来ないなら、近づけない。
まったく知らないモノに横から口を挟む気は、彼らにはさらさらないらしい。
「ねぇ……」
「…………」
空白の時間が生まれる。
ソレは何も語らず、カレンはソレの言葉をずっと待っていた。だから、自然と大きな間ができて、人の声がある時を堺に途絶える。
すると、ジュウジュウと肉が焼ける音がする。よくよく注意すれば、髪と肉が燃える嫌な匂いが部屋中に充満する。そして注意しなくても、とある熱源によって、周囲の気温が高まるのを感じる。
音と匂いと熱の出処は、ソレからだった。
ソレの体の炎は消えず、蛇のように執念深くソレに絡みついている。
ソレのあまりの痛ましさに、カレンは悲しそうに顔を歪めた。
ほぼ無意識に触れようと手を伸ばすのだが、ソレはやはり歩を後ろに戻し、距離を保ち続ける。
避けられていること、ソレが苦しんでいることが、カレンの顔をさらに歪ませる。
「…………」
ソレも、思うところはあるようだ。
罪悪感がない、なんて事はない。
化け物に成り下がってはいたが、育ての親に愛着がないような人でなしではなかった。僅かにでも、悪いとは思っている。泣かせることが、ロクでもないことだとも自覚している。
ちゃんと、残るのだ。
ナイフで城壁を傷付けるようなもの。だが、小さな、小さな引っかき傷ほどだろうが、確かに傷として残る。
行動を覆すことはしない程度に。
痛みはすれども、歩みを止めることだけはしないよう、ソレは心掛けている。
ソレは、燃え続ける。
炎は消えず、いつまでもソレの身を焼く。
呪いや恩讐を感じないのが不思議なくらいに、執念深い火傷だ。ただの火傷ではなく、ソレの背負った罪業に焼かれているように見えた。
罪深さを一つ残らず自覚しているソレには、受けるに相応しい炎だった。
地獄に墜ちるべきと自分で思っているのだ。
ソレの心を薪にして、炎はソレの体を焼き続けている、苛み続ける。
「……貴女は、いつもそうです。裏でコソコソ、何を考えてるか、何をしているのか、誰にも言おうとしない」
「…………」
「バレた時だけ、バツが悪そうに喋るんです。駄目でしょう? それで周りが困ったことが、何回あったか。意思疎通は大事なんですから」
カレンの言葉に、ソレは聞き入っていた。
燃える体に走る苦痛を無視し、カレンからソレに近寄らない限りは直立不動で立ち尽くす。
本当に、親に叱られる子供のよう、いや、子供そのものだった。
老婆と化け物の力関係が、崩れない。
ソレの方が力がある。暴力という、この世の大抵のことをまかり通らせる力を持っている。
だが、おかしな事に、動けないのはソレだけだ。
鈍色のメイスが炎の光で揺れて見える。
メイスだけが、主に反して必死に老婆を殺そうとしているのかもしれない。
「アイリスとアレンが、いつも貴女の側にいました。二人は貴女を心配して、変なことをしないように見張っていて。そして、貴女も二人を見ていた。お互いがお互い、心配でしょうがなかった」
「…………」
昔が、目に映る。
老いた悲しげな目と、穢れた濁った目に、同じ過去が、同じ時間が鮮明に。
ジリジリという音が鳴り続ける。
耳障りな音だが、それを不快に思わないほど、二人は没頭している。
「難儀ですね。寄り添う相手を想っても、想いを実現できない。不器用ですからね、貴女は。貴女たちは」
これは、説教なのだろう。
もっと上手いやり方はなかったか、やりようはなかったか、問うているように聞こえる。
本人だけでなく、その後ろに二人分ついでに加えているようにも思うが、そこはいい。
本題は、何かをする時、ソレの意地がソレの行動を邪魔をして、もっといい方法を取ることを止めたのだろうと、カレンは考えたことだ。
確かに、ソレの頭の硬さは、筋金入りだった。
決めたことは一直線で、五年十年で変わるようなタチではない。
美徳とも言える要素だが、足を引っ張ることも多々あると思えて仕方ない部分だった。
なら、いくらでも間違ってきたのだろう。
ソレは、間違わずにいることが出来ない性格だ。予想でも十二分に状況を当てられると、思ったはずである。
そして、実はそれがあながち間違いではないのが事実だ。
