023 揺れ立つ心
カイルが幻に憑りつかれている中、エフリールもまた同じく幻夢に囚われていた。
緑原の屋敷、黄金色の空、まっさらなキャンバス、穏やかに微笑む壮齢の執事とグレース、暖かな眼差しを向けるカイル。そして歌声が響く。
蕩けるような甘い旋律に支配された空間。体に恍惚としたような痺れが走る。
「……ここは違う」
嗅覚が、右目が、胸にある約束とお守りが、ひたすらに訴えてくる。
見えているのは何もかも偽物だ。
エフリールは立ち上がる。幻夢が逃がすまいと更に歌声を強くする。
作り物めいたグレースたちの笑顔が迫る。
初めて怒りのような感情が湧き上がった。
外見は同じでも、明らかに本物と違う。おぼろげな記憶しかない執事でさえ、違和感をはっきりと覚える。
エフリールは両手を強く耳に押し当て、そこに自らの血を流し込んで固め、音を遮断する。
「みんなを歪めるな、侮辱するな! 邪魔をするな!」
激しい勘気にさらされた幻夢は、びしりと音を立ててひび割れ、退去していく。
◆◆◆◆◆◆◆◆
気が付けばエフリールは元の湖面に立っている。
巨大な異形も意識を失う前のまま、大口を開けて唸りを上げていた。
「カイル!」
近くの湖面にカイルは倒れていた。
まだ目を覚ましていない。急いで起こさなければ。
だが出鼻をくじくように異形の触手が振ってくる。
倒れているカイルではなく、エフリールの方を狙ってきた。
怪音が通じないとみて直接叩き潰しにくる。
エフリールはどうにか回避するが、代わりにカイルから引き離される。
「……ぐああっ! あがっ」
突如、カイルがのたうち回った。
触手に当たったわけでもないのに何が、と見ると、カイルの体に小さな蛞蝓の分体が這い回っている。
協力して抉り飛ばした蛞蝓の肉塊から、その分体は発生していた。
鋭い舌歯は本体と同じらしく、意識のないカイルの体を容赦なく噛みちぎり、内部へ潜り込む。
エフリールは助けに向かおうとするが、そうはさせじと触手が薙ぎ払われる。
今度は回避が遅れ、凄まじい衝撃を食らう。体が湖面を跳ね飛ばされていく。
「くっ……カイル、起きて!」
よろめきながら叫ぶが反応はない。
あんな襲撃に遭って本来目が覚めないはずはない。
いまだカイルは幻夢に囚われている。
先に異形の口を封じねばならなかった。
だが〈杭〉では届かない。仮に届いても、一足飛びに口を塞ぐ、あるいは倒し切るのは不可能だ。
ならばどうするか。乱れる呼吸を整え、エフリールは異形を見据える。
手段がないのなら、作れ。イメージはもう見ている。
教会の雄山羊――黒血で異形を描き出したその手法を真似るように、エフリールは自らの血を操り指先から噴き出させる。
眼前の蛞蝓――長い触手を真似るように血を引き延ばし、口元目掛け絡み付かせる。
「――〈鎖〉!」
網の目のように広がり繋がった血の鎖が、異形の体を口ごと縛り上げた。
怪音を発せなくなった異形は、凄まじい力で暴れ出す。
振り回されそうになったエフリールは、〈鎖〉を指先から分離させて難を逃れた。
なおも異形は湖を転がるが、〈鎖〉が剥がれ落ちることはなく、しばらく効果は持ちそうだった。
水を跳ね飛ばしながら再びカイルの方へ駆け寄る。
「カイル!」
呼びかけは果たして今度こそ届いた。
覚醒したカイルが、震える手で自身の傷口を押さえる。
「は、なれ、てろ……!」
必死の形相でカイルは自らの体に風を叩きつけた。
体内深く潜り込んだ分体を一斉に始末するための荒業だった。
夥しい量の血が飛び散り、同時に亡骸となった異形の分体が排出される。
「目、覚めの、気付けにしちゃ、刺激、が強すぎる、な……」
口から血を垂れ流し、それでも強がりを吐く。
エフリールは急いでカイルの身を助け起こす。
「カイル! 大丈夫なの!?」
「平気だ……それより、まだ……」
猛然と暴れる異形の触手がこちらへ向かってくる。
エフリールはカイルを担いで逃げ惑った。
「あいつを……倒さ、ねえと」
「でも! ちょっとの攻撃じゃまた小さいのが出てくるよ!」
「……俺が、やる。でかい部分は、なんとかする……お前は、出てきた核を潰せ……」
「けど、今そんなことしたらカイルが……!」
「俺は、死なない」
カイルは血塗れのまま、なおも瞳に強い意志をたたえている。
「……本当、だよね?」
「ああ、頼むぜ。俺たちで、あいつを、やっつけちまおう」
「……分かった。信じてるよ」
エフリールはカイルの言葉を素直に聞き入れ、疑わなかった。
異形を見上げる。その横で、カイルが聞こえないように小さく呟いた。
「……すまないな」




