205、出迎え
夕日が街を照らしていた。
美しく、それでいて不気味だ。
ここまで濃く、明るく、目に毒なほど紅く。
いつもはこんなに眩しくない。影がくっきりできるほど光が強いのは、あまりなかった。
気味が悪いくらいに、太陽が大きく見える。
不吉、という言葉でしか言い表せない。
灯りが明るい分だけ濃くなる闇が、纏わりついて離れない。
普段は気にも留めないような微かなはずの不安感が、彼らの足を引っ張って、足取りを重くする。そして、足を掴まれた彼らは、それを振り払ってそそくさと住処に戻っていく。
抱えきれない焦燥感に支配されながら、背中に張り付く悪寒が少しでも和らぐことを願って。
いくつもの負の感情が、毒や呪いのように溜まっていく。
悪い感情の掃きだめの中に、街は沈められている。
ただ、恐ろしいという強迫観念だけが募っていく。
だから、何かの前触れという認識が、まるで事前に示し合わせたように街全体に充満していく。外に出る理由もなくなる夜が間近ということも相まって、人の気配はぐっと減る。
本能的に、危険と知っているのだ。
これから何が起きるのかは知る由もないが、何かが起こることは分かるらしい。
獣のような生存欲や鋭いカンなどなど、厳しい世界の中で生き残るための術は失われて久しいが、なくなった訳ではないようだ。
彼らは、ちゃんとその時が来たなら逃げれる。
備え持った能力として、来る災いに関わらぬように、一目散に、まったく別の方向に行ってしまえる。
触らぬ神にたたりはなく、災いの手の届く範囲の中に居なければ、恐れることはなにもない。
災害というモノも、多くの人間には興味がないものである。逃げるのなら、基本は放っておく。進む道に立っていなければ、基本は何もしない。
逃避は彼らにとって最善手、というより、それ以外に有効な手段など取れはしない。何もせずに、隅によって、災いがただ過ぎ去ってくれることを祈る他に、何もできないのだ。
そして、たいていの場合は、これで何とかなる。
自分の命を守るための行動が、いざとなれば間を置かずに真っ先に実行する、ということが染みついている。
ここから外れることは、彼らがまずないだろう。
そして、よほどでなければコレで生き残れるはずだ。
だが、どうしようもない場合もある。
数少ない例外というモノだ。
不運にも、災いそのものに目を付けられてしまった場合。
これはもう、本当にどうしようもない。
災いとは、人の手に負えない存在のことだ。
規格から何から、人とは違う。
だから、人に甚大な被害を無自覚にでも生み出せる。
そんな存在が、何か特定のものに執着したとするなら、いったいどうしてその対象は無事でいられるのだろう?
あり得ない、そんなことは、あり得ない。
像がアリを殺すつもりでアリの巣を踏みにかかって、損害ゼロは夢物語だ。
どうしたって影響は出る。
出ない方が間違っていると言える。
巨大な災いが来るという予感は、街中に広がっている。
来るかもしれないという意識だけで、人の行動を限りなく制限している。
街の誰もが、ソレが来る、と分かるのだ。
自分たちを狙っているという予感がするというのなら、そのストレスは計り知れない。
「…………」
何かが来る、という漠然とした不安感が、孤児院に渦巻いている。
目をつけられたのは、自分たちだと。
得もしれぬ感覚が満ちている。
何か、悪いものが溜まっている。
どんよりと空気が重くなっていて、嫌な感覚が張り付く。
誰も言葉を紡ぐ事が出来ないまま、ただその時が刻一刻と迫ってくる。
心臓をわしずかみにされたようだった。
自分の命が他人の手のひらの中にあるような、気色の悪い感覚から逃れられない。
何事も悪さは、伝染していくものだ。
カンが他よりも良い一人から、もう一人へ、もう一人へと続いていく。
不安感が場を支配する。
ある程度歳を重ねた少年少女から、小さな子供まで、その場のほぼ全員だ。
詳しい理由など分かろうはずもないが、沈黙という形だけが残っていた。そして、その沈黙が壊される兆候は、どうにもありそうもない。
この重く、苦しい環境は如何ともし難い。
子供ばかりがただ黙って、のしかかる重さに耐える姿は痛ましく、悲しい。
例えるなら、賽の河原のようだった。
子供しか居ないのと、辺獄に理不尽にも送られた彼らの苦しみが溜まり続けているであろう図が、今のこの状況に酷似していた。
「…………」
そしてここに、一人の少年が居る。
ラウルという名の凡庸な少年だ。
少しばかりカンが良いだけの、普通の子供。
黙り始めたのは彼で、伝播は彼から始まった。
たった一人ではあったが、彼は感じ取った。街から遙か遠く離れた地にて、やって来るであろうソレを、一番早くに知覚したのだ。
彼を不審に思う子供の方が多かったが、しばらくすれば次第に沈黙する者の方が多くなった。