見て見ぬ振りをすれば、良いことがある。
何も知らないバカのふりをして、正確に誰かの意図を汲み取ることなど止めてしまえばいい。
我儘の一度や二度、許されてもいいくらいには働いたと、言い訳を並べても良いはずだ。
ソレの固い頭でも、こんな事くらいは分かる。
楽をしてもいいと言われた。
カレンが何もかもを見通し、この助言をしたのではないだろう。ソレがどのような失敗をしたか、しようとしているか、何となくは察せられる事が、
もう浅はかだ。
「クララ」
ソレの名が、空虚に響く。
誰の耳にも届いていないのではないかと思えるほど、虚しいものだった。
「少しくらい、止まってもいいはずです。疲れているなら、休めばいい。少しくらい手を抜いたっていい。頑張ったのなら、その分報われるべきです」
それは、誰にもかけてもらったことがない、彼女だけを見た言葉だった。
身近な彼は、負けるな、勝てと言う。
格上のアレは、甘えるなと言う。
天におわす存在は、ただやれと言う。
その他、どこを見ても、これまでの長い時間で一度も貰ってはいない。
これまで培ってきた価値観が一瞬揺らぎかけた。
頭を殴られたような衝撃だ。
完全に初見の、全く新しい生き方だった。
頑張ったことしかないソレは、その言葉をどう取り扱っていいのか分からない。
他でもない、育ての親という、これまでソレに少なくない影響を与えてきたカレンが言ったのだ。無視しようとしてしきれるほど、軽いものではない。
思考が停止しかける。
言葉のとおりに、本当に止まってしまいそうになる。
歩むことに、疲れを感じそうになる。
決して乗ってはいけない誘いと分かっていながら、あまりに甘美で、意識の中で拒むことを拒もうとしている。
「何をしていたか、問いません」
分かっているくせに。
他の誰にも、そんなことは言わないくせに。
頑張り続けることを諦めろという。
「どんな事でも、赦します」
聖職者という立場から、赦しを与えることには慣れているはずだ。
誰かの告白を聞き、共に悩み、最後には神の加護を願う仕事があるのだから。
だが、今回の件はそういったかつての例を尽く上回る悍ましさだろう。かつて殺した人間は数しれず、背負った怨嗟は山よりも高い。誰が好き好んでコレの相手をせねばならんのか、理解に苦しむ。
最早、病と呼んでもいい。
捨てられない、見切りをつけられない事が命に関われば、端的に異常と言うのだから。
「今は、休んでください。貴女が人に弱みを見せたがらないのは、もういいです。ですが、その代わりに、もう寝ていてください」
理想も、現実も、責務も、使命も、全て無視してしまえばいい、と。
ソレには到底受け入れられない考えである。
ソレは、己の弱さを到底許容出来ない。
弱いことは、大罪なのだ。
強くなかったせいで、ソレが踏み躙ってきた命が、腐るほどあった。己から奪う者の存在を想定せず、怠惰に過ごしてきた者たちや、終わりの間際に抗うことを諦め、惰弱な根性で生存の道を途絶えさせた者たちの末路を知っている。というか、末路をソレが作り上げた。
必死に戦ったのは、末路が怖いから。何もできず、守ると決めたモノを壊されるのが怖いから。
怖いを消し去るために、努力してきた。
これを承諾するということは、今まで進み続けてきたという事実を否定することになる。足を止めないことで得てきたものに、捨ててきたものに、唾を吐くことに。
「何もしない時間は、あってもいいのです」
マイナスは、いくらでも思いつく。
選んではいけない理由は山ほどある。
その手を取ってはいけないと、心が警告を告げる。意地という、最も強い部分がソレを殴りかかる。
だが、休めばいい、という言葉だけで、心が抗い難い魅力を感じている。休みたい、報われたいという、最も弱い部分がソレの意思を大きく揺らす。
「お願いです……。どうか、どうか……」
縋るように、カレンは言った。
カレンは、これまで彼女の幸せを願い、彼女が幸せになれることを祈って育ててきた。どんな困難に襲われても、最後には必ず努力が報われ、幸せで終わるように。
だが、今の惨状はどうか?
