020 水に踊る
カイルとエフリールは浅い湖面を波立たせながら移動する。
辺りは異形の姿もなく静寂に満ちている。
城塞までの道のりは、付近に他の目標物がないため、距離感が非常につかみづらい。
ただでさえ真っ当な道などない狼獄の街においては、ここからどれだけ歩けば中心へ辿り着けるのか、見当もつかなかった。
「♪木のうろで眠る兎は夢を見る 優雅に泳ぎ跳ね飛ぶ魚の夢を
海に漂う海月は夢を見る 夜空へ吠える獣の夢を
私は月の前で夢を見る 空をかき混ぜ太陽とキスをする♪」
「……何だ、その歌は」
唐突に歌い出したエフリールを、カイルは不審な目で見る。
「さあ? 何か急に出てきた」
エフリールは首を傾げて言った。
さも自分の頭が別の入れ物であるかのように、ぼんやりと上へ目線を向けている。
「思い出したことでもあるのか?」
「分かんない。でもここは綺麗だね。グレースの庭の方が好きだけど」
などとのたまい、エフリールは笑顔を向けてくる。
カイルは気苦労でどうにかなってしまいそうだった。
「あのな……ちょっとは自分の記憶について焦ったらどうだ? 緊張感もなくだらだら歩いているだけで事態がどうにかなると思ってるのか?」
「そう言われても。どうやって思い出せばいいかなんて分かんないし」
「今まで少しでも手がかりになりそうなものはお前の頭に浮かんで来なかったのか?」
エフリールは間延びしたように唸って考え込む。
「……どこかの屋敷で誰かと会ってた」
「どんな屋敷だ? 誰かって誰だ?」
「誰かの顔は覚えてない。でも……屋敷は、多分、家」
「自分の家か?」
エフリールは首を振り、俯いた。瞳には困惑の入り混じった暗い影が宿っている。
「……分かんない。僕はそこにいた、んだと思う。だからきっと僕の家で……人がたくさん来て、でも、あれ? いなくなった人が……どこに行ったんだろう? 僕はどこに行ったの? あの家にずっといたんだ言うことを聞いてはずなのにあそこは僕の、違う帰らなくちゃ帰っちゃいけないだってそうしたら」
「おい!」
異常な呟きを発したのを見かねてカイルは肩を揺さぶった。
エフリールがはっとして瞳に正気を取り戻す。
「……僕、今何か言った?」
「……いや」
カイルは手を離した。そう答えることしか出来なかった。
グレースが記憶にあえて触れようとしなかった意味が理解できた。
恐らく、エフリールは相当に歪んだ生い立ちを抱えているのだ。
(どうしろっていうんだよ)
鍵として扱うなら記憶は取り戻させるべきなのか、そうでないのか。
だが仮に記憶を戻したとして、果たしてそれはエフリールにとって幸福なのだろうか。
カイルには判断がつかない。
失態だった。グレースから詳細を聞いておけば良かった。
利用するつもりで来たカイルにはその選択が思いつかなかった。
(……別に、構わないんじゃないか?)
所詮は他人事だ。エフリールが壊れようがどうしようが、悪夢が終わらせられるなら、それは――
突如、エフリールがカイルに向かって突進してきた。
カイルは驚きつつもその場から身をかわす。
「何す」
がぼっ、と音を立てて水面から黒い鱗に覆われた手が、たった今カイルが立っていた場所を目掛けて飛び出した。
エフリールは生み出した〈杭〉を水中へ向かって突き刺す。
腕が痙攣し、灰へと崩れ去る。エフリールが血相を変えて叫ぶ。
「たくさんいる! 臭ってる!」
「――分かった。くそっ、よりによって風の届かねえとこから、こいつら……」
カイルは気流を生み、戦闘態勢を取る。
とはいえ状況はまずい。遮蔽物や浮島もない広大な場所で、最も警戒しづらい足元から敵が来る。
「近くのは僕が倒すよ。僕がカイルを守る」
エフリールがじっと水面を睨みながら告げた。
カイルは歯噛みする。
自分よりも遥かに頼りにならない背中、子供のように未熟な精神。それなのに相手を助けようとしてくる。
今の台詞にしろ、単に思ったことを口にしただけのことであって、根拠を持って言ったわけでも裏があるわけでもないだろう。
だからこそ腹立たしい。
守ってやりたくなる。生かしてやらねばならない。そう考えてしまう。
弟の時は、間に合わなかったから。
自身の揺れる内心を引き締めるようにカイルは叫ぶ。
「……いいか! 足手まといにはなるなよ!」
無数の影が浮かんでくる。
エフリールは真剣な面持ちで頷いた。