はじめは予感でしかなかったのだろう。
彼は気の所為であれと心から願い、不安と緊張で板挟みになりながら、時間が過ぎるのを待っていた。
だが、願いは叶わず、現実ではどんどん周りは自分と同じことを感じだした。
何も知らない子らと違い、何となくの事情は推察できる彼は、余計な恐怖を覚えていた。
それは、隠しようがないものだった。
ラウルは、恐怖の色を抑えるような訓練などしていないのだ。彼はただの少年でしかなく、そんな彼に心が折れそうなほどの不安を押し殺せとは無理な話だ。
身がすくむのは、当然のこと。
もうすぐやって来るモノは、嵐や雷程度の小さな厄災ではないのだから。
小刻みに体が震えて、止められない。
己の小ささを知り、ソレの大きさを知るために、素直に慄いているのだ。
言葉が枯れるほどの威があった。
何もできない、という絶望が渦巻いていた。
「ああ……」
終わりを予感していた。
感嘆の中には、いくつもの言葉が詰まっていた。
直接口には出せないような、もう彼の中で死んでしまった言葉だ。
その残骸が、意味もない言葉として漏れ出る。
終わりを嘆くことは出来ず、そこまでやってきているモノへの恐怖も語れない。モヤモヤとした感情は、表に出ずに中で渦巻き続ける。
どうしようもない時間だった。
誰にも言えず、誰も何も出来ない。
「おわり……」
誰にも、そのつぶやきは聞こえない。
聞かせてはならない。
ただでさえ神経質になっているのに、そこで『おわり』だなんて言えるわけがない。言葉にすらしたくはないが、せめてこれくらいは言わなければ壊れてしまいそうだったのだ。
ストレスの発散は、怠れない。
微かでも、僅かでも、終末の前にはそのための心がけ、事前の準備が必要だった。
普段は頼もしいはずの家が、弱く見える。
何年も雨風から自分を守ってくれた、脆さなどどこを探してもない孤児院が、巨大な台風を直前にしたボロ小屋にしか思えない。
包み込む空気は暖かなもののはずなのに、氷よりも冷ややかに感じる。
どんどん、下に落ちていくのだ。
悪い方へ悪い方へ行き、その流れを止められない自己嫌悪と恐怖は留まるところを知らない。
「儚い、人生だったなあ……」
悔しさが滲む。
これまでに、したい事も、すべき事もいくらでもあるはずなのだが、ただの一つも成し得なかったのだ。
死の間際で生の実感が消えていく。
かつて、積み上げてきた経験が無に帰す。
自分の痕跡がこの世に残らない、ということの恐ろしさが急に理解できた。
自分の人生で誇れることなんて何もないが、どれだけつまらないモノでもなくなる事は本当に怖い。
この場では、他よりも歳を重ねてはいるのだが、年長の義務を果たせない。自分よりも幼い子を気遣う余裕なんて、塵一つ分すらも見当たらない。
ラウルは、頭を振る。
どうにもならない自分に、嫌気が差す。
周りを見れば、暗い子らと共に、次第に日が落ちていくのが見えていた。
毒々しい夕日が少しずつ消えていき、うんざりするほど暗い夜が現れる。
辺りは少しずつ暗くなっていく。
悪寒は明かりに反比例して、気味の悪さが無限に高まっていく。
ゾクゾクした寒気がする。
背中を氷で撫でられているような、嫌な感じがいつまでも止まらない。
「泣きたい……」
涙が流れるほどの不安すら、形に出来ない。
不健全極まりない環境だ。
泣いてしまえればもう少しはマシなのだろうが、してはいけないという空気がそれを押し止める。
いつ爆発してもおかしくはないが、いつまでもそうなる気配はない。矛盾しているかもしれないが、こうした『おかしさ』がまかり通ってしまう。
「けど、」
道筋を立ててみれば、はじめからおかしかった。
いつもはどこかしらで見るヴァウがどこにも居ない。いつもは日が落ちる前には顔を見せるマナが来ない。
そんな日があってもいいかもしれない。二人とて都合も予定もあるのだから、偶にはそんなこともあるはずだ。
しかし、今回に限ってそれはない。
ほんの少し、たった一ヶ月前にやってきたアレが決定的だった。
時期が違えば、たった一ヶ月違えば、安堵出来たはずなのだが、そうはならなかった。
アレと同じ日に、二人は消えた。
二人がどうなったのか、考えるまでもない。
人の良い彼らを、ラウルは嫌いではなかったが、もう手遅れなのだろう。悲しいが、今、悲しみよりも先立つのは恐怖と不安でしかない。
彼の目に見える範囲でも全部を巻き込んだ、災害にも似た違和感が巻き起こったのがほぼ証拠だ。
完全に、終わりが来た。
二人はそれにいち早く巻き込まれた。
二人は並外れた戦闘能力を有していた。
だが、帰ってこなかった。
ラウルの所感でしかないが、辿り着く前の予感だけで、この始末なのだ。帰ってこなかったのは、当然のことなのかもしれない。
もしも本番がやって来たのなら、どれほどの大惨事が起こってしまうのか?