出口の見えない徒労を背負い、自分が報われることなど微塵も考えてはいない。目的だけに取り憑かれ、その他を考えることが出来なくなっている。
思考停止の愚人よりも恐ろしく、何のルールもない狂人よりも厄介な者に成り下がった。
コレは、不幸だろう。
今、苦しいはずだ。
だが、舐める辛酸など諸共せずに、ソレは目的のために一直線に進んできた。
幸福とは程遠い、不器用な生き方だ。
ソレの人生の幸せを、カレンは押し付けるつもりはないが、それでも今のこれは間違っている。
そう断言できるほど、ソレは傷付いていた。
「もう、止まってください……」
「…………」
ソレは、動きを止めた。
未だに炎は体中を包み込み、ソレの異常な回復力で抑えつけている。
少しずつ燃えて、溶けていくロウソクのようだ。
終わっていく、死んでいく。
残された時間とやらが本当にあるかは分からないが、カレンの言葉と共に、どんどんソレの力が弱まっていった。振りまく威圧感の底が知れた。
このまま、力尽きてしまいそうだ。
魂が消えたように、動かない。
指一本すら動けないのか、それとも何もする気も起こらなくなったか。
沈黙を貫き続けたソレだったが、今が一番、生気というものを感じない。
だが、それも仕方がない。
ソレの魂の一番深いところを搔き乱す言葉に、反応も出来ないほど入れ込んだのだ。
夢を見る自由すら、目的の対価として支払った。
穏やかな日常を過ごすという、人なら心のどこかで願う未来も既に失っている。だが、今だけ、この瞬間になら、その失われた夢を再現できる。
穏やかな、流れるままの生活を。
優しさに包まれた時間を。
ここを逃せば、一生涯、下手すれば数百数戦年、得ることのできないものだ。
だから、ソレは迷っている。
迷わざるを得ない。
化け物だが、根底は人間なのだから。
カレンの主張は、分かる。
修羅の道を歩むと決めても、まだ引き返せる。
辛い道から途中で逸れることも出来る。
不器用だからといって、決めた道以外を歩むことを諦めるのはおかしい。やりよう次第で、いくらでも嫌な事は避けられるし、その上で進んでいける。
自分には出来ないと、端から諦めているのは、どう考えても違うだろう。
馬鹿正直に、苦難の全てを受け入れるなんて事をしても、ただ途方もなく疲れるだけだ。
希望はある。
道はある。
未来はある。
幸福な結末も、ある。
そう言っているのは、痛いほど分かる。
全てが正しく、間違いはない。
ソレの生き方が間違っているのは、火を見るより明らかだ。
要領よくやろうと思えば、きっと抜け道なんていくらでも用意されているのだろう。
もっと楽に生きてほしいという願いと、選択だ。
コレは、そのための第一歩。
今までのやり方は、生き方は誤りだったと認め、カレンの言うようにする。愚直な意地を取り下げ、楽なやり方を選んでいくための、分岐点なのだ。
ソレにとって、どちらを選んでも苦しい。
悪魔のような二択であったと言える。
…………
だが、ソレは、カレンを選ぶべきだった。
ソレの生き方はあまりに窮屈で、痛ましい。
どれだけ努力を重ねても、その先には無人の荒野しか残らない。
だから、カレンの道を選ぶべきだ。
二択ではあるが、ソレの本来の道は、とにかく不毛なだけなのだ。
損しかないのは子供でも分かる。
千人いたとしても、きっとその千人全員が、たった一つを選ぶだろう。
少しでもマトモな思考があるのなら、それを選ばずにはいられないはずだ。
「そうすれば、」
苦しいだけの道がある。
少し苦しいが、楽な部分も多い道がある。
前者を歩み続ければ報酬として、決して癒えぬ無数の傷と不毛な大地の景色が見える。
後者を歩み続ければ報酬として、癒えぬ多少の傷と価値ある悍ましくも美しい景色が見える。
選ぶべきはどちらか?
