022 破滅の歌
蛞蝓の異形が触手を振り下ろしてくる。
カイルとエフリールは急いでその場から退避する。
叩きつけられた水面が大地ごと割れ、水しぶきを上げた。
「まともに食らいたくはねえな」
カイルが風の刃で蛞蝓を切りつける。
見た目通り柔らかいらしく、紫色の胴体にはあっさりと傷が付き、黒い体液が流れ出る。
エフリールも攻撃の態勢に入る。
無論、あの巨体にのこのこ近づいたりはしない。
〈杭〉の形状を投擲に向くよう細く短く変成し、振り下ろされた触手目掛けて投げ飛ばす。
こちらも見事に突き刺さり、触手の一部に大穴が空いた。
「まったく……」
カイルは思わず感心して唸る。
さっきひとつ助言を渡しただけで、もうこの調子だ。
記憶を失った器だからこそ、他者の言葉を砂が水を吸うように受け入れる。
こんな姿を見せられては、自分も俄然やる気を出すしかないというものだ。
次の触手が降ってくる前に二人は駆け出す。
「エフリール。俺がお前の攻撃を送ってやる。どんどん放て」
並走するエフリールが若干驚いた様子で見返してくる。
「いいの? カイルが攻撃した方が早いんじゃ」
「あの巨体はさすがに時間がかかる。だからと言って全力を使い切るわけにもいかん。さっきの雑魚が湧いてきたらまずい。鍵のお前と俺の攻撃を合わせて削る。いいな?」
「……分かった、任せてっ」
エフリールが大きく頷く。
互いが互いに強い信頼を置いて、異形へ狙いを定める。
「よし――行くぞ!」
喊声を上げ、二人は風と骨、二つの槍を放ち穿つ。
風に乗って貫通力と飛距離の伸びた〈杭〉が次々と胴体へ突き刺さる。
そこを起点に、抉り刻むように風が拡散した。
大きく傷付いた蛞蝓の巨体は、バランスを崩したようにゆらゆらと揺れている。
手応えは大きい。カイルもエフリールも攻撃の手を緩めようとはしない。
異形がかっと口を開き、凄まじい怪音を響かせ始めた。
「ぐっ!?」
「ううっ!?」
地の底から響き渡るような重厚で不快な呻き。
あまりの音圧と怖気に、二人は咄嗟に耳を押さえる。
隙を突くように触手が振り上げられる。
カイルは迫る肉塊の鞭からエフリールを蹴って逃がし、自身も無我夢中で横へ飛んだ。
間一髪、触手は地面だけを叩き、湖面を散らした。
その間も異音は苛んでくる。耳鳴りがし始めた。気が遠くなる。
「くそっ、がっ!」
必死に意識を保とうとする中、視界がうっすらと白んでいき――
カイルは、いつの間にか故郷の町に立っていた。
生き馬の目を抜くような欲望に塗れた町。
どこもサーカスの如く煌びやかに飾り立てられ、浮かれた人々がガス灯に照らされた表通りを行き交っている。
だが一歩路地を違えれば、荒んだ浮浪児たちの住まう溝くさい裏通りへと通じている。
「何だ、これは……幻か? 悪夢の中で夢を見るだと? 冗談じゃないぞ」
カイルは唖然となるも、すぐに出口を求めて駆け出した。
ただの町の明かりを宝石でも見つけたかのように騒ぎ立てる人々の間を縫って、必死に抜け道を探す。
「待てよ、エフリールの奴はここにいるのか? それとも俺だけが見ている光景か?」
疑問と共に足を止め、来た道を振り返る。
すると色彩豊かな衣装の踊り子たちの向こうから、ひとりの人物がこちらへ向かってやってきた。
「……馬鹿な」
カイルは今度こそ声を失った。
現れたのは、死んだはずの弟だった。
琥珀色のハンチング帽を被った、人好きのする柔和な笑みの青年が、ゆっくりと近づいてくる。
「何故お前がここにる!?」
「どうしたんだい、兄さん? 驚いた顔をして」
弟は笑みをたたえたままカイルの眼前で立ち止まる。
カイルは震える唇で否定の言葉を紡ぐ。
「お前は死んだはずだ! 異形の手にかかって! ここはやはり幻なのか!?」
「何を言っているんだい、兄さん。ほら、ごらんよ。みんなここにいるじゃないか」
弟はカイルの背後を指し示す。
見れば周囲には、カイルの知り合いが何人も居並んでいる。
幼少期の浮浪児仲間、孤児院の同期や院長、魔術協会の知己や友人。
彼らは縁のある人物であったが、必ずしもカイルにとって善良であったわけではない。
にもかかわらず、全員が全員、一糸乱れぬ満面の笑顔で歓迎している。
現実ではないと分かっているから余計に底冷えする不気味さだ。
「さあ、兄さん。一緒に行こう。パーティーを用意しているから、みんなで飲んで食べて騒いで、ここで過ごそう」
弟の言葉を皮切りに、背後の顔見知りたちがカイルに手を伸ばしてくる。
「近寄るな!」
カイルは彼らを風で切り裂いた。
しかし手応えはまるでなく、血も流さない。
中身のない雲のように散ったかと思うと、すぐに元の形へと戻ってしまう。
「どうしたの、兄さん。何を怒っているの?」
「うるさい、うるさい! こんなこと、あるはずがない!」
カイルは怒りのまま、弟にも風をぶつけようとする。
「今度は自分の手で殺すのかい、兄さん」
手が止まる。止まらざるを得なかった。
「大丈夫だよ……あれは兄さんが見殺したわけじゃないんだ。ただ間に合わなかっただけ、そうだろう?」
「やめろ……やめてくれ……」
声がしぼむ。掲げた手に、息を引き取る瞬間の弟の感触が蘇っていた。
「大丈夫、気にしたりしていないさ。あれは仕方のないことだったんだ。……でも、今なら言うことを聞いてくれるよね。ここで一緒に暮らそうよ、兄さん。現実なんて忘れてしまえばいい。ここには誰も彼もいて、何もかも失われない。穏やかな平和だけがある。さあ、僕らと一緒に……」
弟が、両手を広げて抱きしめんばかりに近づいてくる。
明らかに違うと分かっていてもなお、カイルの耳には声が染み込んでくる。
「助けてくれ……」
自分でも情けないほどはっきりと弱音が漏れた。
恐怖に後退り、懇願するように首を振る。
だが逃れられる場所などない。周りは囲まれている。
兄の魂を永遠に閉じ込めようと虚像の弟が迫る――