気を失えれば状況は良くなるだろう。何も考えられず、寝ていた方がいい。だが、眼前に現れた瞬間、狂い死ぬ者が現れないことを願うしかない。
「せめて、何人かは生き残りますように……」
祈りを捧げたことは、彼は何度もある。
だが、真に祈ったのは、これが初めてかもしれない。
心の底から、自分の外に居るナニモノカに向けて、誠心誠意願いを伝えた。
今までの祈りがどれほど浅かったのか、それが嫌というほど分からされる。
救いを本気で求める者の心が、二十年に満たない生の中でようやく理解できた。
無駄としか思わなかったものを、だ。
奇跡を願うのは、極自然な感情だった。
奇跡とは、起こらないから奇跡と呼ぶ。有り難がるのは、当然だ。奇跡とは、他人に授けてもらうようなものでは、断じてない。だから、奇跡を気軽に扱える存在を、なるほど、神と呼ぶのだろう。
どんな災いも跳ね除ける、神と呼ぶ存在に縋りたくなるのは分かる。しかもそれが、自分の命がかかった状況なら、そうするのが自然だろう。
神への祈りは、恐怖の中にこそ宿るのだ。
「ああ、クソ……」
胸騒ぎが高まっていく。
誰でもいいから助けてくれと、心から願う。
少しずつ、少しずつ、災いが迫って来ているのを肌で感じる。
場の全員が、ソコを向いている。
もうすぐこそまで、災いが来ている。
残されている時間は、いつだって人の想像よりも少ないのだ。
より濃く、より強く気配を感じる。
幼い子から、バタバタと気を失っていった。
あまりにも気持ち悪すぎて、そこにいる存在が巨大過ぎて、頭がおかしくなりそうだ。
壁一枚を隔てた向こう。
もうすぐそこに、居る。
逃げることも考えられない。
何をしても無駄だと、頭の中で結論が出る。
「来た」
あしおとが、きこえる。
聞き慣れた誰かの音ではなく、知らない誰かの怖気が立つ騒音だ。外の音の全てが消えたのではないかと思えるほど、ソレの音が、存在感が凄まじかった。
壁を突き抜けるほど巨大な音ではないのだが、孤児院の中で、その音が聞こえない者が居ない。
一歩一歩が、何故か聞こえてくる。
特別聴覚に優れていなくても、何故か。
鳥肌が立つ。
血管が凍る。
視界が覚束ない。
息が詰まる。
早くに気絶出来た者は幸せだ。
恐怖から真っ先に逃れられるから。
そんな目の前の幸せに縋ろうとして、子らはバタバタと倒れていく。
何も知らず、耳を塞ぎ、目を閉じた。
ラウルも同じようにしてしまいたかったが、生憎、そうとはならない。
他の無力な子供たちに比べて、絶大な力を持つソレに触れすぎた。
馴れ、もしくは、耐性というもの。
彼だけは、最後まで気を失えない。
正確に現状を把握してしまう。
不安気な表情で、吐きそうなのを抑えながら、その方向を見つめている。
「ひ」
「まあ」
今まさしく、ソレが扉を破り、孤児院に侵入してくると思われた直前だった。
ラウルの真後ろから、声がした。
しわがれている、だが、意志と知恵を感じる。
何度も何度も、日々聞いてきた、育ての母の場違いなほど穏やかなそれだ。
振り向けば、予想通りの老婆が居る。
杖を付き、腰の曲がった母が居る。
自分たちを穏やかに眺めながら、
「ラウル、エリナ、起きているのは貴方たちだけですか?」
ラウルには余裕がなかった。
他の全員が倒れていると思っていて、もう一人、気を失っていない人間が居ると知らなかった。
重たく首を持ち上げれば、確かに一人、自分と同じように周囲の様子を窺おうとする少女が居る。床や椅子で寝ている他の子らとは、明らかに違った。
二人はお互いの姿を確認したところで、母の問いに対して重々しく首を縦に振る。
「そう、では、他の皆を介抱してください。私は、少しやることがあるので」
母は、そう言うと真っ直ぐソコへ向かう。
止める間もなく、扉の方へ。
凄まじいプレッシャーを諸共せずに、二人を縛る圧倒的な威を完全に無視して。
扉を、最後の砦を、何の躊躇いもなく開けた。
「おかえりなさい、クララ」
母が微笑みかけた相手の姿が見えた。
見たこともない、本物の化け物がそこに居た。