「きっと、」
選ぶべきは、どちらなのか?
「貴女も……」
「おお゛ぎな、おぜわ゛だ……」
答えは、もう決まっていた。
※※※※※※※※※※※※※
酷い音だった。
正常と異常が交互に入り混じり続け、実に耳障りな濁音が出来ていた。
正気が削られそうで、気味が悪い。
少女の冷ややかな声が聞こえてから、血で溺れるようなガラガラした音がする。
喉が焼かれて、血が溢れ、その後炭化し、治るのだ。炭化して喉に残った破片と、溢れた血は声帯の邪魔をする。再生させて無理矢理声を出せる状態にしているが、傷と再生は拮抗しているため、すぐにフリダシだ。
想いを言葉にするだけでも、恐ろしく苦しいはず。
息もまともに出来てはいない。
この状態で声を出すのは、人間なら不可能だ。
だが、沈黙を選ぶことは出来なかった。
どうしても、これだけは言わねばならなかったと、思ったのだろう。
「自分の゛えら゛んだんだ」
カレンは、ただ改めてほしいと願い、他にも違う見方があると言っただけだ。
至極当然の主張である。
ソレの事を愛しているのだから、もっと良い方へ運ぼうとするのは義務とすら言える。
心の底から、慮った結果だ。
どこの誰にこの想いを責める資格があるのか?
極めて正しく、優しい願いを踏み躙れるか?
そんな道理はどこにもありはしない。
だが、ソレは道理など気にしない。
正しさなど、気に留めた事がない。
「も゛う゛、決めだごどだ……」
ソレは、覚悟を問われたと思った。
試練として相応しい、心を問うものだと。
人の最も弱い場所に付け込み、意志を曲げさせようとする悪魔の誘惑だと。
確かに、ソレは迷っていた。
魅力的な生き方だと思った。
人間として、どうしても自分の欲望を押し通したいと思ってしまうものだ。
自分にほんの少し正直になれたなら、ソレも、こんなにも苦しまなくても済んだだろう。
だが、そんな事はどうでもいい。
「じぁわ゛ぜ、は、ボクの゛中に゛はない゛」
自分の中に、妥協は作れない。
ほんの僅かに湧いた気の迷い、気まぐれ、諦め、欲望のために、自分の外に創り上げた楽園を崩せない。
外にあるものは、中にあるものとは違う。
微細な不確定要素で、容易に壊れ得るのだ。油断など、一秒だってする暇はない。情熱の全てをそこに注いでいるべきで、なら、他は気にする余裕はない。
だから、
「やめ゛で」
もう、変えられないのだ。
人生の全てを、それに注ぎ込むと決めた。
十年以上の時間が経っても、その想いが色褪せることはただの一度すらない。どれだけ苦しい想いをしても、辛くて折れそうになっても、外にあるもの、ただそれを想っただけで、全てが何とかなった。
妄信かもしれない。自分を自分でペテンにかけているだけかもしれない。
しかし、そんな事はどうでもいいのだ。
重要なのは、一つしか持っていない最高の宝、自分の命というものを、それに賭けてもいいと思えることだ。
「も゛う゛、ねがわ゛ないで、くだざい……」
願いは叶わない。
辛い道のりも、悲しい結末も、全て決めたこと。
他人がどうこうなど、知ったことではない。
それらを自分の目的のために、散々自分の炉に焚べてきたのだから。
悲しませても、仕方はない。
そうする選択をしてきたのだ。
「ぜんぶ、むだ、だがら゛……」
結局は、ソレの頭の硬さが全てを上回った。
ほんの僅かにでもマトモなら、はじめからこうなってはいない。
度を越して、ソレはブレない。
最初から最後まで、何百年でもソレは戦う。
己の選択を真に悔いる日は、永久に来ない。
「もう、止まらない。仕事をする」
ソレは、既に動き出していた。
誰の目にも止まらぬほど疾く、駆けていた。
早く、速く、一直線に。
ソレは、クララは、育ての親であるカレンと孤児院に向けて、メイスを振り下ろした。




